はてなキーワード: おもしろとは
「時間が溶けるゲーム」として有名なFactorioを買ってみたが、意外とハマらなかった。
おもしろいことはおもしろいのだが、労力と時間を投入するだけの動機(ストーリーの結末を知りたい、○○をクリアしたと人に自慢したい等)を見出せなかった。
今日夢を見た。
夢の中の歌舞伎座の内部の見学をしていた時、となりに推しがした。
誰から何を言われてもずっとアイドルでいてくれるのがありがたくて
貫いていてくれるのがかっこよかった。
それだけなんだよね、本当に
将棋の強い人というか、将棋のAIの通りに指せるか訓練してる人なわけでしょ?
ほんで将棋を見てる人は、棋士がAIの手をマネできるかどうかを見てるわけでしょ?
それなのに強いAIが手に入らなくなったらまずいんじゃないの?
たとえばさ、公式では弱いAIしか表示できないのに、YouTubeとかTwitterで強いAIで正確な形勢が表示されてたらさ、そっち見るわけでしょ?
公式よりもっと正確で、分かりやすくて、おもしろくて、アクセスしやすい情報があるならそっち行くでしょ
こないだの判決で公式以外が棋譜中継するのが違法なのかどうかも怪しくなっちゃったし
連盟はどうすんの?
規約でしばろうとしても入会すんのめんどくさいし、結果だけ聞かされてもつまらんだけよ?
最近、エロゲとそのファンディスクを購入したのだが、エロゲ本編を30分で飽きてしまいその後手を付ける気もなくなった
しかしよく考えてみると、昔プレイして大好きだった「ひぐらしのなく頃に」も冒頭は結構退屈だったかもしれない
「ToHeart」も大好きなゲームだが、こっちははっきりと前半プレイ途中でこのゲーム退屈だなって思ったが頑張ってプレイしてその後ハマっていった記憶がある
「CLANNAD」も正直中盤きついと思ったときがあったけど、途中からどっぷりハマっていて今では心に残る名作になってる
今回開始30分で飽きたエロゲがおもしろいかどうかはわからないが、エロゲをやる忍耐力みたいなものが大きく減退してしまったように思う
単位の取りやすさが少なくとも日本の大学で「人気」の指標のひとつになっていることは、まあわかる。
しかし「名前書くだけで単位が取れる」「出席してれば単位をくれる」タイプの人気授業がたとえば東京大学にあったとして、それを「東京大学で人気の講座」と宣伝するのは、よほどの三流ゴシップ誌くらいじゃないのか。
1. 授業は大しておもしろいわけでもないけど、単位が楽勝なので人気の授業 ←冒頭の事例
2. いくら授業がおもしろくても、単位がめちゃくちゃ厳しいので、人気が出ない授業 ←これもわかる
3. 単位については楽でも厳しくもないけど、普通に内容がおもしろくて人気の授業 ←あるでしょ?
少なくとも自分の経験上、1.には特に興味もなくて「そういう情報が存在していたのは知っていた」程度だけど、3.はたくさん思いつくぞ。2.には、たまたま運良く遭遇しなかった気がする。
SNSではなんかファンタジーの教養があるだとかないだとか、そんな議論が巻き起こっているようだけど空中戦にしかなっていないよね
ただ、みんな見落としている点がある
この前提をあらためて思い起こせばいろいろとすっきりとする
葬送のフリーレンをみてもよくわからないという意見がでるのは、教養があるからないからじゃなくて、それはこの作品が大しておもしろくはないからだ
法哲学の議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定の属性を持っているから寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.
まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.
かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.
他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.
個体の属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.
「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンだからこそ人は憐憫を垂れる.
法哲学者の井上達夫の言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮が正義の普遍主義的要請と対立する」(井上達夫. (1986). 共生の作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.
では我々は,正義にもとるということを理由に,特定の属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.
何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.
そうではない.
なぜならば,民主主義国家によって達成される正義は手続的正義にすぎないからである.
「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬は放置することにした」.
これは本当に正義だろうか.
何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.
この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果的利他主義」である.
昨今のオープンAIのアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.
効果的利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である.
ここでの費用には,金銭だけではなく,自分の時間・労働も入る.
かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動を比較評価し,最もコスパが良いものに投資する.
この比較には,「リソース投下に対する社会的インパクトを定量化できる」のが大前提になっている.
社会科学の素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準で定量化することは不可能である.
例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.
定量化の前提は,効果的利他主義の限界の一つとして指摘できるだろう.
効果的利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.
便益を最大化することにこだわることは,特定の目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.
たまたまの理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義」宣言! : 慈善活動への科学的アプローチ. みすず書房. 42-43.)
そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.
特定の属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き的正義に留まるという限界がある.
実質的正義を追求するには,効果的利他主義のような一定の基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.
なお,筆者自身は効果的利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.
