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iWatchに期待することは?(松村 太郎) - 個人 - Yahoo!ニュース
↑の記事は一例で、別にこのライター個人の話じゃないんだけどさ、
勝手に新商品のコンセプトやAppleの方向性なんかを予想して盛り上がって、
いざ新商品が出た時に「思ってたのと違う」と文句付ける奴は何なんだ。
いや「思ってたのと違う」と言うだけならまだいいほうで、
たとえば「廉価版iPhone」のときなんか「廉価版のくせに安くないじゃないか」とか言ってるんだぜ。
Appleがいつ「次は廉価版iPhoneを出します」なんて言ったんだよ。
むしろ「ただの廉価版なんか出さない」ってずっと言ってただろ。
一種の藁人形論法ってやつなのか。
「Appleはこういう方針を取るに違いない」と一方的に決めつけておいて、
廉価版がしょぼいのは当然だろう。何を期待しているんだ。
少なくともスマートフォンでは。
昨年Googleが買収したMotorola Mobility(以下Motorola)のDroid UltraファミリーのSoCであるMotorola X8には、Googleの野望が透けて見える。
Motorola X8の詳細は http://juggly.cn/archives/91084.html でも見てもらうとして、一言で言うなら
X8 ≒ 2013年のミッドレンジSoC(MSM8960T=2コアCPU+4コアGPU+LTEモデム)
+ 各種センサ制御用プロセッサ(富士通のヒューマンセントリックエンジン相当?)
な、8コア()のSoCである。後ろ2つがMotorola設計。
このニュース見てすぐ
と思ったが、よくよく考えると顧客のIPと組み合せてカスタムSoCを作るってのはQualcommのビジネスモデルじゃない。
Qualcommの戦略は、リファレンス的存在のLTEモデムを武器にSnapdragonを大量販売することだ。
Motorola = Googleは何らかの対価(単に金を積んだか、あるいは虎の子のIPをQualcommにも使う許可を与えたか)を払ってX8を作ったことになる。
これは今のMotorolaのシェアからすると途方もない投資だ。
そして、この投資で得られるものは「SWと(SoCというローレベルからの)HWの協調設計」、つまりAppleの設計手法だ。
などのDroid Ultraファミリーの新機能はSWでも実現可能だが、待機時の消費電力が莫大になってしまう。
HWに手を入れて初めて、実現できた機能と言える。
GoogleによるMotorola買収後、新規開発された初のスマートフォンと噂されるMoto Xでも、このX8が使われる。
一時期西部劇ばっか観てたんだけどまとめてくり~とかよく言われてたんでまぁ雑に挙げてみるかって感じで10分ほどで書いた。
西部劇も西部劇でマニアがうるせぇ分野だから文句はあるだろうけど,ロクに観てない人はこれを上から順番に追っていけばそれなりに文脈は追えるんじゃねーかなと思う。
クライマックスにおける馬上の闘いが(当時の技術水準としては)大迫力。
ハワード・ホークス監督による傑作。ジョン・ウェインの本格的な出世作でもあり,彼の役者としての方向性を決定づけた。
簡単に言えば牛追いの話なのだが,「カウ・ボーイ」がそもそもどういうものなのかよく分かると思う。
ちなみに都内のレンタルだと渋谷TSUTAYAくらいにしか置いてない気がする。廉価版は500円しないのでどうしても観たい人は買おう。
ジョン・フォード×ジョン・ウェインの代表作としてよく挙げられるもののひとつ。
当時のアメリカ人視点における先住民への意識も読み取ってほしい。
遠景の撮り方などは『アラビアのローレンス』のデヴィッド・リーンやスピルバーグも参考にしたとされる。
まぁベタな名作。これを原型とした作品も多いのでとりあえず観ておけ的なもの。
セルジオ・レオーネによるマカロニ・ウェスタンの嚆矢。黒澤明『用心棒』の盗作として話題にもなった。
