共感力の高低云々という話もあるが、共感後の再・他人事化という逆向きのベクトルの話もあるわけで、俺が増田に「共感」してしまったのは、深読みなのかもしれないが、事象を体験した後の他人事化(心理的な切り離し)について、それなりに考えた上でやや露悪的に書いているんじゃないかと思ったからだ。
が、今読み返すと当事者に寄り添う意識はあまりなかったようだ。どちらかというと俺は増田の友人のクリエイターのほうに近いのだろう。
そもそも俺自身はクリエイターとはぜんぜん違う社畜界の人間なので、その意味ではこの増田のクリエイターさんに「共感」できる下地がどの程度あるか分からない。
災害の起きた場所に親族・知人の縁がなく自分が安全なら、身につまされることなく「最初から最後まで」他人事感覚で見ることも難しくはないだろう。それを口に出すべきものかどうかは(道徳的に、あるいは本人のメリット的に)別として。
それより、はてな住民からのバッシングに近いブコメを見て思うのは、正義感あふれる書き込みをしている人の中には人は「当時自分がどう感じていたかを自分に都合よく忘れてしまった人もいるんじゃないのか」ということだ。
大震災の一次的被害者でなかった南関東の住民として書くと、いつ終わるともしれない余震と原発がどうなるかにおそれ慄き、停電の実施に怯えつつ、それと同時に、震災は東京で起きたのか、と思うくらい、東京の現在ばかりを伝えるメディアに軽く怒りを覚えながら、それでいて何か非日常感に心踊る自分に戸惑ったことを覚えている。「この高揚感は何なんだ」と、思った人がそんなに少ないとは思わない。
3月12日の夜、一日たってようやく公式に姿を見せた首相の国民向け演説を見て、その自己陶酔ぶりに異様さを読み取った人は多いはずだ。あの夜、この人は自分にしか関心がない人に見えて不安だった(そして後にその不安は的中する)。
見ていた俺もそれほど変わらない。
何かこの国の形が変わるような重大発表があるのだろうと、1945年8月15日の「玉音放送」を聞く日本人に自身を重ねるような気持ちでテレビの前に座ったことを覚えている(どちらも発表があること自体は事前に伝えられていたので緊張感をもってその時を迎えた人は多いはずだ)。
被災地支援を語り(ダシに、とまではさすがに書かない)、自己満足にすぎないと自ら語っているボランティアの方々などの例外を除けば、自分の利益にしかならないビジネスをやっているだけなのに、自分は善いことをしていると自己洗脳することに成功した人は身の回りにたくさんいる。
この辺は自分の心にとどめておくべきで、決して、このような形で書いちゃダメな領域なんだろう。「正義派」のスイッチを押してしまう(その意味では、これを書いた俺もクリエイターさんと同様にタブーを犯しているんだろう)。
クリエイターさんがどういうジャンルの方なのかわからない(アニメ系の方?)が、
「あまちゃん」で太巻がいった「売名行為だよ」という発言で、勇気づけられたエンタメ系の人も多いんだろうと思った。実際、あの劇中人物の発言で、悩みが吹っ切れた人がいるという話を聞いた。
俺自身は、いまだに吹っ切れていない。
直接の形では自分に起きなかった不幸、しかし自分が立ちすくむ程度には影響を与えた出来事をどうハンドリングしたらよいのか、今も分からない。
自分の心の内側から出ているとは思えない言葉を使って、日常をやり過ごしていることへの罪悪感は隠し切れない。
……と、このように書くこともまた綺麗事だよな。無限ループは続く。