「入るよ」
「どうぞ」
いつもとは違うくぐもった声。
彼女は部屋の奥、ベッドの隅でまるで凍えた旅人のようにタオルケットをかぶっていた。
人体のかたちの丘に、夏の日差しがコントラストの高い印影を作る。
「晩飯の買い出しに行くんだけど、何か食べたいものある?」
「食べたくない」
語尾がかすれて消える。
「体調悪いの?」
額に触れようとして手首をはたかれた。
「違う」
「てって…」
僕はそのままベッドに腰を下ろし、窓ガラス越しの海辺を眺める。
「違う」
タオルケットを引っ張ってみる。無反応。
「ドラマ」
「ああ、さっき見てたやつ。コテコテのメロドラマだったねえ。あんまりコテコテだったからリサ先読みあてて大笑いしてたねえ。君は真剣だったけど」
「笑えない」
「ん?」
「とてもじゃないけど、笑えなかった!」
枕が顔に飛んできた。
安定の悪いベッドの上に、彼女が立ち上がる気配がする。
「気づいちゃったもの!私、私、ずっと、あんなこと、」
僕は首をかしげる。顔に張り付いた枕が床に落ちる。
「やーまー僕らもたいがいベタな生活をしてきたけどもね端から見て冷やかされる理由をやっと自覚しま」
「違う!」
僕はあごに手を当ててじっと見上げる。
「あの…不倫した部長の恋人役の人。包丁もって、『奥さんと別れてくれなきゃ死んでやる』って。笑えない」
「まああまりそこ笑うとこじゃないけどね。リサは笑ってたけど」
「私…、ずっとあなたにあれやってたことになる」
「違うよ」
「違わないよ!私のこと嫌いになったら泡になって死んでやるってずっと脅迫してるのと同」
僕は彼女がそれ以上喋れないようにした。迅速に。
「落ち着いた?」
「10年」
「ん?」
「もうすぐ10年」
「ああ、そうだね。再来週。」
彼女が手のひらを日に透かす。