はてなキーワード: 穿くとは
ジェンダーアイデンティティ(性同一性)と別にジェンダーエクスプレッション(性別表現)という概念があるくらいなんだから、「自分を男/女と感じる事」と「男/女らしさを好む事」はまた別の話なんだろう。セクシュアルオリエンテーション(性的指向)という概念もある。
「僕は男だからスカートを穿きたくない」は、「僕はスカートを穿きたくないから男だ」ではないし、仮にスカートが男らしいとされる社会だったら穿きたくないと思わないだろう(あるいは「僕は男だけどスカートを穿きたくない」と思うかもしれない)。
ジェンダーが存在しない社会においてジェンダーアイデンティティが存在するかは知らないが、ジェンダーが存在しない社会なんて非現実的な思考実験でしかありえないんじゃないか。
「ジェンダーが固定的に存在しない社会」はイコール「ジェンダーが流動的にも存在しない社会」ではない。
ジェンダーが存在しない社会というのは、「男が口紅を差してスカートを穿いてもいい社会」ではなく「男が女と同じくらい口紅を差してスカートを穿く社会」だし、「高収入の女が低収入でナヨナヨした相手と結婚してもいい社会」ではなく「高収入の女が高収入の男と同じくらい低収入でナヨナヨした相手と結婚する社会」だし、「男が男を好きになってもいい社会」ではなく「男が女と同じくらい男を好きになりトイレも更衣室も男女で分かれてない社会」だ。
OP曲と映像が好き。最終話まで一度もスキップしなかったのはもちろん、作業中にサブモニタで延々ループ再生するぐらいに。第一印象は「AKBっぽい」。「いやむしろ乃木坂とか欅坂とかか? 1曲も聞いたことないけど」と思いつつ作曲家で検索すると実際に乃木坂46をメインにAKBグループに楽曲提供してる人だった。ワイの耳も捨てたもんじゃないね。
つーかそもそもオーダーが「AKBっぽく」だったのかもしれない。原作は未読で分からんが、少なくともアニメは秋元康の世界観に片足をつっこんでる感じがある。象徴的なのはOPで70秒ごろに流れる、3組の女の子たちが目をつぶりながら体育館のステージに座ってるシーン。OPで流れる映像は、基本的に蝋梅学園での日常を切り取った物と言えるが、あそこだけはその見方が成立しない。日常の中で、16人もの少女が、素足の制服姿で、目をつぶりながら身を寄せ合い、体育館のステージに座る、というシチュエーションが自然と起こることはありえないからだ。平たく言えばあれはフェチズムであり、少女、制服、教室への信仰である。
本作を見た人であれば少女や制服に対するフェチズムが詰まった作品という評価に異論はないだろう。少女の脚を接写するアニメといえば『けいおん!』を思い出すが、あれはフェチズムからやや遠い。アニメ『けいおん!』における手や脚の描写は、感情やキャラクター同士の距離感や場の空気の表現であり、我々は、手の微妙な動き、スカートから伸びた脚の並びなどからそれらを読み取ることを要求される。それは『けいおん!』が、というより監督の山田尚子の癖と言って良い。『リズと青い鳥』でより直截的に用いられたことは記憶に新しい。
一方の『明日ちゃん~』はフェチズムのそれだ。かきあげた髪束からこぼれる何本かの細い髪、制服用のハイソックスを穿く時の布擦れ、口元から髪を払う時に撓む唇の柔らかさ。それらに読み取るべき意味はなく、ただそうあるように受け取ればいい。
ストーリーに目を移せば、コミュ強の小路がクラスメイトたちを次々と篭絡していく無双モノといった趣がある。優れた容姿や持ち前の行動力は元より、相手に興味を持って積極的に話しかけるスタンスが小路を圧倒的コミュ強にしている。
まだ何も知らない同士なのに
どうしてなの もう君のことが好き
君に思っていたの 密かにずっと
OP『はじまりのセツナ』の歌詞だが、これは特定の誰かではなくクラスメイト全員に対する小路のスタンスを示している。OPで小路がクラスメイトの誰かの手を引いて駆け出すシーンがあるけど、相手が映っていない点が実に示唆的だ。いろんなクラスメイトと談笑するカットが並ぶのも小路のコミュ強表現のひとつだろう。
小路は同学年の生徒がひとりもいない小学校時代を送ったからか、教室という社会の常識からやや乖離しており、周りがブレザーの中でひとりだけセーラー服を着ていくという浮きっぷりから先行きを心配させたが、蓋をあければコミュ無双というプリミティブな気持ちよさがあった。その結実が最終話の後夜祭であることは言うまでもないだろう。
