はてなキーワード: 過小評価とは
自己愛性パーソナリティ障害は誇大性,賞賛への欲求,および共感の欠如の広汎なパターンを特徴とする。診断は臨床基準による。治療は精神力動的精神療法による。
自己愛性パーソナリティ障害患者は自尊心の調節に困難を有するため,賞賛および特別な人物または機関との関係を必要とする;優位性を維持するために,他者を低く評価する傾向もある。
自己愛性パーソナリティ障害の推定生涯有病率には大きな幅があるが,米国の一般集団では最大6.2%にも上る可能性があり,女性より男性に多い。
併存症がよくみられる。患者は 抑うつ障害(例,うつ病,持続性抑うつ障害), 神経性やせ症, 物質使用障害(特に コカイン),または他のパーソナリティ障害(演技性, 境界性, 妄想性)を有していることも多い。
NPDの病因
自己愛性パーソナリティ障害に寄与する生物学的因子に関する研究はほとんど行われていないが,発症に関わる有意な遺伝要素が存在すると考えられている。養育者が子供を適切に扱わなかった(例えば,過度に批判的であったり,過度に子供を賞賛,称揚,または甘やかしたりすることによる)可能性を仮定する理論もある。
特別な才能や能力をもっており,自己像および自己感覚を他者の賞賛や尊敬と結びつけるのに慣れている患者もいる。
自己愛性パーソナリティ障害患者は自分の能力を過大評価し,自分の業績を誇張する。自分が優れている,独特である,または特別であると考えている。患者の自分に関する価値および業績についての過大評価はしばしば他者に関する価値および業績の過小評価を含意する。
患者は大きな業績という空想―圧倒的な知能または美しさについて賞賛されること,名声および影響力をもつこと,または素晴らしい恋愛を経験すること―にとらわれている。普通の人とではなく,自分と同様に特別で才能のある人とのみ関わるべきであると考えている。このような並はずれた人々との付き合いは患者の自尊心を裏付け,高めるために利用される。
自己愛性パーソナリティ障害患者は賞賛を受ける必要があるため,患者の自尊心は他者からの肯定的評価に依存し,このため通常は非常に脆弱である。この障害を有する患者はしばしば他者が自分のことをどのように考えているかを注視しており,自分がどれだけうまくやっているかを評定している。他者による批判ならびに恥辱感および敗北感を味わわせる失敗に敏感であり,これらを気にしている。怒りまたは軽蔑をもって反応したり,悪意をもって反撃したりすることがある。または,自分のうぬぼれの感覚(誇大性)を守るために,引きこもったり,その状況を表向きは受け入れたりすることがある。失敗する可能性のある状況を避けることがある。
NPDの診断
診断基準(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition[DSM-5])
自己愛性パーソナリティ障害の診断を下すには,患者に以下が認められる必要がある:
このパターンは,以下のうちの5つ以上が認められることによって示される:
自分の重要性および才能についての誇大な,根拠のない感覚(誇大性)
途方もない業績,影響力,権力,知能,美しさ,または無欠の恋という空想にとらわれている
自分が特別かつ独特であり,最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている
共感の欠如
傲慢,横柄
また,症状は成人期早期までに始まっている必要がある。
鑑別診断
自己愛性パーソナリティ障害は以下の障害と鑑別することができる:
双極性障害:自己愛性パーソナリティ障害患者はしばしば抑うつを訴えて受診し,その誇大性のために,双極性障害と誤診されることがある。自己愛性パーソナリティ障害では 抑うつがみられることがあるが,他者より上の立場にいたいという欲求が常にあることで,双極性障害と鑑別される。また,自己愛性パーソナリティ障害では,気分の変化は自尊心に対する侮辱によって引き起こされる。
反社会性パーソナリティ障害:自分のために他者を利用することは両方のパーソナリティ障害の特徴である。しかしながら,その動機は異なる。反社会性パーソナリティ障害患者は物質的な利益のために他者を利用するが,自己愛性パーソナリティ障害患者は自尊心を維持するために利用する。
演技性パーソナリティ障害:他者の注意を惹こうとすることは両方のパーソナリティ障害に特徴的である。しかし,自己愛性パーソナリティ障害患者は,演技性パーソナリティ障害患者とは異なり,注意を惹くために気取ったことやばかげたことをするのを非常に嫌い,賞賛されることを望む。
