はてなキーワード: アセクシャルとは
34歳女、総合職、結婚願望なし、子供も欲しくない。10年ちかく恋人はいない、アプローチされても断ってきた。でも最近そろそろやっぱりパートナーはいてもいいかな〜と思いはじめマッチングアプリを始めたが、自分がいいなと思うひとはいない。いいねしてくれる人はゆくゆくは結婚したそうな人が多い(確かに30〜40代でマッチングアプリに課金する男性はそうなのかもしれない)。会ってみても友達にはなりたいけど付き合いたい人はいない。アセクシャルではないが別にもう一生セックスしなくてもいい、むしろ面倒臭い。という自分がイマイチ理解できずなんなのだと思っていたのだがこの記事を見てピンときた
https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2022/02/23/132151
さらに彼・彼女らと私はどこまで行っても「点」の関係でしかない。趣味なり酒なりネットなりを媒介にして私は友人たちと繋がっていますが、どんなに親しい友人でも、どんなに気の置けない仲間でも、どこまでいってもそれは媒介を通した「点」の交わりでしかなく、生活や想い出の積み重ねといった「線」としての繋がりではない。それが「友人」の持つ限界なのです。
私の人生を知る存在は、私の「線」としての人生を共有する存在は、この広い世界に私ただ独りしかいないのです。それは、なんと孤独で寂しいことなのでしょう。そう、私は「生活友達」が欲しいのです。趣味や店といった「点」ではなく、日々の積み重ねの共有という「線」で繋がった「生活友達」が。
そしてそうした「線」としての存在は、現在の日本社会では結局のところ「家族」という形式をとらなければ得難いものなのでしょう。そう考えたとき、私は結婚をしたくなりました。「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」
これに全然共感できなくて、気づいた。自分は自分の人生で起こった楽しいことや嬉しいことや面白いことを、独り占めしたいと思っているところがある。親しい友人は遠距離で数人いるけど数年に1回合えば楽しいし時々メールで近況を報告し合うのが楽しい。友達と毎日会うとイライラし始めて仲が悪くなりかけたこともある。昔付き合っていた恋人とも全部は打ち明けなかった。確かに好きだったがもっと境界が欲しかった。
「自分だけの考え」「自分だけの感動」を他の人とシェアしたくないと思っている。どんなに仲の良い人間でも所詮他人であり、感動を100%伝えることは不可能なので、「伝わらなかったフラストレーション」が生まれるのである。本を読んだ後の感動とか、絶対誰にも喋らないようにしている。仕事が終わった後に一人の家に帰るのが至福である。帰った後に家で誰かが待ってると思うとゲンナリする。それを守るならば孤独死もしょうがない、人生の最後10年間が大変だったとしてもそれまで楽しく生きてれば人生積分的には満足である。今を大事に生きているので今のところ人生の後悔は特にないし今後もそうだろう。「点」の友達をつくって一人で生きていくのは自分に向いているのかもしれない。
実はLGBTQという概念が嫌い
何ていうのかな
子供の頃に1人も好きにならなかった人がいたとして、その人が自分はAセクだってなったとする
そのあと同性を好きになったとして、その人が今度は自分はゲイだってなったとする
そのあと更に異性を好きになったとして、その人が今度は自分はバイだってなったとして
じゃあその人は何なの?ってなるじゃん
そういうところが概念として弱すぎて嫌い
「私は昔はアセクシャルだったけど、その後ゲイである事に気づいて、今はバイである事に気づいた」
ってなるでしょ?