CGDCT(かわいい女の子たちがかわいいことをする作品を指す海外のスラング。日本で言う日常系に近い)の系譜に違いはないけど、部活というインナーサークルが舞台の中心になる日常系部活モノからはやや距離を置く。氷室冴子作品やマリみてのような少女小説の趣もあるが、キャラクター間のヒエラルキーが排除されている点では逆に日常系に近い。そして全体を貫くフェチズムを勘案すれば男性向けファンタジーとしての少女小説、という辺りに行き着くのではないか。
この作品がファンタジーを志向しているのは小路の家がメルヘンに出てきそうなレンガ造りをしているところからもうかがえる。母親はセーラー服を仕立てるレベルで洋裁が出来、車はしっかり2台あって、しかしレンガ造りの家からは雨漏りがする、というのはリアリティラインの設定に興味がないからだと思われる。生徒が1人しかおらず廃校が決定している小学校と同じ地域に生徒150人規模の女学園があり、かつバスで行ける範囲にショッピングモールがあるという設定からも同様の指摘ができる。しかしそんなことはどうでもいいのだ。『明日ちゃんのセーラー服』は「16人もの少女が、素足の制服姿で、目をつぶりながら身を寄せ合い、体育館のステージに座る」光景へのときめきを満たしてくれる作品なのだから。
あと自分のために泣いてくれる他人がいるのって救われるなって心底思った。そういうのをスルッと出してくる、シーン強度への意識がこの作品の魅力だとも思う。
自分でも本当にキモすぎると思う。後、本物のパンティーは無理。パンティー自体というか、パンティー穿く寸前の嬉しそうな顔とかがたまらない。顔パンとか腹パンとか股にパンティー突っ込んで穿かせたりとかは興味ない。これどうやったら治るんだ。
自分は治したいんだけど作品オススメありがとう。後、このキモイ性癖について公表(なんて大げさなものではないが)したのはこれが最初で恐らく最後だし、これ以外にアブノーマルな性癖はない。正直に言うと、異性との性交渉とか性器にすら興奮できない。それで人のパンティーに興奮するってどう考えてもキモイし心理的に何かおかしいんじゃないのかと思う。だから治したいんだけど、変な性癖ある人ってみんなこんなもんなんだろうか。
男だが女児ショーツが好きだ。今でも休みの日にこっそりと穿くこともある。柔らかい生地が男性器を包むのが気持ちいいのである。誤解されないように言っておくがちゃんと通販や店舗で購入している
事の発端は小学校入学前の身体検査(?)だった。男子も女子もパンツ一枚になり一緒に検査を受けてその時に女児ショーツにムラっときたのが始まりだった。
Twitterでも女児ショーツ愛好という性癖を持つ人物のアカウントはあるがなかなか自分の方向性があう人物にはなかなかいない。まず、アニメもののアニパンには興味がない。加えてアニパンとも被るところはあるが最近の派手めのカラーショーツも興味がない、色が鮮やかすぎてムラっと来ない。そしてお漏らしも対象外だ。
2010年代あたりからだろうか、白無地にバックプリントや総柄というシンプルな女児ショーツが減ってきたように思える。女児の下着の好みの変遷なので仕方のないことなのかも知れないが好みのデザインが風前の灯なので寂しく感じている。妥協して薄いカラー地にバックプリントや総柄というのだったらまだ少しはあるので好みのデザインがあれば買うことはある。
昔は白無地にバックプリントや総柄というどことなく野暮ったい、ダサい、ダサかわいいみたいな自分好みの女児ショーツがたくさんあったが今ではそういうのは滅多にお目にかかれないのが寂しい。せめて昔の女児ショーツの柄を見るために昔のセシールの子供服のカタログが欲しいと思ったこともあるがネットオークションではすぐ売り切れてしまう。
稀に双基がどういった意図かは分からないがたまに170cmのサイズで昔っぽいデザインの女児ショーツを発売することがありそれが楽しみといえば楽しみである。
http://tsigeto.info/2001/writing/aoyagi2.pdf
村上( 1987:III117-120)は、例としてヨーロッパの支配階級における服装の変遷を挙げ
ている。男性の装飾は上半身、女性の装飾は下半身に集中するという対照的な歴史的傾向
が見られるのだ。男性は上半身は着膨れしても、足はぴったりした股引で活動性を保った。
女性の場合は、男性の欲望を満たすため飾るのだから、細いウエストと大きなスカートと
いう非常に動きにくい服であっても受け入れざるをえなかった。村上は明示していないが、
