はてなキーワード: ダブルバインドとは
かつては嫌いだった、というべきかも知れない口語。
~じゃね。
~(だ)(なる)からな。
~だろ。
おまえは~。
等2ch・5ch由来の、一様に皆同じでイキった喋り方をする口語。
なぜ皆一様に同じ喋り方なのか当時は疑問だった。
というより、今でも多少疑問はある。
悪口を言われた際彼らは一意の人格性を自らに認めている。すなわち反論する。
みな名無しであると自覚するならば、単なる群れの一種である彼らに個別性など存在しないはずだ。
ところが彼らは同じように他人に合わせながら自分は個別であるというおかしなコンプレックスに陥ってる。
(スタンドアローン・コンプレックスといえばまるで攻殻機動隊だ)
コテハンなど個性があればそれを否定しにかかるが、レス番付きの「我」のことになるとコテハンのごとく振る舞う。
このダブルバインドの矛盾は柔軟性として機能していない。したがってあの場所ではよく闘争が起こる。
一つはまるでAIのような群体としての5ch、もう一つは匿名なだけで個別性しかない5ch。
個別性しかない連中が「荒らさない」という共同作業するには「押さえ込み」しかない。
いまならTwitterのプロフがそれに近い。話しによれば、どうやらプロフでは以下の者達がNGらしい。
曰く、
見ての通り3,4番目は相反する。1,2に至っては思い込みでしかない。
あるいは傾向がある、程度の話だ。ここでも個性に対する検閲が入る。
しかし一方でTwitterはそれぞれが個性を発露してユーザーを獲得するという大矛盾した構造がある。
その割に上記「押さえ込み」により発生した「空気」により同調圧力を強いられる。
ここに至りSNSで疲れは発生する。言い合うときは「空気」が恐ろしいので集団で襲いかかる。
いわゆる炎上である。抑圧が「空気」を発生させ、その空気が炎上の火種になるとは、まさに化学反応的ではないか。
空気は抑圧の結果生まれるので、水面下では皆本当の自分を容認されたいという承認欲求を抱えることになる。
日本人はディスカッション文化ではない、ディスカッションが苦手であり訓練されていないという。
もちろん嫌味や嫌がらせも多くあるためこの可能性は除外できない。
しかしながら、反論は直ちに人格攻撃ではなく、意見の穴に対する指摘であったり、改善案であったりする。
ディスカッションが苦手となると、結果的にお互いを傷つけない「大人の対応」という欺瞞を皆実践することになる。
求めている対象が手に入らない苦しさから、それをとうとう憎んでしまうようになってしまう心理というのは珍しくない。自分もまた、そういう誘惑に何度屈しそうになったか知れない。はてブでもツイッターでも、どうして僕が暗黒面に堕ちなかったのかをいぶかしく思っている人も多かった。ここでは、毒を吐きたくなったときにどのように抑えたかを共有したい。
一般的に、結果が出ないときには次のようなことを意識している。頑張れば結果が出るとは限らないと認識する。過程そのものを楽しむ。女性がいなくても楽しめる趣味をたくさん持つ。それから家族や友人を大事にする。友人からのアドバイスとは時として的外れで、かえって傷口を広げてしまうこともあるけれど、そういうときは失恋のことは伏せていて、普通に遊んでいればいい。それだけでも気が晴れる。
一つ目。自分は相手から好かれなくて悲しく、悔しいのだと直視する。とてもつらいが、この感情を無視しようとすると、悲しみは怒りへと変わってしまう。怒りが二次的な感情だといわれる所以だ。悲しみとは何かを失ったというサインで、怒りは相手が期待に添わなかったとサインとされる(1)。この段階で対処しないと、怒りは憎しみになってしまう。憎しみとは厄介な感情で、無駄に精神のリソースを食う。
二つ目。論理的に考えるように心がける。「女性はいつも自分を嫌う」というのは実は正しくない。「今回この女性には恋人としては受け入れてもらえなかった。次の女性の場合はどうなるかわからない」というのがより現実に近い。こういう「全か無か思考」は「認知の歪み」の一つであり、うつ病の原因の一つといわれている。うつ病にならないとしても、必要以上に自分の機嫌を悪くする行為だ。対処法は(2)に載っている。簡潔に言うと、自分の不合理な考えに一つ一つ反証していくことだ。面倒だが、やってみると楽しい。
三つ目。自分が男性だというだけの理由で受けた仕打ちや、不快な思いのことを考える。例えば、電車で隣になっただけで警戒されるような目つきでにらまれたとき。あるいは、攻撃的なフェミニストが、男性の失礼な態度だけではなく、男性が女性のことを「かわいいな。素敵だな」と思う感情そのものも否定するような発言をしたとき。そういうミザンドリーに満ちた文章を読んだ時にどう感じたか。ぐさり、と胸に冷たいものが突き刺されたような気がしなかっただろうか。ここで自分が、公共の場で女性を叩く発言をしたら、見ず知らずの女性が同じ思いをする。そんなことを僕は望むだろうか。