チープなセットに単純なストーリー,ハリウッドのヘイズ・コード下では不可能な暴力表現などが特色。
主演クリント・イーストウッドは以降西部劇における大スターとなり,本家ハリウッド西部劇にも影響を与えた。
セルジオ・コルブッチ監督。マカロニ・ウェスタンの代表作としても名高い。
ちなみに『荒野の用心棒』とはストーリー,キャスト,スタッフどれもまったく関係がない。
レオーネ以上に徹底的な娯楽志向で,歴史考証など本当に適当,とりあえず決闘がカッコよければよいという感じ。
この前タランティーノがジャンゴを作ったが,それの元ネタがこれである。
レオーネ後期の代表作。
他の監督なら20秒で済ませるようなカットを無駄に5分以上使ったりと,現代人にはちょっとしんどいくらいの長回しが大きな特徴。
配給もハリウッドであり,大予算がかかっているため「マカロニ」の趣は既になくなりつつある。
スローモーションと巧みなカット割が最大の特色。香港映画のジョン・ウーにめちゃくちゃ影響を与えた。ということは『マトリックス』とかもこれの系譜ってことになる。
アメリカ映画もレーティング制になったため,暴力表現が解禁され血みどろの演出がなされるようになった。
ラストの破滅感は「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメントにおける文脈からもよく語られる。
『駅馬車』,『捜索者』などで見られるインディアンへの扱いを再考させられる作品。
ベトナム反戦運動とかそういう文脈でアメリカ人が自分らのアイデンティティを見つめ直していたってことも念頭に置いて観るとよい。
ちなみに『明日に向って撃て!』や『やつらを高く吊るせ!』でもそうだけどこの頃から徐々に黒人兵も作品に出演するようになる。
古きよきハリウッド西部劇,マカロニ,ニューシネマなどといった一連の西部劇史を包括する超名作である。
ちょうどここらへんから彼も文芸性の高い監督と見られるようになってきた感もある。
今更のように廉価版のiPhoneを投入してユーザー層拡大を狙ったり7インチ型タブレットの参入したりと、ここ1年くらいのiPhoneは明らかに先進性で負けてるよ。
かつてretina(網膜)なんて大仰な名前を付けた液晶ディスプレイだって、既にdpiでそれを上回るAndroidスマホなんて珍しくも何ともなくなった。
価格で妥協したり性能で競合製品と張り合おうとし始めたらAppleはあっという間に落ちるし、もうそういう流れになってる。
2~3万円ぽっきりの安いiPhoneなんて誰も欲しがらんし恥ずかしくて見せられんだろ。
サムスンが居なくなっても代わりはいくらでもある。ZTE、ファーウェイ、LG、HTC、ソニーと、抜けたサムスンのシェアを存分に食い荒らしてくれる。
Google自身もNEXUSシリーズあるし、買収したMotorolaで別のスマホも開発してる。
それにiPhone(iOS)にせよAndroidにせよ、あれらの魅力はOS自体ではなくOSと結びついた各種サービスの充実度合いにある。
サムスンがAppStoreやiTMSやGooglePlayみたいなサービスをTizenとセットで構築できるかどうかと言われたら、俺は無理だと思う。
iPhoneのなにが便利って、Google検索が出来ることだし、検索で引っ掛かったページをフルサイズで閲覧できることだし。
GoogleMapが見れることだし、Gmailが使えることだし。
イノベーティブかって言われたら、インターフェースは確かにそうだけど、携帯電話の基本特許はモトローラとノキア、スマホの基本特許はリサーチインモーションが抑えてるわけだし。
サムスンだって半導体関係の特許はけっこうな数持ってるわけで。
それでも総合的な完成度じゃ頭一つiPhoneが勝ってるのは認める。
オープンとクローズドのどちらの戦略が勝つかなんて、だれもわからん。
かつてアップルが瀕死だった頃は、OSをばら撒いてるオープンなウインドウズ陣営に対して、アップルはクローズドだからダメだと批評家は言ってたけど、iMacとiPodで盛り返したら「アップルの垂直統合最強!」と手のひらを返した。