何だよ気づいたって
自分の性についてはうるさいくせに
「好きになる」自体が内面的で他の人と同じか分からないのに自己判断させてるところも嫌い
あとは単純に性的嗜好なのが混ざってるのも嫌
LGBTQっていう概念が流行ったのは結局「マイノリティーである私を受け入れて欲しい」っていう弱い心から来てるんだよ
あとは「自分はゲイなんだから同性を好きになるのは当たり前」みたいな認知的不協和を解消しているだけ
もちろんそれは悪いことではない
発達障害とか、ADHDとかアスペルガーとか、そういうカテゴリー化されて自分だけじゃないってことで心が救われることもあるから
ただ、流動的、グレースケールが非常に多い「好きになる相手のカテゴリー」とか「そもそも好きになるか否か」という事象に対して
まるで固定された属性であるかのようなLGBTQという概念は筋が悪いと思う
ノンケだって好きになる相手群は一致してないはずだから、個々人で色は違うはずなのに
あれって一生変わらないんだろ?そういう認識なんだけど
人に色を付けるのが嫌い
むしろ、子供が欲しい = 異性愛だってのがLGBTQを理解していないのでは?
今時、レズカップルが精子提供を受けて子供を作ることもあるわけで、子供を作るという選択肢は異性愛のものだけではないよ。
フランスとかにはゲイカップルに育てられている子供もいるし、同性婚も認められているわけで、性指向が同性愛やアセクシャルだからといって、子供を持てないわけではない。
元増田は性自認は女性だが、性指向が定まらなかったと書いていたので、子供を作る=性行為=異性愛だと思い込んでいたからの悲劇かと思った。
まあ、LGBTQサークルから入ったサポーターはどうなのって感じがするけどね。
周りみんな異性愛だから自分も異性のこと好きかもと思って何度か付き合ってみたけどやっぱり異性のこと別に好きじゃないのかもしれないとかなんか違う感じがするとかあるじゃん
付き合った流れでセックスしてみたら自分には性欲なかったってことが判明しただけじゃないのか
性欲なくても愛情はあるからセックスはできるし付き合うことだって可能。ただ相手の性欲に対してこれ何か自分とは違うんだろうなーという変な感覚が一生つきまとうだけよ
変な感覚と一生向き合いながら現状一般的とされる異性愛者を演じて生きるか、割り切ってアセクシャルだとか同性愛者だとか公言して素の自分で生きるかの違いよ
こういうのはだいたい気持ちいいセックスを経験してないだけなんだよな。
街に出よ。異性に出会え。
もう一つの問題は先生が検閲なしに(下調べ不十分で)サークルを呼んできちゃうことなんだよな。
「LGBTQの授業をやれ」と言われたのかもしれないけど
ずっと誰にも言えずにキレ続けていたことを最近落ち着いて思い出せるようになったので消化。
私が通っていた高校は県内でも有数の進学校と言われるようなところで、様々な人を外部から招いて講演を聞く授業なども定期的にあった。
その日のゲストはどこかの大学のLGBTサークル(記憶が曖昧。キレすぎて意図的に思い出さないようにしていたのでもはやわからない)で、サークルの中にもLGBTがいるし皆でフレンドリーに楽しく学ぼう!みたいな触れ込みだったと思う。
しかし、私は講演のため教室を移動する最中からずっと不安だった。
その頃の自分は性的指向をはっきりと自覚できていなくて、とにかく私以外の全員が当たり前のように共有している”異性愛”という概念を理解できず、同性愛者かも、いやアセクシャルかも、と悩む日々を送っていたからだ。
だから皆の前でグループトークとかあったら挙動不審になっちゃうかも、と心配していたのだが、その予感は的中することになる。
まず、簡単にLGBTQなどの用語についての説明が終わった後に、今度は自分を仮想状況の中に置いて当事者への向き合い方を考えてみよう!というコーナーになった。
出された例は、
「自分が母親だったとして、子どもがゲイと告白してきたらどうするか」
というものだった。
これについて考えてみよう!と言われた時、動揺で頭が真っ白になった。
女子校だったから「母親」の例を出してきた感じだったが、仮にもLGBTをめぐる授業でその無邪気な選択肢はないだろ、と強烈に思った。
他の皆はナチュラルに「母親」の例を受け入れていたのが信じられなくて何も言えなかった。世間とのずれを眼前に提示されている気分だった。
LGBTの話題で「まぁここにいる大多数の人は将来結婚して子ども産むよね」っていう前提が透けて見える例を出すの......どう?!どうなの!?!?
それは「架空の友人」とかじゃ駄目だったの......?「母親」なの...?
