はてなキーワード: こんにちはとは
こんにちは。誰しもカラオケに勝手に入られたことがありますよね。ないですか?
そして入ってくるのは、ここまで読んで想像するであろう柄の悪い人とかペド野郎とかではなく、4人組くらいのおばはんおっさんです。
彼女達は勝手に入って僕たちのカラオケを中断させ、明らかに不審がっているにも関わらず一切所属も名前も名乗りもせずに、「君たち今日学校は休み?」と聞いてくる。
「休みだ」と答えると満足して帰っていくんですね。決まったセリフを答えないと出ていかないなんて何かの妖怪みたいですね。
「なんだ、悪い人じゃないじゃないか」と思ったかもしれませんが、僕もそう思ってあの頃は普通に「休みだ」と答えていました。
でも怖くないですか?なんのためにこんなことしているんでしょうか。
いや昼間からカラオケにいる中学生の学校は休みなのか。非行に走っていないのか。みたいな理由がありそうですが、だからなんだというのでしょうか。
そもそも県内の全ての中学校が休みの日でもないと昼間からカラオケなんて行かないんですよこっちは。
おばはんおっさん達は、「平日の昼間に集団で」「所属も名乗らず」「全ての中学校が休みだというリサーチもできず」「子供だけのカラオケルームに勝手に侵入し」「自分たちの望む答えが得られるまで帰ろうとせず」「威圧感を出していて」「どこの中学かも確認せずに休みだというだけで帰る」んですよ。怖すぎないですか?
平日の昼間から何をしているんでしょうか?仕事はないのでしょうか?そもそも子供がカラオケルームに入ることをどこから見ているのでしょうか?カラオケ店員から聞き出せるのでしょうか?怖ッ。
1回くらいその場で通報してやればよかった。
僕は防犯のために中学生の時に既に携帯を持たされていたので、使い所はここだったんでしょうね。
これに遭遇したという仲間に出会えず、いまだにあのおばはんおっさん達が何者だったのかわからずいます。僕は東北出身なのですが、地域限定のものなのでしょうか?もし仲間がいらっしゃったら教えて欲しいです。
なんの保証もない大人がそれも集団で子供だけのカラオケルームに入れるなんて怖すぎますね。これは僕も今大人になってやっと「おかしいだろ。通報してやればよかった」と思うようになったので、当時だったらなんか威圧感に負けて他のこと言われても言うこと聞いてたかもしれません。なんにせよさっさと辞めさせた方がいいですね。
身なりはとてもきれいで、小旅行みたいな大荷物。下着類の入った透明のポリ袋を持ってたのだけがちょっと変わった感じだった。
こんにちは、と声をかけてみたら、こんにちは、と返してくれたけど、なんだか不安げにおろおろしている。
どうかされましたか? ときいたら「家に帰ろうと思うのに、わからなくなってしまいました」とはっきりした口調で言って、泣き出してしまった。
詳しく聞いたら、ちかくに団地があって、確かにそこに住んでるんだけど、何棟の何号か全然わからない、どうしても思い出せないと言う。
心細くてしかたないんだろう、それだけ言うととにかくしくしく泣くので、わあ、どうしようと思って、とっさに「大丈夫ですよ、おうちは絶対わかりますよ。おうちがわかるまで一緒にいますからね、必ず送っていきますからね」と言って、ちょっとだけハグした。(同性だからいいかなと思って)
振り返るとなんとも無責任な発言だけど。(特におうちは絶対わかるのところ)
それで、おかばんの中見せていただいてもいいですか、と持ちかけると、「ええ、たいしたものは入ってないのでどうぞ」と、やっぱりはっきりした口調で許可してくれたので見させてもらったら、いろいろとパンパンに入ってる中、通所介護の利用料請求書が出てきて、そこにご自宅の住所の記載があった。
ご本人が言うとおりの団地だったから、玄関先まで送り届けられた。
