(1)東京でも被害があった。災害後は今回ほどではなくても、同じような行動はあるはず。
(2)大きな地震が「東北・北関東」「新潟・長野」と続いており、東京でも発生する可能性がある。
(3)その場合、人口密集地域のため食料の配給などが追いつかない可能性が高い。
(4)また、すでに物資・救助隊が東北に集中しているため、さらに追いつかない可能性が高い。
(5)放射能が東京に達する恐怖。しばらくは外出できなくなる。
(6)中長期的な電力不足により、生産が大きく低下する。被災地でなくても節電のため、停止している工場が多数ある。
トイレットペーパーは、ある程度あれば大丈夫だけど腐るものじゃないしねぇ
高いものではないし、花粉症の時期でもあるし(ティシュの代わり)、
なくなると困るからとりあえず確保しておこうというのはわかる気がする。
何か、平時からえらい差がありそうな感じだね。
ヘッジがただでできるとでも?これからの値上がりをヘッジするから今製品価格に転嫁されるんだろうが。
ヘッジは急激な変動を抑えるのに効果はあっても、今回のような大規模な需給ひっ迫には効果ない。
無駄に恐怖を煽り絵面のために被災地を土足で踏み荒らすマスゴミ
今回の地震における、自社の正社員と派遣社員の勤務の扱いが以下のようになって憤っています。
覆す方法があれば教えてください。
勤務地は都内です。
筆者は正社員なので気軽に労働組合に相談可能ですが、正社員寄りなので期待できません。
計画停電等の理由で早退した場合も定時勤務扱い(残業時間がマイナスにならない)
タイムカードの通り
例外なし
通勤可能だが大事をとって自宅待機の正社員 → 給料はフルに出る
なんで、西日本に限定してるの?
日本最大の電力会社の原発がダメージをうけて、史上初めての計画停電をしなければならない状態では、関東/東北/北海道は工場のフル生産は無理。
リビア情勢もあって、国内の原油需給はもともと上昇中のところへきてこのパンチ。千葉の製油所もダメージをうけてるし。
政府は備蓄の開放を呼び掛けてる。応じるかどうかは別。今喉をうるおすのに備蓄を開放すると、長期的にもっと深刻な事態になることがあるから。
次に輸送。トイレットペーパーは製品価格にしめる輸送コストが大きい。東北自動車道が緊急車両に限定される状態では東北・北海道方面からの輸送コストが跳ね上がり、製品に転嫁できるレベルを超えると東北・北海道方面でフル生産しても運べないという現象が起きる。
小売レベルの輸送も、ガソリンの買占めが起きるから難しくなる。店舗の在庫が僅少という事態を招く。
全体として平常時の数割は生産量の落ち込みと流通量の減少が発生する。
さて、トイレットペーパーは個人宅で簡単に備蓄できるもの。経済を理解している人から備蓄を始める。
そして、スーパーから在庫が消えるという現象が起きる。←イマココ
入荷してすぐに売り切れるという現象が発生して、後追いの消費者が追随する。株と一緒。
家の在庫がなくなってもスーパーにないという現象が数週間続く可能性がある。
そんなとき、クールな顔してm9してた人、どんだけ糞すんだよとか煽り文句言って買わなかったやつは新聞でケツを拭くことになる。
ネットが繋がってたんで情報集めてたけど、なんか今はどーでもいい話ばっかりだ。
悲しい話も泣ける話も怒れる話も恐れる話も、全ては今この状況を生き抜いて、それからでいいやと思ってるし、まわりの皆もそう思ってる。
ぶしつけだけど、地震発生から今に至るまでの流れを書いていこうと思う、こういうケースもあったよってことで、今後の参考になればいいな。色々ありすぎたんで、出来る限り簡潔に書きたいんけど、よくわからんかったらごめん。仙台在住の会社員の場合
■3/11以前
地震発生の4日前くらいから、大小あれど地震が多発していた。地震にもだいぶ慣れてしまって、ちょっと揺れたくらいではなんとも思わなくなっていた。
■3/11