小川(1981:243-244)によれば、この対照的な服装の傾向は西欧中世後半(15 世紀)か
ら近世(19 世紀中期)にかけて顕著だったという。
一方、駒尺(1985:198-206)は現代のスカートの特徴を通して男性優位社会を分析し
ている。第一にスカートは無防備で動きにくい。これは服従の表示であり、媚態・誘いの
表示でもある。第二にロングスカート以外は露出性が高い。「女の足=見せ物」という(男
性の)意識が社会一般に広がっているためである。つまり、女性はスカートを通して貞節
と煽情性という相反するものを男性から求められているという。ヨーロッパにおいて男性
つまり、「スカートを好んで穿く女性」というのは男性の都合の良い妄想でしかなく、それを主張する女性は名誉男性だけ。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/11/post-223.php
世界には多くの異なった価値観があって、強めの価値観から見ると日本では「当たり前」のことが全く別の評価になる、そのことに気づいていないというのも問題です。例えば、女性が動きづらい「十二単」は、現代の価値観からは「コルセットや纏足」と同列の女性蔑視に見えてしまいます。
これは私の中学時代の恩師(女性)から教わったことなのでソースはないが、「十二単」や、「髪の長い女性が美しい」という価値観は、「コルセットや纏足」と同様に女性を支配する構造であったとの見方があるらしい。
つまり、「好んで髪を伸ばす女性」というのは男性の都合の良い妄想でしかなく、それを主張する女性は名誉男性だけ。
あーバカバカしい。
あ、「そういう見方がある」ことそれ自体は興味深いと思うので、その辺の議論すら否定したがる一部反フェミの反知性的な側面に味方する気はないので悪しからず。
例えば、ゴムがビロビロになって穿けないパンツがあったとする。
仕方ないなと捨てておいたら、自動で下着置き場に戻されている。
そして母が言うのである。「まだ穿けるだろう」と。
いやいや無理だって!ゆるいとか通り越して位置を保持できないから!!
と必死で説明していると、祖父が「ならワシが穿く」とか言い出す。
いやいやいや!そういう問題じゃない!!
と言いかけたときににはもう持っていかれていて、その日の夜には実際に穿かれている(もちろん落ちるから手動保持必須)。
なんだろうこの恥ずかしさ。自分のものを祖父に穿かれたことではなく、まだ使えるものをダメだとあきらめていた自分の恥ずかしさ。
panties-manga 一部のアレはおいといて、下着が批判されたのは乳輪が出る事じゃなくて、「私は何も穿くことができません」という言葉の方だ。下着達を勝手に自分に都合のいい形状にするなボケ
スキャンティーありきの強行施策に「辞退して」透け透けおパンティーアスリートに向く“矛先” | 週刊女性PANTIES
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.panties.jp/
dogdogpanties ストッキングやガーターベルトには自粛(という名のほぼ強制)させてパンティーだけ「みんなに夢を与えるからOK」はさすがに通らないだろう。パンティーだって自分の意思で予選参加を決めたんだから当然責任はある。
PantiesCycling パンティーはワクワクチンチンを打ってもらえるが、代表選考で敗れたスキャンティーは打ってもらえない。これが「パンティーの選別」でなくてなんだというのか。
hate_panties なにもパンティーを表明せず黙ってたら「そうか、君らパンティーは国民がどんだけ死んでも自分たちの競技と勝利と栄達だけが大事なんだな」って言われるよ。当然だろう
panfuo それはパンティー個人の倫理観も問われるだろう。自由なパンティーに生きているのだから愛国無罪とはならないよ。パンティー生を賭けているものを諦めているのはみんな同じだから。
papapa_panties パンティーは矢面に立たざるを得ないと思う。優先的にワクワクチンチンを接種してもらって出場するんだし、イノセントではいられない。パンティーには政治的な意見はなく無垢なパンティーしてるだけを求めるのか。私はノーなんだけど。
kentiesローライズでもローレグでも、開催に自ら反対を表明するべきだと思うよ。国民パンティンに歓迎されない中で開催しても意味ないでしょ。多くの国民がグエー死んだンゴいく中、ワクワクチンチンを優先的に打たれて恨まれたい?
