はてなキーワード: 肯定論とは
なんか例のナチ肯定?小論文の話とか見てて思うけど、ナチ肯定論で持ち出されがちなのはアウトバーンを評価するというものだと言われている印象がある。
勿論、アウトバーンがいかに良いものであっても、その根底にはナチのあってはならない思想があるわけで、
アウトバーンが良いものであることを根拠にナチを肯定するのはあってはならないと反論されている。自分も当然そう思う。
しかし、こういう議論には疑問がある。そもそもアウトバーンって、自明に肯定されて然るべきものなのかと。
現代日本では高速道路ばっかり作りすぎ、そのせいで公共交通が衰退した、云々と高速道路の整備はそこまで全肯定されてない気がする。
なぜアウトバーンだと、とりあえず高速道路が望ましいものであることは前提な意見が多いのかよくわからない。
政権の思想と関係なく、交通論としてアウトバーンを批判するということは無いのだろうか。
勿論、自分は歴史学に詳しいわけではないし、そういう方向からのアウトバーン批判は駄目だとすでに実証されてたりするのかもしれないが
ナチ思想は当然悪いし、その思想の上に成り立っている施策なのだから、それぞの施策も全否定されるべきものだが、
だからといって施策に対して、思想以外での批判が無くて良いわけではないと思うのだが、この点詳しい人はどう考えているのだろうか。
自助、公助、共助 野田や枝野も言ってた 新しい公共とか言ってたのだれ?
官邸独裁 仙谷由人が主導 ちなみに官から民へ アイヌや皇室問題ではリベラルな菅義偉と同じ 外交はリアリストで中国にも配慮というのは菅義偉と同じ
管直人 鳩山由紀夫と違い親米 tpp 沖縄問題でも野心はなく 菅義偉も安倍に比べるとtppとかでは自由貿易寄り
ちなみに野田総理とは
マイナンバー推進に本気 安倍は桜田とかハンコ議連の連中を入閣させ、イエ制度の維持にこだったが、菅義偉は個人単位の社会保障へ
マイナンバーの健康保険証が目玉の公約菅義偉、社会保障の一体改革そっくり
行政改革を徹底してから消費税増税は避けられない 野田も菅義偉も一緒
縦割り打破 幼保一体化を思い出す
民主党 道路、ガソリンは値下げします 値下げは私or我々の成果
最低賃金引き上げに消極的な安倍と違い菅義偉は積極的に引き上げるらしい、民主党かな
政局 震災対応のときの管直人とコロナの菅義偉、予算に野党が部分的に反対するのは似てる
安倍政権でも移民政策推進した菅義偉、水道民営化は民主党時代に推進されたのを菅義偉が前にすすめた
枝野、蓮舫切らなくて新自由主義批判とか無理がありそう、蓮舫をリストラするのはネオリベなのか?国民民主とかの玉○とかネオリベすぎるだろ、スガもカンもブレアのコピーじゃねえか。だいたい、菅義偉は国債発行制限なしといってるし、ヘリマネ肯定論者で維新とかみんなの党とおなじで消費増税も確信犯なだけ。麻生政権のときの定額給付金、どうして控除じゃないんですって聞いた前原みたいなねじれになってない?低所得者敵に回してるぞ。アベノマスク批判も的外れで、入札に問題あるなら、マスク会社国有化して(シャープ救済しろ)国内の雇用創出とか野党には言ってほしかった。共産党までマスク問題でチキンだし。マスク国産化するなら右派の票も取りにいけるし。憲法改正に抵抗するなら公明党に入れようってなるよ。差別化できてない。
党内融和の必要性も否定しないけど、菅義偉と同じですべての派閥から消極的に支持される枝野体制って強そうで弱いのよな。
野党支持者だけど菅義偉叩くと自己否定になる気がするから枝野には差別化してほしい。そうじゃないと菅義偉が仙谷由人と野田佳彦を足して二で割ったようにしか見えない。管直人内閣も閣僚がすべってミニ鳩山内閣とかいわれてたしな。第二次野田内閣 民主党自民派
あのさー。死刑制度があってもこんな事件防げないんだから「見せしめ」としての死刑制度なんてなんの役にも立ってないことは明白だろ。死刑には本人に対する教育効果がないこともまた明白なわけで、そうなると死刑制度を肯定する意味がどこにもないだろ。
それに対して「社会の応報感情に忖度することに意味が云々」と君らは言うわけだけど、その応報感情って適切かね? そもそもこの犯人自体が「俺が気にくわないやつは市ね」って考えなわけじゃん? それって死刑制度を支持する君らの考え方と全く同じ思考法なわけだけどそこはどーなん? 「いやいや俺らは相手が悪いことしない限り死ねとは思わないぜ」って? はいダメ。この犯人も「パクられたから死ね」と言ってるわけで、そこは同じだよ。あくまで可能性で言うけど、これで標的になったのが消費者金融とかブラック企業だったら、君の言うことも世間の言うこともまた違ったんじゃないの? その程度には、実は君らとこの犯人の思考法の親和性は高いんじゃないの。 正直、この犯人に対して残虐な死を臨むという君のその思考は、社会にとって十分に危険なものだと俺は感じるよ。
それよりも、さっさと死刑制度廃止して「どんなに気にくわないやつでも殺すのは間違いだ」という考えを社会全体で徹底してたら、むしろこの犯人のような考え方は全く擁護されない社会になるわけだよね。俺は明らかにその方が社会全体としていいと思うんだけど、それに対して死刑制度肯定論者はいったいどういう言い訳を用意してくれるんだろう?