自己愛性パーソナリティ障害の 一般的治療は全てのパーソナリティ障害に対するものと同じである。
基礎にある葛藤に焦点を当てた精神力動的精神療法が有効なことがある。境界性パーソナリティ障害のために開発されたアプローチの一部は,自己愛性パーソナリティ障害の患者用に効果的に改変できる場合がある。具体的には以下のものがある:
これらのアプローチでは,自分および他者を感情的に経験するあり方の問題に焦点を合わせる。
自己愛性パーソナリティ障害患者は,習熟度を高める機会を魅力的と捉えることがあるため,認知行動療法が患者にとって魅力的となる場合がある;患者の賞賛への欲求により治療者が患者の行動を方向づけられる場合がある。自己愛性パーソナリティ障害患者の中には,マニュアル化された認知行動療法のアプローチを簡単すぎる,または自分の特殊な欲求を満たすには一般的すぎると考える。
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1…星テレ開始後に起きることに対しての懸念
今年の春夏クール(4〜9月)ラインナップがシリアス多め(BS11の空き枠利用再放送も殆どシリアスだらけ)※1
事前情報全く無しで星テレに対して、
「ほのぼのスクールライフ」であることを願うという愚かな人が現れることです。
同作初のギスギス回になったら勝手に「よくも俺の望んでたほのぼのスクールライフを崩してくれたな…
ところてん工場で働いてもらうぞ雷門…」みたいなことをほざく奴が現れたら厄介でしょ。
2…過去のケース
当時のアニメ視聴者界隈はヤマノススメ2期が15分シリーズな事や
ガルフレアニメが原作改変かつキャラ数の多さを生かせてないとかに反感持つ事も少なくなかった。
迎えた15冬クール。
そのアニメ視聴者界隈は艦アニやデレアニにそれぞれほのぼのライフ路線を勝手に願いやがっていましたよ。
デレアニは未央をヘイトタンクに仕立て上げる脚本に乗せられてその結果daiwa510の未央いじめシリーズ誕生の原因になった、
「重たい背景や過去を持たない者のドラマ」が一番脚本力試されるテーマなのに。
アニメ視聴者界隈は男女間恋愛拒否る様なことでブレンド・Sを過小評価したくせに
翌クール(18冬)には、からかい上手の高木さんで喜んでたダブスタしてたって本当なの?
さらにはりゅうおうのおしごとに対して勝手にほのぼの将棋ライフを望み、
3話で銀子に「よくもほのぼの将棋ライフを望んでた俺の気持ちを裏切ったな…」とか恨み言吐いてた者もいたとか。
と回想はそこまでにして、
話を今季に戻す。
星テレが「希望が見たければ地獄を越えていけ」なる群像劇であることは周知されなければならない。
下手すればギスの発端起こしたキャラがヘイトタンクにされかねないから。
シェイクスピア三大悲劇やギリシャ神話、アーサー王の死(円卓の騎士瓦解編)なんて
星テレが温く思えるほどの壮絶回オンパレードだぞ?
ついでにミリアニ(アイドルマスターミリオンライブ アニメ版)も
発端からラストシーンまで、終始群像劇群像劇として視聴することを奨励します。
※1
デキる猫は今日も憂鬱では人間失格の若者(CV:入野自由)が、
白聖女と黒牧師では人間失格の大人たちが過去回想で出てきた(フレデリカの件)、
夢見る男子は現実主義者でギスギスシーン(何あの11話エンドカード? )がetc.
※2天メソは4話ビンタ2発、異能バトルは日常系のなかでは7話で早見の修羅場、
コメディ系だけでなく
https://anond.hatelabo.jp/20230925112807
この度は残念な結果におなりになりましたが、未来はまだまだ続きますので前向きにお進み下さい
その上で感想をば
増田嬢はお相手との性行為に拒否感を抱いておられましたが、会話はお楽しみ頂いていたように見受けられます。
本当に、性行為、嫌でした??
失礼ながらも確認させて頂いたのは、もしかして、先入観から忌避していたのではないかと考えた次第です。
そもそも接触も嫌なお相手であれば、やはり未来はございません。
頭を撫でられるのはどうでしょう? または、お相手の二の腕とかさわれますか?
この辺りはひとつのハードルになります。頭を撫でられるのは恋人またはその候補以外からやられると、強い拒否感を抱きます。逆に言えば、全然平気ならまだ未来はわかりません。
ハグは如何です?
