はてなキーワード: メロドラマとは
先日、古希を迎えさせて頂いた。
この齢ともなれば、友人の1人2人や10人20人は天寿を迎えているが、何故か僕にはその天寿が近付いているとの認識が殆ど無い。
若い時分から続けている銃剣道の切れは年々落ちるばかりではあるし、医者から「近年血圧が高くなりつつある」からと好物の唐揚げを控えよと言われているが、血圧自体は70代では健康の範囲内である。
孫に玩具を買うぞ!と意気込み、妻に無断で小遣いをパチンコですっからかんにし「ホントに男って馬鹿でいつまでも子供よね」と叱られ呆れられることもしばしばだ。
いや実際、僕の心の感覚で言えば大体35程度から変わっていない気が常々している。
僕は電機メーカーに務めていたこともあり家電がかなり好きだが毎月発表される新製品を30代当時と同じくらい楽しみにしており、足繁く家電量販店へ通っている。
新製品の出来があまりにも良く、中身が気になって見せてみろと未だ務めている後輩に電話をするものの「コンプライアンスの関係で先輩でも流石に駄目です」と言うけち臭い態度に腹を立てることもある。
歳を重ねれば感情の起伏が少なくなるなどと耳にしてきたが、大口開けて笑うこともあれば、学芸会で頑張ってる孫を見てついついほろりと来るのだ。
「本当に僕は後10年20年もすると死ぬのか?」と妻に投げかけてみたものの「人間いつ死ぬかなんてわからないですよ。私達なら1秒後脳卒中でバターンもありえるんですから」と何だがしっくりこない返事しかして貰えなかった。
しかしよくよく考えて見ると、妻も僕と同じ年齢だが未だにメロドラマのようなものをテレビへ食いつくように毎日観ているので、女もそんなに変わってないんじゃないかなと僕は思う。
と、書いている内に腹が減ってきた。
「これは映画館で見たほうがいい映画」といううたい文句が差すものが万人でバラバラすぎてそのうたい文句が包含する映画群がずんずん拡大しつづける現象があたしはとても好きだったりする。
『ゴジラ』は映画館で見たほうがいい、『パシフィックリム』は映画館で見たほうがいいと聞けばなるほど迫力のある映像表現・音響表現がある作品は映画館でみるべきだよと言っているのかなと思う。
『her/世界でひとつの彼女』は映画館で見たほうがいい、『怪しい彼女』は映画館で見たほうがいいと聞けばふむふむヒューマンドラマは映画館で見るべきだと言っているのかなって思う。
はたまた『TOKYO TRIBE』は映画館で見たほうがいいと聞けばほうほう時代性を反映している映画は生ものだから映画館で見るべきだという話なのかなと思ったりもする。
そうやって「これは映画館で見たほうがいい映画」が指す映画たちの特徴がどんどん広がっていって、最終的にはすべての映像が体験が事象が映画館で上映されるモノに思えてくる。メロドラマが冒険活劇がジュブナイルが映画館で上映されるものなんだって思っちゃう。携帯のラプス映像が、仔猫のジャンプが、秋の夕暮れが映画館の中のものになってしまう。あたしたちの日常が劇場になる。
……みたいなどーでもいいことを妄想していると毎日がとっても楽しいものに見えてくるのです。はいはいすみませんね。楽観主義者はたちが悪くて。
きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版のテレビ放送だった。
悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったからなのだ。
起こったのはごく単純なことで、僕はネットでたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。
そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みにゲームをクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。
冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここから、WHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマを想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンドの二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。
ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲーの歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマは積極的に表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞とわずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人や超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマをささやかな心理学や物語に還元するのに対し、先の3作品は、トラウマを表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。
さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正面からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭をきっかけとした主人公とヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇は成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。
大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味で原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療の過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやかな日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療の過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間。
冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグを強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年もの間ピアノを毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからみあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいたものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまるで馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後の最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷なリアリティをもたらすために。
"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語の総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍の起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまり、ほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年のファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。
顔が好みだったからだよ!
一目惚れだよ!
