はてなキーワード: 受益者負担とは
「受益者負担」でググれば山ほど出てくるんでわ
少子化に拍車かかるし、社会問題として区に対する影響が大きすぎる。
3倍にすると払えない家庭が出てくる。
ただ、上限を上げるのは賛成。
所得に応じて認可外と同じくらいの最大「15万~20万」程度にするのはありだと思う。
あと、補助金が多いというけど、たかが550億円くらいですよ?
はっきり言って他と比べても低い方です。
倍にするだけで、保育士全員の給料をプラス5万できる。(つまり年収60万プラス)
これでも相当改善されると思うけどね。今の年収平均が360万程度なので、420万くらい。
東京都とかで保育園増やすのは難しいのはわかりますが、あまりに暴論です。
お金もらって、ベビーシッターにしても、海外ほど整備されていないし、
それこそ、老人ホームの殺人事件みたいにベランダから落とされかねないとかあると、相当怖い。
また、それこそ所得によって教育に差が幼児期から出始めるので、格差もさらに広がるよ。
この案は今のままでは不十分と言わざるを得ない。
財政再建は不況にする事。財政赤字の拡大は景気を加熱させる事。ようはバランスの問題でどちらもリスクがあるのよーくらい雑な方がいいのかね。
債務=債権だから、政府債務1000兆の裏付けとして国民資産1000兆としてバランスする、国債を発行することで民間資産も増える仕組み。
国債発行に金融資産の規模は関係ない、返済能力とインフレという制約のなかならいくらでも発行できる。
お年寄りがいなくなっても資産は消えないし、負債も消えない。中央銀行システムのある自国通貨建ての国債なのだからインフレになるまで償還に問題は発生しない。
なので日本社会が続く限り肥大化し続ける、さらに借金を減らすと次世代の金が無くなる仕組みです。ようは債務負担と経済のバランスが問題。
日本の本当のツケは次世代への投資を怠った事になる。就職氷河期世代と少子化がそのツケ…
介護、看護の待遇を良くするのに増税したら、違う職種が貧乏になるんだけど、なぜ下げる前提なのかもよくわからん。
受益者負担の原則を言いたいのだろうが3号年金を問題にして、少子化を進めたいのか、改善したいのか落ち着こう。
色んな先進国が人口置換水準である2.07を下回っているが経済成長しているので日本が異常事態なのをまずは認めよう。
消費税は劇薬じゃなくて何も改善しない。まず「税収=国民所得×税率」になる。
日本は97年の金融危機と多重債務問題、緊縮にリストラと多重のデフレ不況に陥る。
GDPが減る→税収が足りない→赤字国債→国の借金が大変だ→公的投資削る→GDPが減る→税収が足りない→赤字国債→国の借金が大変だ→公的投資削る→最初に戻る
この悪循環に株主資本主義やグローバル、ジェンダーフリー、非正規で「国民所得」が伸びない「税収」が絶対に不足する構造になる。
デフレで国民所得が伸びないので税率や福祉費用を上げれば短期的に上がるがGDPが増えない構造が悪化する。(外需によって改善はあるが実感のない景気になる)
京都大学新聞社/Kyoto University Press » 〈企画〉大学授業料を考える(2011.03.16)
こうした中で、私立大学と国立大学の間の学費格差の是正が叫ばれるようになり、また国内の大学進学者のほとんどを私立大学が受け入れている状況で、国立大学にだけ公共性を認め、経済成長に寄与しているように考えることは困難になってきた。
大学教育によって学生個人も利益を得るとし、受益者負担額として授業料を徴収するべきであるとした。最終的に、当時の文部大臣は1972年4月に1万2000円から3万6000円に値上げされたのを皮切りに、国立大学の授業料の値上げを実施した。
70年代後半になると、オイルショックや経済の低迷による国の財政の逼迫も影響したであろう。
そんな中で受益者負担論は次第に強調されるようになり、さらに80年代になると、コストに見合った対価を払うべきだとする対価主義も理由として挙げられるようになった。
予算を削りたい政府 + 「国立大ばっかりずるい!」 の結果みたいだね。
今はさらに大学運営費交付金が毎年削減されているので更に厳しい。
各大学はティーチング・アシスタント、リサーチ・アシスタントなんかを利用してなんとか学生の負担を減らそうと努力しているけどなにしろお金がない。
税金を使って見る人が少ない芸術に補助金を出す意味がさっぱり分からない。