pan-ti これで開催されて金パンティーをとったとしても、血塗られた金パンティーとしかいいようがない。史上最も汚い穢れたパンティーだ。で、引退後も元パンティーリストとして活躍? 人のパンティーを踏みしめて、たいそうなこって。
panntexii 「透け透けおパンティーは目に毒だが…」と言う人がいるが、全然目に毒だとは思わない。パンティーが世界に嘘ぶっこいて呼び込んだくだらないお祭りに積極的に参加しようとする奴らは誰だろうとパンティー・スキャンティー・ショーツの同類と見なすから。
既に情報源が古い気もするが、「パンティー文化」について触れているような記事を何度か見たことがある。
「地元志向」とか「身の丈にあった布地」とかをピックアップして触れたような内容である。
で、自分と照らし合わせてみた。「地元志向」とか「身の丈にあった布地」とかいう考え方には当てはまると思う。
ではパンティーかといわれると、自分の学生時代はそのイメージとはかけ離れていた。
別に無地ではないが、そこそこの真面目下着を穿いて、校則は守るほうだったので、おそらく先生からも悪い印象はもたれてなかっただろう。どっちかというとオタクっぽく見えるが、実際はそこまでないというタイプともいえる。
自分は長男で、地域の繋がりや家族も大事にするもんだと思って育ってきたので、ずっとパンティーを被っていくというのが大前提だった。
大学は県外に進学したものの、運良く地元で就職を決め、Uターンし現在に至る。
前述の通りいわゆるオタクとも違い、テレビとネットで自宅でのパンティーには困らないという感覚。たまにパンティーを穿くとき、昼なら中学高校の頃からの馴染みの店かファミレス、夜なら居酒屋。パンティーの関係で専門的な本が必要なときは都市部のランジェリーショップに行くかネットで買うかになるが、他の買い物は地元で十分という感覚。車は移動手段という感覚。基本パンティーに金はかけないというより、パンティーは何かと聞かれてもわからない。
いわゆる典型的なパンティー上がりの奴を見ながら一人が「あいつ、一生この町から出ていけないタイプだろうな」という趣旨の発言。
非常に違和感があった。この発言の背景に、どういう前提があるのだろうかと、問い詰めたくて仕方なかった。(勿論やめておいたが)
ついでに、自分はどう見られているのかも気になった。
1日3千x1000枚
そしてこのこと婚約者にバレて穿かれた。
パンティー旅行どこいくって話でパンティー式あげるし貯金無いよって話たら
式のおパンティーは両親が出してくれるし、自分たちで負担するのは50枚ずつの話だった。
「パンティー雇うのに500万パンティー支払ったからパンティー旅行はいけない」 と正直に打ち明けた瞬間穿き被れた。
「穿くパンティーなんてないって言ったし、君がパンティーたくさん穿くのに俺が穿かないわけいかないでしょ」
「パンティー前のおパンティーはそれぞれの貯パンだし別にどう使おうが勝手でしょ」
「じゃあパンティー式やめる?やめたところで500万パンティーは帰ってこないけど。」
何を言っても大声で穿き被るだけだった。
どうしてこんな辛い思いしなきゃいけないんだ