はてなキーワード: しわとは
最近になって、作家やら大学生やらがパレスチナに連帯を表明して話題になってるけど、それに何の意味があるのかほんとうに疑問に思う。
もちろんガザで起きてるジェノサイドは大問題だし絶対に許されないことだとは思うけど、そんなことは全員知ってるしわざわざ日本で騒いで何の意味があるんだろう?
結局、自分が倫理的に正しい側にいることをアピールしているだけじゃないのかと思ってしまう。
そう思うと「連帯」とか言っていい人ヅラしている人たちを冷めた目で見てしまうし、結局は自分のためのパフォーマンスにしか見えないんだよね。
だいいち、本気でパレスチナを思うなら収入の大部分を募金するなり、直接行って支援するなりほかにやりようがあるし、「連帯」とかいう無意味な単語を表明した偽善者たちが持ち上げられてるの見てなんだかなぁと思ってしまう。
MBTIなる性格診断ツールが流行りだして以来から、長らく疑問だったことが最近自分の中で肚落ちした気がするので述べていこうと思う。
というのも、なにか当たり前のように「MBTI何?」のような質問が飛んでくることが多くて、そのたびにMBTIの名前を借りただけの16診断を何をもってそこまで信頼しているのだろう、とか、なんで当たり前のようにやっている前提なんだ、とか、我ながらひねくれたような気持ちを抱いていたんだけど、そういう人々の一部が、どうしてそんなことを聞くのかが少しわかったような気がしたんだよな(もちろん、流行っているから話題の一つとして提供しているだけの人がいるということは理解したうえで、今後の話を聞いていただけるとありがたい。俺はENTPらしい)
それは、他人と自分との違いに対する理解がものすごくざっくりとしている人がおおい、ということ。これは別に俺が他人をすごく理解できるというわけではなく、むしろ俺はなぜそうなるんだ?と他人との不理解を繰り返して来た側なのだが、その根幹には「そりゃ自分とは違う遺伝子を持ってて違う環境で育っているのだから価値観も能力も違うよな」という、ものすごく当たり前の事実があったからで。
しかしどうやら、ここ最近この常識と思っていたところが常識ではないのではないかと思い始めた。親ガチャ、という単語が流行っていた時にも思っていたのだが、俺がその単語に対して抱いていた「親が違うのであればそこで生まれた子供は自分じゃないんだから、お前はその親のもとでしか生まれることができないのでは?」というような疑問を突き詰めて考えていってたどり着いた結論が、世間の「自分」の定義がものすごく緩いということだった。なんとなく生まれ変わりみたいな思想がもともとある日本だからこそ、「自我」や「魂」のような不変のものが、ただ今はこの器にいるだけ、のような認識をしている人が多いように感じた。つまり自分とは「魂」っていう思考になるんだよな。
そして、それは他者への無理解へとつながってるんじゃないだろうか?例えば、容姿に優れていない人は、容姿が優れている人なりの悩みを一蹴することがあるように。自分なら容姿が優れていたらそんなことで悩まないというような論は、ただお前がブスなうえ想像力がないだけだと思うが、「自分があの器に入っていれば」という理想論的なものがこの無理解的な感情論につながっているように思うんだよな。
つまるところ、本人が自覚的か否かにかかわらず、「俺か、俺以外か」という、ローランド的な分類で人を見ている人がこの世にはある一定数存在するのだと思う。他者がNPCのようなものに見えるのであればそりゃ無責任で無理解な発言も飛び出すよな(勉強できる奴が勉強めっちゃやっても結果出ないやつに対して努力不足に感じるのも自身からの視点しかないからであって)
で、こういう人種にとって、きっとMBTIってものすごい発明だったんじゃないだろうか。いままで自分か、それ以外かっていう二パターン、もっというなら自分と波長が合う人(理解できる人)と理解できない人がいる世界を、少なくとも16種類に分けて見せたんだから。この人はこういう種類の人なんだ、じゃあたしかに私とはこういうところが違うんだろうな、っていう他人に対する不理解を理解するための、大きな手助けになったんじゃないかと思う。だから最初に、この人はどの種類の人なんだろう、を聞こうとするんじゃないだろうか。その人の世界にいる人間は、ポケモンみたいに16種類のタイプ分けがされているのだから、確かに俺も新しいポケモンが出てきたら何タイプか、考えてしまうし。
ただそれが少し、危うくなっている人も時々見かける。そもそも言葉とか分類っていうのは、実態とは必ずずれる。実態はもっとふわふわした気体のようなもので、言葉とか分類とかはがっちりとした固体のようなものだ。あてはめようとすれば必ずはみ出るところがあって、だから俺たちはいろんな表現を尽くして、なるべく実態に近似するように人を評価していく。しかし、MBTIに記述された世界に生きている人にとっては、実態よりも分類が優先されているような気がする。本当は70億の人がいれば70億通りの違いがあるはずなのに。
