はてなキーワード: 重化学工業とは
元増田。
http://anond.hatelabo.jp/20150515102420
橋下徹大阪市長の「大阪都」構想に基づき、17日に同市の有権者に問われる大阪市の廃止と五つの特別区への分割についてどう考えるか―。長年、地方自治を研究してきた宮本憲一大阪市立大学名誉教授に京都市内の研究室で聞きました。(聞き手・藤原直)
―維新の会が「都」構想と呼ぶ大阪市廃止・分割案についてどうお考えですか。
大阪市は歴史的に形成されてきた日本を代表する大都市であり、24区のコミュニティーを基盤とした自治体です。これを廃止するのは極めて乱暴なことであり、暴挙だと考えています。
私は京都市民ですが、京都の市民に「京都市をなくして、いくつかの区に再編してもよいですか」と尋ねれば、ほとんどの市民は反対します。神戸市でも同じです。現に大阪府の堺市の市民も市の廃止に反対しました。
当初、「都」構想を政令市改革の一案として議論していた専門家の間でも、具体化された現在の未熟な案には、これを一般的に評価するほどの関心すらなくなっています。
具体的には、やはり財政調整に大きな問題がありますね。現在の市のかなりの税源が府に取られる。しかも府から特別区に配る交付金の配分割合の決定権は府にあります。5区の意見が十分に反映されるか疑問があるし、吸い上げられた財源が特別区のために使われる保証もありません。
120もの事務が、住民の声が届きにくい一部事務組合に任される。これだけでもこの構想は間違いだと普通なら判定しますよね。
とくに大阪市をつぶすという橋下氏の個人的な目的が先にあって、なぜ大阪市が廃止されなければいけないのか、大都市を分割していいのかという基本的な問題がまったく議論されていない。それが私は非常におかしいと思っています。
そもそも大都市には集積の利益と言われるメリットがあります。近代社会では経済や医療、高等教育、文化といったものが、一定の人口規模や経済的な諸力がなければ成立しません。ですから、どの国でも大都市が形成され、一国の華をなしています。大都市は全国に発信する文化や経済の核を育てるゆりかごです。その発展は一国にとっても重要な意味をもっています。
他方、大都市には集積によるデメリットもあります。貧困や公害、住宅難や交通渋滞といった都市問題です。この影の部分を直すのが都市政策です。
大都市のメリットを維持しながら、都市問題を都市政策で改善していくのが都市行政の基本です。それなのに、角を矯めて牛を殺すようなことをしてどうするのか。市を解体しても都市問題は解決しません。しかも、いったん壊してしまったら、単に市民にとってだけではなく、一国全体に大きな不利益をもたらすことは間違いないわけです。
大阪市を五つの特別区と府に分けると、市の都市政策に関わってきた優秀な人材も、その蓄積もバラバラになります。辞める人も出てくるでしょう。区行政が落ち着くまで恐らく数十年はかかる。サービスが落ちるのは目に見えています。
◇ ◇
まず、都市政策というものを、もっと市民の福祉を向上させるために行うべきだということ。そのためにも、住民参加の仕組みを充実させなければならないということです。
大都市において住民の声をどう行政に反映させるかという課題は各国共通しています。しかし、そのために大都市を廃止して分割した例はないわけです。
どうしているか。例えばニューヨーク市では、59のコミュニティー委員会に50人ずつの委員が選ばれ、市議会とは別に市政に参加する仕組みをつくっています。ここで議論されたことはかなりの割合で予算にも反映されています。イタリアにも地区住民評議会という制度があります。
日本の政令市でも内部に区自治協議会を設置したところもあるし、行政区を総合区に格上げすることなどができるようになってきたので、各都市で市民自身が地域に合った住民参加の仕組みを考案していけばいいのです。
―橋下氏は1990年代に府と市がそれぞれ建てた高層ビルを「二重行政」と批判し、政令市である大阪市が大きな予算をもち府と似たような仕事をするから無駄が起きると主張しています。
それも間違いです。そのビルが両方とも破綻したのは事実ですが、それは二重行政の失敗ではなくて、それぞれの行政の失敗にすぎません。
