はてなキーワード: 侮蔑とは
黒人差別とチー牛
黒人差別を引き合いにしながらブサイクな自分への容姿差別について声を上げる増田。
Aikoku_Senshi 「チー牛」ってなんJ発祥のホモソーシャル文化なのに陽キャに逆らえない代償として容姿差別していることにされる女の人は大変だな…。
増田の話の当該箇所は
・ブサイクなせいで中学生時代にひどい扱いを受けた(特に女子から)
・現在もチー牛のようなブサイクいじり概念は愉快なギャグのように流通している
であり、
これを読んで「『チー牛』いじりは女がやっていると主張してるんだな」になるやつは国語が0点である。
こんな低国語力なコメントを書く人やこのコメントに☆を付けた人たちは頭が悪いのだろうか?
確かに頭も悪いのかもしれない。がやはり、
増田への敵意や悪意がまずあって、なにかしら攻撃できる箇所を無理に探してこうなった部分は小さくないだろう。
このブサイク増田は明らかに、なんらかの敵意を買っているのだ。
ブサイク被差別の悲しみを表明した増田にAikoku_Senshi がやったことは何かというと
重箱の隅をつついて話逸らしや反撃を試みる
ということだ。
今回のトップブコメの場合は上で見た通り重箱の隅つつきすらできてない謎コメントになっているので
アクロバット誤読で攻撃を加えて差別の申し立ての無効化を図ったと言えるだろう。
これは差別の申し立てに直面した市民の態度としてはサイテーと言える。
これをやっているAikoku_Senshi が差別大好きで被差別者いじめるのが大好きな居直りヘイト野郎なのかというとそんなことはなくて
むしろ普段は「差別反対」濃度の強いコメントをする「良識派」なのだ。
わざわざ愛国戦士というidにして右派への当て擦りを欠かさないぐらいには左派の人だったりするし
最近もアメリカデモやら大阪なおみの発言記事やらに精力的にコメントしている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4686697237877638242/comment/Aikoku_Senshi
https://b.hatena.ne.jp/entry/4686708456876431778/comment/Aikoku_Senshi
むしろ差別反対を自分達の専売特許や錦旗にしてるぐらいのクラスタの人なのだ。
こういう人が、ブサイク増田の差別申し立ては全力で妨害・無効化を狙って動いてトップに立つ。
トップのAikoku_Senshi 以下も、左派良識派は絶好調だ。
kincity そもそもこの手のネタ喜んでるのネット上のホモソ供で、それすらも「女が悪い」に帰結して内面化するやつが多くて、それどんなマッチポンプ?差別に怒ったら差別者にそれを表明しろ。黒人差別のデモとの違いはそこ
2020/06/05
「チー牛はたぶん男がやっている」という全然文章の主題じゃないところに話を逸らし、
元増田が言ってもいない「女が悪い」を捏造したうえで被差別者に強い口調で説教と戦法指南をして終わり。
本題である本件差別には触れたくないでござる!この被差別者の悲しみには寄り添いたくないでござる!という気持ちだけはよく伝わってくる。
「軍師様」「消極的差別肯定派」などと呼んで激しく非難する態度そのもので
そういうことをあっけなくやってしまっている。
RRD 生まれつきのブサイクと、それを病んでネジくれた結果のブサイクは別物で、まともな大人の社会はきちんと区別するよ。ルッキズムとかネジくれてると、まともな大人の社会には来れないけどな。
2020/06/06
「生まれつきの在日と、生まれを拗ねてネジくれた結果の在日は別物で、まともな大人の社会はきちんと区別するよ。」
「サベツガーとかネジくれてると、まともな大人の社会には来れないけどな。」
ふだんの差別問題に対する立場や体裁をかなぐり捨ててしまうほど強い敵意を持っているらしいことはわかる。
(ちなみにそういうクラスタじゃない人が結構ブサイク増田に親身な同情と助言や励ましを寄せている)
