はてなキーワード: メダリストとは
このタイミングでオリンピックを開催するべきじゃないと発言していた人が、オリンピックで素晴らしいパフォーマンスを発揮したアスリートたちに賛辞を送ると途端に飛んでくる「手のひら返し」の揶揄。
Twitterでは #手のひら返し がトレンド入りしていたし、オリンピックを今開催すべきじゃないと言っていた蓮舫議員やモーニングショーの玉川徹氏、ミヤネ屋の宮根誠司氏に対しては個人のみならずWEBメディアさえもが手のひら返し叩きをしていた。
この、オリンピック開催に反対していた人にはオリンピックを楽しんだり、金メダリストにおめでとうという資格がないという根拠はどこから来るのか。
それは、手のひら返し叩きをしている人たちが、オリンピック反対派はどうしてオリンピックを今開催することに反対していたか?という文脈を一切無視していることが原因だろう。
オリンピック賛成派と反対派の利害は一見すると真正面から対立しているように見えて、実はお互いの利する部分と害する部分は一致していた。
つまり、オリンピックの開催によってもたらされる「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットと、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットは、賛成派・反対派 両者が共に抱えているメリット・デメリットであった。(コロナは存在しないから五輪を開催すべきとか、商業主義の五輪はそもそも開催すべきじゃないとか、そういった意見の人もいるとは思うが今回の趣旨に反するので今ここでは論じない)
オリンピック賛成派は、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットが、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットよりも上回ると考える。
オリンピック反対派は、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットより、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットが上回ると考える。
ここで重要なのは、オリンピック反対派も、オリンピックを開催することによって得られる「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリット自体は否定していない、それどころか肯定している、ということだ。
手のひら返し叩きをする人たちは、この「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットを否定した人間が選手を応援するなというロジックで手のひら返し叩きをしてくるが、そもそも反対派は「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットを否定してはいない。肯定している。プラスの要素として捉えている。この部分は賛成派も反対派も変わらない。
じゃあ何が違うのか。それはただ単に、オリンピック開催によってもたらされるプラスの要素とマイナスの要素を比較した場合、どっちが大きいか?という問いに対する考えの違いでしかない。
上記の思考の過程をきちんと認識しないで手のひら返し叩きをすると、賛成派・反対派にもたらされるメリット・デメリットに非対称性が生じてくる。
現在、オリンピック反対派の意見は聞き入れられず、オリンピックは開催された。そして、アスリートは素晴らしいパフォーマンスを発揮し、一方で五輪関係者から感染者が相次いだ。
「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットと「コロナの感染拡大リスク」というデメリット、どちらが上回っていると考えるかは人それぞれ違ってくるとは思うが、このプラスの要素とマイナスの要素が日本国民にもたらされた。
ここで考えてほしい。オリンピック賛成派は、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットと「コロナの感染拡大リスク」というデメリット、この2つを受け入れることができている。
対してオリンピック反対派はどうか。もしも、手のひら返しの主張にのっとり、オリンピック反対派は五輪を楽しむ資格がないとしたら。
オリンピック反対派は、「コロナの感染拡大リスク」というデメリットを背負わされているにも関わらず、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というメリットは受け取れない。
オリンピック賛成派は開催によって発生するメリット・デメリットどちらも受け入れる事ができるのに対して、オリンピック反対派は開催によって発生するデメリットだけを受け入れメリットは受け取れない、という非対称性が生じているのだ。