市をつぶして、府知事という「一人の指揮官」をつくるという考え方自体がよくないんですよ。やっぱり府があれば、市も市議会もあり、市民がいるんでね。例えばカジノの誘致問題で府知事と市長の意見が違ったって構わないんですよ。
ただ、いまだに少なくない市民が橋下氏の構想に期待を寄せている理由は、何よりもまず中身がよくわかっておらず、大阪が「都」になれば、東京に匹敵する経済力や行財政力になるのではないかという幻想があるからだと思います。しかし、実際には大阪市が無くなるだけで、今回の投票では府の名称すら「都」にはなりません。
第一、大阪がなぜ東京のまねをしなければならないのでしょうか。私は、戦後の大阪府市政、財界の政策の失敗の原因は、東京の後追いをしてきたことにあると思います。民生部門が多い「商業の都」だったのに東京の重化学工業に追いつこうとして造った堺泉北コンビナートが、あまり地域経済に貢献せず、逆に公害を出したこともありました。(茨城県の)筑波(研究学園都市)のまねをして失敗した「けいはんな学研都市」にしても、湾岸部の開発にしても、失敗の連続だった。地域の特徴を踏まえて大阪の持っている力をどう引き出すかということにならなかったからです。そこにきて今度は、戦時中、戦争のためにつくられて今でも安定しない都区制度までまねるという。それで良くなるというのはまったくの幻想です。
◇ ◇
大阪市民はもっと誇りを持たなければいけません。戦前は「都市政策は大阪を見ろ」と言われ、どの街も大阪を模範にしました。東京高商(現在の一橋大学)の教授から助役を経て市長になった関(せき)一(はじめ)市長(在任1923~35年)が目標とした「住み心地よき都市」を今こそ目指すべきです。
関は、御堂筋や地下鉄の建設で有名ですが、本領は社会政策にあります。労働者住宅や保育所をつくり、市民の絶大な協力で大阪商科大学(現在の大阪市立大学)を創設し、文化の殿堂としました。大阪衛生試験所をつくり、日本初の大気汚染観測を始めています。
当時、中川望という府知事や、関の親友だった東京市顧問・岡実が「都市格」を大阪市の目標として提唱しています。岡は、日本には天子(天皇)のいる権力の都(みやこ)はあったけど市民の都市がなかったと。だけど大阪は「都市格」のあるまち、すなわち、市民の自治都市でなければならないと言ったんです。
いまは国際的にも都市の目標というのは環境や文化にあります。大阪には人々に尊敬される都市になってほしい。権力の都にはなってほしくない。
昔から大阪は江戸じゃないんです。大阪は市民がつくった市民の街なんですよ。自由なる市民の都市。そこに大阪の意義があります。「シティ」とはそういうものです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-04-29/2015042903_01_0.html
お返事遅くなりました.気が付いたらいろいろ話が展開しているみたいですが,素直に返信.
ちなみに私はアンチ原発派ではなく原発容認派です.なので原発=ダメ=即刻停止という考え方はしておらず,代替できるものがあればそちらに移りたいと考えているだけです.
原子力発電所のリスクなんてあんなもんでしょ。今まで運良く一人残らず目を背けていられたってだけで。
もっとも、仮にあそこに火力発電所が建っていたとしても、重油の流出やら火災やらでやっぱり相応に被害を周囲にお呼びしていただろうし。
「リスクなんてあんなもんでしょ」とのことですが,私が質問した「リスクのコスト」についてはどうでしょう.今回の危機は想定の範囲内であり,原発のコストパフォーマンスを活かして得たお金で万全の補償ができるので誰にも文句は言わせません,壊れた原発は直すだけ,原発はこれまでどおりです.と,考えているなら,「リスクなんてあんなもんでしょ」とのとおりですが,原発推進派?の方々だって,
という具合にリスクのためにかかるコストを高く再計算しているわけですよね?この原発の最大の利点であるコストパフォーマンスについて,推進派さえも再計算が必要と考える状況において(しかもその原因が最大の欠点である原子力の危険性),原発との付き合い方に再考の余地はないのか?と考えるのは決しておかしい話ではないと思いますが.