これが、この巨大な地獄の起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常の現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、
* * * * *
ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティックな主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップの機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスのクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎なものがあろうか)し、CGをコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが、彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。
ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー的主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、
http://anond.hatelabo.jp/20120810204531
元の流れとは全然関係ないんだけど、
「虐待的なセックスとかそういうの書くときに読み手がある程度心理的距離を置ける」っていうのもあるけど、
単純に、「メロドラマをやりやすいキャラクター同士の距離がある」っていう意味の距離感じゃないのかなって思った。
実際はっきりとどのような返答だったのかわからないから、私の勘違いかもだけど、
腐が距離感云々言ったら、どっちかっていうと後者の意味かなぁという私の想像。
昼ドラもハーレクインも少女マンガも、創作世界の恋愛においてメロドラマ性っていうのは女の求めるものの最たるもので、
現在、男女交際において、過去のメロドラマで書きつくされてきた「すれ違い」や「許されない恋」って領域はどんどん減ってるから、
それを描こうとする末にたどり着いたのが、究極的には男×男の恋愛が一番越えられない壁が大きくって萌える!
っていう境地で、腐のある部分ってイメージを持ってる。
変えようがない肉体や、同性愛のマイノリティさっていうのは、メロドラマの壁としておくにはうってつけじゃないかなと思う。
そうじゃない、読者との距離っていう意味もあるとは思うけど、
とりあえず男同士くっつけとけっていう腐も、メロドラマ性の高い少女マンガも、
結局前提として、壁は大きいほうがいいよね!メロドラマ的よろめき素敵!感がどっかにあるんじゃなかろうか。
これほどつまらない作品も久々に観た。
ネタバレ。
狼男が、自分の正体を曝け出すシーンは、あくまでも神秘的に演出されており、汚らわしくないものとして描かれている。
当然、花は彼を受け入れる。
しかし、逐一「成長した二人の娘」の声でナレーションが挿入されるので、
これはあくまでプロローグであり、本編まで暫くかかるな、と視聴者にもわかる。
さっさと始まらねぇかな。
ちょっとの辛抱だ。
一人目の子供が産まれる。雪。
ん? ってなる。
「そういえば、出産の時、狼の姿で産まれてたら、どうしたろうね」
っていう、クソどうでもいい突っ込みを、敢えて先回りして予防されたような、
なんとも腑に落ちない感じがした。
このシーン、要るのか?
つまんねぇし、長いんだよ。
イヤ~な予感は募るばかり。
(いや、保険くらい入っとけよ。とか、そもそも在学中に産むなよ、などと思ったりしたが、何でそんな野暮なツッコミ入れたくなるかと言うと、無駄に説明ばかりの作品の癖に、肝心な部分でリアリティが掻き消されているからにほかならない)
夜泣する子供に切れる隣人。
遂に大宅から立ち退きを促される花は、田舎に引っ越すことを決める。
冗長をどうにかしてくれ。サクッといってくれ。
ボロ屋に引っ越す。廃屋同然の木造住宅にテンションうなぎ登りの雪。
何を見ても大声で笑い、走り回り、また笑い転げる……。
どっかでみたぞ。
トトロじゃん。
なんて言うと、したり顔で見下されるんだろうが、何度でも言うよ。
トトロじゃねーか。
ところで、この幼少期の雪、まじで声を当ててる子役が、上手い。
笑い方、ぐずり方、ヒスの起こし方、走ってる時のブレス、どれをとっても、リアルな子供だ。
よって、宮崎あおい演じる花の棒っぷりが完全に浮いてくる。
中途半端にリアルを求めて、「声優の演技を身に着けてしまった人は使いたくない」とか嘯いて、
こーいうところで露骨なギャップを作られると、ちぐはぐで、いらつくんだよ。
耳悪いんじゃねえの?
床を掃除して、洗い場を掃除して、雨漏りも修繕して、住めるようになる。
綺麗にしてみると、実はガラスの模様が可愛かったりして。
素敵な一戸建てに生まれ変わる廃屋。(また無粋いうけど、そうはいかねーだろ)
ようやくか!