その意味が分かる人が、見ることによって収益をあげれば良い話で、税金を使う意義は全くないと思う。儲からないから、補助金が必要という意見もあるが、補助金なしで経営がなりたないということは、運営者側の努力が足りないか、そもそも今の時代に必要のないものなのではないだろうか。何でも補助金というのが根本的に間違っている。補助金は麻薬に近いと思っている。補助金で生き続けていくと、補助金なしの生活をするのが困難になってしまう。大衆芸能なら大衆が支えるものである。
伝統があるからとかは関係ないと思う。宿場町だってなくなった、山岳信仰だってなくなった。旧道だってなくなった。武士だっていなくなった。時代と共に必要とされるものは変わる。昔なら文楽を見た休日の使い方は、今は昔と比べられないほど選択肢が存在する。
文楽は見に行ったことはないが、美術館はかなり頻繁に訪れている。僕は受益者負担が原則だと思っているので、市民や国民の税金が使われて自分自身が絵を見て楽しめることに戸惑いを少しは感じている。(民間の美術館は除く)。美術館の帰りに、ホームレスを見たり、バリアフリーがされていない駅前を歩く足腰の悪い人を見ると、美術館を閉鎖してこちらにお金を使って欲しいと強く思う。別に芸術がなくても、死ぬことはないが(補助金で生活している人は困るが、そんなのはどうでもいい)、最低限のセーフティネットが削減されて死ぬ人はいると思う。使えないほどの税金があれば別だが、どこの自治体もそんな余裕はないはずである。
芸術にお金を出すか出さないかという二択ではなく、税金の使い方として果たして一番納税者に意味があるものかということを考えて欲しい。全てを選ぶことはできない。何かに税金を使うと、何かに税金を使うことはできない。
不確定な「将来」 … 自分も、生きていれば将来年金暮らしになるだろう。子育てしていない家庭の人間も、当然ながら現在年金は払っている。また、将来受け取る(かもしれない)年金は、そもそも「現役時に当時の高齢者世代の面倒をみた」ことに対する順送りの返礼であり、単に「未来世代におんぶする行為」ではないと認識している。どうせ、まともな見込みのないまま運用され続け、未受給年代の受給年齢も上がり受給額は下がるのだろう。将来世代の「負担」を、現在の子有り世帯が過剰に見積もってエキサイトする理由が分からない。
確実な「現在」 … 税金のうち、「育児、教育」等に使われる部分や子ども手当、会社にあっては産休・育休などの制度の一切は、直接の自分の利益とはならない今現在の確実な「負担」である。
個人的には、「子どもを含め、社会が社会の成員全体に責任を負うのはよいこと」だという思想があるので、現時点でこの状況に対し特に何も積極的に発言する意志をもたない。だが、ときどき「子どもを作らないカップルは年金のフリーライダーだ。彼らに課税せよ」などの意見をみると、非常に微妙な気持ちになる。「おたがいさま」の理屈が通らなくなるのなら、私のような立場の人間からすると「子育て家庭は社会のフリーライダーだ。子どもを作る度に奴らの税金を増やすべき」という主張をすることも正当になるわけだが、そのことはどう考えているのか?
たとえば義務教育にかかる費用を、もし「直接の受益者負担とするべき」という理由で徴収するとしたら、どのくらいかかるのか知っているのか? その額は、ざっくり言って、子ども一人あたり年間およそ100万円を越えるくらいだ(私立の授業料を想像して貰えれば分かると思う。ちなみに、義務教育期間に限らず、私立学校にも当然公的扶助は行われている)。たとえば子ども3人いる家庭は、義務教育9年間だけで計3,000万円近くの税金投入を受けている。「子どもは社会の子」だ。オッケー。だから、今のところ誰も文句を言わない。だが、「子どもは社会の子ではない」というなら、これらの費用を公金でまかなう理由は一切なくなる。あなた方は本当にその額を支払えるのか?
私個人の観点で見れば、自分は、将来年金その他で社会のお世話になる前に、コロっと死んでしまうかもしれない。年金なんて、別にシステムとして破綻しなくても最初から払い損になる可能性はある前提で払っている。だが、今、子育てに使用されている「公金」は、今まさに使われている現実の出費である。「子育て」に使用しなければ、他のことに使用できる「今現在のお金」である。子どもが将来高額納税者になるかどうかなど、正直どうでもいい話であって、もし、将来自分が年金の世話になることで文句言われるなら、むしろ「じゃあ、今あんたらの子どもにかかっている税金分を社会に返してくれ」と主張したい。
そして、もちろん私は、今のところ、そういう主張はしない。お互いさまだと思っているからだ。もちろん、自分にも義務教育時代があり、一定の期間公的扶助も受けた。しかし、既にその分の年数、税金は納めている。「お互いさま」が消えるなら、本当に困るのは「子育て家庭」の方ではないか?