「黒人差別」「女性差別」「在日差別」のようなオーソライズされた差別以外の差別の存在を認めることは、差別反対派にとって不快なのだ。
オーソライズされないところにも無数の差別があるということを認めてしまうと
「黒人差別」などの特別性が希薄化されてしまう気がして不快になっている。
彼等にとっての差別とは、
まず特別で、敵と味方に分かれるもので、特にぶっ叩きまくるための敵は不可欠な、ハレの舞台なのだ。
冒頭に挙げたような「ブサイクで疎外されて心を病んでいる男性の声」などは、彼等を不快にさせる典型と言える。
だって日本人男性なんて普段からぶっ叩きまくるための敵に設定してるんだもん。
設定がぶれちゃうでしょ、っていう。
だからそんなやつが被差別者の聖衣をまとおうとしてるのが彼等には気に食わない。
おめーは凡人でありせいぜい敵担当なんだから身分をわきまえろと。それが彼等の腹の底。
もしブサイク増田が醜貌の替わりに「部落出身」とか「アイヌ出身」とか言ってたら反応はガラッと変わって、
それなら彼等は絶対に今のような反応ではない。
オーソライズ済みの種類の差別の告発なら、それだけの特別性を持ってくるなら、男であっても大歓迎だ。
彼等はアイヌ増田にならもっともらしい顔で同情と寄り添いのジェスチャーを済ませ、
不賛同のブコメに道徳的驚愕のジェスチャーをしながら非難しまくったに違いない。
まあ別にアイヌにも黒人にも思いやりなんか特には持ってないんだけど。
id:Aikoku_Senshiの場合はタグ付けでの更なる誹謗中傷も奮っている。
俺の不幸は女が悪い論
上記の通り「女がチー牛で差別してる」はこの人の誤読だし元増田は女が悪いなんて言ってない。
またそもそも黒人差別社会へのデモに「俺の不幸は白人が悪い論」とまぜっかえすのとどう違うんだろうこれ。
顔ではなく性格が悪い
「差別されてるんじゃなくてお前の問題なんだよ」という差別の申し立て無効化の18番
顔でなく生き様が汚い
声を上げた被差別者に人格攻撃をして差別問題をなかったものにしようとする典型的なやつ
もうコテコテの差別野郎・ヘイト野郎の言うこと全部やっている。
でもこの人含め、多くの左派良識派はこんな感じでありつつ、あくまで差別反対派なのである。
被差別者であろうとそいつが男とか日本人だと不愉快になりそいつのすべてが許せなくなるだけで。
(ついでに蛇足ながら、ブサイク増田は自身が男だとは一度も明言していない。
差別反対派がブサイク増田を男と断じてるのは単に国語力の低さであり、またよりムカつく属性としての男性性を勝手に見てしまったため)
ブサイク増田も確かに差別に遭っており、ありふれた被差別者である。
そして友達の多いゲイや有能な黒人よりよっぽど生き辛い人生を送っている可能性もある。
このような事実に向き合えば、
差別反対とは「オーソライズされた差別を暗記して徒党を組んで激しい言葉で敵を罵ること」ではなく、
他人に思いやりを持って接することだということに気付く。
スマートだったり自分に好意的だったり恋人だったり家族だったり美人だったりする他人と
不潔だったり態度が悪かったり利害が対立してたり酷いブサイクだったりする他人とを
区別のない思いやりを持って遇するということだ。
知らないサラリーマンのおっさんの禿げ頭がもたれかかってきても、
「寝かせておいてあげよう」という優しい気持ちを同じように持てる心のことだ。
これは簡単ではない。厳しい訓練の取り組みがいる。
たまに「私だって差別者になりうる」「自戒を込めて」とかコメントしてアリバイを作ったつもりになってもダメだ。
生活を律して常に自分を観察するという一種の修行の日々を踏むことで
我々は少しずつ差別を理解しその心を自分の中から削っていける。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4686702358555672194/comment/Aikoku_Senshi
