はてなキーワード: 忠誠心とは
http://anond.hatelabo.jp/20121121194852
個別の質問には答えないけど、いくつか代表的な意見に関して補足を。
「色々あって内科医やめる、つうか生保うざい」とでもしたほうが正確だろうね。
どうあれ、これまで俺が感じてきたモヤモヤの多くにからむのが生保患者問題であり、辞めるにあたっても最後に背中を押したのは間違いない。
これでどうかな。http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3652048.jpg.html
テキスト類は職場じゃなく家に転がってたやつだから、ちょっと古いね。
まあ別に謝る必要ないです。ていうかこっちがすまんね。ディテールをぼかし、抽象化して書いたのは俺なんで。
これは証拠出すの無理。まさか一件一件カルテの中身を張るわけにいかないし。m3.comであったね、医療訴訟のカルテを掲示して問題になったことが。
ところで、福祉事務所に生保の行動を通報するためにカルテを抽出することは問題なのかな?俺が今考えてることなんだけど。
これは電子カルテ化されてるので簡単。数秒もかからない。例えばスズキさんで検索するとこうなる。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3652050.jpg.html
何個か代表的な苗字でやってみたけど、生保は地域住民に占める割合とそう変わらない。
紙カルテの病院ならば、表紙(1号用紙とよぶ)に保険の種類が書いてある。そして、紙だろうが電子だろうが危ない患者の見分けはつくようになっている。
紙の場合は表紙の隅を塗るとかね(例:赤は要注意、黒はブラックリスト)。最近病院で俺の扱い違わね?と思ったら自分のカルテ表紙をよく見るとよい。
その通り。生保の受診行動についてきちっとしたデータを出すなら、保険の種類をマスクした上で、マナーやら服薬コンプライアンス、
アドヒアランスを定量化して、保険その他患者属性と一緒に多変量解析なんかしてみるといいのかな。それを多施設で。ちょっと無理な気もする。
この文章はほとんどが俺の主観にすぎない。でも医療関係者なら大なり小なり感じてることだと思うんで、近くにいたら尋ねてみるといいかもね。
誰がすぐいっぱしに働くと言ったか。修練を最初からやり直すという意味だ。
俺はまだ若手だしね。認定医とって、自分の外来持って数年。専門分野は勘弁してくれ。身バレしてしまう。
転科すると給料はまた修練医レベルに落ちてしまうが、これまでの業務で感じた苦痛に比べたら大したことはない。
当直や救急のない病院に行けばいいのか。そうもいかない。俺は今、大学医局の所属だ。
大学医局が用意する民間病院のポストは中核病院がほとんどだ。当直や救急のない病院などない。つまり悪質生保の来襲も避けられない。
そして若手ごときが医局人事に逆らって関連病院を辞めるといったら、それは医局を辞めるってこと。
いや実際もう辞めると言ってきたんだけど。院長よりも教授に事情を説明するのが大変だったな。
さて、今後医局人事外の病院に就職しても、それなりの病院で修業しようと思ったら生保周りのいざこざは避けられない。
こんな生活を50や60になるまで続けられる?続けてなんになる?と思った時に、足が前に進まなかった。
かといって検診医・バイト医になって内科っぽいことを続ける、というのも先が暗いと思った。
自我崩壊せずに生きていくためには、もっと自分に合った分野でキャリア構築を最初からやり直すしかない。
科が変わると、元の内科仲間の前では働きにくいかもしれないって?他の地方に行けばなんということはない。
俺、地元を離れた出身大学になんとなく残ってしまったクチなんで、単に戻ればいいだけなんだ。
もう言っちゃうと、放射線診断医になることにした。地元の病院に今度専門医になった同期がいて、「うちで修業しろよ」と誘ってくれてる。
そうそう、臨床検査科についてだけど、技師だけじゃなくて医師もいるよ。少ないけど。
病理と臨床検査は、どっちもずっと大学べったりじゃないと修練できないから、やめた。
そうだとしても、彼らの素行がスタッフの士気に与える影響の方が問題で、生保患者の多量取り込みは中長期的には予後不良であると考える。
