はてなキーワード: SNS疲れとは
ツイッターアカウントを4つ持ってる病気レベルの人間だけど、1か月くらい全部お休みしてる。
それぞれ趣味ごと、用途(ニュース見たりきれいな画像みたり)ごとにアカウント分けてる。
最近は話題を追いかけるのがおっくうになってしまったし、疲れてるときに見たくないような画像が流れてくるのがつらくてお休み中。
LINEってさ、未読既読が分かって、人と人との距離が近すぎて息苦しいな、その点ツイッターは(自分は)在宅中パソコンでしかやらないし、人に話しかけたいときに話しかければいいしどうでもいいことつぶやいてもかまわないから気が楽だなあ~ なんて思ってたけど、ここまで負担になるとは思わなかった。
まあ、ちょっとツイートするとすぐDM送ってくる人が居たりするのも大きい理由だけど。
職場でも同僚との雑談が苦痛になってきて、逃げるように人目につかないところでお昼をとってるし、断れる飲み会は極力断ってる。人と会話する自信がない。
友達も少ないし。
たわいない話を気軽にできるのって、インターネットの向こうの皆さんだけだったんだなあって思った。
SNS疲れっていうか、ツイッター疲れというか使い方下手なだけなんだけど。ていう自己嫌悪の感想吐き出し。
舞台とか映画とか本読んでても、これ終わったらツイッターにこうやって感想書こう〜って最中に考えちゃうんだよね。ここのこれがよかったって頭の中でツイッターの下書きしてる。本読んでる時なんか読み終わってないのに読み終わった時感想書いてたりする。
これって作品に集中してないってことじゃん。
別に誰かに頼まれたわけでも、みんなが待ってるわけでもないのに作品に集中せずツイッターのこと考えてる自分なんなんだろ…と思う。依存してるってか、承認欲求?いいねが欲しいのか。同じような感想あげてる人見ると、いいね!よりも悔しい私も同じこと思ったのにっていう嫉妬心が勝ってしまう。
現実で満たされないものをツイッターで満たされようとして結局満たされないみたいな感じか。寂しいな。ツイッター向いてない、とか思ったけどそもそもツイッター向いてるってなんだよ。ツイッターは独り言ラジオでしょ。好きなこと呟くツールで共感をもらいたくてやるものではない。でも一度いいねもらうともっと欲しい!もっと私を認めて!って乞食にになるんだよなあ。やっぱ向いてないかな。
ツイッターのアカウント消して舞台観に行ったら集中して観れた気がするんだ。だったらずっと消しとけって話をだよね。でもさーたまにツイッター見返すと、私の場合フォロワーとかに嫌われたくないあまりに無難な呟きとか楽しそうななことしかあんまり呟いてないんだけど、日記みたいで自分の生きた証が残ってるから楽しい。でも呟くことに人生囚われてるのは疲れる。
生まれた時からSNSがある人はあまりSNSで病まないらしいね。私は昭和生まれなのでSNSで病む。でもうまく付き合ってる人もいるから個人の問題なんだよな。
まずは方針を見出すところから。なんとなく作ってはみたものの書き方がわからない。どうすればよろしいのだろうか。
方針を見出す方針を固めていこう。まずは自由に書いていいと思う。おそらく長い文章を書くことに慣れていないように思える。とりあえず何でもいいから書く。そして何かしらのテーマにまとまってきたらそれを意識してひとつの一貫した文章を書いてみる。実はこの作業自体もそう。
次にはてな匿名ブログの条件について考えたい。SNS疲れみたいなものがあるが、あれは今日の代表的なSNSが出てくる前から顕在化し、現在ではSNSを中心とはしているがSNSの外部にも十分広がっている状況がある。それは非匿名性である。資本とか権力とか関係なくその力は広がっている(1)。インターネット上での行動があらゆる現実の動員力をもつにつれ、国家や資本はその力を無視できなくなってきた。まず国家はその内部を可視化、あるいはいつでも可視化できるような環境を整備した。その後インターネットの外部に立つだけでなく、内部の強固な主体として力を広げていく。そしてその内部の可視化と相まって人々へのコントロールを可能にしていく。