結果、作物は育つ。
案の定、活躍している。いいぞ。
遠巻きに見ていた村人たちも、徐々に花と交流していく。
何の、代償もなく。頑張ってたから、助けたのだな。
野菜が採れて、村人とお裾分けしあって、
協力して、この田舎でも、生きていける。
ということが、説明された途端、もう出てこないんだよ。
説明の材料に使われただけ。
何の障害もなくなったわけ。花たちも、脚本も。
冬が来る。降り積もった雪山を転がって、走り抜ける。
はっきり言って、「生の躍動感」の押し付けなんて、見飽きてる。
一緒に見に行った友達は、ここが一番良かったって言ってたが。
ようやくナレーションの年齢まで育って、
狼として生きるか、人間として生きるか、選びなさい。
狼として山を愛する雨。
姉弟の喧嘩のシーンなんかは、
腕白だった雪が風呂場で泣いちゃったり、
よくできてた。
それにしても雨は十歳で声変わり半端ねぇな。
で、嵐が来る。
無駄が多すぎるもん。
もうね、頭の中では、ストーリーの結末が、
俺がこうあって欲しいという道筋が、全部出来てて、
スカッとする展開を望んでたんだけど。
花は、嵐の中山へ入っていった雨を追って、
転落して意識を失う(あれは全身骨折だと思うが、つうか死ぬと思うが。御都合主義が過ぎる。その辺の説明も是非ききたい)。
三途の川ライクな場所で夫に慰められて(本当にありがちという言葉を使うのも恥ずかしいくらいクソ演出)、
行かないで~と泣く花。
母の強さ? そんなテーマ?
なんつうの。女の……何なのお前? っていう矛盾。
で、結局、雨は独り立ちしてしまう。
ところでお前は嵐の中、山で何やってたの? 見せ場ねぇー。
というか……
盛り上がる場所、ねぇー。
延々と説明。説明。説明の使い捨て。
エンターテインメントが、そんなに嫌いなら、大衆映画やめろって思うんだけど。
「しっかり生きなさい」とか言われても、失笑。もののけ姫のキャッチコピー?
なんだ、この、げっそりする感覚は。
「浅いよ」と言われようが、
「わかってねー奴」と罵られようが、
盛大にゲロをぶち撒けたような作品だった。俺にはそう思えた。
なんかスパムメールかメロドラマの題名みたいだが内容はまじめかつ下品だから安心して読んでくれ。
要は愛って相手のために寿命が縮んでもいいって思うことなんだな。
こないだから好きな女と付き合っててセックスしてるんだが、マムコを舐めるのはまあ当然としても、ケツの穴とか足の指まで舐めたいと思うような相手には初めて出会った。
そんな明らかに汚いとこ、舐めたら健康に悪いことは自明の理なのに、舐めずにはおれないんだな。
それまで付き合ってた女は、マムコこそ舐めれども、ケツの穴とか足の指なんかは舐める気にならなかった。
今回の女で、ああ、これが「愛」というものの目に見える定量的差なんだとアハ体験したよ。
そんなとこ舐めて無くても愛してるよ!ってる人もいるかも知れん。しかし、俺だって前はそう思ってた。
だけど、それは目の前に、舐めてもいいほど愛しい人があらわれてないだけだったんだということに気付かされた。
舐めたことある人なら、俺の気持ちがわかってくれると思う。
セックスをこなしてる諸君、君たちのパートナーは、ケツの穴から足の指まで舐めてくれるか?