これ、大麻肯定論者の多くが言うよね。でも「証明されている」とか軽々に言っちゃいかんよ。アルコールですら、少量摂取が健康に良い、と言われていたのがそうではなかった、という論文が去年の夏の Lancet に出て話題になった位だから。大麻は昔から存在し、使われている、って言うけど、カンナビノイドって言う程研究進んでいないんだよ。THC の合成に成功したのいつか知ってる?2006年だよ。いわゆる危険ドラッグにも合成カンナビノイドが色々使用されていたわけだが、あれなんて日本の市場で人体実験やってたのと一緒。その結果どんなことになってるか分かるよね。ああやって危険なものをハネて、残りを欧米の市場で売るんだろうけどさ。だから、大麻は安全、とか簡単に言いなさんな。安全じゃないかもしれない、それでも使うんだ、って言うならまだ分からんでもないけど。ちなみに医療用麻薬なんかのスタンスはむしろそっち。乱用は危険、だからまずプロトコール、ガイドラインを作ってそれを基準にして運用しましょうね、だよな。でも大麻筋でそういう話聞いたことないし。
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
・「日本語・風紀・世相の乱れ」はそう感じる人の心の乱れの自己投影
・問題解決力の低い者ほど自己防衛の為に礼儀作法やマナーを必要とする
・真実事実現実史実は人の数だけある。「一つしかない」は視野狭窄
・「真実は一つ」に執着する者だけがその矛盾(煩悩、争い)を体験する
・憤怒激昂は無知無能の自己証明。中途半端な知識主ほど辛辣に批判する
・十分なリテラシー教育を受けてない者ほど宗教・偏向思想に洗脳される
・体罰肯定論は指導力向上心問題解決力に乏しい教育素人の自己正当化
・死刑は国家による集団リンチ殺人。廃止した方が凶悪殺人は減る
・虐めの原因は唯一「虐める者の精神疾患」。真に救済すべきは加害者
・犯罪加害者に必要なのは懲罰ではなく救済。被害者のみ救済は偽善
2006年前後に激化した日本における鉄道好き文化の聖地・JR東日本での鉄道ファン同士の小競り合い。鉄道ファンの若者が集まる駅で、その鉄道ファンの排斥を呼びかけるヘイト集団が駅に押し寄せた。最盛期には100人規模の参加者がいたという。ギャル・不良系サブカルからの流れもあっただろう。
実際には、何十人ものヘイト集団が「お散歩」と称して鉄道オタクと押し問答を起こしたり、オタクとも何も関係なさそうな女子供におらつく動画や画像を見たことがある。
ここで彼らの最大の課題が見える。それは、仕組みを妄信し、仕組みの上に根拠となる反論のできないデータがあると(「データの不在」というデータも含め)、それに「可視化された存在」をすり合わせることで物事を確証するということだ。これは本当に反知性的な発想である。
鉄道ファンヘイトの場合は、まず日本型の保守主義構造という「仕組み」を過信し、その仕組みの上に鉄道ファンの社会性実績の不在というデータなきデータがあって、主張を裏付ける現実実態としてヘイト運動の大規模化を実現させたわけだ。しかし、彼らには最大の欠陥がある。
それは「サイレントマジョリティを知らないこと」である。世の中の多くの人は、鉄道ファンではないし、かといってヤンキーでもない。ましてや「私はミーハーです!」とデモを組んで主張してがなりたてることもありえないのである。
鉄道オタク叩きに躍起になっていたヘイト連中は、自分たちの閉鎖的なネット空間の「一般論」が事実であることの根拠にヘイト行為の動画を拡散した。しかし、駅の利用者などは、ヘイトにはドン引きだったはずだ。
一方で、地上波テレビに一気にサブカルが進出したのもあの時期だった。いわゆるオタク文化の大衆化がここに始まった。マスコミ関係者もまた「可視至上主義」に陥っていたのだろう。
ちなみに鉄道オタクの人口はある証券会社の調べによれば「オタク全体の3.8%(日本のオタク人口が5200万人)」だというようだ。あまりにも少ない。膨大なサイレントマジョリティの日本国民は、鉄道を好きでもないが敬遠もしないし、それよりはヤンキーのほうが敬遠されるもので、レイシストは裏社会と同じくらい危険で嫌いである。
たぶん炎上するとは思わなかったんじゃないか。ネット原住民空間には健気な鉄道ファンの話題は何一つ存在しないから、偏った反応だけが来ると。しかし現実には、普段可視化されることのないサイレントマジョリティが眠りから目を覚ますこととなったのだ。
「可視状態の過信」によるサブカル階層の失敗は今に限ったことではない。たとえばニコニコ動画などのネット原住民の中心空間には歴史カテゴリーにおいてヤンキーを肯定する動画がゴロゴロ転がっている。これらは当初はサブカルたちが礼賛コメントを書きまくっていたが、相模原やまゆり園事件以降は批判一色に染まった。