次に資本はどうだろう?資本も結果としては国家と同様の状況となったが、その経路は少々違うように思える。資本はより早くネット上の主体となり、その可視化はそれに遅れてきた。しかしこの可視化は近年様々な障壁にぶつかっており、今後どうなるかわからない。
さて、ここで着目すべきところは個が可視化されたことでも個がコントロールされるようになったことでもない。インターネットで「個」が現れたことである。正確に言えば空間が無限に分解できる多層構造(2)において一貫した「個」という線が登場し始めたことである。これに至った要因は主に2つあるように思える。まずひとつは「個」が参入しやすいメディアが増えていったことである。例えば個人ブログ、これは初めて個が特別な技術がなくとも時間を超えて発言を蓄積できる仕組みであった。この際に「この発言は〜」から「このブログは〜」や「この主は〜」というような表現が出てきたように思える。
次に責任システムの登場である。インターネット上での「祭り」や「炎上」では「責任」という概念が非常に強く機能している。「責任」とはある事象、現象がある個人の行為や思考に原因を求める考え方である。この「責任」をインターネット上で課せられた個人は稀に見る身分となる。つまり「責任」を負った個人以外が人格を消失するのである。この現象は前近代社会における神や儀式的象徴において起きた構図と似ている。唯一違うのは格を持つものが神や対象ではなく、それを取り囲む「群衆」と同様の性質を持った人間であることである。この「責任」のシステムがインターネット利用者の個を促進した一因になったのである。
ところでこの2点目を考えてみると面白い。なぜなら「責任」を課せられた「個」がいることによって「群衆」の匿名性が保たれていたことである。スタジアム型(それともスペクタクル型というべきだろうか)の構図は「群衆」が「群衆」自身を参照して行為を反復することもあるがここに「群衆」の行為の対象である「個」が用意される必要もあったということがわかる。そして「群衆」は自ずと「個」へとなりたがっていくのである。
さて、かなり話が戻ってしまうがはてな匿名ダイアリーの利用目的についてまとめようこのような「個」が渦巻く中で「群衆」であり、一方でここでキーボードを叩き、その結果をモニターで観測する「個」をもつためには「群衆」に強制されない自己参照的な「個」が必要であった。そのとき「群衆」には「個」を認識されず、主体自身にとっては「個」であるような仕組みを持っているはてな匿名ダイアリーが適していると考えたのであった。
(1)こういう主体無き動員力はなんとなく好き
(2)これを「時間」という
twitterもfacebookもlineもインスタもやってない
アカウントすら持ってない
なくても生活するうえで全く困らないんだが、みんな一体SNSでなにをやっているの?
まじで教えて欲しい
さすがに最近LINEは連絡手段としてあったほうがよいかもとは思い始めてきたけど、いまのところSlackで不自由ない。
こういうとSNSやってない俺カッコイイとか思ってるんだろプゲラとか言われがちなんだけど、
多分2ちゃんネイティブでSNSができたとき移行できなかった勢って結構いると思うんだがそのうちのひとり。
あいかわらず5ちゃんはやってるし、ネットもぐだぐだ徘徊するし、ツイッターくらいは見ることはある。
なんというか、閉鎖空間が好きで開かれた空間がこわいという感じはある。
SNS疲れとかよく聞くけど、疲れる以前に怖くて使えないんだが。
有名どころのSNSのIDは一通り持っているけど、正直上手く使い分けができていない。インスタとかは他のSNSとの連携機能が充実してて、一回投稿すれば他のSNSにも同じ内容が投稿できるけど、たとえばFBとインスタで同じ人とつながってて、両方に同じ内容の投稿をされると、結局2ケ所で同じモノを見ることになるわけで、それなら片方だけでつながっていれば十分な気がする。