その日も忙しく仕事をしていた。14:46(らしいな)に大地震が発生。最初は「揺れる揺れる」とケタケタ笑っていたが、尋常ではない揺れと長さに社長が「逃げろ!」と一喝、書類棚からは中身がぼんぼん飛び出している。あまりの揺れに立つことさえ難しかったので、手すりを使って飛び降りるように階段を降りた。会社がビルの6階にあるので、降りてる途中でビルが潰れて死んでしまうんじゃないか、と思った。ようやくビルを出て、市営バスの広大な駐車場に避難する。同僚たちと「やー恐かったねー揺れたねー」なんて言いながら笑っていた。辺りを見るとビルやマンション、止まっていたバスがコンニャクのように揺れていた。新幹線は線路の途中で止まっていたし、SS30(なんか仙台では高い方のビルね)のアンテナがボッキリと折れていた。社長や上司に「宮城県沖地震と比べてどっちがヤバい?」と聞くと「今回の方がヤバい」と言っていた。揺れが収まってから会社に戻り、防寒具、貴重品、飴玉やお菓子を運びだした。電話も何も繋がらないので、お客さんと連絡が取れるはずもなく、津波が街まで到達するという知らせをパトカーから聞いたので、今日は解散ということに。社長の「明日はいつもお通り出社して片付け方すっとわ、そんじゃみんな気つけてけえってな」という言葉で僕らは散った。その日僕は車で出社していたので、車を停めていたヨドバシカメラの立駐に向かった。停電のために料金所が使えず、無料で出庫することが出来た。しかしながら、道路はかつて見たこともないような大渋滞で、とても車で帰れるような状況ではなかった。自宅の方向が一緒の上司と歩いて帰ることにした。発電機が付いた信号以外は全部止まっていたので、輪をかけて渋滞がひどくなっていた。日本革新党連合会という右翼の街宣車が自慢の拡声器で交通整理をしていた、ちょっと泣けた。やっとこさNHK前までたどり着き、街頭テレビをみると、津波が漁村をさらう映像、製鉄所が轟々と燃えている映像、とても信じられない禍々しい映像が映っていた。この時はじめて自分たちがどんな状況かわかった。またしばらく歩く。歩行者の列の中、泣き叫ぶ赤ちゃんを抱えたお母さんがいて、周りの人が赤ちゃんに毛布を掛け直してあげたり、フードを深く被せてあげたりしてお母さんを助けてあげていた。仙台泉線という道路をひた歩いた。通りに面している建物は本当に悲惨だった、車屋の窓は割れ落ち、マンションのレンガ風の壁が崩れ落ち、歩道は隆起して歩くのが困難だった。ふと一人のおばあちゃんが、僕らに声をかけてきた。なんでも旦那さんがいる老人ホームに行きたいのだが、道に迷ってしまったようなのだ。上司と僕で老人ホームを探して、職員さんに事情を説明しておばあちゃんを保護してもらった。またとぼとぼと道を歩く、その時はだいたい17:00頃で、場所は虹の丘というところを歩いていた。後ろから上司を呼ぶ声がする、上司の息子の同級生が僕らを見つけたので、車で送ってくれるということらしい。仙台駅から8kmほど歩いただろうか、膝も腰も股関節もヘロヘロ、昼飯も少なかったから疲労困憊だったから、すごくありがたかった。上司の家に着いて、玄関を開ける。中は酷い有様だった。まず靴箱が倒れていて中に入れない。隙間をくぐり抜けて中に入ると、引越しでもしたのか?と思うほどにタンスはずれて、食器は床に散らばっている。家の中に奥さんがいないことを確かめると、周辺の捜索を開始した。もちろん携帯は使えない、仲の良いご近所さんのところにもいない、車もない。上司は途方にくれていた。避難所にいるのではないかと思って小学校に行っても、まだ小学校が避難所としてすら使われていなかった。集まっていた人々は口々に「あんなに会議したり予算割いたりしたのに対応が遅すぎるよ、なにやってるの」と不満を漏らしていた。いよいよ不安になって上司宅に戻ると、ご近所さんを見つけた。上司の奥さんや家族と一緒に駐車場の端っこで、車の中でエンジン焚いて非難している、とのことだった。再会した上司と奥さんは、やれ書き置きしろだの、そんな暇ねぇだのと喧嘩をしていた。まぁ生きててよかったじゃん。