私は自分が「母親」であると仮定することが苦痛だったし、子どもを持った時の気持ちとかが何回やっても考えられなくて、何も言えなかった。
ずっと黙っていた。
なんと議題が「もし実際友人にLGBTQがいたらどうするか」というどストレートなもので、議題が出た瞬間なんでこんな公開処刑みたいなことするかなぁ!??!と思ったし、これ生徒の中に私みたいなLGBTQ当事者がいる状況を仮定せずに授業組んだのかなぁとか、先生はこの授業内容で良いと思って通したんだなぁとか、色んなことを思って本当に本当に悲しくなった。
6人くらいのグループになって、講師サークルから1人ずつサポーターとしてグループについた。
たぶん何も話せなかったと思う。
ここで黙ってたら怪しまれるぞ、バレるぞという思考がぐるぐると頭の中を回ったものの、声が出なかった。
他の人の話ももう一切聞きたくなかったけれど、クラスでリーダーシップを発揮して委員をやっていたような子が「友達だったら勿論受け入れるけどさ、まぁ...(友達じゃなかったら厳しい)」みたいなことを言っていたのと、その発言に対してサポーターの人が特にフォローとかはせず薄ら笑いみたいな表情を浮かべていたのは覚えている。
地獄か?
最後の辺りは泣きそうになってたし(表情には出てなかったと思いたい)、授業終わりに配られる匿名コメントペーパーにはもう2度と来るなみたいなことをかろうじて書いて出した気がする。
この体験のせいかは知らないが、その後はますます異性愛に対する忌避感が酷くなって、学校行事で恋愛モノの舞台を見に行っても辛くて辛くてもう画面が一切直視できなかったりした。(終始目を瞑って石になっていた)
数年間この出来事を突発的に思い出してはキレ回し、なんで自分はあんな目に合わなければならなかったんだ、あんな公開処刑であなたは我々の想定していないイレギュラーですということを提示されなきゃいけなかったんだと思い続けてきたが、最近やっとキレずに出来事を冷静に見つめられるようになってきた。
学校でLGBTの授業を!というニュースを見るたびに、実態がこんな感じの公開処刑になってないといいなぁということを考える。
うちの自称進学校がおかしいだけならいいんだけど(よくない)、あのサークルは色んな学校で講演してたみたいだしこういう...やり方を...世に広めないで欲しいな......お願いしますよ
余談:
女子校の授業、異性愛が前提にありすぎみたいなのをなんとかしてほしい(うちの学校だけかもしれない)。
家庭科の授業は将来”母親”になること前提の価値観が透けた文言があちらこちらに散見され、妊婦体験授業や性行為に関する授業などが結構な比率を占め、「将来良いお母さんになれるね~!」とかいう言葉が無邪気にとんでくるのをほんとにやめてほしかった。
授業をするな!っていう話じゃなくて、「将来あなたたちもこうなるかもしれませんから」ではなくて、「人間として大事な知識なので性別関わらずちゃんと知っておこうね」のスタンスで出してほしいんだよ...