自分としてはTumblrとインスタは公開モードでいろんな人に見てほしくて、FBはある程度自分のことを知っている人限定で見てほしい。Twitterも現状アカウントに鍵をかけているので相互フォローの人にしか見えない状況だけど、結構趣味の合いそうな人は面識なくてもかなりフォローしちゃっているので不特定多数に公開しているのとあまり違わない気がする。単に多少過激なこととか愚痴とか書きたいときに、見せる範囲を限定しておくと炎上対策になるかなという程度。
まぁ内容やら友達によって、スルーされまくりの時とか、義理で「イイネ!」してくれてると思う時とかいろいろあって、SNSごときにいろいろ気を遣ったり努力してもしょうがないのかなと思うこともある。たまにせっかく別々のサービスなんだから投稿する内容変えなきゃ…と頑張ってみることもあるけど、まぁそんなに彩りのある生活をしているわけではないので、一つの場所に写真を撮りに行ったら、サービスごとに違う写真を投稿してみるとか、その程度の差の付け方しかできない。
自由業とかで自己PRのための営業ツールとしていろんなSNSにIDを持っている人は同じIDで同じ内容でもあっちゃこっちゃに投稿して誰とでもつながれるようにしとくのがいいんだろうなと思うけど、普通のサラリーマンやOLがそこまでやる必要があるのか疑問だ。私は気分が盛り上がるとやたら頻繁に投稿したり、長文書いたりしがちなんだけど、そんなに面白いことを書けるわけではないので、むしろ自主規制して少なめにする方が良いのかなと思っている。
時々毎週のようにどこかにお出かけして美しい写真を投稿してくる人とかもいるけど、あまり頻度が高いと「はいはい、また出かけたの。キレイだね。」と義務のように「イイネ!」を押すこともある。インスタとかもあまりにも投稿頻度が高いとちょっとめんどくさい。これがいわゆるSNS疲れというやつだろうか。たぶん疲れたらあまり見ないようにするのが一番なんだろうけど、何となく人さまの投稿をチェックしておかないと落ち着かない。こういうのをやっていると読書をしなくなるし、他にもいろいろなエンタメ鑑賞をしなくなって貴重な時間を浪費している気がする。でもすっぱり全部SNSの類を止めるのも怖いんだよな。あまり負担にならないほどほどの付き合い方はどのくらいなのか考えたい。
年に1、2回程度会う知人。
アクティブにSNSを使ってる人なんだけど、TwitterでRTしたネタ画像をわざわざ保存してFacebookとInstagramに投稿してるのがなんかすっごく違和感がある。
本人は別に自分で撮影しましたとうそぶく気もなくて「みんなにオモシロをシェアするぜ!」って無邪気な感じなんだけど、画像保存したらアウトな気がしてて。
悪意なく引用元がロンダリングされてしまっているというか、なんというか。
ただ自分もSNSでリプライにネタ画像を使うこともあるから同じことだよなとは思ったり。ただ、いまバズってるネタ画像と、ある種定番の三国志の一コマだったら違うんじゃないか、いや盗用という部分では同じかなとか悩んだり。
仲のいい友人なら「ネタ画像ロンダリング良くないよー」って気軽に言えるんだけど、おもしろい人ではないけど悪い人でもないし、微妙な関係性だし、付き合い的にフォロー外せないし、Instagramはミュート機能ないし、現時点ではなんで良くないのか自分でも根拠がよくわかってないから話が伝わらなさそうだし、だけど自分の中ではこれアウトなんじゃない?って違和感がずっと拭えなくて。
そうしてる間に知人は「チーフがパンティの雑誌画像」とか「紅葉が卍、超絶見ごろなうのコラニュース画像」とかをわざわざTwitterから画像保存してせっせとInstagram/Facebookに投稿してる。無邪気に。
この間Twitterをやめた。かれこれ4年くらいはやっていたがやめることにした。
(とは言えTwitterでしか連絡が取れない人もいるかもしれないので、アカウント自体は残してある)
Tweetもふぁぼも全部消した。
自分の日常やらニュースの感想やらを書くにはちょうど良かったし、旬の話題をキャッチするのにも具合が良かった。
普段会えない知人がどうしてるのかわかるのも便利だった。
しかし、次第に疲れて来た。いわゆる「SNS疲れ」なんだろうか?