もう、とても親密な関係でない限り異性とハグなどとてもとても出来ません。例えば、一緒に結婚生活をするなかで、行ってきます・お帰りなさいのハグとか、お相手の方とはできませんか??
個人の見解ですがハグできるお相手なら、多分、その先の性行為もその相手と出来てしまいます。
この先の行為、キスやぺッティング、オーラルなどはそれぞれのハードルがございます。しかしながら、行為それだけで見れば、「ハグができるか?」というのがひとつの分岐点になるかと思います。
その上でひとつ、インターネット上の知らない他人だからできるひどい提案ですが、もしも「ハグはできるかも」とお思いでしたら……
もちろん、その前に一回はハグをしてみて、嫌な気持ちがした、寒気がした、気色悪い、思わず投げたくなったなど思わなければ、ではありますが。
増田嬢の書き込みを読んでおりますと、自己肯定感の低さとそれに伴うお相手の過小評価を感じられます。
もしかしたら。できるかもしれませんし、案外、良いものかもしれません。
お試し頂いてみても良いのではないでしょうか??
なお、もしもお試しいただく際は、「途中で辞めたくなった際に絶対に中断してもらう事」を強く念を押しておく事を推奨いたします
私はコレを怠ったために、「もしかして同性とも性行為できるのでは?」と試した結果、とても嫌な思いをしました。(なお、自分が異性愛者だと再確認できました)
社会学者の宮台真司さん「トリチウム生体濃縮の根拠!」と1週間以上の沈黙から論文をミスリードし引用→総ツッコミ
https://togetter.com/li/2223352
そもそも論文一つで、なにか一般的な真実が明らかになることはほぼないと言っていい。
特に、一般性が高い大きなテーマや、論争になるような結論を簡単に出すことができないテーマにおいては。
論文というのは「◯◯の条件で△△の結果が出ました。そこから考えられるのは□□です」というフォーマットに則っている。
□□はその論文の結論と言っていいものだが、たいていの場合で語気が弱められている(断言しないような言い回しになってる)。
「□□の可能性がある」とか「□□は【より重要で一般的なテーマ】にとって重要な知見を与える」とかそんな。
件の社会学者が引用した論文でいうと(アブストラクトしか見てないけど)、
This paper presents a laboratory experiment developed to identify previously untested scenarios where tritium may concentrate or transfer in biota relevant to Baltic coastal communities.
(この論文は、トリチウムが濃縮する可能性がある未検証シナリオを特定する実験を示したものである)
current legislation does not adequately take into account the nature of organic forms of tritium and therefore may be underestimating accumulation and toxic effect of tritium in the environment.
(現在の法律はトリチウムの生体内での性質を十分考慮しておらず、それゆえトリチウムの濃縮と毒性を過小評価しているかもしれない)
may | かもしれない、を使ってちゃんと(?)結論をぼかしている。
(法律がトリチウムの性質を考慮していないの部分はmayがないので確信があるんだね。)
なぜこうなっているかというと、論理的に出せない結論は書いてはいけないから。
もし書いたら査読に通らない。
Aって書いてるけど、BかもしれないしCかもしれないよね?とか査読者に言われちゃう。
万が一査読に通っても、学会や論文で他の研究者に遅かれ早かれ指摘される。
でも「我々の実験はAかもしれないことを示した」は論理的に間違いではないから査読に通る。
逆にいうと、mayさえつけとけば何書いても許されるみたいなところはなきにしもあらずなところがある。
あまり良くないようにも思えるが、だからといって何を明らかにしたい(したかった)論文なのかは目立つところに書いておいてもらわないと読みにくいので、今の書き方が慣習となったのかもしれない。
結論を言いきれなかったからといって価値のない論文なのかというと、そんなことはない。
◯◯の条件で△△の結果が得られたことは、学術的に重要な知見である(かもしれない)のだ。
