はてなキーワード: 「東京」とは
これは単純に、日本の出版社が東京に集中しているからだと思います。
最も良いやり方は、英語なら(Oxford: Oxford University Press, 2004)のように「出版地:出版社、出版年」を書くやり方で、日本語でもたまに(東京:岩波書店、2017年)とか書いてる人はいます。
ただ、英語(あるいは他のヨーロッパの言語)の文献は出版地があちらこちらにあるわけですが、日本語の場合はほとんどが東京でたまに京都や横浜が混じり、分野によっては札幌が加わり、たまに広島や大阪や福岡で出た本が散見される……といった具合なので、「東京」とだけ書いてたら大混乱必至だと思います。
英語圏の日本研究なんかを見ると、「特別な表記がない限り出版地は東京ね」と記して、日本語の文献については出版地を書かずに出版社だけ書いてたりします(たとえば、ケネス・ルオフ『紀元二千六百年』朝日新聞出版、2010年)。
この「出版社を略す」風習は欧米でも議論があるところで、ウンベルト・エーコ先生は『論文作法』という名著の中で「出版地だけ書いてあっても本を探せない! 出版社も書くべきだ!」って主張してます。私はもっともだと思うんですが、根強く普及していて廃れない形式なんですよねこれ。
ただ、最近は逆に「出版地を略す」方式が出てきつつあるみたいです。なんでかといえばOxford University Pressみたいに世界各地に支社を持っていると、どこを発行地として書けばいいのか混乱するし煩雑になるからなんですよね……
東京出身者としては、逆に「東京出身」の息苦しさもあるんですよ、と言ってみる。
「出身どこ?」と聞かれて「東京」と答えた時の空気が冷える感覚がつらい。
地元のいいところとか主張したいこともあるけれど、「へえ、東京の人はいいですね」と相手が離れていくので常に謙遜するしかないし。
「東京は忙しくて人が冷たくて大変ですね」と言われても、反論は許されないしね。 しんどくたって逃げる地元は東京しかないんだよ。
たまに疲れて、「そうだよ、東京いいでしょう。地方はちょっとしんどいよ」と言ってしまいたくなる気持ちを抑えてる。
大学までは地方都市ですくすくと育ち大学に入るときに東京に来た。
以来数十年東京で暮らしているのだけど、大都会東京を活用できてるとはとても思えないまま生きてきている。
まず東京とそれまで暮らしてきた地方都市とで、あまり違いが感じられなかった。自分がこれは東京だからこそかもなと感じる事ができたのは
・美術展
この3つくらいだ。どれも文化的なものであってこれらは本当にすごいなと思った。ライブや展覧会などは育った地方都市に住んでる地元の友達がわざわざ東京まで見に来る事なんかもあり、そのときは「いいなあ電車ですぐ行ける距離じゃん」と羨ましがられ、確かになと思った。
東京でしかやらないミニシアター系の映画というのも多い。自分は興味の対象がそれくらいなんだけど、いわゆる文化的な催しというのは東京だととにかく数が多い。
ただそれくらい。そういうのにどっぷりハマるほどの興味もなく、あったらあったでいいよね程度のありがたみしか感じられていない。
結局のところ、東京のメリットというのは仕事上の機会損失が少ないというのが(恐らく)一番大きいんではないかと思う。
東京に出てきた時からさして目標も野心もないまま細々と生きてきた自分にはそういった事にもほぼ無関心。
こうなるといよいよなんで東京にいるの?という事になる。そうは言っても仕事の面で東京がやりやすいのは間違いないだろうし、住みたい田舎があるわけでもない。ただなんとなく流れの中で住み続けているだけで、そのために毎朝満員電車とか、高い家賃とか払って、そのくせ週末の休みは家でダラダラするか近所の喫茶店で過ごしたりするだけ。
知り合いに仕事のランチから夜ご飯から休みの日の予定まで見事に東京を活かしきっている人がいて、その人の事が本当に羨ましい。もし東京じゃなかったら生きていけないと言う言葉に嘘はないと思う。それくらい東京を愛している。自分は生まれ育った地元と東京、どちらも同じくらいどうでもいい。
「東京」というタイトルの曲がたくさんある。でもどの「東京」も自分にはピンと来ない。
逆や。
大阪人にとって「東京〜〜」はただの屋号やから反応せえへんって話やん。
でも大阪以外の、端的に言ってジャイアンツが人気あるような土地では、
「東京」に反応があって、「東京」がついてないよりも売れるねん。
大阪やと売れへん。それだけや。
でも敢えて利用はせんやろ。
ただの屋号じゃねーか
なんでそこに異常な反応をするの?