それほど親しくもないけどフォローを切ったりミュートするのも憚られる程度の微妙な知人が増え、彼ら彼女らのどうでも良い日常が流れてくるのに飽きて来た。
エキセントリックな政治的主張や、不快な、あるいは少し調べればわかる程度のフェイクニュースや美談がRTで流れて来るのにもうんざりして来た。
だんだんとフォローを減らしていったけど、結局耐えられなくなってやめることにした。
遡ればInstagramもやめてしまった。出先で見たちょっと面白いものや風景をポストするのは楽しかったし、検索して同じ趣味の人の写真を見るのも面白かった。
でもこれも疲れてしまった。別にキラキラしたポストをし続けるのに義務感を感じたわけではなくて、やはりどうでもいい情報の流れを処理し続けることに疲れたんだと思う。
Facebookも早めに離脱した。知り合いじゃありませんか?を押し付けて来るのも気持ち悪かったし、そうして繋がった人たちの美しく漂白された日常を見せられるのにも飽きた。2ちゃんねるが便所の落書きなら、Facebookはピカピカに磨かれたトイレだ。清潔で悪臭もしない、空虚な空間で空虚な日常を排泄するトイレ。
TVも全く見なくなって一年以上が経つ。何年もニュースくらいしか見ないくらい視聴時間は減っていたのだけど、完全にゼロになってしまった。これも不快な情報、興味の無い情報を流し込まれて来るのを処理するのに疲れたんだと思う。
Tumblrもやめた。ネットで見かけた興味深い話や、きれいな写真をクリッピングしておくのは楽しかったが、面倒になってきた。
では今は何をしているかと言うと、好きなゲームのMastodonに入っている。気が向いた時だけ同じ趣味の人と話すのは気が楽だし、お互いにプライベートはほとんど口にしないし、興味も持たない。
あとは本を読んでいる。青空文庫で古い小説を読むのに凝っている。
さて、ここまで長々と書いてきたのは、最後に増田もやめようと思ったからだ。色々とこじらせてる人たちが議論してるのを見物するのも面白かったが、同じ話題がループしてて食傷気味になってきた。妙な選民意識も鼻につくしね。
少し前からオタクアカウントのほうに、同人やめました系の記事がいくつかRTされてくる。
当方オタク歴はそれなりに長く、どちらかといえば一人で考察と妄想を繰り返しのめり込む内向き型。キャラに対してキャーキャー言ったり、流行のネットスラングを羅列するような交流は苦手なので、RTされてきた記事を読んで、うんうんそこは昔のほうがよかったよね、と思うこともある。
近頃はまったジャンルにて、私はようやく同人活動やイベントの醍醐味みたいなものが分かってきて、今とても楽しい。
過去色々なジャンルにはまったものの、今まではネット上で見たり書いたり、昔からのオタク友達に話を聞いてもらうくらいで満足していた。
twitterで交流しよう、オンリーに行ってみよう、自分でも本作ってみようか、というところまで手を出すほどになった作品はこれが初めてだ。
なんでなのか?ちょっと振り返り5点。
ハマるのと同時期くらいに生活環境が変わり、時間に余裕ができた。これが一番大きいかも。元々面倒くさがりなので、寸暇を惜しんでまではきっとここまでやってない。忙殺されて余暇がほとんどなかった時期にハマっていた別ジャンルは、それはそれで生きる支えになったものだが、交流や創作にかけられる時間は少なく、落書きで欲求を消化するのみだった。
学生時代はサイトにこもってたので、オフ活動にもっと早く興味持ってたら違ってたかも。
ハマったのは息が長くファンの多い作品で、ファンの年齢も傾向も幅広い。キャラ萌えしてる人からひたすら原作の考察する人まで色々。流行のピークは過ぎて久しく、今や大手さんの解釈が公式扱いされているような風潮は薄いし、個々の解釈も否定されにくい気がする。が、これは体感なので単に私が鈍感なだけかも。
もちろん作品自体の素晴らしさが第一にある。それに加えてこの界隈の自由な雰囲気がいいなと思う。
そういう雰囲気に浸かってると、同士さんたちの詳しい活動や語りを追いたいという欲求がわいてくる。
そこで主にtwitterを利用するわけだけど、様々なファンがいるのと自身が万人ウケするタイプではないので、交流する際には特別注意をはらう。元々アカウントを取ったのは同士さんアカの鑑賞兼独り言用だぞ、それが第一だぞと常に言い聞かせる。それを曲げて交流しまくれば承認欲求が加速して本来やりたい創作や考察ができなくなる。だからいくらいいねやRTがほしいと思っても決めた期間以外鍵は開けないし、フォローフォロワーの関係には気持ち悪いぐらい用心する。最近のやめました系記事にもSNS疲れがよく言及されてるし、対人関係が原因で作品を好きでいられなくなるみたいな本末転倒な事態は絶対に避けたいので、慎重すぎるくらい慎重に。
結構経ったがまだそれなりに守れている…と思うし、この前提があるからこそ色々割り切ることができているんだと思う。
具体的な自分ルールもまとめてたんだけど、すごい長くなってしまったのでカット。
