はてなキーワード: リア充とは
最近になってふと気づいたのだけど、自分は基本的に人を尊敬していない。
もちろん、自分と比較して仕事では遥かに高いクオリティを出す人もいるし、知能が高い人もいる。どんなに努力したところでかなわないなと思わされる人物もいる。
その、己が決して踏み入ることのできない領域に対しては畏怖をするが、それはあくまで仕事のスキルや知能であって、その人自身を尊敬しているわけではない。
で、なんでこんな事書いているかというと、この態度を改善したいのだ。
基本的に人付き合いが苦手で人との連絡も最小限、用があるときにしかしたくない。プライベートでは極力人とは会いたくない。関わりを持ちたくない。自分の時間を他人に干渉されることが負担で、気づけば友人と呼べるのは心優しい学生時代の友人ただ一人となった。
Twitterですら、フォロー・フォロワーが10数名で、交流もしていない。余談だが、Twitter上でよく自称非リアが集まってわいわいしていて、あれはもはやTwitter内のリア充(ややこしくてすまない)だなと感じる。真の非リアはTwitter上でも友達ができない。
閑話休題、30代中頃となり仕事も周りを見渡すほど余裕ができてきた。気づけば自分の職種ではコミュニティもそこそこ盛り上がっていて、そこに所属している人たちは情報交換が出来たりしていて、非常に眩しく、羨ましいと思ったのだ。
ただ、これまで人付き合いをおろそかにしてきたツケがまわってきて、コミュニティに全然馴染めない。いくつか参加してみても、どうコミュニケーションをとっていいかわからない。LT大会に登壇してみたいけど、LT大会に参加するには主催者に気にいってもらう必要があり、全然登壇できない。
人と上手く関係性を築けないのは、自分が心のなかでその人を尊敬していない姿勢が透けて見えているのだろうか。どうやって他の人は他人を尊敬しているのだろうか。わからないことだらけだ。
30過ぎで離婚した。
振り返ると恋愛にばかりかまけていたので、友達というコミュニティが形成できていなかった。
友達もまぁ、いなくはない。
飲みに誘える友達が2-3人ぐらい。
結婚式呼びあえるのは高校時代の同級生か。こちらは結婚して子持ちなので遊べるような感覚ではない。ちなみに結婚式してないから意味は無い。
20代半ばまで六本木の飲み屋でつながった友人知人はいたけれど、激務で疎遠になったタイミングでほとんど失った。ハムより薄っぺらい縁だった。
それから婚活などというものをしてたので、異性の知り合いができることはあっても友達はできなかった。
ようやく出来た結婚もこの度めでたく終焉を迎え、また1人になろうとしている。
そして振り返ると私には友達がいない。
こんな時に気軽に飲みに誘えるのは極小数で、ましてやグループ旅行とか、誕生日会とか、わけわからんぐらい縁遠い。
知り合いに見せてもらった結婚式のムービーがあまりにキラキラしたリア充(仲良さそう)の集いで目ん玉ひん剥いた。
コンクリ打ちっぱなしのおしゃれなカフェバーで金髪の可愛い店員さんと仲良さげに話してチルってる人達に間違いない、こいつらそうだろ。
例えばフットサルの仲間とか。そもそもフットサルのチームにどうやって入ったの?てかツーブロック多くない?女の子可愛すぎない?前世でどんな徳を積めばこんなコミュニティで自然に息ができるのだろうか。
わからん、こんなオシャレでネアカな友達どこに落ちてる?どんなアイテムが必要?