そこからは上司の車で家に送ってもらった。車中で「明日仕事行けるっすかね?」と聞くと、奥さんに「なにいってんの!行けるわけ無いでしょ!」と言われた。続けて「仙台空港だって津波に飲み込まれてんだよ!」と。正直耳を疑ったが、カーナビのテレビをみると、本当に仙台空港が飲み込まれていた。愕然としたが、今まず自分が生きることで本当に精一杯だ。この先何を食って、どう生きるか、そればかり考えていた。やっとこさ家につく。時間にして19:00頃だろうか。一寸先はどうなっているかわからない最中に送ってくれた上司には頭が下がった。家も家族も無事だった。唯一、警官の兄が帰ってきていなかったが、無理もない。両親はろうそくを灯してラジオを聞きながらソファに横になっている。地震後すぐに片付けをしたらしく、家の中はそんなにぐちゃぐちゃになってはいなかった。この時までは、まだ水道とガスは来ていたが、それから2時間ほどでその2つとも供給は止まった。停電で冷蔵庫が使えないので、残っていたアイスを溶ける前に全部食べた、この日の晩飯はこれで終えた。自分の部屋の本棚やギター、パソコンのモニターが倒れている。この部屋にいたらきっと怪我をしていたことだろう。今後高い本棚を使うことはやめよう、そう思った。当時、情報を得る手段がラジオとツイッターしかなかった。携帯は電池が切れるし、電気が来てないので、充電のしようもない。車なら充電できるし、テレビも見られるし、エアコンで暖も取れる。そうしてエンジンを焚きながら携帯電話を充電した。他の家でも皆そうしていたようだ、おそらく皆この日に結構な量のガソリンを無駄にしたはずだ。車内でツイッターを使い、連絡が取れる範囲の人とは連絡をとった。十分に充電をしてから、この日はリビングに布団をしいて寝た。
■3/12
7:30ころ、両親たちの支度の音で目覚める。父は出勤で、母は介護施設に預けられる。父の車に便乗して出社することにする。この日は道もさほど混んでおらず、ストレスなく走ることができた。しかしながら道路の状態はひどい、アスファルトが隆起し、ひび割れて飛び出し、橋のつなぎ目は例外なくずれ、その度車を突き上げていた。周りでは緊急車両が忙しく走り回っている。街中の交差点では警官が交通整理をしていた。父曰く倉庫にしまわれていた新車両のパトカーも投入されていたらしい。父が勤める署内も人員が遺体回収に駆りだされ、人は少なかったようだ。つまり、今の宮城県警は非常に手薄だということだ。程なく会社に着いたが同僚は誰もいない。上司に連絡するも「ん、こなくてもよくなったんだわ」とのこと。せっかく来たのに。。。と思いつつ、昨日置き去りにした車を回収する。すでにコンビニや携帯充電所には長蛇の列が出来ている。しかし、いずれのコンビニも開店している様子はなかった。開くかもわからないコンビニの前に、長蛇の列が出来ていた。ご苦労なこった、と思いつつ、家路についた。家に帰ると少し様子が違う。電子機器のキーンという音がした。電気が復旧したいたのだ。冷蔵庫も電子レンジも炊飯器もポットもテレビも使える!そう思ってテレビをつけたが、我が家はケーブル回線を使っているため、テレビを見ることができなかった。まぁ、飯が炊けるだけ全然ましだ、と少し安心し、することもないので昼寝をする。昼寝から起きると両親が帰ってきていた。両親の晩飯は昨日ひねり出しておいた水で米を炊き、だるまストーブで温めた味噌汁を、僕は買い置きしてあったカップ麺を食べた。食後、会社にカップ麺を備蓄していたことを思い出し、回収しに行くが施錠されてしまい、カードキーも使える状態になく中にはいることができなかった。そうしてこの日は終わった。
■3/13