俺が言いたいのは、
じゃあ仮にずーっと火力発電オンリーだったら、日本は今と同じような繁栄を享受できていたのか?
今から火力発電に切り替えたらそれで全部解決なのか?
だよ。
今回の議論の中で「原発は不要だった.あれがなければ日本はもっと良くなっていた」なんて話をしましたっけ.私はそんな考えは全く持っていませんが,もしそのように受け取れる発言をしていたらすみません.
私が呈した疑義は「今回の状況を見ると,原発の合理性について再考する余地があるのではないか?」そして「太陽光発電と省エネは考慮するに値するものではないか?」です.
電子力発電所が建ち始めた1960年代の専門家の評論とか色々漁ってみるといい。あちこちで散々に議論され尽くされた上で「まあ原子力発電しかねえわな」と関係者達は渋々(一部は喜色満面に)承諾してる。最後まで反対し続けたのは社会党や共産党みたいなコミュニストの狗みたいなのばかり。
えーと,以下の話は1960年代の評論を読まずに書いています.すみません.
1960年代当時の判断を否定したいわけではないです.現実としてこれだけの繁栄を支えたわけですから.戦後15年で原子力を選択したという話ですが,これを聞いた時「そうなのか!」と驚きましたが,良く考えたら戦争突入の理由の一つが油の枯渇なんだから油からの脱却を狙うのは妥当な選択ですね.
そして当時,油以外のエネルギーの選択肢がどれだけあったかというと,太陽光発電の世界初の実用化が1958年,国内初の地熱発電所が1966年,風力発電にいたっては1980年代,ましてや省エネなんて戦後復興時に考える話ではないでしょう.原子力発電を選択するのは合理的な判断だったと思います.
http://solarsystem-history.com/history/his_1958.html
1954年に初めて太陽電池が発明されたものの、当時の太陽電池は大変高価なものでした。そのため現在のように一般家庭で利用できるようなものではなく、特殊な用途に限定して利用されていました。その“特殊な用途”として代表的なものに、人工衛星への電力供給が挙げられます。実は世界で初めて太陽電池が実用化されたのは、人工衛星だったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%86%B1%E7%99%BA%E9%9B%BB
日本では1919年に海軍中将・山内万寿治が大分県別府で地熱用噴気孔の掘削に成功、これを引き継いだ東京電灯研究所長・太刀川平治が1925年に出力1.12kWの実験発電に成功したのが最初の地熱発電とされる[17]。実用地熱発電所は岩手県八幡平市の松川地熱発電所(日本重化学工業株式会社)が1966年10月8日に運転を開始したのが最初である。
http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/foreigninfo/html9908/08229.html
風力発電は、1980年代にアメリカにはじまり、1990年代にはヨーロッパでの開発が大いに進展し、今や、インド、中国でも化石燃料に代わる、環境に無害な有望エネルギーとして大きくとりあげられている。日本では、1980年に試験用の40kWの風車が設置されたのが最初であるが、1980年代から電力会社等での試験・研究がはじまった。
繰り返しになりますが,別にいますぐ原発全部止めろ!なんて言うつもりもないです.上記に挙げた新エネルギーが原発とそっくりそのまま代替可能とも思っていません.しかし,このように1960年代当時には選択肢として存在し得なかったものが増え,そして今回のような事故が起こったた今でも,当時の合理的判断は再考の余地がないのでしょうか?
で,私の意見は太陽光と省エネと言うのは,まぁ一見すると鼻で笑ってしまいそうな話ですが,一考の余地があるのではないかと.以下,それを説明します.
今回の問題は「一カ所集中発電のリスク」と「原子力のリスク」が原因ですよね.で,元増田は前者についてはたくさん原発を造ること,後者についてはより性能のよい原発を造ること,で解決するという案を提案しています.今回のようなトラブルはより良い原発(ひいてはより良いエネルギー供給体制)のために避けては通れない通過点だ,と捉えるのは原発推進戦略としておそらくまっとうだと思います.