そのへんはどうでもいいわ
増田だってどこまで度量があるのかわからんというか、こうして書くくらいだから器量は小さいだろう
マス書いて寝てろ
そして放出(はなてん)が鉄板だと思ってる大阪人は全員もれなく老若男女関係なくことごとく死ね
大阪住みのはてなーもだ。放出おもしろいと思ってんなら今すぐ死ね。生粋のクズのはてなを産んだ京都人でもやらんわ。貴様らのほうが土人だわ大阪
おもしろい。自分は寄付をする人間で、存分に選り好みして寄付しているのでその観点から書こうと思う。また自分は犬には寄付しない。ほとんどは被災者である。
自分は寄付には差別的要素があると思う。そして、そもそも寄付は究極の善でもないと考えている。
それから自分がやっている寄付は全く善と考えていない。もっと利己的なもので自己満足感を満たすためにやっており、投資や物品購入に近い考え方をしている。
どちらかといえば自分がやっているのは贖宥状購入のような悪徳に基づく行為である。
ただしここで「差別的要素があるならすなわち善ではない」と考えると危険であると思う。それは完璧主義的な意見だろうと思う。
これは自分は、世間の欺瞞に対する挑発だとも考えている。普段は比較的「悪」なくせに、そういうときだけ調子のよいことを言う人間がいる。あたかも「自分は善側の人間ですよ」と振る舞っていること・自分が選んだものを助けたことに満足していてその他には一切憐憫の情を向けない「ほかを悪と断罪するための正義」を感じているのもあるのではないか。「やらない善よりやる偽善!」と言って、やらない者を「悪」側に落とす文句もある。
もし多くの人間に対する不信感がある場合、選ばれなかった方に目を向けたくなる。彼彼女らが助からないのなら、それは善といえるのかという話のようにも見える。
自分には、増田は「嫌われている方を助けたい」という考え方があるようにも見えている。ちょうど増田が考えていることはロールズの「無知のヴェール」の話にも通じるのではないか。これは個々の立場を忘れるヴェールを被ってから正義を考えようという概念である。この概念はそこそこ有名だが、それほど一般的ではない。ほとんどの人々は伝統的な倫理観にしたがって寄付などを行っているはずだ(※ べつに揶揄しているわけではない)
ただし差別うんぬんよりも、もし「すべてを救えないのなら救うべきでない」とすればこの世のほとんどは何も救えないことになる。われわれは有限の資源の中で生きているので、絶えず不足にさらされている。不足している中では選別が必要となる。
このあたりはトリアージ等の動画を見ると非常によくわかる。属性のせいで助けてもらえないというのは悲しいものである。何もないまま助からなかったよりも、助けられそうな資源が目の前にあるのに助けてもらえなかったという絶望はたしかなものだ。それが現実である。現実は理不尽であり不公平である。しかしポメラニアンを助けている人も、何も黒い大型犬に思いを全く馳せていないわけではないかもしれない。助けたいが、資源が足りていないために助けられないのだ。
どのように「公平に選別するか」も重要な問題である。こうした点がトロッコ問題などで考慮されていた。選別しなければならないのだ。ポメラニアンと黒い大型犬はその「愛らしさ」に焦点をおいているので、その独善的な部分に嫌悪感を感じるのではないか。善という正義の皮をかぶって差別を正当化しているように見えるのかもしれない。通常、笑って朗らかな態度で選別してはいない。血涙を流しながら、選べないという自分の無力さ無能さ愚鈍さとどこかで折り合いをつけて、否応なく選別している。
そして誰も救わない場合、「どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えない」と言っているとおりのようになるだろう。もしそれが現実となったとき、考え方はどうであれ実際に起こるのは「誰も寄付しない世の中」である。つまりどれだけ困窮しようが誰も何も手を差し伸べはしない。それはポメラニアンや黒い大型犬のみならずすべての生き物が平等に絶望しなければいけない事態であると思う。
人々から金銭を徴収して再分配することはODAなどで一応おこなわれている。
一方で寄付は、自発的に自分の所有財産から抜いておこなっているものだ。これは財産権という強固な概念で守られている。
われわれは「自分の持っているものを自分の使いたいように使っていい権利」を持っている。これらをとりあげて自由に使用することは、自由権や民主主義を否定するものである。
またこれは単純に「世界中で増税する」ということに他ならない。国はそれほど信頼できるだろうか。国同士は同意できるだろうか。現在の世の中ではかなり厳しいものとなる。
また、マクロな問題を持ち出して、ミクロの問題のやらないことの根拠に含めてしまうのはズルであろう。個人的な寄付をすることと、国家群が寄付を集めて再分配することとは次元が違う問題である。