その場限りの、カウンターのためだけの言説が飛び交ってるねぇ。
ほかでも書いたが、本当に読む価値のないクソの掛け合い続いてるな。
要するに「非常時だけは受益者負担を棚上げしろ。大都市だけは折れろ」って事か?
で、関東圏にどうやって電力を安定供給するかって問題は些末な事だから受益者負担守れと?
「東北の田舎者のためになんで俺らが不便を強いられなきゃならんのよ?」と「東京の奴らのためにどうして俺らが原発受け入れなきゃならないんだ?」と何が違うの?
受益者負担を言い出すなら、被災地は他地域からの支援や援助はきっぱり断るべきだよ。そうしないとまた原発を建て直させられる羽目になるよ。電力不足で東京がしょっちゅう停電するのも立派な「非常事態」なんだし、あっちの方が人口も影響力も遥かにでかいんだから、せめてこういう時こそ「もう東京とは一切関わらない。助けも要らん代わりお前達のために原発も受け入れない」と毅然と望まなきゃ。
「地元のためにがんばります。◯◯議会候補の△△をよろしくお願いいたします。」
ふと、思ったんだが、福島の大熊町や双葉町でもこうやって町の代表者が決められたんだろうと。
どちらの町も平成の大合併を乗り越えて、単独の市町村として残っているあたり、特殊な事情がありそうだけども。
受益者負担、メリットを受けるものがリスクを負うという考え方がある。
そう思うと、この2つの町は、東京都の飛び地として都の管轄にあったほうがいいような気がしてきた。
もしかすると、原発が事故ったときに備えて、半径50kmは、東京都でもいいのかもしれない。
そうであれば、避難民の受け入れ計画を都が一括して考えられるよね。
原発のある田舎の町は田舎の町で、原発から得られるいいとこ取りだけの発想で、故郷を失ってしまった。
東京の住民が、「原発の電気なんかつかいたくないないよ。俺たちロハスだから」といっても、田舎の町の何千人かを手玉に取ってしまえば、原発の建設は可能になってしまう。
2つの町ほどお金が落ちていない隣町とかいわき市とか郡山市とか福島市の人たちは、どう思っているだろうか。まして、100kmも離れた会津の人はいわんやだ。(東京からの距離でいうと銚子、宇都宮、伊香保、沼津そのくらい遠い距離で「福島」ブランドを共有している)
そんな住民同士の感情を抑えるために、地方交付税のような仕組みで東京の稼ぎを田舎へおくっているのだろうけれども。
経済的利益とそれを生み出すためのリスクが切り離されてしまうと、それぞれの因果関係が見えにくくなってしまうし、人々の意見もちょっとした住民工作でひっくりがえってしまう。
東京のエネルギーの確保問題が、国政なのか、都政なのか、県政なのか、町政なのか。
47都道府県という明治時代の分割方式の限界が今回の福島第一原発事故であらわになったかもしれない。
エネルギーや資源の消費と経済的繁栄を運命共同体として、考えることができる範囲での新しい行政区のあり方が今後の日本復興ビジョンに取り入れられてほしい。
そもそもこの前提が決め付けだよね。
いやーでもトピ主は実際そこ(休日の部活)には不満を一切表明してないわけじゃない?
それで親が出張ってきてるような部活だったら、「親もそれを希望してる」と解釈する方が自然な気がするけど。
それこそ活動によっぽど熱心な親じゃないと出てこないでしょう。
休日の部活が勤務時間外でタダ働きに相当するのは紛れもない事実だし、「先生にタダ働きさせてる」点についてこの親の人は肯定してる(だから休日の部活をやめさせたいとは主張していない)のに、「特殊な前提」とか言われてもなあ。
他の増田も書いてるけど、どっちみち現時点で親がコミットしてるのは事実なんだから、それを変えたければ親が動くしかあるまいよ。この場合において親は無関係ということはありえない。
「ずるい」という感情である限りそれも「嫉妬」なのでは?