ご自宅まで、手をつないでゆっくり歩いていった。
途中、寒いのにすみません、大丈夫ですか? と、不安で泣きながらも私を気遣ってくれた。
「厚着してるから寒くないです。〇〇さんは大丈夫ですか?」ときくと、私は大丈夫ですと答えてくれた。
部屋の前についてみたら、玄関は施錠もしてなかった。
もう迷子になって不安で泣かなくてもいいように、どうにかうまいこと行ってくれたらいいなと切に願う。
請求書の明細に「おやつ代」の文字をみたとき、ドアの内側に「あぶないので外に出ないでください」と書いた貼り紙がしてあるのを見たとき、どうしてかわからないけど、ただただとてもやるせなくなり、涙がこぼれそうになった。
帰るべき家を見失って泣く。
未来の私の両親であり、私自身であるような気もして、今もとてもやるせない。
同時に、とても丁寧な言葉遣いをされて、自分が不安でつらいときなのに、こちらにあたたかな気遣いもしてくださる、礼儀正しい人格の人だった。
うまく言えないけど、だからこそやるせない。
それから、大病でも認知症でも、それを患っている人のことを、私はそこだけをクローズアップして見てしまってるんだなと気づいて、そういう自分も嫌になった。
これに関するクレーム出した方は遠回しに店員に死ねと言っているのでしょうか。
去年は客から貰って熱が41度まで上がりましたね。予防接種してです。
死にそうだったわクソ。
重症なのと薬が効きにくい体質が合わさって毎年花粉の時期は鼻たれクソ野郎かましてますよ。
マスクって確かに表情分からんし、声こもるし、本当に無愛想なやつもいるだろうし、言ってる事の理解はできるよ。理解は。
でもね、お客さんだってイヤホンしたままで、話しかけても無反応で返事もしないじゃんね。
こういうのってさ、店員とお客さんお互い様なんじゃないのかな。
あなた達はこの仕事しないから分からないかもしれないけど、一般企業がお休みの時期にお店をあけるための人員が感染症でぶっ倒れて店あけられないなんてことになったら…なんて考えたこと、ある?
マスクをしているから感染症にかかる人が出ないって訳では無いけど、かかってしまう確率は下がるよね。
お店があいてなくてもどうせ文句言うんだから、お店を安心してあけるためにもそのくらい許してくれよ。
という、愚痴。
んだね。
「こんにちは」は「こんにち(今日)はいいお天気ですね」とかそういうのの短縮だし、「こんばんは」も文字通り「今晩はいい月夜ですね」とかだもんね。
夜に「今日はいい日だね」って言うのはもう終わりかけの日に対して言うにはちょっと難しいから?
フランス語は「Bonjour」は「Bon(よい)」「Jour(日)」で、Bonsourは「Bon(よい)」「Sour(夜)」だよね。
タイ語のサワディーは人と会った時の挨拶の他に人と別れるときにも使われるらしく、語源は「Sawat(善、平安、繁栄、幸福、安楽)」「dii「良い」」とのことなので、人と会ったときにその時間の事象については言及しない国には、時間による挨拶の使い分けがないのかもね。
「おはよう」「こんばんは」みたいな、時間によって変わる挨拶は多くの言語にあるようだ。
例えばフランス語やイタリア語などは朝と昼の挨拶は同じだけど、夜のはちゃんとある。
ヒンディー語はナマステで全部行けるようだが、こんばんはとかに当たる挨拶も別でちゃんとあるそうだ。
しかし例えばタイ語・ウイグル語・サモア語には時間で変わる挨拶は無いようだ。
この違いは何だろう。
「こんにちは」1つだけの方が楽じゃない?と思うのは安直すぎるだろうか。
例えば「今日の仕事は終わりですよ」という意味で夜の挨拶が使われてたとか?
人工言語のエスペラントにも朝昼晩の挨拶が存在するが、これは何か積極的理由があって加えられた?
