はてなキーワード: Ocean Colour Sceneとは
久しぶりに酒を飲んで酔い心地になって、勢いで何故かBluebellsの動画をYouTubeで探し始めたのが運の尽き。BluebellsがAztec Cameraに、さらにOcean Colour Scene、Trash Can Sinatras、そして何時の間にやらパーフリに。Friends Againを聴き始めた頃には既に涙が止まらなくなっていた。今もCamera Camera CameraのギターポップバージョンをBGMに、止めどなく流れる涙をこらえつつ、酔いに任せて書いている。鬱屈した日常を送る高校時代の僕にとって、この上なく純粋でこの上なく美しい、この上なく真実なのにこの上なく嘘くさい、自分にとっての「青春」の象徴、それが彼らであった。
その頃の僕は今でいうオタクやヒキコモリに近い、都会的だけど暗くて内気な自己顕示欲の塊だった。小沢と小山田に対する忠誠心は誰よりもあると自負しながら、親が出してくれる金で彼らのCDを購入するのがせいぜいで、かれらの音楽をどんなに愛していると信じていても、そのライブに赴く勇気も行動力も欠如していた。
誰よりも早く彼らのCDを購入し、CDショップでのイベントに出向き、MTVはエアチェックし、FM横浜は毎週欠かさず聞いていた僕にとって、その瞬間はあまりにも突然に訪れた。無機質な女声が語る彼らの解散の知らせを、僕はその瞬間には何の感動もなく、だが次の瞬間に訪れる限りない混沌とともに聞いた。
エンディングに流れるTokyo's Coolest ComboのFriends Againはその後永遠のレクイエムとなって僕の中に焼き付けられた。Friends Againに見たはずの大学時代を、彼らとは全く別の意味で理想的にすごし、周囲に迎合してそれを幸せと感じた大学時代を経て、気がつくと僕は高校時代に最も嫌悪していたような、平凡で退屈極まりない人間になっていた。
悲しいことに、それが平凡でも平均でもないこともわかっていた。それがオトナになるということなのかもしれないけど、かつての僕が死ぬほど忌避していたことには変りない。尾崎とピチカートの両方を評価するようになった僕にとって、もはやあの輝かしく危うく誰よりも純粋でまがい物である二人のOは、決して近づくこともできなければかといって忘れることも許されない存在となった。輝かしい未来の象徴は、決して叶うことのなかった美しい過去の遺産となった。
僕は今彼らの歌を涙なしに聞くことができない。再結成して欲しいアーティストとして彼らの名を挙げる人たちがいる。その安直で単純な思考を理解しないわけではないが、あの時別れたあの道は、もう決して交わってはならないし、また交わることもないだろう。
未来と革新と反抗と青春の象徴であった彼らの楽曲も、そう信ずる僕らの思いとは裏腹に、かつてなく反体制的・非倫理的であったビートルズと同じように、今では当時の「時代」を解釈するための科学的な要素して評価されてしまっている。
でも僕らは覚えている。それが決して健全な目的に余するような、誰もが求める優秀な生徒ではなく、皆が忌避しかつ心のどこかで憧れる、それは大人すらもまきこむような、この上なく嘘くさくて、でもごまかしのきかない姿であったことを。