あと、勤務医は自分の病院が経営的にヤバイことに関しては無関心。事務がどう思ってるかは知らんけど。
部長クラスになると「おたくの部門回転率低いよ」みたいな突き上げがあるが、本質的に、勤務医には病院そのものに対する忠誠心はない。
望む医療を実現したいとか、先輩のようになりたいとか、偉くなりたいとか金が欲しいとか、自分自身の価値観に拠って立つ人がほとんど。
どうせ医局人事で転々とする身だしね。究極、働こうと思ったらどこでも働けるし。「逆に考えるんだ、病院がつぶれちゃってもいいやと考えるんだ」
一般の患者には気の毒なことになるけど、日本はまだ病院多いからなんとかなるだろう。
まず税金で食ってると思ったら間違いで、病院の収入イコール人件費のメインは健保から。
社会保険も広義の税と解釈しても、保険診療があるおかげで国際水準より安く医療を提供できて(させられて)いる。
だから感謝しろと増長するつもりはないが、逆立ちしても食わせてもらっているという意識にはならない。
現行の保険制度が崩壊したほうが病院の儲けは増えるよ。施設間の格差は広がるだろうけど、全体として医療費が増える。
そこのところ、心に留めておいてほしい。
まあその通りっていうか、当たり前だと思うのよ。せめて普通にしろと。
俺は五体満足だし普通に教育受けて医者にもなれて、友達もいるし二親揃って元気だ。自分が幸運なほうだと自覚している。
これがもし困窮した身になったら、生まれた環境が悪かったら、と想像すれば、そりゃ助け合いは大事ってことくらい分かる。
そんな時に生保みたいな制度があったら、ああ、ありがたいなあって思うだろうよ。でも現状の生保患者の態度は、何ですかあれ。
そうかもね。内科だけでなく、この国で前線部門で医者やるには色んな問題があるって、働いて分かった。
日本では一次救急が機能しておらず、二次救急病院で〇.一~二.五次救急まで対応していること。
本来は精神救急主体の症例まで一般病院に運ばれてしまうこと。薬出すだけ出して救急対応しないクリニックの存在。
応召義務の理不尽さ。当直明けで普通に働かされてること。これらはそれぞれに解決しなければならない問題であると思った。
でも俺は頑張ってたよ。誰かのために役立ちたいと本気で思ってた。嬉しい経験も、充実感も使命感をおぼえることも一杯あった。
一言坂の戦いは、忠勝が殿を務めて、相手は引いて、
んな逸話ねーよ!
むしろ武田軍が少し武士の情けをかけて見逃してくれた。忠勝はあとで感謝を伝えてる。
忠勝が評価されるとすれば
そういう辛い局面で見せ続けた健気な忠誠心だ。
小牧長久手でも同じようなシチュエーションで秀吉が哀れんで寡兵の忠勝を討ち取らせなかった
みたいな逸話ならある。(もちろん与太話くさい)
西の立花宗茂を気に入って褒め上げてたのも超忠義者の息子だったからだ。
忠勝が名乗っただけで敵が引いた~みたいな与太話はどっかにはあったが
一言坂じゃないのは間違い無い。
一体誰にそんなデタラメ話吹き込まれたんだ?
幸村の知名度は個人的武勇に拠るものじゃないと思うけど…。
だから忠勝のもそうじゃん。
それを指摘されたら「逸話が乏しくても知名度があればいいんだ!」っていうから
「知名度なら幸村の方があるじゃん」って言ってんの。
これぐらいの話の流れは理解しろよ。
「俺はこっちの武将のほうが忠勝より知名度が高いと思うぜ」という反論は、
むしろ大歓迎なので、ぜひ挙げていただければ。
いや、無数に居すぎて…
何言ってんだおめえ?
正に書いてるじゃん『政情』が安定して人口が多ければ。
すくなくとも、『政情』が安定しなきゃダメだろ。
あと、移民 移民って 今貧困国と呼ばれている国も移民受け入れていたり、日系何世ってのがあるように、日本って結構そとにでていってるけどな。
優秀な人間から、会社に呆れて外資に転職するような日本の企業体制で、経済が伸びるのか?
まともに社内で『優秀な人間は外資に転職しちゃう』ってささやかれて、『あいつらは忠誠心がない』って所に帰結するような国だぞココ。
コミュニケーション能力があれば、専門性はいらない。って国だからなぁ(爆)
漫画家のやくみつるさんは「石原氏は今までいろいろ公約を掲げてきたが、何も実現しておらず、最後くらい爪痕を残したいという思いがあるのでは」
??
この人12年間ずっとふとんの中で寝てたのかな?
