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はてなキーワード: 構造物とは

2015-02-02

ライトノベル構造的に馬鹿にされる宿命にある

ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。

定義曖昧で、玉石混交で、定性的評価されるもの全般のことね。

すると、自分感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。

定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。

そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、

その架空人形サンドバックにするのは、とても簡単だ。

そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。

まず、ライトノベル批判否定形から追い込んでいく

「無い」事の証明は難しい。

から「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。

表紙がアニメ絵である

太宰治ライトノベルか?

表紙がいわゆるアニメ絵柄かどうかは、絶対的な要因ではない。

から、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。

(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)

キャラクター小説である

京極夏彦京極堂シリーズは、ライトノベルか?

キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。

から、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。

(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立

子供ティーンエイジャー)向けである

ハリー・ポッターは、ライトノベルか?

ファンタジーSFミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。

から、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。

設定が稚拙である文章が頭悪そう

これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。

ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。

SF(science fiction)の90%は、ゴミカスでクソだ。

同じ基準を使って、映画文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。

からSFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。

なぜなら、SFは、他の全ての芸術形態品質と同じ傾向にあるという意味しかないからだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Sturgeon's_law

から、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。

馬鹿にする、と、批判する、との違い

ここで映画バトルシップ」を持ってこよう。

ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習さな宇宙人侵略してきて、自衛官海兵隊員が反目しながらも撃退するという

まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。

素晴らしく面白い愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。

何が言いたいかというと、批評家評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。

ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。

それは賞賛なのだ

馬鹿にしているのは誰だろうか

さっき言ったように、「馬鹿であることは、比較独自の軸になる。

その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンル馬鹿にされて当然」のような、

ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。

比較的、嫌悪感忌避感のようなものだ。

これは、BL趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマン通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。

好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。

雑誌の表紙に水着女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。

批判としてありうる話

ワリと珍しいのだが、硬派なSFライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。

アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。

(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)

両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。

ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、

この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味あるかないか、だ。

「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。

ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、

「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」

とは、ならないだろう。

だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。

逆に言えば、作品の質についての批判なら出来るはずだ。

「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」

なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。

真っ当な批判は可能なのか?バカにする方の品性を疑うべきか?

例えば、俺TUEEEE系と言う価値基準において、

アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、

一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?

俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、

そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。

例えば、今話題ピケティの「21世紀資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。

現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。

というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。

補足として:ただし、ラノベに出来の悪いものがあることを否定するものではない

どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。

例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。

アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。

というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。

そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。

ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。

9割のクズを観てそのジャンル否定するのが愚かであることは映画絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。

2014-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20140718031621

別に無理じゃないんじゃ?

現実は今、パワードスーツみたいな直接つける補助器具が実用化に向かってるけど、

それが実用一般化するようになれば、

人の大きさの延長線上では出来ない大型構造物建築物を作る際に、

いわゆるリアルロボットのようなのものが出来る可能性はあると思う。

ただそれだと、現状リアルだと言われてるロボアニメの操縦法(スイッチハンドルレバー式)じゃなくて、

ゴッドガンダムパシフィック・リムみたいな動きトレース型になりそうだが。

2014-06-05

好きなSF打線組んだ

好きなSF短編打線組んだhttp://anond.hatelabo.jp/20140604175240

が楽しそうだったので、便乗。短編に限らずに打線組んでみました。

1二:ニールスティーブンスン「スノウ・クラッシュ

フランチャイズ小国家、凄腕ハッカースケートボードに乗った運び屋、仮想空間上のAI人格等々、わかりやすサイバーパンクガジェットを詰め込みつつも説明臭くはなく、スピード感ある展開で一気に読めるエンターテイメントSF。よくできたハリウッド映画みたいで素直に楽しい。粘り強いバッティングと走力に裏打ちされた出塁率の高さから、不動の先頭打者

2遊:パオロ・バチガルピ「第六ポンプ

バチガルピは、個人的には長編だとちょっとダレる感があって、そういう意味ではこの短編集の方が好み。ねじまき少女世界観濃縮版「カロリーマン」、文明がゆるやかに崩壊する恐怖「第六ポンプ」が好み。現代代表する作家の一人に数えられますが、独特のディストピアバイオパンクを突き詰める職人気質。2番ショートで起用。