結局増田が言っているのは理想論なのではないか。「あるべき理想の姿」があまりに現実と違いすぎる。今この瞬間にはどうしようもないことを前提としすぎている。遠い将来にそれが普通になることはあるかもしれない。しかし周りから見ればそれは「ただやっていない」「ただ誰も助けていない」のである。
そして実際にその浮いた100円は何に使っているかといえば、個人的な実益に対してなのではないか。これはどう言い繕っても「誰かを助けるよりかは、自らの幸福を高めたい」という行動である。この言はずいぶん切れ味の鋭いものだが、それが事実である。われわれは見ず知らずの黒い大型犬の命よりも、見ず知らずのポメラニアンの命よりも、コンビニのお菓子の方を選ぶことがある。そちらの方が自分にとって幸福だからだ。
増田はもしかすると「誰からも助けてもらえなかった」と感じているかもしれない。だから自分も手を差し伸べはしないのだと。しかし本当は助けられたかったのではないだろうか。助けてもらえない者たちから見れば、この世は邪悪な方が都合がいい。この世が邪悪だから助けてもらえないのだと考えられる。それほど邪悪でないのに助けてもらえないなんて諦めがつかない。
寄付だろうがなんだろうが人の行動は利己的なものであり、己のためにするものだと思う。どちらかといえば、寄付することによって自分が救われているのだ。
べつにこれは自分個人の意見だが、「全員を助けられないのなら寄付しない」と考えるのならば、あまりにもったいないと思う。
誰かを救いたいのなら救えばいいのではないか。
そのへんはどうでもいいわ
増田だってどこまで度量があるのかわからんというか、こうして書くくらいだから器量は小さいだろう
マス書いて寝てろ
ご参考までに、元バラエティ大好きっ子アラフォーの私はこんな感じです。
とにかく鋭いイメージ。
【ごっつええ感じ】超おもしろいな。【HEYHEYHEY】でのいじり方もすごい。【ガキ使】もおもしろいけどフリートークだけでいいな。
【一人ごっつ】っての観てみたけど、これを“面白い”とするのか?
黒髪期よりちょっとコワモテになったけど独特のかわいさは健在。
紳助が苦手だったので【M-1】はあまり見ないまま年を取ってしまった。
【働くおっさん劇場】も遊んで徹夜明けしたときにちょっと見たけど苦手だった。
【大日本人】は映画館に観に行ったけど映画監督の才能なかったかあと思った。
あとから振り返ると【大日本人】が一番マシだった。レンタルで観た【R-100】なんてよくこれで企画通ったな(悪い意味で)
【ごっつ復活スペシャル】も【MHK】も期待していたのに正直つまらなかった。
加齢が進んだ。たけしの真似?
【水曜日のダウンタウン】は今も見ている。コメントでのうまい落とし方はこの人しかできないなと思うけど、苦手な企画のときは見ない。
【探偵ナイトスクープ】は居住地域でやっていないので知らない。
【ワイドナショー】も松本が時事とどう向き合うか気になって数回見てみたけど、時事に対して凡庸な混ぜっ返し方をして「好き勝手に個人の見解を言ってるだけですよ~」という姿勢が非常にダサいと思って見るのをやめた。
【一連の騒動について】
同意があったかどうかは別にして、後輩アテンド飲み会と性交渉自体はあったんだろうなと。
「いつ辞めても良いと思ってたんやけど…やる気が出てきたなぁ〜。」
「とうとう出たね。。。」
「事実無根なので闘いまーす。それも含めワイドナショー出まーす。」
「ワイドナショー出演は休業前のファンの皆さん(いないかもしれんが💦)へのご挨拶のため。顔見せ程度ですよ。」
同意の有無の判断は保留するにしても、この一連のツイートキツすぎない?(特に長年のファンの皆さん、“あの”松本人志のツイートとして許容できる??)
3年前くらいから、今期アニメ一覧見ても何も惹かれるのがないことが続いて、一覧すら見なくなったよね。
3Dアニメは確かに鬼門よ。宝石の国みたいな快作はあったけど。ケモは俺はきついな。特に男のケモは。でも3Dに違和感あったり動画クオリティが低かったりしても、てさぐれみたいに声優ラジオとしておもしろいのは見れたよな。3Dで真面目にアニメ作るなら、質感高く見せようとする努力してほしいな。OBSOLETEくらい凝ってくれればギリ違和感なくなる。そうでないとパッと見で3Dモデルグリグリ動かしてます感出ちゃう。3Dと2Dの融合って意味ではデカダンスあたりは自然に見れたな。ラブライブ!の初期あたりとくらべたらだいぶ自然にミックスされるようになったのがあの頃らへんかな。でも背景はともかく人物を3Dにするとすぐ、やってんなコレと分かる。なんか浮くんだよね。のぺっとしてグリッとしてるから。エスタブのリンク先サムネ見たときもそう感じた。たぶんシェーディング?アニメじゃないけど原神やスターレイルみたいなキャラ3Dなら違和感ないから、キャラモデルにも高度なシェーディングを効かせられるかどうかが浮くか浮かないかの境界線を作るんだろうな