まあ、ソフトでもハードでも、日本メーカーはスマホは質も値段も敵わない。
「新しい」ってのはお前にとって新しいってことだよ…
お前の人生で『リウイ』を読み始めた歳からアラフォーの現在までの間に獲得した
なんで2012年に「リウイ」とか「ギンエイデン」とか言ってんのってこと。
アラフォーにもなって十代の頃に開発したもの以外の趣味や興味がなんにもないっつーのは何事?って言ってんの。
っていうか年上の人間にこんなこといいたくないけど
他の奴とのやりとりを見ても
お前は本当に頭の回転が鈍いっつーか言うことが頓珍漢っつーか
ただ、若い奴が全員って話じゃないし、中高年が全員て話でもないぞ。
逆に言えばIPhoneとかは、出た当初から追いかけてるが・・・まぁ、当初は飛びついちまったが・・・今はもう、って感じだな。
「iphoneでこんな面白い自分独自のことをやった」みたいな話だろう、最低限持ち出すなら。
別にお前の脳が40を前にして老化が進行しまくってるのはお前の勝手だけど
周りのいろんな中高年と比べてもお前の老化具合は実年齢よりかなり進んでるよ。
最近おかしくなったんじゃなくて20代30代の過ごし方が悪過ぎたんだろ。
でなきゃラノベとスマホよりもっとマシな自分を語るキーワードがある筈だ。
なんでお前にムカムカするかっていうと
自分の20年ぐらいの行いの末に迎えた人より早い老化を
http://game129.blog.fc2.com/blog-entry-389.html
諸君、私はドラクエ7が大好きだ。シリーズ最高傑作という確信がある。しかしながら、世の中の反応の一部は―いや、一部と言うにはいささか大きすぎるかもしれないが―ネガティブだ。さて、この中のネガティブな意見の代表的とも言える
に、私がいくらかのポジショントークや色眼鏡を交えながら答えてみたいと思う。
これは現在ではほぼ解決した問題である。というのも、このフリーズ現象はThe best!などの廉価版発売にともなって多くが解消されている。
ちなみに私はPS,PS2双方において、フリーズが多いとされる初期DISCを使っていたが、フリーズしたのはデスマシーン戦後の一度きりであり、それも一回だけなので多いという実感はない。
他のフリーズが多いとされるゲームでも同様であり、私はフリーズが多発しているプレイヤーの使用環境、ハードの状態が気になるところである。
参考までに私の部屋は埃っぽく、ゲームもケーブルに繋いだまま放置ということもザラで、いい環境ではない。DISCに細かな傷が付いているものも多い。
いわゆる「種返せ、ブス女イラネ」である。これを持って「ドラクエらしくない、ドラクエは王道でなければならない」とさえ言うものもいる。この「王道」というのはドラクエに結構重要な意味を持っている人も多いようだ。
さて、ドラクエらしさとはなんだろうか。私は天空以降のシリーズでは「離別と喪失」に見出したい。
なぜ天空以前と切り分けるかといえば、ロト三部作は主要人物に近しい人間が「作中で」離れるということはないのだ。2のムーンブルクは作中ではない。3のオルテガもゾーマ城で主人公の前にて息絶えたが、それまでに殆どの情報がないため、思い入れある人が多いとは思えない。
ところが4になると作中で主人公の町は滅ぼされ、エドガンの弟子とは生き別れ(しかも選択次第では死ぬ)、サントハイム城はもぬけの殻になり、ロザリーは人間に殺されたり、人間関係を露骨に描き出してくる。これは当然容量の都合で出来ることが増えたのはもちろんだ。4で王道らしいのは実質第一章のみであり、何も失われていないのはトルネコぐらいのものだ。
5では主人公の父母が死に、主人公夫妻も子孫を遺して仮死状態になるなど、近しい人間が失われる。モンスターを仲間にするというコンセプトも影響してか、前作よりは少ないが、親が死ぬことを強く見せたのは後にも先にもこの作品のみである。
6は毛色が変わり、「喪失したものを取り戻す」ことが強く打ち出されている。そして、失ったものを取り戻すことによって別のだいじなものが失われることを描くことに成功している。この作品のバーバラとターニアの立ち位置は象徴的である。この作品が悲愴的なのは、プレイヤーは喪失したものを取り戻す過程で、これから失われるだろう別のだいじなものに感情移入していることだ。