まあ全部ただの偶然かもしれないけど、言語によってどういう成り立ちで言葉が生まれた・生まれなかったという理由をあれこれ調べたり考えたりするのはちょっと面白いかも知れない。
こんにちは、和子です。
もうすっかり冬になりましたね。
外はとっても寒いです。
ところで、昨年の今頃でしたでしょうか
夜散歩をしていると
その銭湯を見た途端、入湯していました。
見た途端入湯するやつがあるか、という感じでしょうか。みなさまにしてみれば...。
そのくらいの気概で入湯した、ということです。
で、お風呂はというと、これがわりと小綺麗で、サウナ、水風呂、露天風呂、さらには炭酸泉!まであったのです。
ちょっとした豪華なのです。
サウナ → 水風呂 → 外気浴 を3ループこなすことを決意し、即決行です。
と、こなし、さあこれがフィナーレだ!とばかりに意気込んで、露天風呂へと歩を進めた、そのときでした
私は床に落ちていた石鹸を踏んづけて、大開脚したまま宙にポーンっ!と飛んでしまったのです!
踏んだ石鹸はスーッ!っと滑り、前方にいた女性もそれを踏みポーンっ!
そのまま二人はドスーン!
と床に叩きつけられましたが、前方への力が働いていますから、お互いの体はスーッ!っと一気に近づき
ガシーン!!
股と股が合わさってしまったのです。
ひょんなこともあるものです。
松子さんと夜仲良くしてるときには、あのときのことを思い出して懐かしいね、などと話したりしています。
近くにお越しの際は、ぜひお寄りください。
和子
こんにちは。通りすがりの日本語警察です。増田さんじゃなくて済みません。
まず【――めく】は「接尾語」と言って、他の言葉(主に名詞)のあとについて動詞を作る言葉です。意味は「~のような状態になる」。よって
「春めく/夏めく」=春らしい/夏らしい状態になる
という意味です。「きらめく」も、本来「綺羅(きら)」というのは外国から渡ってきたキラキラする布のことですから、
「ときめく」は少し難しく、昔は、対象が「時機を得ている様子(絶頂期にある)」ことを意味する「時めく」だったのですが、時代が下がると「(そういう対象を見る側の気持ちが)どきどきする」ことを意味する言葉になりました。「○○さんはとてもときめいています(いまが絶頂期でとてもきらびやかな様子です)」が、「○○さんはときめきます」になり「○○さんってときめく!(見てるとどきどきする)」になるわけですね。こういう例は古文などを読んでいると時々あります。有名な例で言えば「情けない」など(本来は対象に「人情がない様子」を表す形容詞だったのですが、時代が下がると「(人情のない対象を見る側の気持ちが)つらい」ことを意味する語になりました。)。
ですから、これもまた上と同じく、元々は接尾語「――めく」から生まれた言葉なので、質問のお答えとしては「同じ」でOKです。
ちなみに、これを書くために調べていて、江戸時代には「めく」だけで「いかにもそれっぽく見える」という動詞の用法もあったことを知りました。「あいつは『めかない』なァ(頑張ってもそれっぽくならないなあ)」みたいな使い方だそうです。面白いですね。
めくるめくのってのもめくったような状態になるってことなんだろうか。とおもってぐぐってみたけど目がくらむとか書いてあってなんか俺の知ってるめくるめくとちがってた。めくるめくってなんだよ警察教えてくれ (https://b.hatena.ne.jp/entry/4678900173722597602/comment/watarux)
質問がありましたので追記します。「めくるめく」は「目がくらむ+めく」で生まれた語というのは、歴史的にはほぼ確実です。このため、現在も「目がくらむような」以上の説明をしている辞書はほとんどありません。では、ブクマさんの「俺の知ってるのと違う」という感覚はおかしいのでしょうか? …いえ、そう簡単には解決したくありません。なぜなら、私にもブクマさんと同じ違和感があるからです。現在の「めくるめく」は、本義の「めまいがする」意味で用いられることはほとんどなく、主として転義である肯定的な意味で用いられているように思います。