で、いろんな自分ルールを遵守しつつ厳選したTLは、自分と波長の合う人たちと情報アカ程度で構成され、とても穏やか。交流相手を絞ることで私のような面倒くさがりでも続けることができ、時々リプをし合ったり、タグ系の遊びを一緒にやったりしてくれる存在ができた。そしてその信頼できる方々のご好意により、イベントやオフ会に足を運ぶきっかけをいただいた。
年齢層が幅広いためか、息が長いからか、他と比べ空気がゆったりしているように感じた。(といってもこれまで全ジャンル合わせて片手で数えるほどしか参加したことがないんだけど)
一番安心したのが、エロの公開度が低いこと。前にハマっていたジャンルもそれなりの規模・年数で、以前オールジャンルの際にそのエリアに立ち寄ってみたのだが、カッコイイ男性キャラがたいへん色っぽい感じになってる大きいポスターがたくさん並んでいていたたまれず、なんかもう本を買うどころではなかった。エロは全く、BLもほとんど嗜まない者なので、あの空間は耐えられなかった…
今回もそんなだったらどうしよう、とドキドキしながら参加してみたところ、主流はBLでR指定ものも多数あるが、過激な掲示はさほど目に付かなかったので安心した。男女CPやコメディ傾向の作品もそれなりにあり、買い物も楽しめた。サークルの皆さんは、うろうろと挙動不審な私にもよかったら見ていってください、とやさしく声をかけてくれた。またネットで見知っていた方や、既刊を拝読させていただいた方に感想を伝えたり、少しお話をしたりもできた。作家さんとのお話ってこんな普通にできるんだ、これが話に聞くイベントの醍醐味か…!!と感動してしまった。(今まで買い物の会話以外交わしたことがなかった)見れば他にも立ち話をしている人たちは結構いる。このジャンルではいわゆる古き良き(?)即売会の姿が面影を残しているのかもしれない。いやしらんけど。
そしてイベントでこんなに居心地がよかったのは初めてで自分でも驚いている。今まで一般だと落ち着ける場所がなくて何となく居づらかったのだが、今回はそういうこともなく。また行きたいと思った。
自身の二次創作は、基本的に自己満足だ。いいねやブクマなどはもちろんうれしいが、それを得るためだけの創作はしないのだと心に決めている。なので本をつくりたい!となったのも最初は「皆さんの本素敵だな。私もここまでのめり込んだ作品は初めてだから、記念に自分なりの解釈をこういう形にしてみたいな」というのがきっかけだった。
どこへ出す予定もなく書き始めたのだが、少しその話をした際に思いがけず、ほしい、見てみたいというお声をいただいた。
ものすごいエネルギーを与えられた気分だった。この自己満足の塊を、まさか楽しみにしてくれている人がいるなんて!
さらに、4のイベントでお話させていただいた方にも「本は出されないんですか」とお言葉をいただいた。嬉しすぎた。本を作るというのは大変な作業で、もし本当に一人きりで進めていたら、延び延びになって結局頓挫、みたいなことになりかねないなと思った。ここまでに散々他人に主体をおかない的なことを書いておきながらなんだけど、それでもやっぱり、こういう身に余る挑戦をするときには、3で得た信じられる人の言葉の力を少しお借りしてもいいかな、と思った。
自己分析のつもりが途中から感想文みたいになってしまった。分けて書こうかとも思ったけど、その良い思い出とかもひっくるめて要因だし、まあいいや。
今のジャンルじゃなくても、これまでもこういう体験ができる機会はあったのかもしれない。
でもこの引きこもりで、心配性で、人見知りな私をここまで連れ出してくれたのは、いろんなタイミングの重なり、そして魅力的な作品と素敵なファンの皆様だろうと思う。
だいぶ前はてブ等で長年同人をやられてた方がTwitterをはじめとしたSNSに疲れ同人を卒業したり距離を置いたり…という記事を何個か見ました。
自分も同人ではないのですが、2.5次元界隈でTwitterがしんどくなり、専用アカ消したりしたなあ…ということを思い出しました。
何がしんどくなったのか最初に箇条書きすると、
①色々な人と繋がり、共通のフォロワーさんが増えたことにより、Aというフォロー外だけど苦手な人が出来た。フォローされないようブロックで自衛していたが、Aがアカウントを変えたタイミングでフォローされ、無視してたら、ほんのりフォロバを促すようなリプが来てしまった。(これが大きな理由)
②2.5次元や2次元界隈でよく見られるゆるふあアイコンに拒絶反応
③金銭感覚の違い
とかですかね…。
これらは未成年の若いフォロワーさんに多かったように思えます。
自分はアニメや漫画といった作品に対しての熱は冷めにくいのですが、俳優や声優さん、アーティストさんといった人に対しての熱は元々熱しやすく冷めやすいタイプでした。ところが、あるきっかけでとある俳優さんのことが気になりだし、気づけばめちゃくちゃブロマイド買っていたり、自分の人生史上最大の沼に陥ったのです。こんなにハマった人始めてだしこんなハマり方したのも始めてだったのです。
そこで調子に乗った私は自分以外にもこの俳優さんのことが好きな人と知り合いになりたい!現場で出合い厨とかしてみてぇー!と思って勢い余ってよくある繋がりたいタグでたくさんの方々と繋がりました。(といってもフォローは2桁でしたけどね!ちゃんと自分で見極めてフォローしたはずなんだけどね!)