【追記】
嫌な記憶に対する私的な墓標として書いた文が伸びていてびっくりしています。
難癖とか、スルースキルが足りないというコメントに対して少しだけ意見を言わせていただこうと思います。
私もこれが私的な雑談などの話だったら話を合わせてスルーしていたと思います(事実友人との会話では何度もそうしていました)。
問題はこれが「LGBTQフレンドリー」を掲げて学校という場で出された授業だったということです。
そんなこと言われたら多少自分の属性が認めて貰えるのかもしれないと期待してしまいます。
先生や講師という偉い立場の人から優しい授業があると思ったのに、実際は「まぁそんな人はいないと思いますけど」というように全てが進み、「こういう人って受け入れられる?」「自分はこの程度なら大丈夫かな〜」というあけすけな意見が飛び交うのをじっと耐えなきゃいけないのは、辛いです。
LGBTに対する感情は個人の自由だと思いますが、強制的に議論の場を作り上げておいて特にフォローもせずなすがままにしておくのは、きっと教育の在るべき姿としては違うと思います。
教育者の立場からLGBTを取り上げてわざわざ授業を出すなら、もう少しだけLGBT当事者のことを考えてほしかったなという気持ちです。
【追記2】
また、女子校についてやや誤解があるようなので、一応説明しておきます。
「なんでわざわざ女子校選んだの」に対する答えですが、わざわざ選んだわけではありません。
設備・部活動の充実だったり、高いレベルの教育だったりを求めて受験先を選ぶと、地域によっては必然的に私学の女子校ばかりが残ります。
これは男子校の場合でも見られるケースかなと思います(詳しくないのですが、灘とか武蔵とかが有名なんですかね)。
また、中高一貫、場合によっては幼稚園から一貫ということもあり、入学の時点で「自分は確実に異性愛者で、良い母親になる。そのための教育を望みます」と自認している子は少ないのではないかなと思います。
マウント取れると思ってなのか既婚子持ちパートさんが頑張って子供との幸せ安定な家庭アピとか子どもが〜みたいな話ばっか振ってくるんだけど自分はアセクシャル傾向あって欠片も結婚の意志がないのでめ、めんどくせ〜〜〜〜ってなる。
優しいから聞き流してあげてるけど、この手の既婚子持ちの人らは既婚で子持ちであること以外に誇れることがない、アイデンティティ確立できないから結婚してないお前より自分のほうが価値があるとアピールしたがるのかな、と最近思った。
既婚子持ち=ステータスみたいなさ。表向きは独身の生き方も尊重する、自由な時間があって羨まし〜とか言いながらも自分の選択が間違ってた、となることだけは無理なんだろうな。
あとこういう人たち世の中に不満あれこれ言う割にその世の中に子ども産んでてその辺の整合性どうなってるのかいつも不思議。子どもがその世の中で人生送ることを自分が強制してることには何も思わないのかな。
私は現在20代後半の女であるが、無性愛者という単語を知ったのは中学生の時だった。
ここで無性愛者に知らない人のためにざっくり説明しとくと、他者に対して性愛や恋愛感情を持たない人だと考えていただければいいと思う。
他にもアロマンティックだとかアセクシャルだとか色々あるらしく、厳密には私の説明では間違いがあるかもしれないが容赦して欲しい。
気になる人はググってくれ。
とりあえず私の場合は、他人に対して恋愛感情を持たないのと自分がキスや性行為等を行うのに非常に嫌悪感がある。しかしAVやエロ漫画等は好んで読むし、他人が性行為をすることに対しては拒否感はない。
中学生だった私はネットでたまたま見つけた無性愛者に関する記事を読んで、これは自分のことだと納得したのを覚えている。
しかし、その記事には思春期だと精神的に未熟だから無性愛者だと判断は出来ないとか書いてあったように思う。
その時の私は、そういうものかと思い、いつか誰かを好きになるかもしれないと考えていたが15年近く経った今も誰も好きになれないままだ。
恋人がいたら変わるかもしれないと作ってみたこともあるが、私に恋愛感情がないことが原因で破局してしまった。
相手は良い人だったし友人としては好きだったので申し訳ないことをしたと今でも思ってる。
仕方がないから一生独身でいようと思っていたのだが、最近孤独を感じるようになり将来が不安になってしまった。
学生時代から友達が多い方ではなかったが、社会人になってさらに減ってしまった。その上コロナ禍のせいでますます疎遠になり休日は一人で過ごして話し相手はいない。それでも趣味とかしていれば寂しくないから大丈夫だと思っていたけど、年齢を重ねるにつれ、趣味に対する情熱も失せてしまった。
今は両親共に健在だから良いが将来完全に1人になった時、この孤独感をどうすればいいのだろう。
今のままだと誰にも必要とされず、死んでも誰も悲しんでくれない人生が待ってる気しかしない。
結婚のデメリットは色々あるしすれば必ず幸せになれるというわけではないけど、独身で孤独じゃない生活を送るのはかなり社交的な性格じゃないと無理だと思う。
まだ20代後半で、まだ間に合う年齢だから結婚に向けて動くべきなのだろうか。