はてなキーワード: 玉音放送とは
どうも、なんとも言えんなあ。今ひとつピンとこなかったような気もするし。
事前情報はほとんど何も仕入れずに行った。こうの史代という人がどういう作品を書いてるのかも知らない。ぼおるぺん古事記の名前くらいは聞いたことあったけど。
「この」というと「すば」と頭のなかでサジェスト機能が働くので、窓口でついつい「このすば1枚」と言いそうになった。言わなかったけど。
キャラクターが水木しげるが描くみたいな絵柄だなあと思っていたら、爆弾のあれで余計に水木しげるみたいになってしまった。
火垂るの墓がどうのと言っている増田もあったけれど、戦時中の家庭生活という点で風立ちぬのほうが近いかなあって気がした。主人公が本業の声優さんじゃないし、結婚式もあったし。
玉音放送のときのすずさんの反応が少々、というかかなり意外であった。海軍の関係者がいるなら負けることはわかっていたろうにと思うのだけれど、何かをうしなった人というのはああいうものなのだろうか。
前半で足の悪いお義母さんがいつもお米を搗いているのが印象的だった。前に一度あれと同じようにして搗精をしたことがあったけど、ちゃんとお米になったので面白かった。
台所と教室の床にあいていた穴に燃えるゴミを入れていたようだけれど、あれはどういう仕組みになっていたのだろう。
竈で飯炊きをしているあの家にもあのあと電気釜や洗濯機、テレビが入ってきたりするんだろうな。
クラウドファンディングに参加した人は、エンドクレジットで上の名前を見ながら下の絵も見なくちゃいけないから、相当忙しいんじゃないだろうか。あの名前一覧はなんとなく規則性がありそうだったけど、どういう順番で並んでいたんだろう、全くの順不同でないことは確かだろうが。
右と左の区別がよくつかないたちなので最後の手は右手だったか左手だったか、じっと手を見てしばし考えてしまった。なるほどそちらの手であったか。なるほどなるほど。
俺は戦後生まれだから戦争をTVやネットなんかでしかしらない。
子供のころから「戦争は良くないよな、やらないに越したことない」と思っていた。
それは今も変わらない。が、昨日毎年放送されてる終戦の日の特集なんかをみてると、
「次は勝たんといかんだろ」
とふと思った。どこに対して、何と戦うかは不明だが、その思いだけが強烈に出てきた。
戦争は負けたらおしまいだ。かなり重要なことだが、TVではあんまりそのことはやってない。
「戦争は悲惨だ」ってのはあっても、「負けたらダメなので勝ちましょう」ってのは無い。おかしい。
過去の映像を見ても、「ああ、敗戦国になって滅茶苦茶悔しかったろうな」って感情が出てきた。玉音放送聞いてる時とか。
生活も切り詰めて、愛する夫や息子も失って、それで「日本負けちゃいました」って、悔しく無い方がどうかしてる。
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
共感力の高低云々という話もあるが、共感後の再・他人事化という逆向きのベクトルの話もあるわけで、俺が増田に「共感」してしまったのは、深読みなのかもしれないが、事象を体験した後の他人事化(心理的な切り離し)について、それなりに考えた上でやや露悪的に書いているんじゃないかと思ったからだ。
が、今読み返すと当事者に寄り添う意識はあまりなかったようだ。どちらかというと俺は増田の友人のクリエイターのほうに近いのだろう。
そもそも俺自身はクリエイターとはぜんぜん違う社畜界の人間なので、その意味ではこの増田のクリエイターさんに「共感」できる下地がどの程度あるか分からない。
災害の起きた場所に親族・知人の縁がなく自分が安全なら、身につまされることなく「最初から最後まで」他人事感覚で見ることも難しくはないだろう。それを口に出すべきものかどうかは(道徳的に、あるいは本人のメリット的に)別として。
それより、はてな住民からのバッシングに近いブコメを見て思うのは、正義感あふれる書き込みをしている人の中には人は「当時自分がどう感じていたかを自分に都合よく忘れてしまった人もいるんじゃないのか」ということだ。
大震災の一次的被害者でなかった南関東の住民として書くと、いつ終わるともしれない余震と原発がどうなるかにおそれ慄き、停電の実施に怯えつつ、それと同時に、震災は東京で起きたのか、と思うくらい、東京の現在ばかりを伝えるメディアに軽く怒りを覚えながら、それでいて何か非日常感に心踊る自分に戸惑ったことを覚えている。「この高揚感は何なんだ」と、思った人がそんなに少ないとは思わない。