さて、7である。私はキーファの離脱に強く反発する理由を見いだせない。というのも、これだけさんざん人との別れを描き尽くしてきたのに、なぜ反発するのだろう。推し量れば、前作のバーバラの別れはシステム上そうなることが予見できていたうえ、エンディングの出来事だから気にならない人が多かったのではないか、そして、パワータイプで「「使い勝手がいい」」キャラが物語の途中で「「勝手に」」抜けることに不快感を覚えた人が多いのではないか。
まあ、これは発売前、当時の雑誌に掲載されていた開発中場面の写真にも問題あると思うが。
いわゆる「石版」と「序盤の物語」と「ゲームバランス」と「擬似3D」である。
前者2つは物語の根幹だが、軽視されがちだ。というのも、結局ゲームとはどこまで行っても作業だ。その作業を作業と思わせないことが重要なのだが、前半の探検部分はとりわけお使いでもないのに作業だという意見は多い。これは私にとって意外だったのだが、最初の神殿の謎解きが分からないから投げたという人もいた。
また、今作最初の戦闘導入はシリーズ中一番だと思われる。多くのRPGは魔物がいる世界が当たり前になっているなか、こういうシチュエーションは新鮮だ。
石版システム、私は楽しんだが、「コレクトの強制」を冗長かつ不快に思う人がいるのは当然だと思う。似たようなので言えば「ゼルダの伝説風のタクト」あたりが同じ理由で批判されている。
一部のボスキャラが職業によって難易度が大きく変わるというのは、しかたがないこととはいえ問題である。山賊やヘルクラウダー、オルゴ・デミーラなどはよく取り上げられる。
今作からは世界が3Dっぽくなり、視点移動が可能になった。視点を変えないと見つけられないところがあるというのは私にとってプラスだったのだが、不評の声がこれも多い。7のようなタイプで天空シリーズはすべてリメイクされたが、どれもこれも視点を変えずにクリアできる以上、立体化する意義はないと考える。
他にも雑多な不満不平は見受けられたが、割愛する。
いずれにしても私からすればドラクエ7はシリーズ最高傑作であるのは間違いない。今のところ、10は買わない予定だ。9は買ってひと通りクリアし、すれ違ったが、どうも受け付けなかった。たとえドラクエでも、毎月1000円も払ってられないというのが10を買わない理由だ。モンスターズ3Dは買うつもりでいる。
うーん、ネトゲの歴史と違うのは、自分たちの好きなゲームがガチャに侵食されて無尽蔵に金を毟り取られるわけじゃないのに
何故グダグダ文句垂れるんだろうってのがわからないんですよね。
ソーシャルゲーが隆盛しようが衰退しようが、自分たちの財布から金は一銭も出ていかないわけでしょ?
ゲーム会社がソーシャルゲーにウツツを抜かしてゲーマーが放置されるのが嫌ならワゴン待ちとかしてないで
興味あるゲーム買えば良いじゃん。中古にすぐ売り払って資金回収してゲーム会社の収益削るような真似しなけりゃいいじゃん?
商売人を振り向かせるには札束で顔を叩くしか無いけど、それをやるゲーマーは昔ほど多くないんだよ。
「賢く」なっちゃったから。より少ない金額でゲームを楽しむ方法を見つけちゃったから。
だから、やるんだよね、ゲーマーは。楽しんだソフトはさっさと売っぱらっちゃうんだよ。
そしてゲーム会社は中古の売上を見てアリもしない需要に目が眩んで自分たちが作ったソフトを半年や一年しか経ってないのに
半値以下で投げ売りして目先の銭を稼ぐんだよね。「じゃあ今度から発売日に買わずに廉価版待とう」って脱落する人から目を逸らして。
鶏と卵のはなしと同じでどっちが先でどっちが原因かなんてわからないけど、従来型のゲーム市場って
客も、売り手(小売)も、作り手(ゲーム会社)も、自分だけの利益を最優先に行動した結果みんな不幸になりつつあるように見えるんだよなぁ。
ゲーム会社の小銭稼ぎのネタを目先の感情に身を任せて潰して、結果従来型のゲームが立ち行かなくなってもゲーマーはいいの?