石原さんが何もしてないって言うなら、他のだれがやってるんだね?
別に言いたいこと言ってていいじゃんと思ってたけど、
なんだか俺もこの人のこと嫌いになってきた。
中国が40億円で買い付けに来ていたそうじゃないの。
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/2659431
毎日新聞、あいかわらずの忠誠心。一生懸命石原さんのネガキャン。
<尖閣諸島>石原知事発言…識者「中国を利する発言」 - 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120417-00000034-mai-pol
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120417-00000022-mai-pol
ちなみに産経新聞では...
都の尖閣購入計画 「よくぞ言った」都庁に電話100件 9割が賛成
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120417-00000551-san-soci
先日久しぶりに上司と食事にいったのだが
その時の私の言動が気に食わなかったらしい。
生意気だ、なれなれしいとめちゃくちゃ怒られた。
自分としてはそんなに怒ることではないと思っていた。
今回の食事会は仕事抜きのプライベートと上司が言ってきたのに。
普段私と上司は結構仲良くやっていたので、同席した上司の秘書も
上司がこんなことで怒るとは思っていなかったとのこと。
上司も役職で呼ばないで名字で呼ぶようなフラットな職場環境も自分には合っていた。
でもなんかこの件でいっきに会社に対する忠誠心というか貢献心がなくなった。
などなど
本件で全てが嫌になった。
以前から仕事で知り合った人や友人からうちで働かないかと結構誘われていたので
いい機会なのかもしれない。
仕事ばっかりしてきたので、しばらく休むのもいいな。
ん?
いや、まあ、その…うん。
http://anond.hatelabo.jp/20110901203436
いや逆。
UIの善し悪し関してはあくまで俺個人の主観なのでさておき、Appleが「きちんとした会社」というのは何とも。
ここ10年、他社製ハードウェアにOSを供給しないわ、内蔵ハードディスクの交換は不可能だわ、ブルーレイも使わせないわ、携帯デバイスにもFlash再生を許可しないわ、そうやって平然と競合規格を排除するくせに、「クローズなFlashはもうオワコン!これからはHTML5の時代!」とのたまうわと、熱狂的なシンパの忠誠心にあぐらをかいてるような会社を「きちんとしてる」と表現するのに違和感を覚えただけ。
うちの会社なんてモロに学会系だから、池田大作への忠誠心(という名の東京本社連中へのおべんちゃら能力)と出世の度合いが正比例するんだぜ。
そうやって支社長になった奴なんか、就任直後のある日労働組合の幹部連中が会社に来たとき「俺が若い頃は毎日のようにサービス産業で徹夜しまくって苦労したもんさ。でも、そんな日々があるからこそ今の自分があるんだ(キリッ」と自慢話をし始めて周囲をどん引きさせた伝説の持ち主だったりするんだぜ。
後で組合幹部の人達から「今度の新しい支社長はもしかしてキチガイか?」と訊かれたぜ。地元の学会支部のコネでねじ込まれたただのアホなんだけどね。
1976年、日本経済新聞社刊。
社会が大きな変化に直面しているとき、渦中の人々がその重大性に気づかないというのはよくある。高度成長期の日本もそうだった。「どうして日本が戦後に奇跡的な成長を遂げたのか」という国内的な疑問も主として欧米の人たちが最初に投げかけたテーマだった。本書の刊行は1976年、終身雇用とか、組織への忠誠心とか、メインバンク制、官民一体とかそんな日本的経営論が新鮮な響きをもって受け入れられていた時代に、このころまだ珍しい日本人エコノミストの手による”日本経済の奇跡”に対する論考である。
「もはや戦後ではない」(昭和31年経済白書)という有名な一言がある。これはもともと「もはや戦後復興需要は一巡したのでこれからの高成長持続はいっそう難しくなる」という文脈で使われた表現だった。このように昭和30年代初頭、今まさに経済的な飛躍を実現せんとするタイミングにおいてすら、日本国内では慎重論・悲観論が渦巻いていた。しかし、蓋をあければ昭和30年代を通じて政府の期初経済成長率見通しを毎年上回る実績を上げた。