そうでないなら、それは真に愛されてはいないんだ。
ちなみに俺はパートナーには舐めてもらえてない(涙)。
本屋へ行ったら、女性用エロ雑誌と少女漫画雑誌の中間みたいな雑誌の表紙に、
「レ イ プ(<文字がバラバラに躍っている感じ。確か)されちゃった!」
されちゃったじゃねぇー!何言ってるんだ。事の重大さを分かっていない。とかマジに反応しそうになったけどエロ漫画(多分。よくまゆたんなどで知られる少コミとは違って、あれはもともとああいう雑誌なんだろうと思われる)に反応するのは快楽天に「痴漢は犯罪だろうがー!」とか言ってるようなものだわな。反省。
でもどうよ。なんかどうよ。
ていうか少コミでもそうだけど、こういう女性向けエロのレイプとか痴漢って、そもそも、レイプじゃないんだよなぁ。
「好みのかっこいい男性にちょっと強引に責められちゃう(というか、それほどまでにイケメンが私を愛してるの☆)」っていうのを「レイプ」と言ってるだけで全然レイプじゃない。キモい奴にされるとか殴られたりするとかはないからな。寧ろなんか優しくされてんの。全然ちげぇ。なんか全然ちげぇ。優しくしようが合意なきゃだめなのはそうだけど、全然リアルじゃねぇ。
「自分をこんなに愛してるというのを形で見せて」的な願望と「エロい妄想したい」っていう願望どっちもうまく満たせるアイテムみたいになってる。それってあれじゃね恋人同士の「レイププレイ」じゃね。うん。まさしくそんな感じだ。
別に漫画だし、男性向けも、その辺処女なのにいきなり感じるとか、無理矢理やったのに、喜んでるとか、滅茶苦茶だから、その辺はお互い様なんだけどさ。
なんか、よく性のことを知らない少女が、こういうのを見て、性犯罪に対して間違った知識をつけないだろうな。とか気にかかるんだよな。どうしても。
いやまぁそれも、言うなら、少年も、そうなんだけど。
こういうのを見て女にレイプ願望があるんだ!とか思うのは、ポルノは二次元の絵でも全部廃止しよう!なぜならロリコンは犯罪者だから!くらいぶっとんだ意見なのだが、
男のエロに対してはちゃんと「それはそれで別だよ。そういうの見てるからってそれは別だよ」となるけど、女のエロに対しては「そう望んでるんだな!!」とか何故か直結する人間が男女ともに多い気がする。まあ殆ど男だが。
それも気にかかるんだよなぁー。勘弁してくれよー。
なんかこう、まあそんな感じで色々と気にかかる。でも男向けもこうじゃね?といえばそうなんであって、まぁ少女漫画にエロはともかくもともとそういう雑誌なのをどうこう言う筋合いはないのだろうけどなんか色々と心配なんだよな……
というか最近周りの女性や女子が危なっかしい奴ばっかで、たまたまそういう人に会うだけかもしれないけど、そういうのを見ると「ああいう漫画の影響が少なからずあるんじゃ……いやちがうよね……」と頭を一瞬掠めてしまう。
今の保健ってコンドームをはじめとする避妊をちゃんと教えてるよね??
喫茶店で、女子高生が「てか最後外出しするから安全ーって思ってたら、カレが失敗してー」とか言ってて飲んでたオレンジジュース吐き出しそうになった。突っ込みどころありすぎだろ!!
友達が、彼氏できたっていってきた。それはいいんだけど「この前ホテルで生でしちゃって、その後生理こないときあって、焦ったー」とか、笑って言ってるんだけど……何!?私がおかしいの?!笑うことじゃなくねっていう。なんでお前らもっと自分の体さ大事にしねぇの。意味わかんねぇ!意味わかんねぇ!!理解不能!!!
知り合いが最近「カレが酷くて」って愚痴ってくるんだけど、確かにめちゃ酷い。ていうかDVだろ…それ…っていうレベルに酷い。でもさ……なんで別れないの!?私に愚痴ってる暇あったら別れようよー…なんでなんだよ……理解できない。意味が分からない。
年をとるにつれ、どんどん周りの女性と価値観が食い違っていくのを感じる……
私的には皆が変わってしまったって感覚なんだが、皆からすりゃ私が古臭いのか?