ソーシャルゲー逃したら多分、コレ以上、というかソーシャルゲーに匹敵する小銭稼ぎの場すら当分見つからないよ?
それでゲーム会社が失うであろう収益をゲーマーが余計に貢いでやれる?
それが嫌ならゲームの予算へってクオリティが下がる(もしくは停滞する)か、パッケージ単価上がるしか道ないよ?
コメント気付くの遅れてすまへん。
私は完全乗り換えする勇気もないので2台持ちになるよー。
お金いっぱい飛んでいくけど、もう諦めたよー。
>メットは用品店試着→楽天オーダーで1~2万違う
楽天はうんこDMのイメージが強くて使ってなかったけど、この安さならお世話になるしか。
教習期間中はコンビニグローブで頑張る!ほんで、その間に可愛いの探すよ!
>ウェアは一目惚れ優先でおk
って読んで、いきなり買った!ちゃんと脊椎と肩と肘にパッド入ってる!あんまり悩む必要ないのね。
腰とか膝のパッドも買ったほうが良いのか、まだ悩みは尽きぬ。
オフ車怖い()
あくまでも個人的な独断と偏見で下した結論だけれども、先日のアイマス2にまつわる騒動は、詰まるところ「注目されているほど売れないから」という点に集約されるんじゃないかと思ってる。
ゲームを楽しんだり、(ニコニコ動画などの)二次創作作品を楽しんでいる限りにおいては意識され辛いけど、ゲームソフトとしての「アイドルマスター」ってそんなに売れてない。Xbox360で最初に発売された「アイドルマスター」は一年がかりで10万本をやっとこさ到達した。そういう規模のソフトだった。
http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0801/18/news109.html
まず登壇したバンダイナムコゲームスの鵜之澤伸副社長によると、Xbox 360版「アイドルマスター」は、限定版(7650本)と11月1日に発売した廉価版を含めて10万本のセールスを記録したとのこと。
その次に出た「ライブフォーユー!」も大差ないだろう。さらに次に出たPSP版の「SP」は三種類出て合計約20万本、DS版は約5万本だ。意外と少ないと感じた人は多いと思う。
他のハードで10万本売れたソフトといえば、Wiiでは「縁日の達人」、PS3では「プロ野球スピリッツ5」、NDSでは「仮面ライダーバトル ガンバライド カードバトル大戦」、PSPでは「MAPLUS ポータブルナビ」あたりである。知名度ではダントツでも、ソフトの販売本数という観点から見れば「アイマス」はこのあたりと「同格」なのだ。
さらに、投入するハードウェアがXbox360であるという点も考慮しなければならない。
最近小型化された新型が発売されたこのゲーム機だが、それでも全くと言って良いほど売れてない。
ハードでは9月9日に新型Xbox360(4GB)が発売されたが、販売台数は約700台と静かな出足となっている。新型の販売台数の割合はXbox360全体の2割弱と貢献度は低く、販売水準を引き上げるまでには至っていない。
それでいて700台である。PS3と同価格の通常版もPS3の僅か1/9の2,000台強。はっきり言う。Xbox360はもう日本で浮かぶ目はない。
そんな状況下で、さて「アイマス2」である。どれくらい売れるだろうか。既存のファンの大多数はおそらく購入してくれるだろう。ではさらなるファンの開拓は出来るだろうか。答えは「NO」だと思う。だからおそらく、前作と大差ない販売本数に落ち着くと思う。
となれば、最大10万本を前提にした開発計画を立てなければならない。はっきり言って、出来る事は少ない。