根本的なドライバーは「重化学工業の革命的発展だった」と高橋は言う。戦前から国策として奨励していたがなかなかうまくいかなかった重化学工業がこの時初めて開花した。鉄鋼増産の結果、国産価格は戦前においては欧米よりも2割高かったが、昭和30年代には欧米よりも少なかず低廉となった。鉄鋼価格の下落を通じて、鉄鋼を素材とする機械、自動車、造船などの産業発展も促した。それが昭和39年の貿易収支黒字転換という一大事を達成させる原動力となった(100p)。また、重化学工業化はこれまで輸入に頼っていた製造機械の国産化を通じて、産業の裾野を熱くすることにつながり、これまで2重構造と称されてきた日本経済の所得不平等の解消(したがって、内需のさらなる拡大)に寄与し、スパイラル的な発展を促した。
高橋は本書のなかで、重化学工業に対する日本の経営者達の基地外じみた設備投資意欲に驚嘆し、しばしば呆れる外国人研究者の声を紹介している。多くの欧米人研究者が当時の日本企業を、足元の収益よりも銀行から莫大な金を借り入れて生産拡大を重視しているリスキーな奴等、と評している。今では信じられないが高度成長期の日本ではあまりにもアニマルスピリットが旺盛すぎて、「当時、日本の経営者にとっては投資を抑制するものが資金不足以外にありえなかった」(p183)」だったのだ!GDPにおける設備投資比率は2割をしめ(現在は15%弱)、日本経済の最大の成長ファクターになっていた(150p)。
現在は、資金調達環境は多様化している分、当時より新興企業が金を調達しやすい環境にはなっているだろう。しかし、高度成長期の日本には今と違って、①ガンガン金を借りれる若き経営者がわんさと存在していた。そして、②我先に、と投資に走れる機会が国内に存在していた。①は、大企業が解体されることで保守的な旧支配層から進取性のつよい年齢層への大規模な人材の交代が起こったことが大きかった。②は戦時の破壊によって最新鋭の設備がスンナリ導入できる環境にあったことと、中東から安い原油の輸入が重化学工業をプロミシングな産業にさせていた。
本書の重要なインプリケーションは、高度成長の主役は政府にはなく、ひとえに民間企業の熱烈さにあったということだ。政府は高度成長を予見してすらなく、官僚の主導権も(戦後こそ強かったが)重化学工業がそのものが飛躍する30年代後半には衰えを見せていた。
欧米人は、当時の日本企業の果敢さをこう賞賛したという。「日本の造船の特徴はきわめて大胆であること。低コストであること、そして競争相手たちより、はるかにスピーディであることだ」(p136)。まるで、今の日本が韓国企業を称するようではないか!
http://twitter.com/#!/zaway/status/21446713415831552
http://www.spiegel.de/international/world/0,1518,731580,00.html
ドイツ:
グッテンベルク国防相(人気ナンバーワンの政治家)が米外交官に副首相の悪口&告げ口
ロシア:
メドベージェフ大統領夫人が亭主への「忠誠心」を欠いている軍人を恨み帳にリストアップ
アリエフ大統領(2代目)の嫁さんは全身サイボーグ、遠目には彼女自身の娘と見間違わんばかりだが、なぜかほとんど無表情
露伊:
クリントン国防長官がプーチンとベルルスコーニの関係にご興味を持たれたようです
ケニア:
「ケニア大統領?首相?どうでもいいじゃん」という文句が公電のそこかしこに
トルコ:
イラク:
信者の忠誠心溢れすぎる姿勢が製作者に間違ったメッセージ送ってんだよ。
「わたし達は何されてもついていきます」ってな。
一応書いておく。
間違ったメッセージってなんじゃらほい。
信者と言うからには信仰があるんだよ、その信仰はメーカーにとって、力であり足枷だ。
そんな例は、そこら中にあふれているだろう。
「じゃあこいつらは蔑ろにして別の客層に目を向けよう」
と判断して大こけしたとしたら、悪いのユーザーじゃない。
それは、メーカー側が勝手に電波を受信していただけで、ろくなマーケティング調査が出来ていなかったってだけの話だ。
信者が「何を信仰しているのか」アイマスはかなりの部分を読み誤った。
そこを補い得る別の偶像として、何かを用意していたのかもしれないが、現状それは効果を上げていない。
今回の件、要は、金がないんでしょ。金があれば解決できる問題だと思う。
ならリメイクを信じてしばらく手弁当で応援してあげればいいじゃない。
いつから一緒に作り上げていくことを忘れてクレクレ君になったんか。
金や人の不足だとすれば、
なんで誰も望まないような男が三人も増えるんだ?