ガキの頃は嫌いになればそいつのすべてが嫌いだったような単純的な評価しかできなかった俺も、ある程度年を重ねてそれが他人の一面でしかなく、たとえば仲間には情に厚いところがあり、それが翻って俺に対する攻撃性になっていたんだなとか、他人の顔色に敏感なこの人はこういう家庭環境が根幹になっているのだろうかとか、少しだけ世界の解像度が上がったように感じている。
偏見で申し訳ないんだけれど、たぶんMBTIを信じている人とかはこういう文章を読まなそうだから、別にそういう人たちに届いてほしいわけではないけれど、意外と色眼鏡を外してみたら、人は多様で面白いよ、という話をしたかった。最近、DeathNoteのリュークみたいになっている。リゼロの人の人生を追体験できる本、ああいうのすごく面白いよなあ。
対面の俺は信号を律儀に守ってそれを見ていたが、彼らは俺の存在などないかのように笑顔で談笑しながら横を過ぎ去っていった。
俺は悲しくなったが、それと同時にこれこそが幸せなのかもしれないと思った。
幸せのコツとは、自分と自分の近しい人々の利益・幸福の最大化と、「今」の利益・幸福の最大化を目指すことなんじゃないかなと思った。
彼らは社会のルールとか、対面で信号待ちしている俺の道徳心、道徳心の陵辱とかは考えない。自分たちが立ち止まらず時間を無駄にせず移動できれば良いと考える。
俺は俺が信号無視したら漠然と見えないみんながルールを守るモチベが下がるとか、視界内の人が嫌な思いをするとか考えるから信号無視はできない。少なくとも隣や対面に人が居ると。俺は俺じゃない他人のことで俺の行動を決めているから彼らのように幸せな気分で信号無視できていない。不幸せだ。
同じく、俺は結婚もしてないが、俺が信号無視してたら自分の子供にどうやって信号を守らせるように説けるか悩むことがある。自分ができてないことを他人にさせるなんて、と考える。決して訪れない未来だ。つまり仮に子供が出来ても、俺は信号無視できない。未来を考えているからだ。
彼らは違う。ベビーカーに乗ってる子供はロクにルールや両親の行動を理解できない赤子であって、子供が認識できない今は何をしても彼に影響がないことをちゃんと理解している。罰せられないという前提なら子供の前で万引きだって殺人だってできるのだろう。ちゃんと「今」にのっとって行動しているのだ。彼らがベビーカーを覗くときはよき父とよき母であり、子供が成長したあとは子供の前ではそう振舞うのだろう。
今、自分たちが快いように行動する。それで結婚でき、子供ができ、笑顔でいられるのだろう。
困ったことに、幸せになれるコツはつかめたが、俺が実践できるかというと難しい。言ってしまえば俺の価値観での「悪」に染まれということだから。
赤の他人に嫌われようと平気な人間になれたとしても、内面の自分に嫌われるのはしんどい。かなり過酷な実践的トレーニングで鍛えていくか、催眠おじさんに人格改変してもらうか。
確実に俺はそんな苦行をする人間ではないので、俺の思考は変わらず、幸福度がそこそこ低いままあまたの信号無視を見送りひそやかに傷ついていくのだ。
「作者が女性である」とか「客層が女性のみである」という定義は当然ない。これは日本語を母国語としている人間であれば理解できるはずだ。
ところがそれを理解できていない人がいたらしい。
サンプル見て個人誌楽しみにしてましたが、売り子されてたのにくまろさんですよね?
個人誌のあとがきで確信しましたがまさかとは思ったのですが正直男性だということに驚きました。
周りでもよく話題に上がりますが皆さん正直男性には売りたくない、見られたくないといっています。それ以上に男性の描いた本(同人誌に限る)は想像してしまうので買いたくありません。
赤ブーのイベントは女性向けのもので基本的に女性が参加することが前提ですしので、もう少しわかりやすくするか性別が分からないようにしてもらえませんか?シリアスな内容で絵も話も女性が描かれそうなので本が良かった分判明した時にショックが大きいです。
作者が男性だったからって驚き、作者本人に毒マロを送っている。どこでそんな間違いが発生するのかが全くわからない。女性向けを男性が書いている可能性を考えられていれば驚くことはあっても配慮を求めたり毒マロを送ったりはしないと思う。簡単に言うと想像力が足りないし、勝手になわばりを主張する盗賊みたいな人だと思った。
あ、この毒マロの送り主が「女目当てで女性向けの世界に入り込んだのに男がいたのでムカついて適当な理由をつけて毒を吐いている」という可能性もあると思っています。
すまん、私そもそも元増田が主張する「たわわはポルノではない」っていう主張の根拠が、わからなかったので、もう少しわかりやすい形で意見して欲しかったの。
私の認識としては「たわわ」はポルノとまでは行かなくても男性向け性的商品、ソフトポルノに近いという認識をされていて、その事が諸々の批判を浴びたという理解なので「たわわはポルノではない」という意見が正なら批判は自動的に負になる。この辺りの意見をまず確認したいなあと思った。私の意見を批判する具体的な根拠を示してほしい。他のブクマでは引用不足でも根拠を述べて批判してる。これだと私もどこが間違いで反省できるし。
「要約すると悔しかったら活動家になってみろ(笑)で合ってます?