3月12日の夜、一日たってようやく公式に姿を見せた首相の国民向け演説を見て、その自己陶酔ぶりに異様さを読み取った人は多いはずだ。あの夜、この人は自分にしか関心がない人に見えて不安だった(そして後にその不安は的中する)。
見ていた俺もそれほど変わらない。
何かこの国の形が変わるような重大発表があるのだろうと、1945年8月15日の「玉音放送」を聞く日本人に自身を重ねるような気持ちでテレビの前に座ったことを覚えている(どちらも発表があること自体は事前に伝えられていたので緊張感をもってその時を迎えた人は多いはずだ)。
被災地支援を語り(ダシに、とまではさすがに書かない)、自己満足にすぎないと自ら語っているボランティアの方々などの例外を除けば、自分の利益にしかならないビジネスをやっているだけなのに、自分は善いことをしていると自己洗脳することに成功した人は身の回りにたくさんいる。
この辺は自分の心にとどめておくべきで、決して、このような形で書いちゃダメな領域なんだろう。「正義派」のスイッチを押してしまう(その意味では、これを書いた俺もクリエイターさんと同様にタブーを犯しているんだろう)。
クリエイターさんがどういうジャンルの方なのかわからない(アニメ系の方?)が、
「あまちゃん」で太巻がいった「売名行為だよ」という発言で、勇気づけられたエンタメ系の人も多いんだろうと思った。実際、あの劇中人物の発言で、悩みが吹っ切れた人がいるという話を聞いた。
俺自身は、いまだに吹っ切れていない。
直接の形では自分に起きなかった不幸、しかし自分が立ちすくむ程度には影響を与えた出来事をどうハンドリングしたらよいのか、今も分からない。
自分の心の内側から出ているとは思えない言葉を使って、日常をやり過ごしていることへの罪悪感は隠し切れない。
……と、このように書くこともまた綺麗事だよな。無限ループは続く。
戦争について、学ぶことはなんの意味があるのだろうか。ふとそう思った。そして、それをいくつかの切り口に分けて考えてみた。
私が生まれたのは平成がはじまってすぐのこと、ちょうどソ連が崩壊した時期だ。
もちろん、私にとっての戦争は、まったくもって身近なものではない。
ただ、平和とか戦争について考えているうちに、あえて書いて、いまのところの自分の考えを残してみたくなった。
特にここでは、日本が直接関わった直近の戦争であり、当事者が生存している第二次世界大戦もしくは大東亜戦争について書きたい。
それでも、もう70年も昔のことだ。もう30年過ぎて、あっという間に終戦から100年くらい経ってしまうだろう。
戦地に赴かない限り、また時代を遡らない限り、戦争を経験するというのは不可能である。そこで、戦争とはなんだったのかというアプローチが一番初めにくる。その方法は、博物館に行く、写真をみるなどなど様々である。特に、昭和のひと桁年代に生まれた方々が生きている間は、彼らが直接経験したその記憶から学ぶという方法が可能だ。国民の高揚もしくは虚脱、戦争の残虐性を生の声で聞くことができる。ただ、これはあと10年もしたらほとんど不可能になってしまうかもしれない。
2) なぜ戦争が起こったのかを学ぶ
なぜ人は戦うのか、なぜ領土拡大を目指したのか、なぜ支那事変は起きたのか。戦争という歴史的事実の起点に対して、なんで、と問いかけてみるのは素朴ながら、ものすごく頭の回転を必要とする。当時の国際情勢はどうだったのか、リーダーたちはどのような野望と認識を持っていたのか、国民はそれにどのように反応したのか。様々な要素が重なりなって、奇襲や宣戦布告へと結びつく。今後、自分たちの国を戦争に巻き込まないためにも、なぜ戦争は始められたのかという視点は重要だ。
3) なぜ戦争に負けたのかを学ぶ
戦争は悪だという考えで、考えることそのものを停止するのは簡単だ。負けてしまった戦争の敗因を考えても仕方がない、という声もあるだろう。ただ、同じ過ちを繰り返さないという意味でも、その分析は意味を持つ。たとえば、地図をみながら、その伸びきった補給線に嘆息するのもそうだし、インパール作戦など、個別の作戦の是非を問うてみることもできる。ミッドウェー海戦をひとつの転機とするならば、ガダルカナルなどその後の日本軍の行動をチェックしてみるのもいい。失敗から学ぶ、その絶好の材料がここにあるはずだ。
4) 戦争のあとに何が起こったのかを学ぶ