トリチウムがわずかでも生体濃縮するかどうか、みたいな結論を簡単には出せないテーマに対しては、あまり強い主張はできないけど限定的な条件でいいから少しずつ知見を積み重ねていくのが、現代の学術のありようだ。
この論文では生体濃縮の可能性を示した、あの論文では生体濃縮の可能性は見出されなかった、というのを積み重ねていくのだ。
一見相反する結論の論文があるように思うかもしれないが、実験条件がちがうのだし、ここまで書いたように結論を断定した論文は少ないので、おかしなことではない。
これで、一つの論文を引用しただけでイキったこと自体が、おかしなことであることを分かってもらえただろうか。
(論文の内容にもケチがついているようだが、その論文を読んでないし他の関連文献も見てないので、特に触れない)
これは余談にはなるのだが、もし何かの研究結果を調べなくてはならなくなったとき、たとえばトリチウムの生体濃縮について調べなければならなくなったとき、
一つの論文で結論を出せるものではないなら、どうしたらよいかを書いておく。
ようするにその研究テーマの主要論文を押さえればよいのだが、そのやりかたについて。
基本的にはGoogleかGoogle Scholar(Googleの論文検索サイト)で適当なワードで検索すればよいのだが、ほかにも一般の人はあまり知らないであろう方法をいくつか書き留めておく。
って「現時点でAIに足りない部分」に難癖をつけて、人類による家内制手工業を守ろうとする発言。
想像力ねえなー
って思う。
特にシステム開発分野。コードの断片は書けても設計はできないだろとか運用できないだろとか。
想像力ねえなー
って思う。
たしかに現状のAIにはまだ未熟なところがたくさんあるし、「あれもできないこれもできない」という指摘も現時点では妥当なものだろう。でも10年後はどうかな。5年後は。明日は。
ほんのちょっと前まで、人間以外がプログラムコード書くなんてできない世界だったじゃん。
それがAIがコード書くようになったらあわてて「いいやAIにはあれができないこれができない」って言い出す。
逆だよ、言ってることが。
できないことを指摘できるってことは、裏を返せば
「じゃああれとこれができるようになればいいんだね」
ってところまで来てるわけでしょ?
そしたらまたどうせ「まだそれとかこれができてない、まだまだAIに仕事は任せられないね」
ってなるんだろうけど、それだってそのうち克服しちゃうじゃん。
そのサイクルをぐるぐる回してるうちにAIってどんどん「使えるもの」になっていくわけじゃん。
すごいAI楽観論をもとに語ってるけど、でも、AIが目指してるとこってそこでしょ?
んで、AIが十分に論理的に育ったら、やがて自己強化サイクルを自力で回しだすよね。そうなったらもうシンギュラリティですよ。
なんなら、みずほ銀行PJのドキュメントとソースコード全部呑ませて「これを最適化してください」で仕事が済んじゃう日が来るかもしれないよね。
「未定義の要件が◯件、曖昧な要件が◯件、矛盾する要件が◯件あります。役員全員集合」とか言ってきて。
夢じゃん。
そういう夢を見ようよ。
俺たちは、18世紀19世紀の産業革命がもたらした(ある種破壊的な)社会構造の変化を歴史で知っている。
AIの未来を過小評価したり矮小化したりしている人々は、「あれと同じことは起こらない、起こってほしくない」っていう現状維持バイアスに囚われていることに気づくべきだ。
もうすでに変わり始めてるし、これは序章に過ぎないんだよ。
はじめに、いま台風が来ていますので、激しい雨風がある地域に住んでいる方は、どうかお気をつけてください。
みなさんの身体の安全や心の安寧は一番大事なことで、W杯といえど所詮スポーツのラグビーとは、較べるレベルにもないことです。
さて。
2019年の日本大会で日本代表は素晴らしい結果を残し、レビューをしていた自分もみんなと楽しめたことがとても嬉しかった。
そのあとの4年で世界があんなことになるとは思いもしていなかったけど、僕はまたW杯を見ることができるし、みんなもまた楽しめるような状況、心境であるならばいいと思っています。
今大会、前回のように逐一レビューできるかはわからないけど、みんなが観戦する際の手助けが少しでもできたら嬉しいです。
このプールはオーストラリア、ウェールズ、フィジーなどが同居するプールCと並んで、何が起きるかわからない予測不能のプールであり、後述するけど、初戦がどう転んでもDは縺れていくと思う。
配置されたのはイングランド、日本、アルゼンチン、サモア、チリ。