しかしファンの期待は膨らむことはあっても萎むことはない。新要素は「あって当然」と考えているだろう。メーカー側の都合としても、ただ単に既存作品を拡張した程度のものは出したくない、もしくは出せない。だからプレイ要素の取捨選択を迫られる事となる。新しい試みの代償に、既存の要素を切り捨てなければならなくなる。
その結果が一連の「男性キャラ3人の投入」「既存キャラ4人のリストラ(NPC化)」「オンライン対戦廃止」なんだと思う。
今回の騒動、ソフトを投入するハードウェア選定を誤ると、メーカーは当然としてそのソフトのファンも不幸になるという教訓になったんじゃないかなと思う。
また、ハードウェアのシェアの話になると「シェアが低くても面白いソフトが一杯あるから別に構わない」という声が出てくるけれども、今回の騒動はそんな考えに対して一つの答えを提供してくれたんじゃないかな。「ある程度のシェアがなければ、ファンが求める続編を作る事もままならなくなる」と。
特に「アイドルマスター」は、実態の販売本数に対する知名度があまりにも高くなりすぎた(知名度を上げる事は企業努力としては正しい事なんだけれども)。そのアンバランスさが今回の事態を招いたような気もする。
おそらくバンダイナムコが描いた未来は、ニコニコ動画などでネット上の知名度を高め、それらを直接の収益源であるゲームソフトや関連商品(CDやグッズなど)の販売増加につなげていく、そんな感じだったと思う。
しかし、知名度は高まっても(様々な要因があって)ソフトの購入者の増加には繋がらなかった。だから次回作も前作と同程度の販売予測しか立てられなくなった。
※2:紙書籍より安くなきゃいけないなんてことはないからね。電子のメリットが発揮されてたら紙より高くても買う人は買うと思う。
まさにその通りだと思う。
今のネットでの電子書籍とか含めたデジタルコンテンツ全般に言える事だけど、物販の"モノ"が無い分安いだけの廉価版になってる。
そして値段は安い分、コピーによる利益の減少を恐れてか、DRM を始めとして購入者にとって不便な制限がもれなくついてくる感じ。
個人的にはモノで部屋が溢れ返るのが嫌だし、日本の狭い住宅事情の中では同じようなメリットを電子媒体に感じている人は多いんじゃないかと思う。
ただの廉価版じゃなく、デジタルのメリットを発揮して形あるモノより高くても売れるような、そんな流れになっていって欲しいな。
「文庫本『姥(うば)捨て山』説」というのがある。
人気作家の小説などは、雑誌に掲載されたあと、しばらくたって単行本になる。私が若いころは、単行本化された本はかなり長いあいだ入手できたが、いまはそうはいかない。書店の棚は飽和状態で、返品されれば日の目を見る機会は少ない。ほどなく断裁されて品切れ状態になる。そうなれば、有名作家の一時は評判になった作品でも入手できない。出版社は有名作家に顔が立たず、とりあえず文庫本にすることで納得してもらおうとする。しかし、文庫化された本は、コミックスなどごく一部を除いて、有名作家の本でも劇的に売れず、流通はしているものの事実上、死んでしまう。
役立たずの老人を殺してしまうのは殺すほうも気がとがめる。殺すのではなくて、山に捨ててくることでその残虐性を減じるというのが「姥捨て山」の巧妙な仕組みだが、文庫化のプロセスはこうした「姥捨て」にそっくりだ。本を殺すのではなくて、穏便に「自然死」させようというわけだ。
こうした「文庫本『姥捨て山』説」というのは、私が唱えたわけではない。文庫本が世の中に登場し始めたころから、関連業界でひそかに囁(ささや)かれていた言葉だ。
いうまでもなく、こうした文庫本は、読者にとって魅力的なものにはならない。個々の本そのものの価値は文庫化されたからといってもちろん減るわけではないが、注目度が下がっているものであることはいなめず、そうした本ばかり集めた「姥捨て山」では、文庫が魅力的なものになるはずはない。かくして文庫はやっぱり売れず、たいていの本にとってはきわめてマイナーな販路にとどまっている。