そもそも根暗だし立食パーティー死ぬほど苦手だからそんな友達はできないだろうけど、とにかくなんのツテも趣味もない社会人がどうやって友達作ってるのか謎すぎてつらい。
まじで、まじで友達ほしい。私もチルしたい。
週末レモンサワー片手に「またー?」とか言って友達の悪ふざけ笑ったり、おしゃピクとかグランピングしたい。
友達の作り方教えてください。
旦那さんはお見合い形式の相談所の前に、婚活パーティーに参加して、そこで会った人と3年付き合ったらしい。
5分おきに1人ずつ相手変えて自己アピールとか、想像するだけで怖い。
まともな神経でできることだと思えない。
けどそういうとこで出会って3年付き合うとか、自分よりずっとリア充だ。
結局フラれたらしく、もうすっぱり縁はないとのこと。
たぶん自分が相手にとって特別ではなかった、っていうことがショックなのだと思う。
けど結婚相手にとっては特別な自分なのだと思って疑わなかった。アホだった。夢見てた。
5分チェンジの婚活パーティーが怖いと思うのも、人見知り以上に自分が特別でないこと、比較して優劣をつけられるものであること、を自覚するのが怖かったんだと思う。
けど結局、本質は同じだった。
特別という大きな思い違いに気づくのは辛い。
(プロフィール:25歳、男性、大学院卒、理系、会社員、東京都在住、同性愛者)
性的少数者の権利拡大・偏見払拭が謳われるようになってもう随分と経った。そういう虹色界隈の活動家の努力のお蔭か、少なくとも都市部の若年層では「ゲイとか気持ち悪いよね」と言う人の方が白い目で見られる社会にはなって来ていると思う。パートナーシップ制度を導入する自治体も増え、同性婚を支持する人も増えている。ゲイであったとしても自分らしく人を愛し愛され、自分らしく自由に、自分らしく幸福に生きられる社会になっている。……らしい。
このような心温まるようなすばらしい虹色啓蒙活動から最も疎外されているのは誰か。性的多数者(シスジェンダーの異性愛者)ではない。彼らも「理解のある」ハートフルなムーブを取ることで仲間入りできるし、「理解のない」人も敵陣代表としてちゃんと構ってもらえるからである。一番蚊帳の外なのは、非リアで、陰キャで、オタクで、恋愛にも興味がなく、自己肯定感が低い根暗のホモだ。
大前提として、虹色啓蒙活動は非異性愛者が自由に恋愛を楽しんで社会で生きる「権利」を求めるものであって、ゲイであろうと男とも女とも恋愛をしない人には大して関係がない。当たり前だが、仮に同性婚が法律で認められたとしても相手がいないと結婚はできない。全てがそうとは言わないが、虹色活動の大部分を占める要素も、活動に携わる当事者たちも、どこからどう見ても根暗なオタクには無縁の「陽気なリア充の世界の概念」であって、全然感情移入できないのである。そればかりではない。
ああいう目立つ活動家たちは、確かに旧来のゲイに対する悪質な偏見(気持ち悪い、オネエ、性病とか?よく知らん)をいくぶん弱めてくれたかもしれないしそれは有難いことなのだが、それを塗り替える形で別のステレオタイプを提供している。「ゲイは恋愛やセックスが大好きで、大好きな同性の恋人と結婚したいのに頭の固い人たちのせいでさせてもらえない、自由平等博愛のため闘うかわいそうな人」という印象を、勿論ここまで露骨でなくとも数倍に希釈した形で持っている人は少なくないのではないか。俺はゲイをカミングアウトしたことは殆どないが、おそらく多くの人はまずは同情の目を向けて「気付けなくてごめん」か「話してくれてありがとう」みたいな挨拶をくれた次には俺の恋愛事情に興味を持ち始めるだろう。別にそれ自体を悪いことだと非難する気は全くないが、結局「ゲイ」とか「同性愛者」というラベルはリア充・陽キャの文化でしかなくて、単に同性に性的魅力を感じてしまうというだけの陰キャが名乗ってもあんまりピンと来ない、贅沢な称号になってしまったのだ。
そういう点では、LGBTフレンドリーな明るく健常な集団なんかより陰キャのオタク界隈の方がよっぽど自分には合うし居心地が良い。もともとオタクコミュニティには恋愛への関心が希薄な非リアが多く、セクシャリティが問題になる機会自体が健常な集団より遥かに少ない。だからオタクコミュニティの方がジェンダーフリーだなどと大それたことを言う気は毛頭ないが、趣味の話と学校や仕事の愚痴くらいしかしないのにセクシャリティが関与してくることの方が稀だし、元々何の問題もなく穏やかに存在できている。
