はてなキーワード: 心理学化とは
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html アダルト・チルドレンの語られ方 -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収
http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html 書評「心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-
なんで、そもそも定義さえないに等しいものを、各個人が異様なこだわりを持って語れるのかがわからない
こだわりがあるくせに何も調べてない
論文さえない
http://anond.hatelabo.jp/20141103015411
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html アダルト・チルドレンの語られ方 -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収
http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html 書評「心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-
なんで、そもそも定義さえないに等しいものを、各個人が異様なこだわりを持って語れるのかがわからない
こだわりがあるくせに何も調べてない
論文さえない
http://blogs.yahoo.co.jp/goisu166/folder/1209047.html
731 :優しい名無しさん:2007/07/06(金) 10:14:11 ID:dSHhKWfW
1990年には、米国の3つの物質依存治療センターで、アルコール依存症で治療中の患者を対象に、
親のアルコール依存症の有無によって2群に分けて調査を行い、
その結果、米国の正統派の精神科の診断基準マニュアルであるDSM-Ⅲで、
その2群にはまったく統計的な有意差は認められなかったと報告し、
http://mimizun.com/log/2ch/utu/1175555457/
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html アダルト・チルドレンの語られ方 -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収
http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html 書評「心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-
上記レスの調査ではないようだけど、フロイト先生のウソという本でも、虐待の連鎖については差はあるものの、8%と12%なので、大した差では無いという事になったと書いてあるらしいです。
http://psychodoc.eek.jp/abare/ac.html 中立的なものの見方の精神科医の意見 精神医学界では冷遇されているとしながらも、頭から否定はしていない。1999年書かれたもの。ちょうど流行りかけのころか。
その中にもこう↓書いてある。
>ACとそうでない人々の間に統計的有意差はなく、ACなんてものは存在しないと主張する研究者もいたりする。
986 : 没個性化されたレス↓ : 2010/06/29(火) 22:37:15
アメリカのソーシャルワーカー達がアダルトチルドレンという無根拠なレッテル貼りを始めてから
もう40年という月日がたってしまった。
それを利用したAC業者やマスコミが被害を拡大させて、日本でも30年近くこの無根拠な概念が暴威をふるった。
このAC概念は無根拠なくせに極めて専横的で疑いを許さなかった。マスコミとAC業者がそうさせなかったのだが。
AC概念は人々を苦しめ、裁き、断罪し、この概念のくびきのもとで生きる事を強い、いささかの救いの道をも与えなかった。
ACは無根拠であるが故に疑いを許さなかった。ヒットラーのように。北朝鮮のように。
AC収容所の人間は小石のようなあきらめをしゃぶり乾きを癒すしか無かった。
ACに根拠は無いのに。
そして強制収容所の人々が「ここにいるから私は友と知り合えて生きていること許される」と心理的な合理化をするように
「ACを知ったからこそ私の人生がある」と合理化をするようになる。
商業主義の暴虐に痛めつけられ囚われの身となった人の心が、最後の誇りを失わないようにするために
強制収容所に30年幽閉された人が解放されてもとまどうように。
30年と言う月日をAC商業主義の暴虐に晒された心に「ACには何の根拠も無い」
と言われてもすぐには受け入れらないのはもっとなことだ。
このスレも次スレもこうしたAC被害者のリハビリをどうするかという問題も検討されるべきだろう。
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/psycho/1035617398/
水科学なら、専門家が出てきて疑似科学や似非科学を批判してたのに・・・
自称ACではなく、自称AC専門家、自称AC心理療法家は、どこのどういう学会でどういう論文を発表し、どういう風に評価されたのか、客観的に分かる形で示して欲しいものだと思います。(論文はあっても正式の医学の学会のではないものが多い)
http://anond.hatelabo.jp/20110919235051 の続き
多すぎたのか最後が入らなかった。
上のに入らなかったので
731 :優しい名無しさん:2007/07/06(金) 10:14:11 ID:dSHhKWfW
1990年には、米国の3つの物質依存治療センターで、アルコール依存症で治療中の患者を対象に、
親のアルコール依存症の有無によって2群に分けて調査を行い、
その結果、米国の正統派の精神科の診断基準マニュアルであるDSM-Ⅲで、
その2群にはまったく統計的な有意差は認められなかったと報告し、
http://mimizun.com/log/2ch/utu/1175555457/
ACを自認する人を責めたり疑ったりするつもりはありません。
前の日記にも書きましたが、このレスの元の論文そのものを論文検索サイトで探しても、見つかりませんでした。英語なので探しにくいです。昔のだという事もあります。
わかる方いらっしゃいませんか?