素直に「こういう窮乏でどうしても○人をNPCにせざるを得なかった」って言ったなら、
アイマス信者は待ってくれただろ(普通は未完成で納品とか商品としてありえねーけど)。
あれが足りないこれが足りないと思ったら、そこをなんとかするのが
君たちPの力量の見せどころではなかったのか、と。
いかにもアイマスらしいじゃないか。
それは消費者に甘え過ぎってもんだろ。
あいつらトップレベルのキチガイだぞ。あれ以上ってどんなだよ。
頑張ろうよ。
大事なことは目に見えない。
でも私たちなら私たちがやるべき道は見つけられるはずだ。
製作者が意図しないところにまで萌えて、製作して、世界を広げてきた奴等じゃねーか。
部外者には意味不明なグッズやイベントで統率の取れた歓声上げてきた奴等じゃねーか。
それこそ目に見えないところまで大事にしてたよあいつらは。
散々そういう不気味なまでの「団結」をしてきた奴等が砕け散ったんだよ。
製作者サイドに、ただの窮乏じゃない誤魔化しや不誠実を感じたからだろ。
信者の忠誠心溢れすぎる姿勢が製作者に間違ったメッセージ送ってんだよ。
「わたし達は何されてもついていきます」ってな。
「あ、こいつらはどんな扱いしてもついてくる」
「あ、こいつらは何やっても金落とす」
「じゃあこいつらは蔑ろにして別の客層に目を向けよう」
ってなる。
信者達はそれでもちゃんと抗議や交渉一つせずにニコニコ耐え続ける。
で、ある日突然我慢の限界に達して一斉に破滅的にキレてコンテンツ破壊して立ち去る。
(そうならなかった場合、製作者が完全に甘えきって腐りきるのでいずれにせよコンテンツは終了する)
昔の日本の開戦と一緒。
これがまだ破滅的な回復不可能なキレではないのなら、
やるべきことは「なあなあにして不満や怒りをなかったことにする」のではなく
「正しい方法できちんと抗議するやり方を学ぶ」ことだ。
俺なんかは「さっさと立ち去って製作者に吠え面かかせてやれよ」と思うが。
舐められた時にちゃんとキレないぐらいなら突然キレる方がまだマシだよ。双方にとって。
http://www.asahi.com/digital/internet/NGY201008210003.html
http://www.asahi.com/digital/internet/NGY201008200021.html
電源スイッチのオンオフしか出来ない自称エンジニアになりたいという話。
このご時世で、その程度の能力で一人月50万円取れる仕事なんて、一般向けには無い。こういう人は、どんなに無能でもリストラされないだけの理由がある人である。
たとえば、指定校制で定期採用していて、解雇すると関係が壊れるから出来ないとか、取引先や監督官庁の幹部の子弟縁戚とか、
今回の三菱電機インフォメーションシステムズのような談合有りの詐欺同然という商売をやっている所では、万が一の時に、自分の一存でやりました上司は何も知らないし無関係ですと、警察に行って自白して前科を背負う懲役要員といった役割が期待されている人という事である。
コネも前科を背負うほどの忠誠心も無い一般の人には、このような美味しい仕事は回ってこないし、そういうしがらみやヤバイところを抱え込んでいるような企業でないと、官公庁相手の美味しいお仕事には参加できないのである。
あと、図書の予約冊数や貸し出し冊数制限を撤廃すると、貸し出し冊数が増えて、図書館間の運送便の負担が増え、予算が足りなくなるから出来ないという反論があるようだが、図書の利用が増える事は、図書館の本分であるという事を忘れているようである。
インクのついた紙の束という物質を運ばなければならないという点に問題があるということであって、インターネットから予約できるのであれば、電子書籍化してインターネット経由で閲覧できるようにするという解決方法がある。
横持ちコストを消滅させられるし、実本の傷みや紛失や盗難を避ける事も出来るようになる。
実本を貸し出したのと同じ状態にする為に、実本一冊あたり一つしか閲覧許可を出さず、閲覧許可が返却されない限り、次の人に閲覧許可を出さないというやり方が、図書館の特例として認められるかという点が問題であろう。
実本と閲覧許可の紐付けを外し、貸し出し一回ごとに、図書の横もち費用や図書館のカウンター業務コストの合計額よりも安価であることを条件に、著作権料を出すという考え方は、面白いのだが、図書館という仕組みの否定となる。それは、閲覧権の購入であって、販売行為である。