この日はだいぶ暖かかった。月曜から出社する。という話になっていたので、社員間で連絡をとりあうという事になったが、やはり連絡が取れなくなる人がいた。取引先がパソコンと僕達ごと東京にさらって仕事をさせようとしている、なんて不穏な話があったので、どういう事なのか聞き出したく会社に行くことにした。もちろん誰もいなかったので、近くに住んでいる役員の家に直接行くことにした。程なくして役員がやってきて、「○○さんと〇〇さんの家に行って出社の旨伝えてくる」「じゃあ俺は〇〇さんと〇〇さんとこ行ってくるわ」と打ち合わせをして、それぞれ足で人を探し回った。昨日とは打って変わって道路は大渋滞。スーパー、コンビニ、ガソリンスタンドには凄まじい行列ができている、どんなに小さな店でも必ず人が並んでいる。幸いバイクで動いていたので渋滞に悩まされることはなく、それぞれの同僚の家を回っていく。家を訪問するたびに「水はあるかい?ごはんはあるかい?家にまだ水があるから持って行きなさい、お菓子もあげるから」といろんなものをもらった。物乞いするつもりは全くないし、荷物が多いと動きが鈍るので多少困ったが、ありがたくいただくことにした、非常にありがたく、申し訳なく思った。福田町、というところに住む同僚のマンションに行く途中、45号線を走った。テレビでよく見た七ヶ浜の石油コンビナートの煙が見える。下から見上げる黒煙は、テレビで見るよりもずっと巨大だった。結局その福田町に住む同僚は留守にしてあり、申し送りすることはできなくなった。バイクはガソリンを使いきり、リザーブも残り僅かのところでぎりぎり帰宅することができた。下手にガソリンを使い切るものではなかった。。。電話回線は徐々に回復しているものの、自宅ではまともに受信できなかった。山一つ高いとなりの団地まで移動すると快調に電波が入ったため、そこの空き地でしばらくツイッターやメールなどをして連絡を取り合った。その日の夜、高校の先輩からメールが入った。ガソリンが無いので余っていたら実家まで送ってほしい、ということだった。場所が若林の古城、という所だったため、命に関わるかもしれない、と思い迎えに行くことにした。そうして国道4号線沿いにある先輩の住むマンションに到着した。津波が近くまで到達したことを伺わせるように、外は磯の臭いをさせていた。マンション内はところどころ天井が崩落しており、危険な状態だった。ひとまず先輩を預かり、実家である富谷町まで移送した。帰り道、片田舎にあるガソリンスタンドに目をやると、夜中の11時にもかかわらず2km程の渋滞ができている。みな翌日の開店を待って行列をなしていた。それほどまでに、皆ガソリンに困っているのだ。家に帰って程なくすると、兄が大地震以来はじめて帰ってきた。荷物をとりに戻ったのだという。どうやら兄は南署管内の本部にいるらしく、大変忙しいのだそうだ。「コンビニ、ガソリンスタンドでは暴動、略奪が起きている。通報が無いだけでいろんなところで起こっているから気をつけるように」と言われた。加えて「テレビとかラジオでは荒浜に2~300の死体って言ってるけど、そんなもんじゃねーからな、1000は余裕で超えるぞ」とも言われた。報道やネットでは綺麗な部分しか出ず、礼儀正しい、とか、皆冷静だ、と言うが、実際はそうでもない。避難所では大人が子供の食料をひったくり、灯油やガスボンベから目を話したスキに盗まれた、という話もこの日に多く耳にした。風呂に入らぬまま3日目となり、体はベタベタ、髪にワックスも付けてないのに自由自在にスタイリングが出来るようになっていた。パンツも変えていなかったので久々にパンツをかえることにした。不潔な状態でも大分慣れたが、さすがに辛い状況ではある。
■3/14
この日は出社日だった。2名を除く社員13名が揃った。それぞれ、家族の安否や地震後どのように過ごしたか、スーパーの情報や給水所の情報、ライフラインの復旧状況などを話し合っていた。それぞれ親類が漁村に住んでおり、連絡がいまだに取れないなどの不安を抱えながらも、冗談など言い合いって気丈に笑っていた。取引先との連絡も取れ始め、ほとんどの案件が震災で中止になったが、スーパーの広告だけは違った。3/25折込のチラシを打つとかなんとかで、制作することになったらしい。