大体、恋愛に興味のない俺にとって、自分がゲイであるという事実はアイデンティティの構成する要素のほんのごく一部でしかない。所謂ゲイコミュニティに参入してゲイ友達を作ってPrideだの何だのよろしくやってる虹色の人たちをネットなんかで見ていると"ゲイを生きている"感がすごいし、普通の異性愛者視点だと多くのゲイがそういう生き方を望んでいるように見えているんだろうなと勘繰ってしまう。異性愛者が自分をヘテロであると意識してヘテロ人生を生きるみたいなことはまずないだろうから、こういうのはそもそも少数派である宿命というか如何ともしがたい非対称だとは思うが、いずれにしてもああいうのはどうも自分とは違う世界だ。俺は「自分は男の方が好き」みたいなどうでもいい話なんかよりよっぽど先週の俺ガイルの話がしたい。ずっと原作読み直してたら連休が終わりそう。
如何ともしがたい非対称と言ったが、性的少数者の苦悩は理解のない人による差別や偏見なんかよりも、そもそも少数派であること自体の苦痛の方が大きいと思う。要は、ゲイであること自体が十分に不幸なのである。同性愛者は全体の1割にも満たない上に普通は公開しないので、当然だがラブコメのような学校や会社での自然発生的な恋愛ストーリーは期待できない。そのためゲイ専用の出会い系アプリとかゲイコミュニティで知り合うくらいしかないわけだが、どうせそういう所にいる人は明るくて自己肯定感が高くてキラキラしててbioに虹マーク引っ提げてて合わないだろう。要するに異性愛と比べて恋愛の形のバリエーションが圧倒的に少ない。別に「自分がノンケだったら彼女が出来てた」とかいう、「文系学部だったら彼女できてた」とのたまう理系大学生のようなダサい主張をする気はないが、恋愛へのハードルの高さがヘテロの比ではないことは間違いないし、色々なことを土俵に上がる前に諦めないといけないのも事実だ。女性と結婚して子供を育てるという「普通の幸せ」にも憧れるけど処女懐胎してもらうわけにもいかないし、何よりそんな茶番に付き合わされる女性や生まれてくる子供に悪い。というかこのままだと一生童貞で独身だけどどうすんじゃこれ。30代になった瞬間信じてたオタク仲間が次々に【ご報告】していって取り残される√入ってるだろ……。
今はとてもじゃないが出来ないだろうけど昔は同性愛の「治療」なる概念があって、認知療法というか洗脳というかそんな感じで治療を試みることがあったらしい。流石に洗脳は効く気がしないし御免だが、大脳に電極ぶっ刺すとかケツにケミカルXをぶち込むとかで西洋医学的に「治る」なら全然治したいと思う。今の社会に不満があるとかそういうわけではないが、俺にとって自分がホモであることは「普通に生きてるには気にならない病気」でしかないし、それを認めろだの自分らしく生きろだの、無茶を言うなって話だ。
※同性愛者、性的少数者、ゲイなどの単語は適当に使ってますごめんなさい。基本的にどれも男性同性愛者を想定して書いてると思ってください。
だよね
リア充がワイワイキャッキャ楽しそうにおいしい創作料理を出している店は早くつぶれて離散してほしいといつも思うし
みんな同じように考えているのかすぐ閉店になる
発達障害は個性だとよく言われているけど、当事者としては中々認められなかった。
個性という言葉が、迷惑行為の免罪符のように感じられるからだ。
けれども、発達障害として上手く生きる上で、発達障害は個性だと思うことは、やはり必要不可欠であるとやっと気づいた。
定型発達者になることにばかり焦っていても、決して定型発達者として人間関係に溶け込めず、リア充と自分を比べるばかりで心を病むだけだ。
こうして自分の行動を変えていく気力すら無くなり、嫌われスパイラルから抜け出せなくなってしまう。
https://www.sankei.com/affairs/news/180323/afr1803230018-n1.html
https://sirabee.com/2016/07/06/141416/
https://www.asahi.com/articles/ASN3Q4FPDN3QPIHB001.html
できるわけない