玉音放送を流したのが8月15日、日本が降伏文書に調印したのは9月2日である。敗戦を迎えた日本はどのような戦後処理を受けたのか。それは戦争によって決められた勝者と敗者の間における、責任と今後の関係性の規定だ。東京裁判はじめ戦争犯罪人の断罪や、大日本帝国憲法の破棄と日本国憲法制定のプロセス、国体及び皇室制度と政治責任に関する議論など、その射程は広い。もちろんサンフランシスコ平和条約も外せない。戦争の前と後でどのような変化があったか。それまでの常識が非常識になり、非常識が常識になったその転換を捉えることは、私たちが生きる時代のはじまりを知ることができる。
5) 戦争の裏で何が起きていたのかを学ぶ
戦争から何十年も立ち、研究も進んだいま、私たちはひとつのできごとをいろんな視点から見ることができる。日本が必死になって戦争していた裏で、連合国はその後の戦後秩序についての議論を重ねていた。その反対側のやりとりを見ることは、面白くもあり、悲しくもある。例えばカイロ会談、テヘラン会談、ポツダム会談では、その後の大国による世界秩序の土台がどのように作られていったのかを知ることができる。往々にして、物事は知らないところで決定されているものだ。
6) その後の人びとは戦争をどのように捉えたのかを学ぶ
最後に、後世に生きる人びとはどのように戦争を捉えたのかを考えることは、非常に重要だ。戦争を知る世代はそれをどう形容したのか。戦後の歴史において、知識人や市民がもがきながらその形容詞を見つけていく過程から、戦争と日本、そして市民との関係を考える際のヒントが眠っている。もちろん、戦争そのものを完璧な見方で統一することは出来ないし、しなくてもいい。だけど、その議論をときに批判的に、ときに肯定的に見つめ直しつつ、あえて自由に考えてみよう。戦争の総括というものが不在だからこそ、自分で考えることが必要になる。
6つ項目をあげて書いてみた。もちろん諸外国からの視点、人道的な視点など、まだまだ様々な切り口がある。
平和な世界を希求する、実現するためにも、そうでなかった時代をもっともっと知っておいたほうがいい。
今まで書いてきたのは、全て日本の話だけ。あらゆるところで紛争は起きているし、その火種はどこにだってある。
このような問題に対して、目をそむけるのは簡単だけど、目を見開いて、向き合っていたい。
じーさんがたの会合に顔をださなきゃいけなくて行ってきたんだけど、若いのが一人混じって酒でも入ろうものなら戦時中の話になる。
おれも90も後半のじーさんから聞いているので、知ってはいるのだけどあちこちの話しを聞くと新しく知ることも多い。
とりあえず書いてみる。@東京とかのお話。地方で参戦されたかたも居た。
・勝てっこないのは当時の市民にもわかっていた、戦争やろうと思ったのはバカだ
・対空砲を警戒して米軍はチャフ(のことだと思う)を蒔いていたが、そもそも対空砲なんてなかった
・冗談じゃなく竹やりをもたされた
・焼夷弾を消す訓練をさせられていたが、降って来たのは数万発だった
・みんな死んだ
・戦後は毎月500円分だけ切手が配られてその切手を貼ったお金だけが有効だった
・銀行は封鎖された
・みんな貧乏になった
・それでも私腹を肥やしたヤツはいた
・土地の所有を証明する書類は役場ごと焼けた
・銀座とかは無法者が土地を占拠した。土地が欲しいか命が欲しいか。
・自決した(しようとした)陸軍の指導者とかは侍だ、立派だなんて言うがとんでもない
・玉音放送がなければ本当に竹やりで戦うはめになった
・玉音放送を聞いたときの感想は、悔しさでも嬉しさでもなく「死なずに済んだ」だ
・軍隊にいたときは、敵船上陸が迫った前日には腹に爆弾まいて死ぬ準備をしていた。
・特攻志願時は縦一列にぴっちり並ばされて、志願するやつは前に進めといわれるが、うしろからどんどん押されるのですすまざるをえない。結局みんな志願したことになる。
・そもそも無理やりにつれて行かれるのだから、個人の意思とか関係ない。
・われわれもあと20年もしたらみんな死ぬ
・戦争を体験をした人がいなくなると、また同じことが繰り返されるかもしれない。
・戦争はやだね
なんか、現代の動きが当時の陸軍をみているようで心配なんだそうだ。
トップダウンでものごとを決めようとしたり、アメリカとは対等だとか言い出すところが気になってるみたい。
あ、あと、それとは話がずれるんだけど、昔しは町会が変わるほんの2~3キロで言葉が通じなかったんだって。
単語が違ってなに言っているかわからなかったそうだよ。
方言すぎるだろ。