広告なんて打たなくても客が来る今、被災者である僕らがこのチラシを作るのはおかしいだろ、そこに載ってる商品、ホントは俺達が欲しいのに、なんて苦笑いをしながら「ま、仕事は仕事だから」と言ってスケジュールを組んでいた。忍耐強いのか、ただの奴隷なのかよくわからないけど、この震災を生き抜いて、生活を立て直すには今の仕事を守るしか無いのだと、そう思った。職場の周りは電気と水道が通り、そこかしこで炊き出しが行われていた。と言っても、もちろんお金はかかる。皆行列を作っておにぎりを買ったりしていた。上司がたまたま仕込み中の店を見つけ、一番乗りで150円のカレーを食べることができた。ルーがすごく緩かったけど、とても美味しかった。行列をつくっているとなりの店を尻目にカレーを食べていると指を刺されたり、じっと見られてすごく居心地は悪かった。ここ数日、袋を持って歩いているだけで、じっと見られることが多くなっていた。この地に住む誰もが行列や順番待ちに飽き飽きして、一様に殺気立っているのを感じる、もちろん、これを書いている今も。家に帰って、ダメもとでテレビをつけると、綺麗に映像が映し出された。ケーブル回線が復旧したようだ。あまりの嬉しさに僕は叫んだ。大地震があった日以来、大きな画面でテレビを観ていなかった。鮮明な映像で見る自分の住む街は、目を背けたくなるほど酷い有様だった。友人達と遊んだ思い出の浜や、そこに住む人々も、家も、跡形もなかった。自宅から30分もない距離にある街が、ただの更地になっている映像を見て、一瞬息が止まったのを覚えている。繰り返し流れる遺族の叫びと、デリカシーのないインタビュー映像になんだかとても疲れたので、また昼寝をする。目を覚まして、今度はネット回線のチェックをした。ネット回線も復活し、とにかく喜んだ。この数日何があったか無我夢中で調べたが、なんとも空っぽな情報で溢れかえっていた。「被災者のために歌を歌います、これしかできないけれど」みたいな話や「このツイートが感動した」とか「被災した人たちも頑張ってるんだ、私も頑張って仕事しなくちゃ」とか「東京のどこそこで買い占めが起きてる」とか、被災地の皆が今のいま命を長らえるための情報はほとんど無かった。人が死んでんだぞ、おそらく死者はこのまま1万を超えるよ。そんな状況で、なんで美談みたいな話が出るのか全く意味がわからなかった。似たような話をテレビでも流すようになった。出来れば、そんな感動話みたいなものは震災から立ち直ってからにして欲しい、この震災は過去の話ではなくて、現在進行中だ。
■3/15
そして今日も出社だった。取引先との話に決着がつき、必要な人員以外は招集があるまで自宅待機することになった。相変わらずの行列や渋滞。未だ風呂にも入れていないしなか、東京では食料やガソリンの買い占めが起こっているという報道がずっと流れていた。おまけに噂の雨ときたもんだ。もし噂なのか真実なのかよくわからない話を信じるとすれば、僕は雨に打たれたのであまり健康上よろしくないことになるのではなかろうか。シャワーを浴びる環境などそうやすやすとはない。今被災地では口伝での怪しい情報に困り果ててる。どうすればより長く生きられるかシビアに考えている。手元にある食料や物資、燃料はひっ迫して、移動することひとつとってもリスクが高い、離れた親戚を引き取りに行けない人もいるし、安否確認さえ取れないでいる人もいる。出来ることなら、物資の補給場所や時間、量についても出来る限り詳細に教えてほしいし、より苦しい人たちの所へ、より多くの物資を届けて欲しい。原発に関する情報も、政府や報道は本当に正しい情報を教えてほしい。この状況で命を長らえるために、正確に判断するための情報がほしい。どうか、どうかひとつ、よろしくお願いします。。。
#BBC 英の原発専門家、「日本の技術者はよくやっている。これまでの爆発は実は大きな問題ではない。これだけの問題に収容している東電の技術と対応力は素晴らしい。東電の発電所は世界でも類を見ないほど堅牢な施設だ」と日本では到底聞けない東電擁護論を展開。 #jishin
はあ?