3中:チャールズ・ストロス「アッチェレランド

現代と地続きの近未来からスタートして、加速度的に変容する社会人類技術的特異点を迎えるまでを描く大作。ストロスはコンピュータ関連のジャーナリストってこともあって、ギーク文化との親和性も高そうなディテールが満載で楽しい。抜群の守備範囲の広さ、打てば長打を量産する勝負強さで3番に定着。

4一:グレッグ・イーガン順列都市

イーガン短編無難と言われてますが、この「順列都市」は素直に面白いと思う。荒唐無稽アイデアを、超力技で煙に巻かれてなんとなく納得されられてしま快感。本書冒頭の、コンピュータ上でシミュレートされた人格コピーが、目覚めて状況を把握してから辿る思考過程を描いたシークエンスが最高で、10回は読み返してる。イーガンほど投手プレッシャーを与える打者はそういないでしょう。ネクストバッターサークルにいるだけでも圧倒的存在感

5右:チャイナ・ミエヴィル都市都市

現代SFファンタジー最右翼(本人は左翼だけど)。スキンヘッドピアスのイカツイ兄ちゃんです。一見ありふれたハードボイルド警察小説?と見せかけて「重ね合わされる都市」というとんでもない舞台装置、どうやったらこんなもの思いつくのか。さらにそれを言語化できる力量もすごい。

6三:ブライアン・W・オールディス「地球の長い午後」

ここまででお分かりの通り、増田現代SF好きです。が、この「地球の長い午後」は入れざるを得ない。遠未来、自転が停止した地球動物植物の力関係が逆転した異常な世界で、食物連鎖の下層で右往左往する人類の、圧倒的無力感ベテランならではの味わい深さと駆け引きの巧さ。

7左:椎名誠「武装島田倉庫

6番・オールディスの直接的な影響下にある、椎名誠SF三部作。の中でも、この「武装島田倉庫」が一押し。奇妙な生き物が跋扈する文明崩壊後の世界を、さまよい、戦い、逃げ惑う人間たちの群像劇です。これも何度も読み返してるな。漬汁がなんか旨そう。

8捕:コーマック・マッカーシーザ・ロード

海外文学方面では、現代SFにおけるイーガン大正義ポジションを占めておられますマッカーシー御大の手による、核戦争後と思しきポストアポカリプス世界をさまよう親子を描いたロードノベルです。沈黙の音が聞こえそうなくらいの静寂と、真綿で心臓を締め付けられるような絶望と哀しみ。大変地味ですが間違いなく大傑作。

9投:ウィリアム・ギブスンヴァーチャルライト

ギブスンといえば「ニューロマンサー」でありそれに続くスプロールシリーズなんでしょうが増田はどうにもこの「ヴァーチャルライト」が好きでして。何と言っても作中に出てくるベイブリッジ。閉鎖された橋をホームレス選挙して好き勝手に増設を繰り返し、無計画・無軌道に成長してしまった構造物…すてきすぎる。

中継:テッド・チャンあなたの人生の物語

増田の中では「柔らかいイーガン」という位置づけにあるんですけどどうでしょうか。「実存」をメインテーマに据えながら、幻想的・宗教的な色彩の強い作品群。ワンアイデアをじっくり煮詰めて、これ以上ないくらい適切に料理した佳作集。死ぬほど寡作なのが玉に瑕。最近何してんの。

抑え:ジェームスホーガン星を継ぐもの

ハードSF is 星を継ぐもの

監督 オラフ・ステープルドン最後にして最初人類

増田的には究極のSFはステープルドンになるんじゃなかろうかと思っています20世紀から20億年後までを俯瞰する人類史。これほどのタイムスパンで書かれた作品は他にないんじゃなかろうか。しかもこれ1930年作品ですよ。半端ない

2014-05-20

http://anond.hatelabo.jp/20140520233718

一級建築士年収は6−800だし 年取れば1000万超えるだろ。

ただ、巨大な構造物設計できるベテラン一級建築士

トレーダーをどうやって並べて評価するんだ?というのは共産主義でも資本主義でも変わらないけど

トレーダーが儲かり過ぎてというか、トレーダー自身が金融市場破壊しているのは金融庁金融政策のせいであって

過剰な金融をしたせいだろ。(バブルとかリーマンショックとか)