活動家になったところで女さんの男に対して何を言ってもいいみたいな口と性根の悪い連中はなんも変わりませんよ」
この意見に関しては私としては「活動家のように具体的な行動はした方がいいよ」と答えます。他の投稿でも書いたけど女性は昔は、性暴力受けたら被害者にも関わらず「傷物」って結婚しにくいなど社会的にも重篤なハンデ背負ってたけど、そうゆう性暴力にNOいう女性団体のおかけで、実名顔出しで性犯罪告発できる現代にはなってる。主張することで利は得てるんよね。世の中ネットにいる人ばかりでなく、色んな企業や団体や人がいて、そういうネット以外の人に自分の意見知らしめるためにもある程度のコストは払ったほうがいいと思う人なのよ。
「現実の誹謗中傷を禁止する法律やネットのマナーとして既に定着してこういうのやめましょうねっていうの一番ガン無視してる属性が女でありフェミニストなんだよ」
本当に実際こうゆう人無くしたいなら、相手を法律に則って訴えるしか減らす手段ないのよ。効果見えなくてもネットのマナー訴え続けるしかないと思うのよ。無礼なこと言った相手は変わらなくても、他の社会の人には理解されて性暴力反対訴えた女性団体みたいに、世の中自分の属性の有利に変えれる可能性は0ではない。
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私はこの1、2年定期的にゲームをするネットで知り合った友人がいました。
知り合った経緯は本当にたまたまなのですが、話していると昔好きだったもの、やったことあるゲーム、最近興味のあることなど様々なジャンルが似ていて
会ったことはありません。しかし会話を通してお互いの生活をなんとなく知っていました。
相手にもちょっとなと思うことがありましたが、悪人というほどでもなくわたしとて真人間と言うわけでもないのでお互い様と思って付き合っていました
最近お互いタイミングが合わず、さらにはわたしの不運が重なってイライラすることが多くストレスが溜まっていました。
その最高潮のタイミングでなぜそこでやってしまったのか今でも後悔しているのですが、彼に今後の予定で使用する打ち合わせの内容を一方的に喧嘩腰で送ってしまいました。
次の日それについて私は謝罪文を送り、イライラしていたことと私が悪かったこと、本当に申しわけなかった旨を送ったのですがそれについては向こうは触れないまま打ち合わせは終わりました。
しかし数日たって彼のプライベートのことで打ち合わせ内容のイベントが流れることになりました。
ここまでまとめると私がトンチキな行動をしたせいだね、不運だったね、私のせいだね。
と言う総評で終わるのですが、自分の人生がずっとこんな感じなのかなぁと…
もともと人付き合いが多い方ではない上、仕事もほぼほぼ人と合うことはない仕事なので
たまに知り合った人と仲良くなってもこんな事を繰り返していくのかな、となんだかずっと虚しさでいっぱいになってしまいました。
ここまでまとめても私が悪いことしか出てこず、じゃあ自分が変わるのか、変われるのかと聞かれればそれもまた難しいのかな
昔から比べればだいぶまともになったと思っていたけど自分はこうやって友だちもできず一人で生きていくのかな……
具体的なことを思い出そうとすると細々した嫌なことしか思い出せない
結構我慢して通り過ぎたと思ってたのにと忘れられなかったのかとずっと自己嫌悪中です
ずっとそんな事が頭の中をグルグルしてる
11:14
"Let me be clear though. Wheeler wasn't saying that conscious minds have direct power over reality, as claimed by some of the worst practitioners of quantum woo."
はっきりさせておきたいのは、ウィーラーは、量子陰謀論の最悪な実践者たちの一部が主張するように、意識が現実を直接コントロールする力を持っているとは言っていないということです。
11:53
"He(Wheeler) also once wrote that is was 'Not consciousness, but the distinction between the probe and the probed that was central to the act of observation'"