でも日本人男性のような身分の低いやつらが声をあげたら全力で攻撃して無効化を図りマース。
こんな人は差別反対でも何でもないということが、ここまで読んだ人には分かったと思う。
「自粛」と言っても、パチンコ、ホームセンター、家電量販店、バーベキューなどに行く人はいるのにはびっくりした。 東京都民って、生まれ育ちが都民の人以外は、自分の意志で夢を叶えたりだとか仕事で自己実現ををするために上京してきた「賢い人達」ばかりだと思ってたので ・・・
失望というか、侮蔑というかそんな気持ち。もういっそのこと感染者数が東京都だけで一日1万人、死亡者も一日100人超え! みたいになったら見える景色も今とだいぶ違って見えるのかな〜、と思ってしまった。
自粛警察や彼らを擁護する人々は『たとえ法律に反してでも自粛という正義のために活動している』みたいな大義名分を掲げているけど、彼らの正義は"人々の正しさ"とは合致していなくて、だから世間に受け入れられず侮蔑されているんだと思う。
会社から呼ばれたサラリーマンが出社しているのを見れば分かるけど、大半の人間は自粛という目標を遵守することよりも、自分の食い扶持を守ることの方が大切だと思っている。
仕事だけじゃなくて遊びもそう。
自粛を無視して遊び回るのがよくないと繁華街から人が消えても、公園やスーパーに人が集まっているのは、多少は息抜きしないとやっていけないと皆が気づいているから。
自粛して感染を防ぐべきと思う一方で、それ以上に「まあしょうがないよね」のラインを許すのが、スタンダードな"人々の正しさ"なんだよ。
一方で自粛警察の掲げる正義が何に基づくかと言ったら、それは政府や自治体が決めた"権威による正しさ"。
お国様が自粛しろと言ったから盲目的にそれを守るのが彼らの正義。
やっていることは権威による正しさを受けて気持ち良くなりたいがために、権力の犬になって人々の生活を荒らし回っているだけ。
もちろん、国が言っていることは大局的に見れば正しいし、むやみやたらとそれに反するべきではない。
自己責任という言葉が嫌いだ。なぜなら、その言葉を吐く人間は社会構造というものを理解していないからだ。
自己責任論者は「あなたが低収入なのはあなたの努力が足りないからだ。努力して高収入を掴んだ人はたくさんいる。だからそれができないあなたの努力は足りないのだ」などと平気で宣う。アホか、としか思わない。
社会には構造というものがある。その社会構造に則って人は様々な職などの社会的地位についている。
自分がつきたい社会的地位を目指して努力した人には大変申し訳ないが、あなたのその努力は社会的には意味がない。社会の側にはそのポジションにいるのがあなたである必要は別にないのだから。もちろん、社会的に個人の努力には意味がなくとも、本人に内在する意味や価値を否定するわけではない。
社会構造というマクロを見たときに、個人の努力、ひいては自己責任というのはほぼ無意味だ。そこに構造がある限り、そこにたどり着く人は必ずいる。その構造の前に個人の能力や努力はあまりにも小さい。
もし自己責任論者が責め立てた誰かがその境遇から脱することがあったとしても、他の誰かがそこにやってくる。そういう仕組みだ。
その仕組みを理解せずに自己責任などと言い出すのは、正直社会の敵と言ってもいいかもしれない。
政治とはより良い社会構造を模索し、構築する試みである。だが、自己責任などと言い出してしまうのはその試みを諦めるのと同意義だからだ。
自分の努力を誇るのはいい。見知った他人の努力を侮蔑するのもいい。
だが、構造的にそこにいるだけの見知らぬ他人を努力が足りないなどと侮辱するのはあまりにも出来がよろしくない。
キモくて金のないおっさんだって社会構造によって存在している人々だ。
自己責任論者の説教は彼らのうちの誰かを救うことがあるかもしれなくても、彼らを真の意味で救うことはない。
私たちはキモくて金のないおっさんが、ひいては他の社会構造により弱い立場に立たされている人々が救われるために、社会構造の変容を求めて政治に関わる必要があるのだ。