2014-02-12

形而上学絵画麻枝准の『恋心』



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E7%B5%B5%E7%94%BB

 形而上学絵画というものがある。

 詳しくはwikipediaでも参照にしてもらいたいのだが、要するに、ごく普通風景を描いているように見えて、実際にはその風景現実には存在することの有り得ない、といったそういう絵のことである

 例えば、人々の足元に落ちる影の向きがそれぞれバラバラだったり、あるいは、走っている機関車煙突から延びる煙が、風に靡くことなく真っ直ぐ立ち上っていたり。

 そういう絵画のことである


 因みに「形而上絵画」において有名な作家と言えば、イタリア人のジョルジュ・デ・キリコがいる。

 ググって形而上絵画を探してみようとしたところ、中々見つからなかったので、彼の有名な一枚である『通りの神秘と憂愁』を例として貼っておくことにする。

http://blog-imgs-45-origin.fc2.com/c/a/r/carcosa/chirico.gif



 ところで、僕は大手ギャルゲーメーカーの『key』のドンである麻枝准の曲が好きである


 特にその中でも、彼がごく初期に書いた『恋心』という曲が好きである

 十年近く前に、ipodで繰り返しこの曲を聞いていたことを思い出す。

 時には、学校へ向かう途中に口ずさんだりもした。

 そして、この曲を聴いている時に、いつも僕が思い浮かべるのは、一本の木が植わった起伏のある平原である

 日差しは、まるで雨の日の朝に部屋へと差し込む時のように、薄い青色をしている。

 平原には一本の木を除いては、構造物と言えるようなものは全くなく、一切が見渡せるようになっているのだが、その地平線のいずれの場所を眺めても、例えば太陽とかそういったような光源は見当たらない。それでも、空と平原は一様に、薄ぼんやりとした青色に照らされている。


 先日、久々にこの『恋心』を聴いてみていた。

 iphoneを購入したのを機に、ipodに代わるデジタルプレイヤーとして、試しに昔好きだった曲を掛けてみていたのだ。

 すると、かつて僕が聞いていたのと同じように、例の、あの青褪めた、薄ぼんやりとした風景が浮かんでくることになる。

 僕は、その風景に懐かしさを感じながらに、十年前聞いていた当時よりも、ずっと克明に風景を思い出しつつあった。

 Liaの透明で素朴な歌声が、次のような歌詞を歌っていた。


 どんな君を好きでいたか、もう思い出せない。

 楡の木陰に隠れて、僕を呼んでいた


 僕はその歌詞に耳を澄ませながらに、ふと、何か不自然なことに思い当たったような気がしていた。

 自分が思い浮かべている風景に関して、何か、おかしな点があるように思えたのだ。

 そして、その不自然な点、というのに、僕はすぐに思い至ることができた。

 つまり360度全てを見渡せる平原において、光源の一つも見当たらないのに、空や地面が一様に同じ程度に明るい、なんていう光景は、実際のところ有り得ないということである