最初はとても楽しかったです。毎日幸せハッピーって感じでした。推しに囲まれた生活最高ー!ってなりました。
でもこの頃から自分の性格上②みたいなアイコンの人はあまりフォローしなかったしプロフもゆるふあ〜な感じの人はブロックしてたかな。
(ていうかぶっちゃけた話、ああいうゆるふあアイコンってどこが良いんですかね…はっきり言って痛いしダサいしセンスない。本当にコラージュ上手くなりたいならそこらへんのアプリじゃなくてフォトショ使えば?写真の切り抜きとか透過とかスマホアプリよりフォトショやGIMPのようなパソコンのソフトのほうが優秀だと思うんですけどね。小さい画面で操作するのイライラしません?成人してもあんなのやってる人とかみると大丈夫?て思ってしまう…)
ところが、自分がフォローをしている人達が段々と相互フォローで繋がっていき、⑥のように身内のノリみたいな変な馴れ合いが増えてきた頃から、少しずつ、居心地が悪くなっていきました。
元々「構ってちゃんタグ」とか「私のこと好きな人ふぁぼ」とかいうの好きじゃありませんでした。この頃からリプをURL引用したりする人とか出始めて、「なんで@でリプしないの?面倒臭すぎない?あんたと私の知らない人との会話とか興味ないし他所でやってくれ」って思ったり。あと内容のない薄っぺらいリプ合戦とかね。素で「〇〇好きあいちてる❤️」「私もやで❤️」みたいなリプ送りあってる人達よりも、「うんこ黙れ」みたいなリプ送りあってる人達の方が絆が強い気がします。(あくまでも個人の見解です)
また、③で前述した通り、どの界隈にもいると思うのですが、お金をたくさん使うのにお金にだらしない方はあまり良い印象を抱きません。
別に現場全通したりグッズをたくさん集める人全員嫌いという訳ではありません。が、現場行き過ぎたせいで、次のイベント代のお金を親から借りたりするのはどうなの…って思いました。このような発言をしている相互さんを見かけてかなり引きましたしそこからこの人のこと好きじゃなくなりました。趣味のお金は自分のお金で遣り繰りしろよな。
④も2次元、2.5次元界隈ではあるあるではないのでしょうか。イベントってたいがい東京なんですよね。時々関西も少しあって、たまに福岡や名古屋とか。アニメイベントだとほぼ首都圏ですね。当たり前ですけど、東京に住んでいる方はイベントに行きやすいですよね。
それに対し地方に住んでいる人は、チケット代以外にも交通費や宿泊費もかかって、イベントが終わる時間が曖昧だとドギマギしますよね。イベ終わりどうしよう、新幹線や飛行機乗れるかな、いや一泊しようかな、夜行バス間に合うかな、最終じゃないと無理かな。とか。財布との戦いでもありますよね。公式よりも交通機関のほうにたくさん貢いでる…?!と気づいて絶望したり。TL見てるとイベントに行きまくる関東組とお留守番の地方組とで闇を感じたりしました。
…え?関東に引っ越せばいいじゃんかよって?それが出来たら悩まねえよ!!東京家賃高すぎ!!いや家賃だけじゃなくていろんなもん高すぎ!!