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html アダルト・チルドレンの語られ方 -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収
http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html 書評「心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-
上記レスの調査ではないようだけど、フロイト先生のウソという本でも、虐待の連鎖については差はあるものの、8%と12%なので、大した差では無いという事になったと書いてあるらしいです。
http://psychodoc.eek.jp/abare/ac.html 中立的なものの見方の精神科医の意見 精神医学界では冷遇されているとしながらも、頭から否定はしていない。1999年書かれたもの。ちょうど流行りかけのころか。
その中にもこう↓書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181
全体の論旨の言わんとしていることは、とても痛いほど分かります。昨年、自分が就職活動を実際にやってみて体験して同様のことを感じました。また文脈的には、「心理学化する社会」であったり、本田由紀さんが提唱する「ハイパーメリトクラシー」と同一線上に位置づけられると思います。
しかし、就職活動に限って言うならば、それが現代的にアクチュアルな問題なのか、と問われるといまいちピンとこないところがあるわけです。なぜならば、「就活」に対する多くの論旨は、過去と現在の就職活動には明らかな断絶があると強調する一方で、現在にばかり着目し、過去には一切目を向けていないからです。
上のid:nagano_haruさんの論考も例に漏れず、過去の就職活動と現在の就職活動の違いをまるで自明のように取り扱っています。
企業が労働者を採用するときの「自己PR」をどんどん先鋭化させていくところだ。
……(引用者略)
id:nagano_haruさんは、エントリーシートの発明によって、就職活動が自己に与える影響が変化したと主張しています。しかし、この根拠となる部分が明らかにされていないため、果たして本当にそうなのか、という疑問がどうしても残ってしまいます。つまり、歴史がない、通時的な視点の欠如が論旨の前提を脆弱なものにしています。このような歴史の欠如は、議論を極めて内輪的なものにしてしまう恐れがあるのではないでしょうか。
別にこれはnagano_haruさんに限ったことではなく、就職活動に言及する学者や評論家全てに言えることだと思います。彼らがなぜ具体的な資料も根拠もなく、現代的な就活に特有の問題である、といえるのか。そこが全く分かりません。
私見では、メディアの形式が変化しただけで、恐らく、三菱財閥、住友財閥、富士電機といった明治・大正にかけて一世を風靡した大企業たちは、面接段階で、現代以上に自己の刷り合わせを求めてきたのではないか、と思われます。当時の産業はまだまだ発展途中であり、その成員に家族的な同質性を求めていたこと、当時の大学生は全人口の数パーセントに過ぎないエリートであったことから、横の学歴よりも個人の思想、忠誠心が問題とされたこと、などが考えられます。またこの時期に就職活動本の原点とも言えるハウツー本が発売されたのは、決して偶然ではないでしょう。
つまり、現代的な問題というよりむしろ、近代以降、職業選択の自由によって開放された労働市場が、開放された個人を取り込むために始まった就職活動に内在している問題系なのではないか、ということです。
こんなこと書くと、お前が調べて根拠出せよ、と言われてしまいそうなので、時間があるときに昔の就職活動について調べてみます。ただ、個人的に一番問題だと思うのが、現時点で体験している人以外あまり問題として感じられない点があると思います。自分もそうですが、就職活動やっているときは、そのシステムの不条理さに怒りを露にするのですが、いざ内定をもらってしまうと、それまでの苦労は笑い話となり、理不尽さは隠蔽されてしまう。誰しも経験しているにもかかわらず、喉元過ぎると熱さを忘れてしまうところに、この問題の難しさが潜んでいるのではないかと思います。