オリンピック反対派は、五輪開催前から「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」ことをプラスに評価し、「コロナの感染拡大リスク」をマイナスに評価した。オリンピック開催前も開催中も思いは一貫して変わっていない。五輪開催前から、「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」ことをプラスに評価していた人間がいま選手を応援するのはごく自然なことだし、応援しているからといって、感染が拡大する今このタイミングで開催する事に賛同しているわけではない。何の手も返していない。
本来なら賛成派・反対派 両者がマイナスの要素・プラスの要素どちらも受け取れるはずだが、手のひら返し叩きによって反対派はコストを払っているのにも関わらず、リターンが一切得られなくなる。
この理不尽な非対称性は税金で考えるともっとわかりやすい。 週刊ポストは、東京五輪の都民1人あたりの負担額は「10万3929円」と報じた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e89dbd2770e4a83754c843ad60520b39f95aa1ac
オリンピックは税金の無駄遣いだからやめたほうがいいと開催に反対する人も数多くいたが、彼らはオリンピックの「選手に活躍の場を与え、応援し感動する」というプラスの要素を否定したのではなく、「一人あたり10万円の税負担」というマイナスの要素が大きすぎることに対して不満を表明していただけだ。
しかし、手のひら返しの論理を当てはめると、税金の無駄遣いという理由でオリンピック開催を反対していた人たちも、オリンピックを楽しむ資格はないのだろう。一人10万円という金額を負担させられ、その人達のお金を利用することで開催が可能になったオリンピックに対して、「金メダルおめでとう」と言ったら手のひら返しと批判されるのは、あまりに理不尽ではないだろうか。
例えばこれがマンションの積立金の話だったらどうか。今までに入居者全員が毎月支払っていた積立金を使ってエレベーター設置するという話が出た場合、賛成派と反対派に意見が別れ、最終的に賛成派の意見が通ったとしよう。
仮にあなたが反対派だったとして考えてみてほしい。エレベーターは積立金を使用して設置するので、反対派の人たちが払ったお金も費やされている。そうして出来上がったエレベーターに、反対派のあなたが乗り込んだところ、賛成派の人に「設置に反対していたのだからエレベータを使う資格はない!今さら手のひらを返すな!」と言われたら。
反対を選択した人は、エレベーター設置反対の要望をはねのけられ、自分たちが払っていた積立金を使用され、結果できたエレベーターを使用することもできない。
個人の自由な表現や自己実現の手段の一つとしてスポーツが盛んで、その結果メダリストも多いと言う国と、下からの国民のスポーツ熱は弱いが政府が金メダリストの育成に熱心な結果としてメダリストが多い国と、どっちが望ましいかと言う話。もちろん後者でもいいじゃないかという価値観はあり得るが。
1)テレビ報道の「さあ、日本を応援しましょう!」という同調圧力的な雑音が全くなくなり、出場している選手たちを実力でフラットに見ることができ、純粋に競技に集中して観ることができる。それまで五輪報道自体に嫌気がさして見ないようにしていたが、日本がメダル圏外が大多数の陸上競技になってから、五輪が「面白い」と感じるようになった。
2)競技の伝え方も日本人選手中心ではなく、きちんと実力者や金メダリストに集中するようになる。日本が銅メダルでも獲得してしまうと、金・銀の選手やチームが全く無視されるようになる。事実、日本の五輪報道は戦った相手を取り上げて称える報道が(選手自信が語っているにも関わらず)あまりに少ない。例えば、国民的人気となったカーリング女子銅メダル時の優勝国を即答できる人、激戦の末敗れた相手の韓国チームの選手の名前を一人でも言える人はどれくらいいるだろうか。
3)これは自分だけの感覚かもしれないが、日本人選手が弱いと、「まあ日本は世界ではこんなレベルだよな」という安心感や謙虚さを得ることができる。実際、外交や経済の実力(および民主主義の成熟度や人権意識の低さなど)を考えれば、メダル数は分不相応に多すぎると思う。メダルラッシュは「日本スゴイ」の勘違いを生み出す。
4) とくにコロナの感染爆発が起こっている現在、日本人選手がメダルを獲得するとコロナ関連のニュースはそれだけ削られることになり、雰囲気としても自粛の呼びかけがますます実効性をもたなくなる。メダルを獲得するほど感染が拡大し医療が逼迫する可能性が高まる。