このような事からだんだんTLを追わなくなっていき、裏垢に引きこもりがちになりました。
そしてある日、私は推しの動画付きツイートをRTしたのですが、そのツイート主こそが前述したAでした。
私がリツイートした後「RTありがとうございました、もし良ければ相互になりませんか?」という内容のリプが来たのです。突然のことにびっくりした私は、そのままスルーしたのですが、②のようなゆるふあアイコン、そしてその人のツイートの雰囲気が苦手で無理で…。
共通のフォロワーさんが多かったのでいつかフォローされないように先に自分からブロックしました。
そして、数日後、Aがアカウントを移行した時にフォローされてしまいました。どうやらリプから察するに、少し前から私の事が気になっていたみたいです。フォローされた時はうわ、しまった…と大きなショックを受けたのを覚えています。プロフィール欄も詳しく書かれていなかったため、フォロー返すのやめよう、無視しよう、気づいていないフリをしようと思ったのです。実際それで昔自分が苦手なタイプの人からフォローきても何人かやり過ごしてたし。
ところがそのまた数日後にAから「すみません!!!!フォローさせて頂いたのですけど!!!」みたいな内容のリプが来てもう恐怖しかありませんでした。ツイート一字一句覚えてませんけど!が異常に多かったのを覚えています。
今思えば普通にブロックしちゃえば良かったのにと思うのですが、その頃の私は共通のフォロワーさんにAをブロックしたことをAに言いふらされでもしたら面倒なことになりそう…と変な考えを起こし、フォロバ後速攻ミュートしました。
これあるあるだと思いませんか。共通のフォロワー多すぎる苦手な人にフォローされてブロックしづらいの。
え、ないって?それはすまん。
色んなことが重なって重なって、もう大好きだったこのアカウントやTLが嫌になって、フォローしてる人も嫌になって、気づけばこの俳優さんを好きな気持ちも少し薄れていることに気がつきました。今までと同じポテンシャルでその方を応援できなくなってしまって、すごく残念な気持ちになりました。そしてフォローしてる一部の人に失礼な言動をして傷つけてしまった…。もうこれは本当に申し訳ないと思っているし、人間疲れが重なると言動が酷くなるんだなって痛感しました。
自分と同じ俳優さんが好きな人と繋がって想いを共有したいと思ったのに繋がった人が嫌いになってその俳優さんへの熱も薄れるなんて本末転倒じゃねえか!!くそ!!なんかとても悔しい。なんでこんなことで好きなものが離れちゃうんだろう。
その後私と同じような悩みを抱えていた付き合いの長いフォロワーさんと傷の舐め合いをしたり、やばいそれウケるめっちゃネタに出来るじゃんと励まされたり(?)したのは良い思い出。
この一連の流れから私が学んだことは、
・Twitterで誰かをフォローする時はとにかく慎重に!石橋を叩きすぎることはない!
・なるべく年が近い人をフォローする!
・共通のフォロワーが増えすぎるのは危険、複数人とのリプは楽しいがその分リスクを背負うことになる
……てところですかね。
結局今でもTwitterで長い付き合いがあるのは2.5次元にハマる前に繋がった2次元界隈の人ばかりです。
皆様も、TwitterやSNSで少しでも疲れたなと思う時は早めに手を打たないと大変なことになりますのでお気をつけ下さい。
ちなみに⑤は、嫌になった方のフォローを整理して大丈夫な方だけ相互を続けていたらこんな感じの状態になってた。相互フォローの関係がいつの間にかなくなって、片方がアカウントを変えて悪口言ってた。これもあるあるじゃなかろうか…
あっちなみにAに前垢ブロックしてたのバレてたみたいです。もう最近のツイッタラー怖い。
※こいつ誰が好きだったんだろうみたいな詮索は呉々もお控え下さいませ。
高校を卒業した2006年、大学へ進学した友人の招待でmixiの会員になった俺は、
予備校から帰宅すると、彼らの楽しそうなキャンパスライフが語られた日記を読んでいた。
何か月か前まで、時にはオナニーした日まで報告し合う、常に一緒だった馬鹿な友人たちとの仲も、
こうして立場が変わり、歳を重ねるごとに疎遠になってしまうのだろうか
という漠然とした不安を払拭してくれた、画期的なツールだったように思う。
そして、SNSの主流はFacebookやInstagramに変わった。
会って接する時と違う一面を文章で見せられたり、
招待されて仲の良い友人たちと、こそこそネット上でつながったりすることが
楽しかったのだと思う。
FacebookやInstagramのようなSNSの存在を否定するつもりはないが、
・こそこそ感
これなんじゃないかと思う。
今見てきた、63人いる俺のマイミクの中で1日以内にアクセスしていたマイミクは2人だった。
ミクシィは、モンスターストライクが柱で株価も昔より良いから、
オワコンなmixiなんて放置しとくかってことかもしれないし、63人中61人が非アクティブという、
こんなものを取り入れたら、また、画期的なmixiが復活するのではないだろうか。
新システム移行のため、mixiへの関心がないユーザーを排除。