普段からそうやってあらゆる屋号に異常な反応してるなら「そういう変人さん」として理解はするけど
そういうのを「意識し過ぎ」もしくは「コンプレックス」というんじゃん
俺は「横浜ラーメン」とか「大阪ラーメン」とかに入ったことあると思うけど
ていうか世の中の大半の人はそうだろう
でも敢えて利用はせんやろ。
「東京」という文字列に新しさとかオシャレっぽさを感じる土地では「東京やって! 行ってみよ!」ってなるんや。
でも大阪のような都市圏やと「東京」にブランド価値がないんやな。
ってだけの話やがな。
俺は関東文化圏で生まれ育ち、その後は結構あちこち地方都市にも住んでいるんだが、「東京」という単語の扱われようってのは見ていて面白い。たとえば、東京在住者はそれが当たり前だと思っているだろうが、「東京○○」って商標名とか店名ってあるよな。あれは地方によって求められることも疎まれることもあるのよ。
たとえば、ひと昔前の関東在住者なら子供の頃から厭ってほど聞いているCMソングに、
ってのがある。で、俺が関西圏に移り住んだとき、テレビからこれが流れてきて、へー大阪にもあるんだー、と聞いていたら、
「♪だかーらーフーフーフフーフー」
いやあ、ずっこけましたよ。そこだけスキャットかよ、と。調べてみると、大阪にも東京メガネの系列店があるらしいんだが、特に大阪や京都では「東京」というワードがウけないんでこうなっていたらしい。
東京コンプレックスとか言われるだろうが、そうではないんだな。同じ眼鏡屋なんだが、兵庫・姫路発祥の「メガネの三城」ってのがある。1930年代からの老舗なんだが、ここが1973年に東京進出するときに設立した会社が「株式会社パリーミキ」。
って、やはり一昔前の関東在住者ならCMでよく聞いたものだけど、関西圏では、
「♪メーガーネーのー、ミーキー」
って「パリ」入らないんだな。要するに関東というか東京では「東京」とか「パリ」とかラベル貼るとウケるってことでしょうね。
これは俺の個人的印象だけど、地方都市で独自の都市文化や都市の歴史があるところでは、「東京」の魔力ってのはあまり発揮されない。むしろ疎まれる。京都なんか典型だよね。それに対して、自分のところは田舎だ、というコンプレックスがあったり、都市文化が醸成されていなかったりするところでは、「東京」の魔力が遺憾無く発揮される。そして若い人には居住地に関わらず(昔は文化の集積地として、今は消費できるアイテムの集積地として)今でも十分に魔力が発揮されるわけだな。
ちなみに東京と大阪の間の名古屋辺りはどうか、というと、この辺りは「東京」の魔力が十分効力を発揮するわけよ。距離的には京都・大阪の方が半分位なのにね。
人が集まるから「都市」なのであって、人が群れる生き物である以上、どこかで群れるのは必定。
もちろん、いまの「東京」が少しも便利でも面白くもない場所になり、そこに人々が群れなくなる可能性はあるけれど、それはそんなすぐに起きることではない。一方、今「都市」ではないどこかにこの先人が集まってきて「都市」が誕生する可能性も否定しない。それはただそれだけのことだ。そして、「都市化」したとき、その場所が都市でなかったときにもっていた良さのいくらか…もしくは全部が失われる。過去いくらでも起きてきたことだ。だから、「東京」と「東京以外」を比較することや、「東京」の盛衰を語ることには意味がない。
結局「東京」の盛衰をテーマに考えている時点で、あなたは「東京史観」に囚われている。「東京」という「土地」が特別なのではなく、今「東京」が「都市」だという事実が全てだ。そして、それはただそれだけのことなんだ。
俺としては「「東京」を23区に使うだと!やっぱり23区の人間は傲慢だな!」って方向で燃やしたかったんだけど失敗しちゃった。
食いついてくれる人がいたのは良かったんだけど思ってたのと違う。
まあでも付き合ってくれてありがたい。
都庁所在地は「東京」って単語が使われている例を出しただけだ。
都庁が新宿区にあるってとこはその通りだと思うよ。実際あるし。
じゃあなんで国土地理院が都庁所在地を「東京」って表記するかというと所在地を市で統一するため。
区は市じゃないんだよ。
そりゃそうだろと思うかもしれないけど区と市は同格じゃないんだよ。
区ってのは特別区で23区(旧東京市)をまとめて市と同格なんだよ。
同格って表現が正しいかは知らんが単純な区分の話で権力とか財政の話ではない。
そんで市で統一したいなーって時に23区を「東京」ってひとまとめにして表現するんだよ。
なんか紆余曲折あったが俺が言いたかったのは「東京」っていったら23区のことじゃないの?ってことで、実際そういう使われ方をしてるんですよってこと。
もちろん言葉なんて使う人によって違う意味があってもいいんだけどさ。「都内」ではそういう使い方してる人多んだよ。実際俺は小学校で習ったし。
ところが、東京の場合は◎の表示の脇に「東京」と記載があります。国土地理院へ確かめたところ、「東京の23区は市町村ではないので名称を記載していないが、便宜上東京23区の総称として「東京」という表示をしたのではないか。」との話でありました。
また、現在の23区の存する区域が、昭和18年まで東京市と呼ばれていたため、その名残りではないかとも考えられます。
つまり国土地理院では東京23区という意味で「東京」っていう単語を使っていてさらに都庁所在地を「東京」にしてるんだろ?