最強豪と見做されるイングランドは、ここ数年不調が続いており、ブチ切れることでおなじみのエディー・ジョーンズHCが責を問われて解任、スティーブ・ボーズウィック氏の元、再出発となった。
こういった交代劇は短期的にはプラスに働くショックとなることも珍しくはないのだが、今のところその兆候は出ていない。
チームを牽引するオーウェン・ファレルをレッドカードのペナルティで3戦目まで欠くのも気がかりだ。
もう1チーム、日本の厚い壁となりそうなアルゼンチンは組み合わせ抽選時のプール内序列3位は明らかに過小評価で実力で言えばイングランドと同格に近い。
現ランキングではイングランドより上位、直近の戦績でもオーストラリアを降し、南アと1点差ゲームを演じるなど、上り調子だ。
「チームとしてまとまりがなく反則しやすい」という長年の弱点があったのだが、ニュージーランド、オーストラリア、フィジーが所属する国際プロリーグ、スーパーラグビー・パシフィックに代表のクローンチームを結成して参加するという強化手法で宿痾を克服してきた。
これは前回大会直前まで日本がとってきた強化手法と一緒で、日本のサンウルブズは戦績こそふるわなかったもの、チームの練度は確実に底上げされ、日本代表の前回の成果に一役かった。
今回のサモアは前回のような「罠に嵌めやすいチーム」ではない。
チリは正直なところ情報をあまりもっていないのだけど、アメリカ・カナダに競り勝って出場を勝ち取っており、これは「えっ」という感じ。
アメリカ・カナダは強豪でこそないものの弱いチームではないのだ。
チリは1勝をもって帰りたい立場なので、狙うのは日本かサモアとなり、初戦の日本に最大限の集中とリソースで挑んでくるように思う。
前回グループリーグ突破の我らが日本はというと、コロナによる強化スタートの遅れ、スーパーラグビーからの除外で強化がうまく進んだとは言い難く、実際の試合をみてもスクラムやキャッチ、パスなどの連携に明らかなほつれが見える。
おまけに初戦はFWの働き者、ピーター・”ラピース”・ラブスカフニをレッドカードの出場停止で欠く。
かなり立場が揺らいでいると言えるだろう。
プールDの初戦、日本はチリと戦うこととなるが、裏ではイングランドとアルゼンチンがまみえる。
本命同士がいきなり潰し合う展開となり、負けたチームは突破のためにもう1敗もできない状況になる。
こうなってくるとサモアがどのチームに取っても厄介だ。
チリ以外の4チームはどこが抜けてもおかしくない混戦になりそうで、なんとしたらしたらチリがこのリーグをかき回す可能性すらある。
未だ未完成の日本代表が波にのれて完成度を高めていけるかは重要で、初戦の開始20分でバタバタと反則を起こさないか、最初のスクラムが安定するかが注目だ。
日本の注目選手では、リーグワンでの脅威の走力と決定力で代表に選出されたCTB、長田智希がリザーブで登場する。
マジック・フットと呼ばれる突破力をもつが、ディフェンスに難があると言われてきた。
直近改善されてきたように思うが、とはいえ最後の砦ポジションのFB出場になったのは驚きだ。
少し心配もあるが、良さが出ればトライ後の「取って詰めてだす」エガちゃんパフォーマンスがみられるかもしれない。
熱戦を期待するし、できればもちろん日本代表には勝利してほしい。
ところでラグビーは頻繁にルール改正がされるスポーツで、ここで前回大会から変わったところと影響について解説したい。
選手の安全性を高めるため、ハイタックルに関する審査は年々厳格化されており、今では肩より上に手がかかったと見做されるとペナルティを取られる。
安全性が高まることについて全く異論がないが、2人がかりのダブルタックルで相手を止めたい日本にとっては厄介なことで、足元をとめるAと上半身を相手の腕ごと殺してパスを出させないようにするB、縦に積まれるBのタックルはどうしても高くなりがちで、より高いタックルスキルと冷静さが求められる。
なのだが、これに、
になるルールが追加された。
導入当初は「難易度が高すぎてどこまでのチームが戦術に組み込めるのか」と言われていたが、蓋を開けてみると欧州勢やニュージーランドは普通に蹴ってくる。
日本を意識したルール改正とは思えないが、筋力に劣る日本にとっては結果として不利に働くルール改正と言えるだろう。
ただ、非常にスキルフルでスリリングなプレーなので、登場すればエキサイティングだ。
みんなも注目してみてほしい。