これに対する私の反論ですが,私は今回の事故を見て,どう頑張ったところで人の想定の斜め上を行く出来事は起きてしまう,と感じました.よって「原子力のリスクはどう頑張ったって抑えきれない」と考えます.そうであるならば,最悪の事故が起きた時にそれを最小化する戦略しかないので,あちこちに原発を作るという戦略はありえないと考えます.
もちろんこれは「原子力のリスクはどう頑張ったって抑えきれない」という前提のもとに成立しているので,それが解決されれば主張は変わる可能性が大です.あとは「最悪の事故が起きた時にそれを最小化」すればいいので,原子力が漏れても平気などこぞの奥地だとか月に原発を作るならokです.
人里から数キロしか離れていない,しかも津波も地震も台風も来るのが毎度,の土地に原発を作り,しかも旧式とわかってもなお動かし続ける,という現在のやり方はいくらなんでもリスク対策をケチりすぎじゃないかと.
で,一番最初の話に戻ると,太陽光発電と省エネに期待したのは,両者のリスクを持っていないからです.いろいろ言われていますが,やはり太陽光発電は停電時にはそれなりに役立ったようです.
あとビジネス的にも,原発も太陽光も(あと省エネも)日本に強みのある分野で,CO2絡みで注目されている分野ですが,今回の事故は前者には向かい風で後者には追い風です.
「計画停電で使用できない」 太陽光発電、操作周知にメーカー躍起@産経
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110321/biz11032101270000-n1.htm
家庭用の太陽光発電装置は、パワーコンディショナー(パワコン)という装置を使い、太陽電池で発電した直流電流を、家庭で使用できる交流電流に変換している。ただ、パワコンを動かすための電気は、通常、電力会社から送られる系統電力に依存しており、そのままでは日中発電していても、電気が使えない。
使用するためには、家のブレーカーをオフにし、パワコンに付属したコンセントに直接、電化製品の電源コードを差し込む必要があるが、意外に知られていないのが実情だ。
脱原発はまだ夢物語に過ぎないとしても,少なくも現在のエネルギー資源ポートフォリオを組む上で,今回の事故を「大丈夫だ,問題ない」とスルーするのはおかしいのではないか,原発(火力も似たようなもんだけど)が持つリスクとちょうど補完関係に太陽光発電(と省エネ)を現実的手段として考える良いタイミングなのではないか,というのが意見です.
まぁ本音は原発やめろじゃなくて太陽光やろうぜ!だった気もしますね.こうやって整理すると.太陽光について反対派は「割高でしょ」といい賛成派は「回りだしたら安くなる」という.今回の騒動で太陽光発電のコスト以外のメリットが見えたので,これを機にいっちょ太陽光電池にもチャンスを与えてあげていいんじゃないかと.
手間もお金もかかるけど、利益も大きい@産総研 太陽光発電研究センター
http://unit.aist.go.jp/rcpv/ci/about_pv/economics/benefit.html
太陽光発電は現時点では一般的な発電方式よりもまだコストが高いのですが、大量生産を進め、計画的に普及を図ることで十分に安くできると見られています。補助金や電力会社による買取などの助成策は、コスト低減と普及を進める効果があります。開発・普及には大きな費用と相応の年数が必要ですが、化石燃料の輸入と異なり、その費用は国内に大きな経済効果や雇用をもたらします(図2)。先行するドイツなどでは既に普及費用を遙かに上回る経済効果と数万人の雇用を創出し(*2)、これにならって欧州、さらには中東・アジア諸国や米国も積極的な普及に乗り出しています。
あと,当分電力不足が続きそうなわけですが,原発なんてそうそう作れないですよね.一方で太陽光発電は市販のソーラーパネルを買えばすぐに発電所のできあがり.太陽光発電では昼間だけという問題はあるが,ピークはむしろ昼間にあるんだからそれを避けるのには十分貢献するのでは.