招待制を復活させると共に、3,4人といった複数人から招待されないと会員になれないシステムを導入。
これによって、知人ではなく、「仲の良い人とだけつながるSNS」というスタンスを構築。
mixiでも他のSNSでも、友人の更新のお知らせをタイムラインで確認できてしまう、
この便利さを、最大3人までの「とびきり仲の良い人枠」に制限。
基本は、「その人の近況を知りたいならお前が自分で見に行けよ」というスタイルで、あえて不便にする。
こうすることで、自分にとって興味のある人とのつながりを促進。
必ずしも興味のあるという想いが双方で確立しているとは限らないので、
SNSで問題になっている、そこまで仲良いわけじゃないんだけど、もしくは、会社の上司で
仕方なく友人として登録してしまったがために、発言や写真に気を使うことも増え、
“お互い”が登録当初は1か月、3か月、6か月…最長1年という具合で無アクセスの場合、運営側のシステムでマイミク関係を自動解消。
結果、仲の良い友人だけと、こそこそとしたつながりを実現。
またSNSかよ、もういいよ、と思うかもしれない。
でもこのmnmm(minimum)というサービスには、いいねもなければお気に入りも無い。
シェアも無い、リツイートも無い。通知も無い。 広告も無い。自分のプロフィールを書く欄すら無い。
140字で呟けるのと、他のユーザーをフォローするだけ。まぁそこはTwitterがベースなんだろう。
これは結構、本来の人間のコミュニケーションに近い形なんじゃないかなあと思う。
要は、その人のことを思い出したら近況を見に行くし、気になったらちょっとした会話もする。
でも、そうでなければ特に何も目に入らない。
いわゆる「SNS疲れ」に自覚してきて、それでも何事かは空中に放り投げておきたいのだという人たちが少なからずいると思う。
中には上手くTwitterのサブアカウントを使い分けたり、こうやって増田したりする人もいるんだろう。
そういう選択肢の一つとして、このmnmmはありなんじゃないかと思った。
(ただし、マネタイズの仕組みは完全に謎で、思想を持ったパトロンがついているのか、あるいは全くの採算度外視か。そういう意味では、どっと人が増えるというよりは、じわっと広がっていって欲しいサービスではある)
例えば緩い繋がりって宣伝された(ような記憶がある)Twitterも5年6年それ以上続けてるとそれなりの人間関係が出来上がってくるし、更新もされるもので、去っていくフォロワーや新しくフォロワーになる連中もいる。テレサ・テンじゃないけども、何年もそういう時の流れに身をまかせていたわけだね。
所詮ネットだし顔も見えないコミュニケーションだから大したことはないのはわかっちゃいるのだね、とはいえそこでなんというか、数年単位で付き合いがあるフォロワーっているわけだ、例えばお互いのいらない物の交換をしていたり、何ならよく食事する仲だったり、そういう地続きの友人と微妙に垣根の曖昧な仲ってのが出来てくる。そういうフォロワーをある日から見なくなって、アレ、Twitterやめたのかな。と思うと知らないうちにブロックされてるってことがあるじゃない。そうすると何が逆鱗に触れたのか全ッ然わからないっていう疑問が出てくるのね。面と向かってケンカして気に食わねえってなった幼少期からの友人などは人生で何人かいるし、これを読んでいる人にも多かれ少なかれいるでしょう。Twitterでちょっとした一言に噛み付いてきたのを煽り合いになってブロックされた経験のある人も中にはいるんじゃないかしら、少なくとも私はそれなりにある。
で、そういう原因のわかることなら良いのだね、納得がいく。問題は突如ブロックされてることに気がついたときだね、当たり障りない会話しかしていないとか、割と食事や遊ぶことがあるような関係までは発展した仲の人にあるかもしれない。言い換えたらネット外の姿を知っているから気味の悪さを覚えるのかもしれないね。
それで、話題を最初の方に戻すのだけれど、疲れてしまうわけだね、”所詮ネットだし顔も見えないコミュニケーションだから大したことはないのはわかっちゃいる”だけに、顔を見知った仲になっていたり、会話が少々お互いの人生に突っ込んだ内容まで話すような仲になっていたりするとさすがにたかがネット経由じゃないかとは笑えない気持ちにもなるね。
ここまでTwitterでの話題に限って来たけれど、それってのは私の主な活動場所がTwitterだからであって、例えばFacebookではどうなのかはわからない。登録してあって友達も過去の同級生だとか、仕事先の人だとかなのでロビー活動用と割りきって使っている節があるだけに余計にだね。個人的にはFacebookに書く方が気が楽というときはあるんだね。
じゃあTwitterやめれば良いじゃないかという御意見はたいへんごもっともなのだけど、なんせ数名からブロックされた程度で辞めるほど手狭にもやっていないし、この人とは仲良いと思ってたけど残念だなあと感じた数日後には新しい誰かがフォローしてくるような状況なので、ここまで書いといてなんだけど疲れは取れてしまうものなんだね。そういう、人間そのものを消費している感覚というのがあるのだけれど、あまり健全ではないかな。