出版社は利益を確保する必要があるから、高値で売れる新刊について敢えて廉価版を出そうとは考えない。
海外のペーパーバックが成功したのは、ベストセラーの新刊なども同時発売で、しかもきわめて安くペーパーバック版を販売したからだ。
日本ではこのような期待はできない。日本は、文庫後進地帯、もしくはマンガ文庫に特化した「ガラパゴス地帯」になることだろう。
せいぜい言えるのは、出版市場が縮小し、出版界が新たな販路を切り開く必要性がいよいよ高まってきたということぐらいだろう。
ただそれが、従来の流通経路を破壊し、出版社が自分たちの存在基盤そのものを掘り崩す可能性を覚悟してまで動く気になるほどのものかといえば疑問に感じる。世の中の大きな期待によって動くということは何につけてもあるわけだが、業界の存続そのものに関わっているということになれば、そう簡単には動かないだろう。
参考URLhttp://allatanys.jp/B001/UGC020005120100427COK00537.html]
神田駅でSuicaをフルチャージし、西口商店街の松屋に入る。
店内で手を洗ったり、二十秒ほどトイレに行ったりしていたら、いつのまにかうとうととカレギュウを注文してしまった。
席について、食券を机に置く。
店員観察にも飽きて、壁の広告を黙読。ひとしきりセール情報を学ぶ。
退屈しのぎに牛丼の価格変遷を思い返すが難しすぎる。店員の雑談で中国語の勉強。
舌にヒリヒリくる感じが実に心地良い。
注文を思い出して、簡単な暗算をする。
ちょっと手持ち無沙汰になって、また壁の広告を黙読。
カレギュウが来た。
吉野家ではこうはいかない。
それだけで株価が高いのではないかとさえ思う。
頼んでもいないのに味噌汁が出る。
カレギュウを書き込んでから、生野菜を食べ、また味噌汁を飲む。
ひとしきり食べてから、思った。
こいつは最高の朝食だ。
ありとあらゆる食材が、ここにある。
カレーが、肉が、生野菜が、そして味噌汁が、もう松屋専用に作り込まれている。
カレギュウを食べてから牛丼を食べると、実に窮屈で無理矢理な印象を受ける。
漬物がなくて、甘くもない。
ほんの数か月前までは牛丼が駄目だなんて考えもしなかった。
だが、カレギュウを一度でも食せば、誰もが僕と同じ感想を抱くだろう。
つまり「こっちが本物」なのだということを。
むしろ牛丼は、カレギュウが登場するための伏線に過ぎなかったのではないか。
たぐい稀なる完成度を誇る実験食。真打はむしろカレギュウで、その前には牛丼はもちろん、全ての牛丼もどきが色褪せて見える。
コーイチはそう言っていた。
ホラーが一流の大衆娯楽として昇華し、世界中の人々のイマジネーションに強い影響を与え、それ以後のホラー漫画は、どこか漂流教室のようだった。
そして、カレギュウは、すべての食事におけるそれだ。
カレギュウ以後、わずか数年で僕の食生活はカレギュウとカレギュウ的なもので埋め尽くされるだろう。
グッバイ・牛丼
カレギュウの具材にはまだ肉が必要だ。
けれどもそういう時代もすぐに終わるだろう。
おそらく大多数の人にとって、カレーで事足りるのだ。
カレギュウ以外のメニューを必要とするのは一部のプロだけになり、そういう食事さえもいずれはカレギュウ的なものにとって変わられるだろう。
松屋のカレーがでたとき、あんなメニューじゃ満足できないという人がいた。
しかし実際には満足出来てしまった。
一方、もうやってしまったのが一流のすき家である。
そしてカレギュウはすべての牛丼屋にそうしたいと思わせるのに十分な魅力を持っている。
新しい時代がここからはじまるのだ。