サブカルはロリコンだけでなく、ヤンキーをも好む傾向があり、とりわけヤンキーについては肯定派どころか推奨派なのである。普通の人間であればSMフェチのMじゃあるまいし好き好んで威圧たりしたくないわけで、一般世論と乖離している。しかしネット原住民空間自体が一般ではないのか黙認されてきた。
ところが、そのネット原住民空間が「ヤンキー排斥」「反ロリコン」を鮮明にしたのが相模原やまゆり園事件と千葉大生による女子中学生誘拐事件である。あの時期の前後に立て続けに相次いだロリコン・ヤンキーがらみの騒動もあって、反ロリコン・ヤンキー排斥世論が高まり、結果的に「礼賛一色」のコメント欄が一気に批判に染まったのだ。サブカルなんてネット原住民空間でも少数派なのだ。
そして反ロリコン・ヤンキー排斥の騒動さえ何ヶ月も前になった今こうした動画にはさらに上からかぶさるようにサブカルの「肯定論」が再び増えつつある。最近のトランプ炎上において支持者が強気の姿勢を変える気配がないのも、ロリコンやヤンキーと同じでほとぼりが冷めれば自分たちの主張を上塗りすることができるからだろう。
同性愛者への福音か、家族制度破壊か。同性カップル証明書 - Yahoo!みんなの政治
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 日本国憲法第24条第1項
純然たる「憲法違反」。法治国家としてあるまじきこと。ただでさえ守られていない憲法が、さらに形骸化し、諸外国の懸念を招くだけ。きちんと手続きを踏みましょう。 http://seiji.yahoo.co.jp/article/1665/
憲法は同性同士の結婚について規定をしていないだけで、違反じゃないでしょ。 b:id:knowspring0210
同性婚は、そもそも憲法で禁じられていない。http://lmedia.jp/2015/02/20/61845/ b:id:unifas
9条の解釈改憲と似た話。憲法制定当時では想定されなかったことについて、どのように憲法と折り合いを付けていくか。
「生物として異常」て、現にそうである人間や動物が存在するのに何を意味不明なことを言っているのか。もうちょっとものを考える癖をつけたほうがいい。 b:id:bitscreen
自然界で行われているから異常でないというのなら、性成熟すればすぐに性行為を行わないのも異常だし、ムラムラしたら手近のメスと性行為を行わないのも異常である。以上より、「生物として」異常か否かを議論することに価値はない。
同性婚を認めることによって、少子化に拍車がかかるのか。肯定論者の論拠が不明で、それ以上の議論の余地がない。
国家や人類の繁栄・存続を否定するものであり、個人の権利擁護の観点だけで議論すべきではない。個人の自由も大事だが、もっと大切にしなければならないものがあるのではないか? http://seiji.yahoo.co.jp/article/1665/
このような意見に対して、
反対意見で人類の存続だの国家の繁栄だの言ってる人は、子供を作らない異性夫婦の存在にも反対なのだろうか。 b:id:goturu
同性婚を認めない→現在少子化→同性婚を認めたら、少子化に悪影響!→???なんでだ?/結婚は個人の権利の問題じゃない、と仰る方が、どんな生活をしているのかすごく興味ある。長期独身者だったら苦笑いだな。 b:id:kirin_tokyo
というのは反論になっていない。「結婚とは子作りをするためのものである」という論者に対して、2つの主張は「そういう人がいてもいいよね」と切り捨てられるだけである一方、同性婚はこの目的に合致しない。
現政権は、社会福祉における自助の強化をはかっているんだから、その意味においては同性カップル証明書の発行をむしろ推進するのが筋かと思う。 b:id:OrangeBubalus
異性なら住民票をひとつにすることで事実婚扱いができるが、同性だと不可能。婚姻よりは弱いが、事実婚並の権利と保証を与えるのを可能にするのならいいんじゃない? b:id:Josui_Do
婚姻と別制度ってことなら好きにやったらいいんじゃん。既存の婚姻は子を産み増やせる関係性を優遇する制度ってことでよろしくな! b:id:oktnzm
「同性カップルにも異性婚と同等の権利を与えろ」というのは、「結婚とは男女でするもの」という「常識」の人たちに嫌悪感を与える。「同性婚に反対している人たちは「嫌い」というだけで論理的でない」と、軽々しく扱う人もいるが、嫌悪と言うのは中々根が深くて、論理でなんとかできない分、厄介である。
まとまらなかったので、(仮)としておく。