 僕は、その瞬間、自分意識が真っ暗になっていくのを感じた。

 キッチンに立って、サラダを作るためのお湯を沸かしながらに、暫く、僕は意識の空白に立ち竦んでいた。


 その暗闇から回復したのは、そう時間を経てもいない時のことだったと思う。

 僕の耳元には、イヤホン越しに、変わらずその透明な歌声が響き続けていた。

 彼女は歌い続けていた。

 僕は耳を澄ませていた。


 僕はその歌詞ぼんやりと耳を澄ませながらに、一つのことに思い至っていた。

 そう、僕が十年前に思い浮かべていた景色は、きっと、本当には存在し得ない景色なのだな、ということにだ。


 そして、暫くの後に、僕はひとまず気を取り直して、もう完全に煮立っていた鍋の、電磁調理器のスイッチオフにしていた。









 どこまでも続いてゆく、悲しい景色、君と、笑っていた

 いつまでも傍にいるよ、夢の中で、君と笑っていた

                                 麻枝准 - 『恋心』

http://www.youtube.com/watch?v=De_svyVs8jI

2013-11-30

考察幻影ヲ駆ケル太陽 ケルブレムの正体と目的はなんだったのか

上記の事柄に関して、自分で頭を整理するために書きます


アニメ幻影ヲ駆ケル太陽」で主人公太陽あかり達を苦しめた敵「ケルブレム」。

しかし、彼に関してその正体や目的は明示されずにアニメは終わってしまった感じがしました。

そこで、彼の正体・目的に関して考察してみようと思います

ケルブレムの正体はなんだったのか

結論から書いてしまうと、太陽あかりの父親「高取肇」がダエモニア化したものと思われます

作中明言されていませんが、以下の会話・描写からそう考えられます


母親のひなたの墓に花を供えるのは、単純にあかりを油断させるためと言えばそれまでですが、

それならばわざわざ太陽象徴であるひまわりにする必要はないでしょう。


また、ただの敵としてケルブレムを見た場合最後太陽ひなたに微笑かけられるのは不自然です。

彼は娘のあかり精神的にも肉体的にも追いつめた敵のはずです。


以上のことから、ケルブレムの正体は高取肇がダエモニア化したものと思われます

ケルブレムの目的はなんだったのか

これに関しては正直考察する必要ない気がしてきましたが一応・・・


彼の目的は第13話のこのセリフがすべてでしょう。

「君が死ねば、ダエモニア繁栄の道がまた一歩ひらかれる」


ケルブレムの目的は「ダエモニアの繁栄」、そのために彼自身聖音・本田・花苗といった人間に接触し

ダエモニアの数を増やしていったのでしょう。


そして、その目的にそって「太陽あかりと交配する」という手段を実行したのだと思われます

なぜ太陽あかりと交配することがダエモニア繁栄につながるのか

これに関しては第13話でレグザリオが語った言葉考察の道しるべになると思っています

あかり君を依代にすれば、ダエモニアはただ分裂するだけの細胞から生命へと進化してしまう。

  テロメア呪縛から逃れようとは、あまりにも夢を見過ぎているとは思いませんか?」


上記のセリフレグザリオが真意を隠すためにラプラスに言った嘘でなければ、以下のようなことが考えられます


テロメアは知ってる方も多いと思いますが、細胞分裂の際にだんだんと擦り減っていく染色体構造物です。

テロメアがある程度短くなると、細胞は分裂できなくなります


ダエモニアは分裂して増えるが、ある程度分裂すると限界が来て死滅してしま・・・

これを防ぐためにケルブレムは「細胞から生命への進化」を目指していたのでしょう。


作中あれだけ人々にダエモニア感染させたケルブレムが、一度も自分の分裂体だけは作っていないのも

ここに起因すると思われます



なぜ太陽あかりと交配することで目的生命となれるのか

かつて、太陽ひなたと高取肇はお互い交わり、太陽あかりが生まれました。

しか太陽あかりはダエモニアの声が聞こえるという以外は、全く普通女の子でした。

ここからレグザリオの言っていた「ダエモニアと人は物質世界では交われない」という言葉を考えると、

逆に言えばクレシドラの中であれば精神的にもダエモニアのような人間、ケルブレムが目指した存在を作れることを言ってるように思えます


そのための依代太陽あかりだったのは、ダエモニアの血を含んでいるために交わり易いからか、

あるいは単純にあかりのような女の子趣味だったのでしょう。

元は高取であることを前提に考えると、ひなたと似ているあかりに執着するのも分かる気がします。



結論

まとめるとケルブレムの正体と目的は以下のようになると思います

正体:あかりの父親「高取肇」がダエモニア化した存在

目的:ダエモニアの繁栄

目的のための手段:あかりとクレシドラで交配し、ダエモニア精神性を持った人間生殖を繰り返し、死滅する恐れのない存在)を作り出す

最後

ついに幻影ヲ駆ケル太陽DVD/Blu-ray3巻が発売されましたね!

さらヴァイス・シュバルツではブースターパックが発売!

スターターデッキでは手に入らなかったるなとぎんかに会えるよ!

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