東京・下町育ちのウルフ・アロン 地元の五輪で金メダルに感涙<柔道・男子100キロ級>
柔道の男子100キロ級で、五輪初出場のウルフ・アロン(了徳寺大学職)が決勝で延長の末に、趙グハム(韓国)に大内刈りで一本勝ちし、金メダルを獲得した。今大会の日本男子勢では5個目の金メダルとなった。
【関連記事】柔道“3冠”のウルフ・アロン「歴史に名を刻めた」 男子100キロ級で日本勢21年ぶり金メダル
男子100キロ級で優勝し、金メダルを手にするウルフ・アロン=29日、日本武道館で
男子100キロ級で優勝し、金メダルを手にするウルフ・アロン=29日、日本武道館で
地元の五輪は格別だった。東京五輪の柔道男子100キロ級で29日、ウルフ・アロン選手(25)=了徳寺大職=が初優勝し、「子どものころから、ここ(日本武道館)でやってきて、東京五輪、ここで優勝できて感慨深い」と涙を浮かべた。
米国出身の父と日本人の母を持ち、東京の下町、葛飾区で生まれ育った。6歳から文京区の講道館・春日柔道クラブで競技を始める。幼い頃からルーツを意識したことはほとんどない。
明るく社交的な性格で「名前は全部カタカナで漢字が一字もない」「ウルフの名前は誰にでも1回で覚えてもらえるので得した気分」「父は英語教師でも、僕はほとんど英語を話せない」と冗談のように話す。
「米国国籍にした方が五輪に出やすいのかな」。大学1年の頃、結果が残せず、日本で通用しなければ米国代表を狙おうかと考えた時期があった。だが、「ここで逃げたら挫折になっちゃう。ずっと日本で柔道をやってきたし(伝統の)全日本選手権に出られなくなる」とすぐに打ち消した。
同時に日本人としての誇りもある。国内大会で優勝すると「外国人じゃん」と言われることがあった。その言葉に深く傷ついた。「日本で生まれ育って、僕としては日本人の気持ちが強い。そういうところはちょっと気になります」。高校2年の時、日の丸が付いた柔道着を初めて手にした日の喜びは忘れられない。
将来的には国内外で柔道の普及活動をするのが夢。父の故郷・米国での指導も選択肢の一つと思えるが、そうではないらしい。魚を包丁でさばき、料理が得意な金メダリストは「日本の方がご飯がおいしいから」と笑った。(森合正範)
hate_flag なにも意見を表明せず黙ってたら「そうか、君らアスリートは国民がどんだけ死んでも自分たちの競技と勝利と栄達だけが大事なんだな」って言われるよ。当然だろう。
take-it これで開催されて金メダルをとったとしても、血塗られた金メダルとしかいいようがない。史上最も汚い穢れたメダルだ。で、引退後も元メダリストとして活躍? 人の屍を踏みしめて、たいそうなこって。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.jprime.jp/articles/-/20776
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3359210
これ、いわゆる「少数の人間の馬鹿発言を、全体の責任にする」というに日本でよくみられる奴じゃないのか?
韓国勤務の知り合いに聞いたが、確かに当該の女性に対してアホみたいな言いがかりをつけている男性がいるのは事実らしい。
だが、別にその人間たちが強い立場にあるかというとそういうことはなく、むしろそれを批判する人間の方が圧倒的に多く、たいていの人は問題視してないと言ってた。
日本だと、「境野今日子や勝部元気氏らのような極端に思想が偏った一部のフェミ」がバカなことを言った時に、
いつのまにか「大勢のフェミがこんなバカげた主張をしている」ということになっており、
フェミ全体を叩くケースが増えている。
そりゃ境野今日子や勝部元気を標準にしたらフェミは滅ぼすしかない愚かな存在ということになるだろうが、
今回起きているのは男女逆転パターンではないだろうか。
韓国の男たちがみんな男女反転したの境野今日子や勝部元気氏のように偏った人間だとは到底思えない。
そういうことを言ってる人間がいないというわけじゃない。だが、あくまでも一部の人間がアホみたいな難癖をつけてるだけだ。
【7月30日 AFP】東京五輪で2個の金メダルを獲得した韓国女子アーチェリーの安山(アン・サン、An San)に対し、髪が短いことを理由にインターネット上で男性からの中傷が相次いでいる。29日には、女性からの応援メッセージが多数寄せられた。
男性らは、安の髪形はフェミニストの証しだと非難。安に対して謝罪やメダルの返上を要求する声までも上がっている。
韓国は世界12位の経済を誇る技術大国だが、社会は今も男性優位で、女性の権利面では後れを取っている。最近はフェミニズムに対する反発が高まり、「過激なフェミニズム」を推進しているとされる企業が男性らからボイコットを受け、謝罪する事態ともなっている。
メダルラッシュだぞ?柔道も卓球もスケートボードも楽しかったろ?