自分としてはみんなの観戦の手助けできればというのがモチベーションなので、この件に関する言及でもし耳目を集めることがあったとしたら、そこは本意ではないのだけれどもなあ、と思うけど、どんな思いのやつが書いてるのかわからない文書ではモヤがちらついてそっちに気がとられるよ、となるといけないなと思うので、櫻井翔さんがアンバサダーを務めることついても考えを少し話しておきたいと思います。
ラグビーは憲章において品位・情熱・結束・規律・尊重を掲げており、勝つだけでなく、どうあるべきかが重視されています。
性加害が事実認定されたあとも当事者の名前を冠している事務所が、説明を果たして世に価値観を示すべき態度であれているかどうか未だ疑問が残ります。
櫻井翔さんについてはラグビーのプレー経験者であり、アンバサダーの仕事についてもしっかりとした情熱をもって勤めてくれていたのだと思っています。
そのことを自分は嬉しいです。
櫻井さんが事象にどう関わりがあったのか自分は未だ一切わかりませんが、少なくとも事務所に所属したままアンバサダーを務めることは憲章の価値観そぐわないのではないのかな、と自分は思います。
また、自分がSNSのタイムラインを追った時、櫻井さんのファンの方々が櫻井さんきっかけでラグビーを観戦してくれていたのも多く目にしました。
みなさん楽しそうに声援を贈っていらっしゃいました。
そのようなファンの方が、今どう感じていらっしゃるのかは分かりません。
しかし、ラグビーの人気拡大と、人権の加害の問題は、存在する次元が違いすぎて天秤にかけてどちらを取るかというような比較になるべき問題でもないと思います。
櫻井さんファンの方に、ラグビーについてどういう事を言ったりしたり、言わなかったりしなかったりしてほしいかというような事は、烏滸がましくて何もいう事はできません。
ラグビー界側を見ても、日本ラグビーフットボール協会がこの件に関して見解を出さなかったり、意思決定を下して説明をしないのであれば、それは違うのではないかなと思います。
みなさんが最良の選択をしていただけたら良いなと願っています。
現在、9月9日4:49分、開幕戦フランス対ニュージーランドを観ながら自分はこの展望を書いている。
みんなもどうかこの大会を楽しんでほしい。
その手助けができればうれしい。
利他的で自責的な人間など存在しないという事をざっくり語ろうと思う。
人間の精神のあり方は、コストのやりくりが如何にやりやすいかで優劣が定まる。
となる。
利己的というのは自己完結した行動でコスト回復がどれくらいできるかという事であり、利他的とは他人に依存して何かをすることでコスト回復できるという事である。
利他的は度が過ぎれば相手に対して求めるコストが高くなり孤立する。要はめんどくさい人である。
利己的も過ぎれば同様である。よく自分勝手と言われるものである。
自責的というのはトラブルが起きた時、それを自身の課題と受け取れるという事であるが、これには高いコストを要する。
他責的と言うのは自責の逆であり、低コストだが度が過ぎると精神的成長が見込めなくなるなどデメリットが大きい。
例えば、利他的10割、自責的10割というビルドを組んだとすると、コストの回復のしようがない。
相手に与えた恩というものが与えた分だけ帰ってくるという事は無い。あまり知られていないが、人間には他人の苦労を正確に認識できないという特性がある。
そのため相手から見た自分の恩も、自分から見た相手の恩も過小評価されるのだ。
そうして恩を与え合った時、自分視点で見た時の帰ってくる恩というのは主観で10%程度の物であり、これで消費コスト分を回収するのは不可能である。
この場合に起きる不具合として、「自分ばっかり頑張っている」と考えてしまうバグがある。事実はそうではない。そうではないが確実にこれは態度に出て、日常生活に支障をきたす。
一方で利己的で他責的というと、これはもうよく見るものなので詳細まで語らないが醜悪なものである。彼女達はコストはあり余っているが、どこか余裕の無いようにも見える。
これは、コストが減る事に対する耐性が無いゆえに、可処分コストが少ないからである。
どちらに偏っていてもやる事は似たような物になる。
大事なのは両者のバランスである。が、自分を変えよう!といった事はほぼ不可能であると言ってもいい。自責と他責のバランスはまだ変化させることができるとして、利己的と利他的の変化については至難の業であると思う。
最初から利己的である人間は簡単で、自責に変えても他責に変えても良い。1~2か月ほどかかるかもしれないが、何かトラブルが起きた時に「自分がなんとかできたかもしれない」とか、「これは相手が悪いな」とか考える癖を付ければ良いだけである。