では、いつごろからこうなったのでしょうか。
参考になるのは、大辞林(1988)の「(転じて)強い刺激を言うこともある」という説明です。その用例をみると、「めくるめくような日々」とあり、どうやら比喩的に用いられることで「強い刺激」の意味が生まれてきたことが推察されます。
では、そのルーツは? 調べてみると、「めくるめく」が比喩的に用いられて今日見られるような意味を持ち始めたのは、現代日本語がその形を成し始めた大正期の詩の世界からのようです。たとえば次の用例に見える「めくるめく」の語の印象は、現代のそれにかなり近いように感じます。
その豊饒な、杯から溢れ出すほどの過剰な美は、ことにその紅色の花にあって彼の心をひきつけた。そのめくるめくばかりの重い香は彼には最初の接吻の甘美を思い起こさせるものであった。(「田園の憂鬱」佐藤春夫、大正7(新字新仮名に改めた))
このように詩の世界で用いられた比喩的用法が、その後徐々に一般化して、今日見られる形に近づいてきたた、ということではないでしょうか。
…と、ここまで書いてまた興味深いのは、「――めく」自体が本来は「~のような」という意味であったという事実です。つまり、今日の「めくるめく」の意味を生んだ「めくるめくばかりの」という用例は「~のようであるような状態」という意味になり、「重複」ですね。語の破格な用法がその意味を拡張することの一例と言えるかもしれません。
こんにちは、生まれも育ちも新潟県民です。上越市出身で、ここ数年は新潟市に住んでいます。
新潟県に観光に来てくださった方々や、移住してきた方々は、口を揃えて「こんなに良いものがたくさんあるなんて知らなかった。もっと上手に全国へPRした方がいい」と言ってくださいます。ありがたいことであるとともに、住んでいる人間としても課題意識は持っていたいところです。
という綺麗事は口では言えるのですが、実際に住んでいると、自分たちはその「良いもの」を美味しく楽しく最大限に享受しておりまして、ぶっちゃけほとんど課題意識というものが湧き上がってきません。外から来た人たちと中にいる人たちにギャップがあるのです。
これは一体どういうことだろう、と考えてみたところ、現状を成立させうる力学についての仮説が自分の中に生まれたので、ちょっとメモしてみます。
解決策の提案ではなく、なんとなく見えている世の中の姿(もしかしたら妄想も含む)を元に現状の追認をするだけの記事なので、あんまり生産的ではなさそうです。
県外の方々が仰るとおり、新潟には良いものがたくさんあります。
パッと思いつくだけでもこれだけありました(新潟市に寄ってるので、他の地域を見れば)。私はラーメンも枝豆もビールも大好きなので、天国です。ありがとう新潟。愛してる新潟。
県民が県内で美味しさや楽しさを地産地消できています。おそらく、ここに問題の切り口があります。
文化や産業が、良くも悪くも県内の人々の間で完結してしまっているように感じられるのです。どうしてこうなったのでしょうか。
私は、「人の動き」と「地理的条件」の2点に原因があるのではないかという仮説を立てました。
今でこそ首都圏への人材流出が問題になっていますが、明治期の新潟県は国内でも有数の人口が多い都道府県でした。次の記事が詳しいです。
「稲作を中心とした第一次産業」という分野において、越後平野、柏崎平野、高田平野の3つの広大な平野を擁する新潟県は、地理的な強みを持っています。上記の記事にもあるとおり、この強みと海運の拠点になったことから、新潟県は賑わいました。
人がたくさんいるということは、多様な文化が生まれます。この頃の賑わいによって、新潟県には豊かな文化を育む土壌が生まれたのではないかと思われます。
さて、単に豊かな文化を持つだけであれば、それを元に隣県と交流していくうちに評判が広がっていったのでしょう。
しかし、残念なことに、新潟県は全方位を海と山に囲まれており、あまりカジュアルに隣県と交流することができません。