というか奥さんが育児を委託してるのは夫に対してであって、奥さんがトピ主に委託してるわけではないのでやっぱり責める対象間違ってるよね。
なのに、
「男はどうせ言っても分からないと諦めているから男にはもう何も言わないけど、女なら分かるはずだから女には文句を言う」と言うのはよくある考え方なので別に不思議には思わない。
そもそも矛先が違う相手を責めることって、「よくある考え方」だとしても、それこそフェミでよく言われてる「女が女の邪魔をする」ケースじゃないのかな。
だから私はナツさんのツッコミは実にフェミニズム的に正しいツッコミだなと思った。
どっちかというと鎖を自慢する奴隷の話だけど。
そして私は顧問の人も別にそんな間違ったことしてると思わない。
タダ働きしてくれと言われてるので、その代わりに受益者負担してくださいって言ってるだけでしょう。
「女に育児を丸投げ」したいんじゃなくて(もしそういう考えならそもそも子供を連れてこずに妻に任せているだろう)、親がお金を出し合ってベビーシッターを雇ってくれるならそれはそれでいいんじゃないかな。
本来顧問の人が「妻がおめでたなので休日部活の時は子供を連れてくることになります」と言った時点で、じゃあ
1.代わりに親が面倒を見る
2.親が負担しあってベビーシッター代を出す
のいずれにするかという議論を親と顧問の間でするべきだよね。
そういう話し合いがあったかどうかは分からないけど、とりあえず現状は1になってて、それに不満を持ってる親がいるなら親は代案として2か3を出すべきという話だよ。
増田は、ナツさんがトピ主にツッコミを入れてるという構図だけ見て「女(ナツさん)が女(トピ主)の邪魔をしてるんだ」と解釈をしているように思えるんだけど、実際は「女(顧問の奥さん)の邪魔をしようとしてる女(トピ主)」という構図に対してナツさんがツッコミを入れているという図式なので、その視点で見てみるとよいと思う。
という2chとか、はてサ民の声の方が正しい気がする。それ以前に、「高速道路の無料化」という言い回しが一人歩きしてしまっている。
僕の立場は、「無料化に条件付き賛成。少なくとも償還済み路線は値下げはすべき。」という立場です。
「高速道路の無料化」の議論のもともとは、「『建設費償還が償還されるまで有料、それ以降は無料』という前提で料金を徴収してきたはずなのに、償還後も料金徴収が、引き続き継続されていて、しかもドンブリ勘定になっているのはおかしい」というところだったはず。だから私は、この原則を各高速道路に適用して議論することで、自ずと結論が見えてくるはずだと思っている。
たとえば、すでに(初期コストの)償還が終わっているはずの東名・名神などは無料化(の方向)で検討すべき。
一方、まだ(初期コストの)償還の終わっていない地方の高速道路は、償還される、またはある程度の償還があるまで料金を徴収すべき。
とはいえ、東名・名神等をいきなり無料化すると、維持管理費の問題もあるし、交通政策上の問題(インセンティブ)、受益者負担の問題もある。だから、ある程度の料金徴収は必要だとも思う。
そこで、各高速道路ごとに、高速道路料金(初期コスト+維持コスト+社会的インセンティブ)や高速道路関連の収入(PA/SAの場所代・出店料)・支出を切り分けて計算して、本当に必要な料金だけを徴収する方向に向けていくことが、「高速道路の無料化」の議論だと私は思っている。
そういう考えの下だと、北海道や九州で「無料化」するのは違和感がある。少なくとも初期コストを償還するまでは料金取ろうぜ?あと償還しきれてない分はどの財源で払うのさ?受益者負担って言葉知ってる?と、言いたくなる。
もう少し正確に言うと「高速道路は有料のままでいるべきだが一般道路は無料でいい」という人の理屈。「あらゆる公共インフラは受益者負担であるべきだから公共事業に一切税金使うな。だから道路も全部有料にしろ」という理屈ならわかる。高速だから有料であるべきで低速なら無料でいいという人はいったい境目は時速何キロなんだろ?高速でも渋滞で遅ければ料金やすくして一般道でも拘束出したら金取るとかが理想の姿って事なんだろうか。
高速道路無料化でCO2増えるとか言うけど、これは一般道路でも変わらないし、信号とかで停車発進繰り返すこととか考えたらむしろ排出多そうなんだから、一般道も有料化すべきってことにならないんだろうか。ガソリン税でとってるというかもしれないけど、これは高速走るときのガソリンだって同じことだし、それなら特定の道路を有料化するような不公平なやり方より炭素税でもやったほうがいいはず。