わからんよ!段々皆の話すことがお昼のメロドラマみたいになっていって私にはどうすればいいのかさっぱり……
「おいおい、それって私に話してる場合じゃないでしょ。それはもう即別れた方がいいよ。そんな酷い彼氏だと急に別れるって言うと何してくるか分からんかもしれないから誰か知り合いの男性についててもらったりしてさ…」とかマジレスしたら、
「えー、あー、うん。でさーカレが」
って聞く気ねぇ…全然聞く気ねぇ。いやいいのかそれで?いいのか?あーーーーーもう心配すぎる
あの雑誌も色々と心配すぎる
あぁーーーーもーーーーーー
なんかもやもやするってばよおおおおおおおおおおおおお
「入るよ」
「どうぞ」
いつもとは違うくぐもった声。
彼女は部屋の奥、ベッドの隅でまるで凍えた旅人のようにタオルケットをかぶっていた。
人体のかたちの丘に、夏の日差しがコントラストの高い印影を作る。
「晩飯の買い出しに行くんだけど、何か食べたいものある?」
「食べたくない」
語尾がかすれて消える。
「体調悪いの?」
額に触れようとして手首をはたかれた。
「違う」
「てって…」
僕はそのままベッドに腰を下ろし、窓ガラス越しの海辺を眺める。
「違う」
タオルケットを引っ張ってみる。無反応。
「ドラマ」
「ああ、さっき見てたやつ。コテコテのメロドラマだったねえ。あんまりコテコテだったからリサ先読みあてて大笑いしてたねえ。君は真剣だったけど」
「笑えない」
「ん?」
「とてもじゃないけど、笑えなかった!」
枕が顔に飛んできた。
安定の悪いベッドの上に、彼女が立ち上がる気配がする。
「気づいちゃったもの!私、私、ずっと、あんなこと、」
僕は首をかしげる。顔に張り付いた枕が床に落ちる。
「やーまー僕らもたいがいベタな生活をしてきたけどもね端から見て冷やかされる理由をやっと自覚しま」
「違う!」
僕はあごに手を当ててじっと見上げる。
「あの…不倫した部長の恋人役の人。包丁もって、『奥さんと別れてくれなきゃ死んでやる』って。笑えない」
「まああまりそこ笑うとこじゃないけどね。リサは笑ってたけど」
「私…、ずっとあなたにあれやってたことになる」
「違うよ」
「違わないよ!私のこと嫌いになったら泡になって死んでやるってずっと脅迫してるのと同」
僕は彼女がそれ以上喋れないようにした。迅速に。
「落ち着いた?」
「10年」
「ん?」
「もうすぐ10年」
「ああ、そうだね。再来週。」
彼女が手のひらを日に透かす。
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本より改変
まあ、どのくらいの数のBLオタがそういう彼氏をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないBLの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってるウホッ」
のような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼氏に、BLのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼氏にBLを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う大長編のBLは避けたい。
あと、いくらBL的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
古典好きが『モーリス』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼氏の設定は
BL知識はいわゆる「少年漫画のゲストゲイキャラ」的なものを除けば、ヤマジュン程度は見ている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「JUNE以前」を濃縮しきっていて、「JUNE以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも全5冊だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼氏との関係が崩れるかも。
この不幸過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限のトキメキを彼氏に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなBL
(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼氏にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「BLオタとしてはこの二つは“小説”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFBLオタが持ってる宇宙への憧憬と、オタ的な考証へのこだわりを
彼氏に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも津守時生な
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼氏は「プリズンブレイクだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これが一部では大人気になったこと、
アメリカでの実写テレビドラマにこういうロマンスが挿入されて、それが日本に
輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、
「やっぱりBLは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「バッテリー」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるごとうの思いが好きだから。
発行ペースが落ちに落ちて、15年以上20冊超えっていうスパンが、
どうしてもわたしの心をつかんでしまうのは、その「続ける」ということへの諦めきれなさが
いかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
タクミくんの長さをわたし自身は冗長とは思わないし、もう終わらないだろうとは思うけれど、一方でこれが
木原音瀬や榎田尤利だったらきっちり1-2冊にしてしまうだろうとも思う。
なのに、初期の2年生のままという設定を捨ててまで15年以上を続けてしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえごとうがそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼氏に話してみたい。
今の若年層で嫌な奴読んだことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
箱・檻よりも前の段階で、木原音瀬の哲学とかBL技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品が新人の作品としてこの時代に流通していたんだよ、というのは、
別にわたし自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくBL好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるダ・ヴィンチBL直木賞でしか木原音瀬を知らない彼氏には見せてあげたいなと思う。
門地の「ネタ」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない男子高校生を毎日愛でる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ『生徒会長に忠告!』のスピンオフは第二ボタン下さい以外ではあり得なかったとも思う。
「男子学生の若さを愛でる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」
の源は制服にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう劇画調メロドラマ風味の恋愛をこういうかたちでBL化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9作まではあっさり決まったんだけど10作目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にロマンチカを選んだ。
魚住から始まってロマンチカで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のBL時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、わたしのこういう意図にそって、もっといい10作目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。わたしがちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
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けど難しい。全然読んだことないのも入っていますので作家さん・作品・ファンに失礼にがあったらどうしようと不安。小説と漫画をごちゃ混ぜにしたのでc/nで区別がつくようにしました(参考にする方はいないとは思いますが念のため)。