それで自責と他責のバランスは変化させることができる。変化にどれくらいの時間を要するかは周囲の環境とそれに対する自分の立ち振る舞いに依存する。
利己的と利他的のバランスを変化させる事はとても難しい。これは、それまでの人生を反映するからである。
人生の中で自分を殺す事があったり、道徳を信じる事があったりするとより利他に寄る。
逆に自身の望みを叶えようとしたり、面白い事をやっていると利己に寄る。
利他的というのは異常な状態と言っていい。普通の人は道徳に従う事があっても信じる事はない。道徳を信じたくなる時というのは、理不尽から逃れようとしている時に限る。
利己的な目的の為に相手に優しくするというのが普通の事であり、優しくした結果、相手から良いフィードバックを得た。というのは一見道徳的な話に見えるが良いフィードバックを得られる相手を選んだからである。
道徳に殉じた利他的な人間が利己的に戻るというのは難しい。どうすれば戻れるかは今後の課題とする。
のビルドが最も理想的であると思う。利己的に回復しながら、自責にコストを費やし、たまに他人のせいにして生きる。それくらいが良い
Xで定期的にバズる話題として「弱音を吐く人に対してもっと大変な経験を語るのは駄目」というのがある。
例
A「10連勤つらかった」
X「つらかったでしょ、がんばったね」
Aの弱音に対してXの返答は許されるがYはNGだという。そしてそれはネット集合知の共通認識らしい。
これ、本当に一概にNGとしていいのだろうか。例えば以下の場合を考える。
A「両親が突然離婚した」
X「かわいそうに、つらいでしょう?」
わかりやすくするためXYともに極端にしているが、この場合だとYに嫌悪感がある人は少ないのではと予想する。
何が言いたいかというと、XもYもAのつらさを軽減する目的は一緒なのである。その上でアプローチの角度が違うだけ。
厳密に定式化するなら以下のような構造であろう。
X:相手のつらさを「過大評価」し、「こんなにつらいことがあったんならあなたがしんどいのも当然だよ」と寄り添う論法
Y:相手のつらさを「過小評価」し、「このつらさは実はそうでもないんだよ、大丈夫だよ」と激励する論法
人によってXがいい、Yがいいと分かれても不思議じゃないはずだ。
それぞれのデメリットをあげるとすれば、Xに対して「お前に俺のつらさが本当に分かるのか?お前は体験してないのに?」と思う人もいるだろうし、Y否定派(ネットの大多数がそうであるように)なら「今そんな話してねえよ!俺がつらい話なんだよ!」となる。もっといえば人によってはXを受けると「やっぱり俺は(客観的に見て)かわいそうな人間なんだ、つらそうなんだ」と思ってしまってもおかしくない。自分も正直、Xが安牌だとは思うがYを言われても違和感も嫌悪感もない。
ところが、ネット上またはおそらくリアルの現場でも暗黙のルール的に「Xが正解、Yはタブー」とされているのは興味深い。
どちらも目的は同じなのにアプローチの違いによってここまでYがタブーとされているのは、Yに潜む「マウント」や「自分語り」であったりの潜在的なコミュニケーション上のリスクがあるためであろう。または時代的にみんなで団結して巨大な悪に立ち向かおう、という姿勢のほうが共感されやすいのかもしれない。
これへの追加情報として
その他、特に自動車企業との悪しき癒着が強いテレビ局や新聞社も含めたマスコミ、メディアで顕著な偏向報道の傾向として
というものがある。
タイタニックは斜に構えて見ると、ストーリーがまっすぐだからなかなか感想は出てこない。
「あの船、本当に作ったのkな?」とかしか言えない。女子はディカプリオカッコいいしか言えないの、分かる。
これがデイヴィッド・リンチとかエヴァなら「あそこの場面はどうゆう意味?」とか「あの人物はこうしたかったんだと思う」とか、
感想の取っ掛かりがいっぱいあるけど、タイタニックに分からない部分は無いから何か言いたいけど思いつかなくて、
それがつまらない映画だったのかもと勘違いして、「今度違う映画も検証したいな、ホラーの「リング」とか」なんて言えれば良かったのにね。
せっかく一緒に映画に行ける仲なのに。学校では内緒にしようっての本意が知りたいな。他の映画ならいいのか。タイタニックだからだめなのか。
それとも今回のデートがつまらなかったので、全部無しにしたいのか。
タイタニックはハリウッド映画ってだけで理不尽な過小評価をされてる。
BTTFもしかり。ワイは映画は詳しい方だと思うけど、好きな映画は「タイタニック」って言ってる。
普通の人が知らない映画を言ってもつまらないでしょ。「最近ではムカデ人間2が1とのセットで良かったですね」「犬じゃないワン」