本を運ぶトラックや図書館で働く人を養う為に使われているお金を、著作者に渡す事が出来るようになるという事は、重要な事であるが、
そもそも。インクのついた紙の束を作って、運び、店舗で販売する為に、定価の90%以上のコストがかかっていて、著作者には良くて10%、下手をすれば7%以下という搾取されている状態の方が、はるかに大きな問題である。
それらでメシを食っている宣伝や製紙業界や印刷製本業界や運送業界や書店業界で暮らしている人々にとっては、メシの種が奪われるということで、とんでもない話なのだろうが、
Amazon Kindleや、Apple iPadといったタブレットPCによる電子書籍販売システムが日本にも乗り込んで来ている。
日本語対応が不十分なうちは、のんびりとしていられるが、対応してきた時に、売り上げを根こそぎ持っていかれる事を覚悟しているのであろうか。
そういうのは、けっきょく自分が決めるしかない。
違いは何だろうか。
主観的には区別できないんじゃないの。
両方の共通点は、強制されてない部分でどう振舞うかでしょう。
主人が見ていないところで、どう振舞うか。
少女が売春宿に買われて来たとか、少女が売春宿で鎖につながれているとか。
しかし、そうでない場合もある。
難しいケースで、たとえば、大名とかで考えてみると、
その大名に従うのはどうなのか。
忠誠心に見えるけど、「生まれ」をそのまま受け入れていることになる。
「家臣」として生まれたら家臣と自己規定するのは奴隷根性とも考えられる。
下克上したっていいんだし。
武士で考えたらわかりにくいかも知れんけど、カーストだったら?
逆に、買われてきた奴隷がいたとして、
その買った主人が、たまたま、すばらしい人格の人間だったとしよう。
衣食住を最低限文化的に保障してくれるとか。
で、奴隷がそれに感動してその主人に忠誠を誓うのは自然に思える。
だって、ほかの奴隷よりもずっと恵まれているもの。
けど、これこそまさに奴隷根性かもしれず、
この奴隷がすべき行動は、この主人の優しさを利用して、
虎視眈々と解放される機会を狙うことかもしれない。
場合によっては、主人の金を盗んだり主人を殺したりするのが、あるべき奴隷の行動かも。
だって、主人と仲が良かったとしても、あくまで奴隷なんだから。
結論としては、やっぱり自分で決めてそれに責任をとるしかないようなことだと思う。
なので、たいした違いはないと思うよ。
久しぶりに酒を飲んで酔い心地になって、勢いで何故かBluebellsの動画をYouTubeで探し始めたのが運の尽き。BluebellsがAztec Cameraに、さらにOcean Colour Scene、Trash Can Sinatras、そして何時の間にやらパーフリに。Friends Againを聴き始めた頃には既に涙が止まらなくなっていた。今もCamera Camera CameraのギターポップバージョンをBGMに、止めどなく流れる涙をこらえつつ、酔いに任せて書いている。鬱屈した日常を送る高校時代の僕にとって、この上なく純粋でこの上なく美しい、この上なく真実なのにこの上なく嘘くさい、自分にとっての「青春」の象徴、それが彼らであった。
その頃の僕は今でいうオタクやヒキコモリに近い、都会的だけど暗くて内気な自己顕示欲の塊だった。小沢と小山田に対する忠誠心は誰よりもあると自負しながら、親が出してくれる金で彼らのCDを購入するのがせいぜいで、かれらの音楽をどんなに愛していると信じていても、そのライブに赴く勇気も行動力も欠如していた。
誰よりも早く彼らのCDを購入し、CDショップでのイベントに出向き、MTVはエアチェックし、FM横浜は毎週欠かさず聞いていた僕にとって、その瞬間はあまりにも突然に訪れた。無機質な女声が語る彼らの解散の知らせを、僕はその瞬間には何の感動もなく、だが次の瞬間に訪れる限りない混沌とともに聞いた。
エンディングに流れるTokyo's Coolest ComboのFriends Againはその後永遠のレクイエムとなって僕の中に焼き付けられた。Friends Againに見たはずの大学時代を、彼らとは全く別の意味で理想的にすごし、周囲に迎合してそれを幸せと感じた大学時代を経て、気がつくと僕は高校時代に最も嫌悪していたような、平凡で退屈極まりない人間になっていた。