僕はフェミニズムがいけないのだといっているのではない。むしろ大賛成だ。女性の選挙権、セクハラを受けない権利(3)、功績をあげているのに忘れられている女性にきちんとスポットライトを当てること、その取り組みはすべて立派だと思うし、心から応援している。まだこの世には性別による不平等や偏見がいっぱいあり、これをみんなでなくしていくことこそが、僕らや次の世代の幸せへとつながっていくはずだ。僕も自分の中の偏見と闘っていくつもりだ。ただし、言葉を選ばないと両性の間に分断を無意味に生んでしまう。誰にだって怒る権利はある。間違ったことがあるときには怒ったっていい。時には厳しい表現を選ばないといけないことも当然ある。でも、不公正を公衆に訴えて世の中を改善していくことと、自分の不機嫌を見ず知らずの人間に通り魔的にぶつける暴力とは、厳然たる区別があるはずだ。少なくとも自分は、公共の場で他人を口汚くののしるような真似はしたくない。
少々熱く語ってしまった。本題に戻ろう。
四つ目。公共の場で女性を馬鹿にする発言をすることは、自分にとてもよくしてくれた母、祖母、姉妹を馬鹿にすることになる。同時に、未来に付き合い、結婚することになる女性、それから生まれる娘や孫たちに対する侮辱である。自分はまだ出会っていない家族のことを馬鹿にしたくない。
それに、自分の尊敬する文筆家や科学者の多くが女性だ。女性が馬鹿であるという謬見に対する、強烈な反証だ。
インターネット上には様々な声があふれている。ある女性は「なんでもきちんと話し合いで解決したい」という。別の女性は「なんでもかんでも気持ちを察してほしい」という。ある人は「男性からの性的なまなざしに耐えられないと」訴え、別の女性は「異性として意識されなくて悔しい」とぼやく。そういう意見を総合していくと、矛盾の塊というかキメラが発生する。こちらを立てればあちらが立たずだ。さらに「どうしたらいいのですか」と尋ねても、「私はあなたのママじゃないから自分で考えてください」といわれる。そこで困ってしまう。一生懸命行動しても、誰かからは怒られるのだ。ある種のダブルバインドである。
そういう時に思い出したいのは、結婚できるのはたった一人、という事実だ。自分が一番好きな人の幸せを一番に考えて、ほかの人の意見はスルーする。それでいいではないか。相手はこちらの面倒を見ないし、自分も赤の他人の機嫌を取る必要はない。
最後に。誰かに復讐してやる、という気持ちの時には、じっとしているのがいい。他人を憎んでいる心理状態はとてもつらく、幸せからは程遠い。人を呪わば穴二つ、である。そんなときは、家でゆっくり休むといい。肉体が健康でないと、精神の健康もおぼつかない。
相手に八つ当たりしない自信があるのなら、風俗も決して悪い選択肢ではない。ハグしてもらうだけでも怒りは収まることがある。相手から優しく触れてもらえる時には、言外の「あなたを男性として尊敬しています」のメッセージを受けている気がする。たとえそれが作りものだとしても、触覚や嗅覚はどんな言葉よりも雄弁だ。もちろん、人によっては空しさが増えてしまうかもしれないので、諸刃の剣だ。利用の際はよく考えてほしい。
あくまで理想なので、すべてを満たすことは難しいかもしれないが、希望はこういう形だ。
問題は、自分の好みが良く笑うタイプの女性か、研究者タイプの女性か、よくわからないことだ。とはいえ、これは実際に会ってみないことにはどうしようもないのだろう。
苦しかった。悔しかった。けれども、これでいいのだと思う。自分はこの方法ではうまくいかないのだ、そしてモテないのだと直視することができた。自分の実力がこの程度だと理解したことで、やっと素直に結婚相談所に向かうことができる気がしている。
もしもいきなり相談所に直行していたら、将来浮気したくなり、結婚生活を破壊してしまったかもしれない。恋愛はすごく疲れる、ということを体感したことで、落ち着いた生活へのあこがれも強まった。仕事でもそうだが、自分はこのくらいのことはできるが、これ以上はだめだ、という理解が、体調管理には必須なのだ。
今回も長くなってしまった。モテないことのぼやきならいくらでも書けるだろうが、ここで切り上げたい。
読んでくれてありがとう。
(3) 僕も女性からのセクハラを受けたことがあるので、そういう屈辱感を相手に与えるなんて真似はしたくない。もっと異性同士が、もちろんいろんなマイノリティを含めて、尊敬しあう世の中になってほしい。