そんで東京市のなごりってとこまで俺の主張と一致してるじゃん。
俺に反論すると見せかけてソース示してくれるとかツンデレかよ。
ありがとな。
都道府県庁の位置は、条例でこれを定めるよう、地方自治法で定められており、東京都では「東京都庁の位置を定める条例」により、東京都新宿区西新宿二丁目と定められている。
https://www.seisakukikaku.metro.tokyo.jp/information/syozaichi.html
もしかして釣られた??
https://trends.google.co.jp/trends/explore?date=now%207-d&geo=JP&q=%E5%8B%9F%E9%87%91
地震直後に検索数が急増するのは予想してたけど、地域別の検索量を見て驚いた。
「岩手」「茨城」「福島」「宮城」「東京」など、東日本大震災で被害が激しかった県が検索の上位に来てる。
まだ地震直後で、ニュースでは募金のことをあまり言ってないはずなので、自発的に思い立って検索したんだろうと思う。
個人個人がどんな理由で検索したかなんてわかんなけど、恩返しだったり、前回の地震の被災者だからこそ募金のありがたさを知ってたりするんだろうか。
目に見えないでかい流れの愛を見た気がした。田名部の言う「愛」ってやつだ。
やはり人間って美しいなと思った。
ちょっと気になった食べ物や名所やほかイベントなどをその観光地別(県別、国別)にコレクションできるアプリってどうかしらね。
それがいい加減たまったら実行するぺーじを作成してやりたいもの食べたいものみたいものを時間軸などに合わせて展開するようになってたらなおいい。
@@行きたい、行って@@したいってしょっちゅう思うけど、すぐ忘れるし、いってやりたいものが少なすぎるとあまり行きたくなくなるし。
軽く調べたら場所や地図で紐つけるTODOアプリはあり、いれてみたけどちょっと使い勝手がちがう。地図は関係ないんだよね。旅行と地図って考えると深い問題になるけど、基本、旅行って家から目的まではわりと点と点となる人が多い気がする。電車で各駅停車の旅というのの逆で家から直通で観光地に降り立って観光してまた帰る。それに地図の概念はいらない。
だから、検索で、目的地別の項目をさっとひけるようにしたほうがいいような気がする。「東京」→「新宿」みたいに。そして「新宿」カテゴリでさらに食、観光、買い物って項目が分けられて入力、あるいはそこから検索ができて、できればそこではじめて地図検索ができてピンが挿せるみたいな。
ようやく景気も上向き始めたとはいえうちみたいな社員10数名の会社は、知り合いの知り合いから仕事を回してもらって糊口をしのいでるのが実情だ。
そんな相手会社の中には、明らかに社長や渉外がアレなのが混ざってて、そういう所の仕事は必ずといっていいほどにうちの社員からのウケが悪い。
いわく、大したミスでもないのに暴言を吐かれた・見積もりと違う条件を後から出してきてゴネた・官公庁には見せられない法律違反行為を強要する・etc.etc.
たしかに「名は体を表す」とはよく言ったもので、この業務に就いて以降、社名から「アレな会社」を区別できる嗅覚が備わったような気がする。
これだけ例を挙げれば、なんとなくヤバさが伝わると思う。
要は、社名から『ヤンキー臭』を感じられる所、というくくりができる所だ。
そもそも、ああいう人たちは知識の積み重ねもろくにやってないのに、『自分を大きく・勇ましく・かっこよく見せたい』という欲望だけは人一倍あるので、その結果がこのような『珍妙な』社名につながっているのだと思う。
全く好意的なことは書いていないので、ご留意のうえお読み下さい。
Shazamで調べると、「踊ってばかり国」というバンドの「東京」という曲だった。
(以下引用)
1 2 3と歩幅を 皆合わせて
肉を食って進む 花を踏んで生きる
命の尊さ気付かず 哀れな働き蟻
(引用終了)
(詞ということを考慮して、多少の意味の通じなさに目を瞑ったとしても、)
「東京」「政治家」「子供」等々どれも、パッケージ化された単語で、実在を感じない。
そこに浮かぶものは、まるで、90年代のティーンエイジャー向けドラマの亡霊のようだ。
本当に真剣に対象と向き合って、それを自分の中で咀嚼して世界に吐き出した結果がこれなんだろうか。
アイドルやポップグループのように、一種の工業的な音楽ならいざ知らず、こういったスタンスのバンドで、ステレオタイプな文字の羅列しかアウトプットできないのは、致命的じゃないだろうか。
感じたものをそのまま表現することは、一部の特別な才能を持った人々以外には、
とても困難なことだ。
「二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。」
ということになるだろう。
東日本大震災から、雨後の筍のように現れたこの手の音楽や言説には、もういい加減うんざりだ。