海運が盛んだったうちは問題なかったのかもしれませんが、時代の移り変わりで陸運が中心になっていく中で、新潟県が外部と交流する機会は少なくなっていったのでしょう。そりゃあ田中角栄先生も山をぶち抜いて県外への道を切り開こうとするわけです。
そんなわけで、
という、現在まで繋がる新潟県の姿が形成されていったのではないかと思われます。
その結果、文化を地産地消する力学が、とても強く働いたのではないでしょうか。
旨い食べ物が作れたら、他所に持っていくのも大変なので自分たちで食べればいいのです。幸い、喜びを分かち合う隣人はたくさんいます。
良い道具が作れたら、他所に売るのは商人に任せて、自分たちは隣人たちと切磋琢磨すればよいのです。わざわざ山を越えてくる職人も少ないので、狭い街の中でひたすらお互いを高め合うことになったのでしょう。
隣県や都会まで行ってイベントに参加するのは遠すぎて大変なので、自分たちでやろうとしたのでしょう。
こうして、県民が県内で美味しさや楽しさを地産地消する新潟県が、生まれたのではないでしょうか。
わからん……もう俺たちの魂には文化の地産地消が刻み込まれてしまって、PRするというのがどういうことなのかわからなくなってしまった……
地理条件的にふらっと通り道に寄ってもらうことも難しいので、「新潟に行きたい」というモチベを持ってくれた人しか来ないんだろうなと思うと、やっぱり先にPRするしかないんだろうなというのはわかるんじゃが……
なんかもう、俺たち新潟県民が新潟を楽しんでいる姿をガンガン発信していったほうが、いっそ上手く回るんじゃないか。
ちょっと締まらないけど、これだけは言える。新潟県を一番楽しんでいるのは、新潟県民だ。だからみんなも、気が向いたら、楽しみに来てくれ。旅行でも移住でもいい。楽しみに来てくれ。頼むぞ!
こんにちは、あなたの感想を読んで、嬉しくて泣いてしまいました。書いてくれてありがとう。
私に見える範囲ではin the skyは人をたくさん傷つけて苦しめたドラマでしかなくて、私は2018年版が好きでitsは観ていないけれど、好きだった作品の続編がそれで終わってしまうことが悲しかった。そうではなかったこと、itsが誰かを救えるような、作ってくれて良かったと思ってもらえるような作品になってくれたことが本当に嬉しい。
以下、2018年版のファンとしての現状についての言い訳です。
itsが2018年版のファン (の一部) から不当に批判されているのは、元からの民度がアレなのもあるけれど、公式がほぼ炎上商法まがいなことをしてきたという背景があるので、そのことも少しだけ知ってもらえたら嬉しい。もちろんitsを楽しんでいるだけの人には関係ないことだし「だから何?」と思われても仕方ないので暇な方以外は読まなくていいです。
放送時期も発表の仕方もSNS運用も、前作ファンが新シーズンを受け入れやすくなるような移行の仕方が他にたくさんあったのに、公式はことさらに2018年版のファンのヘイトを集めるようなやり方をしてきた。せめて放送が半年後だったら、劇場版の上映が終わってからの発表だったら、春田と牧の最後の写真の投稿から1日だけでも空けてくれていたら、と何度思ったか分からない。
その上で2018年版を人質にとるようにして広報を続けている。受け入れられない人がitsは見ないようにして放っておこうと思っても、公式のSNSアカウントはits関連の写真を投稿しながら劇場版の円盤情報を出したりするし、its発表前にチケットを販売していたコンサートイベントの内容にどのシーズンまでが含まれるかを明言しない。
声高に批判している人たちの何倍もの人数が陰で悲しんで苦しんで、そうした中で始まったのがitsだった。
もちろん公式が何をしようが作品それ自体に罪はないし、表でアンチ発言を繰り返したり打ち切り署名をしたりする人たちのことは擁護できない。
あと葛藤や苦悩が描かれていないから同性愛を描く作品として駄目みたいな批判がおかしいのは本当にそれはそうとしか言えないな……。あなたの目に入ってしまったことを心苦しく思います。
itsは私は今は観られないけれど、心の整理がついたら観てみようかなと思いました。