どうやって普及させるかという問題も,高速無料化とETC,エコポイントと家電,この辺の事例を思えば補助金うまく使えば可能では.あと気になるのは生産が追いつくかどうかだけど,それこそ元気な西日本で(がんがん電力使って)作って東日本に送ればいい.サンヨーもシャープもパナソニックも西の企業だしちょうどいいのでは.
1976年、日本経済新聞社刊。
社会が大きな変化に直面しているとき、渦中の人々がその重大性に気づかないというのはよくある。高度成長期の日本もそうだった。「どうして日本が戦後に奇跡的な成長を遂げたのか」という国内的な疑問も主として欧米の人たちが最初に投げかけたテーマだった。本書の刊行は1976年、終身雇用とか、組織への忠誠心とか、メインバンク制、官民一体とかそんな日本的経営論が新鮮な響きをもって受け入れられていた時代に、このころまだ珍しい日本人エコノミストの手による”日本経済の奇跡”に対する論考である。
「もはや戦後ではない」(昭和31年経済白書)という有名な一言がある。これはもともと「もはや戦後復興需要は一巡したのでこれからの高成長持続はいっそう難しくなる」という文脈で使われた表現だった。このように昭和30年代初頭、今まさに経済的な飛躍を実現せんとするタイミングにおいてすら、日本国内では慎重論・悲観論が渦巻いていた。しかし、蓋をあければ昭和30年代を通じて政府の期初経済成長率見通しを毎年上回る実績を上げた。
根本的なドライバーは「重化学工業の革命的発展だった」と高橋は言う。戦前から国策として奨励していたがなかなかうまくいかなかった重化学工業がこの時初めて開花した。鉄鋼増産の結果、国産価格は戦前においては欧米よりも2割高かったが、昭和30年代には欧米よりも少なかず低廉となった。鉄鋼価格の下落を通じて、鉄鋼を素材とする機械、自動車、造船などの産業発展も促した。それが昭和39年の貿易収支黒字転換という一大事を達成させる原動力となった(100p)。また、重化学工業化はこれまで輸入に頼っていた製造機械の国産化を通じて、産業の裾野を熱くすることにつながり、これまで2重構造と称されてきた日本経済の所得不平等の解消(したがって、内需のさらなる拡大)に寄与し、スパイラル的な発展を促した。
高橋は本書のなかで、重化学工業に対する日本の経営者達の基地外じみた設備投資意欲に驚嘆し、しばしば呆れる外国人研究者の声を紹介している。多くの欧米人研究者が当時の日本企業を、足元の収益よりも銀行から莫大な金を借り入れて生産拡大を重視しているリスキーな奴等、と評している。今では信じられないが高度成長期の日本ではあまりにもアニマルスピリットが旺盛すぎて、「当時、日本の経営者にとっては投資を抑制するものが資金不足以外にありえなかった」(p183)」だったのだ!GDPにおける設備投資比率は2割をしめ(現在は15%弱)、日本経済の最大の成長ファクターになっていた(150p)。
現在は、資金調達環境は多様化している分、当時より新興企業が金を調達しやすい環境にはなっているだろう。しかし、高度成長期の日本には今と違って、①ガンガン金を借りれる若き経営者がわんさと存在していた。そして、②我先に、と投資に走れる機会が国内に存在していた。①は、大企業が解体されることで保守的な旧支配層から進取性のつよい年齢層への大規模な人材の交代が起こったことが大きかった。②は戦時の破壊によって最新鋭の設備がスンナリ導入できる環境にあったことと、中東から安い原油の輸入が重化学工業をプロミシングな産業にさせていた。
本書の重要なインプリケーションは、高度成長の主役は政府にはなく、ひとえに民間企業の熱烈さにあったということだ。政府は高度成長を予見してすらなく、官僚の主導権も(戦後こそ強かったが)重化学工業がそのものが飛躍する30年代後半には衰えを見せていた。
欧米人は、当時の日本企業の果敢さをこう賞賛したという。「日本の造船の特徴はきわめて大胆であること。低コストであること、そして競争相手たちより、はるかにスピーディであることだ」(p136)。まるで、今の日本が韓国企業を称するようではないか!
http://twitter.com/#!/zaway/status/21446713415831552