悲しいことに、それが平凡でも平均でもないこともわかっていた。それがオトナになるということなのかもしれないけど、かつての僕が死ぬほど忌避していたことには変りない。尾崎とピチカートの両方を評価するようになった僕にとって、もはやあの輝かしく危うく誰よりも純粋でまがい物である二人のOは、決して近づくこともできなければかといって忘れることも許されない存在となった。輝かしい未来の象徴は、決して叶うことのなかった美しい過去の遺産となった。
僕は今彼らの歌を涙なしに聞くことができない。再結成して欲しいアーティストとして彼らの名を挙げる人たちがいる。その安直で単純な思考を理解しないわけではないが、あの時別れたあの道は、もう決して交わってはならないし、また交わることもないだろう。
未来と革新と反抗と青春の象徴であった彼らの楽曲も、そう信ずる僕らの思いとは裏腹に、かつてなく反体制的・非倫理的であったビートルズと同じように、今では当時の「時代」を解釈するための科学的な要素して評価されてしまっている。
でも僕らは覚えている。それが決して健全な目的に余するような、誰もが求める優秀な生徒ではなく、皆が忌避しかつ心のどこかで憧れる、それは大人すらもまきこむような、この上なく嘘くさくて、でもごまかしのきかない姿であったことを。
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181
全体の論旨の言わんとしていることは、とても痛いほど分かります。昨年、自分が就職活動を実際にやってみて体験して同様のことを感じました。また文脈的には、「心理学化する社会」であったり、本田由紀さんが提唱する「ハイパーメリトクラシー」と同一線上に位置づけられると思います。
しかし、就職活動に限って言うならば、それが現代的にアクチュアルな問題なのか、と問われるといまいちピンとこないところがあるわけです。なぜならば、「就活」に対する多くの論旨は、過去と現在の就職活動には明らかな断絶があると強調する一方で、現在にばかり着目し、過去には一切目を向けていないからです。
上のid:nagano_haruさんの論考も例に漏れず、過去の就職活動と現在の就職活動の違いをまるで自明のように取り扱っています。
企業が労働者を採用するときの「自己PR」をどんどん先鋭化させていくところだ。
……(引用者略)
id:nagano_haruさんは、エントリーシートの発明によって、就職活動が自己に与える影響が変化したと主張しています。しかし、この根拠となる部分が明らかにされていないため、果たして本当にそうなのか、という疑問がどうしても残ってしまいます。つまり、歴史がない、通時的な視点の欠如が論旨の前提を脆弱なものにしています。このような歴史の欠如は、議論を極めて内輪的なものにしてしまう恐れがあるのではないでしょうか。
別にこれはnagano_haruさんに限ったことではなく、就職活動に言及する学者や評論家全てに言えることだと思います。彼らがなぜ具体的な資料も根拠もなく、現代的な就活に特有の問題である、といえるのか。そこが全く分かりません。
私見では、メディアの形式が変化しただけで、恐らく、三菱財閥、住友財閥、富士電機といった明治・大正にかけて一世を風靡した大企業たちは、面接段階で、現代以上に自己の刷り合わせを求めてきたのではないか、と思われます。当時の産業はまだまだ発展途中であり、その成員に家族的な同質性を求めていたこと、当時の大学生は全人口の数パーセントに過ぎないエリートであったことから、横の学歴よりも個人の思想、忠誠心が問題とされたこと、などが考えられます。またこの時期に就職活動本の原点とも言えるハウツー本が発売されたのは、決して偶然ではないでしょう。
つまり、現代的な問題というよりむしろ、近代以降、職業選択の自由によって開放された労働市場が、開放された個人を取り込むために始まった就職活動に内在している問題系なのではないか、ということです。
こんなこと書くと、お前が調べて根拠出せよ、と言われてしまいそうなので、時間があるときに昔の就職活動について調べてみます。ただ、個人的に一番問題だと思うのが、現時点で体験している人以外あまり問題として感じられない点があると思います。自分もそうですが、就職活動やっているときは、そのシステムの不条理さに怒りを露にするのですが、いざ内定をもらってしまうと、それまでの苦労は笑い話となり、理不尽さは隠蔽されてしまう。誰しも経験しているにもかかわらず、喉元過ぎると熱さを忘れてしまうところに、この問題の難しさが潜んでいるのではないかと思います。