13歳の金メダリストだぞ?
もっと盛り上がって行こうぜ。
暗い話は忘れよう。
コロナなんてそのうち収まるよ。
みんなでもっと楽しもうぜ。
俺はワクチン接種終わったし。
あの記事すごく不思議だなと思うのは、「こんな時だけ(香川県の例を思い出してほしい)国や自治体に都合よく切り出されて使われる」という解釈までは「そんな意見もあるかな」と思えるくらい冷静なのに、そのあと「ビデオゲームファンとして全く許しがたい」ってめちゃくちゃ怒ってるところ。
普通、そこまで怒るってことは、自分の権利が侵されたり、約束を破られたり、直接被害があると思う。
だけど、筆者は実際はなんの被害も受けてない。言ってみれば、"たかがゲーム音楽ごとき"でここまで「許せない」とまで憤るのはすこし尋常じゃない。
じゃあなんでそんなに怒るの?と考えたとき、おそらく、この件で自分が軽視されたように感じてるんじゃないかなと思う。ゲームがバカにされる=自分がバカにされている、という感覚。
でも、その気持ちは切実なんだと思う。ゲームは、ときにとてもパーソナルな居場所になる。人生のどこにも居場所がなくても、ゲームだけは受け入れてくれた、という話はよく聞くし、もともとそういう性質がゲームにはある。
そこまでゲームに思い入れている、大事に思ってる人にとって、「これかければ盛り上がるでしょ」的なノリでゲーム音楽が使われたら居場所が奪われた感じでたしかに嫌だと思う。あの記事に共感するコメントが多くあるのも、そこの部分なのかなと。
でも、だと考えると、あの記事は「ゲームを大事にすることで自分も大事に扱ってほしい」以上の主張がないように思えてならない。
かといって、記事としてそれだけだとあまりにエゴすぎる(というか、その怒りの根っこに気付いてない)から、政治の問題にしてみたり、他のゲームファンにガッカリしたと言って他罰的になってみたり、少し無理筋の正当化をしてしまうのかなと。
個人的にはあのゲーム音楽は、ゲームファンには理解させつつ、そうじゃない人には単なる入場BGMに聞こえるなかなか優れたバランスで使われてたなと思いました(というひとつの視点)(その後の聖火リレーではボレロが流れた。ボレロとゲーム音楽が同格の扱いなっていた、という解釈もできる)。
あとゲームは筆者の想像以上にもっと広く浸透していて、柔道金メダルの高藤選手は「金メダリストにふさわしいゲーミングPCが欲しい。試合が終わったら思いっきりやりたい」とコメントしてたり、
https://news.yahoo.co.jp/articles/fc5725678c096a10b9d51590c4476c6e62cea923
スケボー金の堀米選手は「僕はメダルをポケモンのカビゴンにつけているんだけど、それにつけたいと思います」と言ってたり、あの会場にもゲーム音楽で喜んでいたオリンピック選手はたくさんいたと思う。ゲームはもうメインストリームのカルチャーだよ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1866dab753fd1bf82673757152112e390ab2fb6a