http://www.aist.go.jp/taisaku/ja/measurement/index.html
今般発生しました福島第一原子力発電所の爆発事故による影響の有無について、産業技術総合研究所つくば中央第一事業所敷地内で放射線測定を実施したところ下記の結果が得られました。
問題ない値らしいですが(上記の研究所は観測結果のみで特にコメントしていませんが),
平熱を知らないで体温を測った気分になったので調べてみると,
東北地方太平洋沖地震に伴い発生した原子力発電所被害に関する放射能分野の基礎知識
ですか.
つくばの平常値は知らないので,平常値なのか異常値(だが人体に影響がないレベル)なのかわからないですが,
なんにせよ世界平均レベルということなので,現時点でやきもきする値ではないってことですね.
13:30の値が気になるところですが,そもそも自然放射線がどういう値をとるものか知らないので
有意差があるのかどうか知りようもなし.誰か教えて.
そのとおり。
社畜と罵るニートや学生、資格なき社会人の三者こそが国益、社会益を損ねるがん細胞であり、国家、社会維持のためにもこれらは切除されねばならない。
君は自分で変われる強い人だからそれでよい。気づいたのならこれから日々業務に邁進するように。
働かなくていいなどという甘ったれには平手打ちでもしておけ。
土曜日も日曜日も出勤だった。毎日終電まで働かされて、それより遅くまで働いている人もたくさんいて、「つらくないですか?」と訊いたら、「つらいかどうかもあんまり考えなくなった」といわれた。「お給料いいし」という人もいた。もらったって使う時間もないのに。寝る時間もなくて身体をこわして仕事をやめた。みんなきちがいだと思った。
わたしは読書が好きだ。音楽が好きだ。コストの低い趣味だから、文庫本を一冊買って、コーヒーを水筒にいれて、公園でぼんやり読んでいるだけで充分幸せだ。いい家や高い服を得ることで自意識を救おうとする種類の人たちが存在することは知っているけれど、わたしには関係ない。だから、わたしに、必要以上のお金はいらない。
仕事をやめたあとはとても豊かな日々だった。すきな時間に起きて、本を読んで、ときどきイベントやライブに行って、ゆっくり食事をつくる。幸いなことに、わたしは女で、彼氏は普通にサラリーマンをしているから、このまま結婚すればいいか、とも思った。落ち着いたら書店とかカフェとか、気持ちのいい場所ですこしだけアルバイトをする。彼氏もそれを望んでくれた。そんなとき、地震がおきた。
うちは被害の少ない地域だったけれど、大学時代の先輩や、友人が、何人か被災した。みんな無事ではあったけど、家が流されたり、実家と連絡がとれなくなった人もいる。毎日ニュースをみるだけで涙が出てきて悲しくて、余震のたびに不安になって、自分に何かできることはないかと、他の多くの人と同じように、ずっと考えていた。でも、何もない。
ネットには素人のボランティアに対する批判が溢れている。それはおそらく事実だろう。父は建設業だ。被災地に橋をかけることができる。母は看護師で、救護チームとしてすでに活動している。弟は介護士だから、このあと、どこかできっと必要とされるだろう。わたしが働いてきたのは、マスコミや、広告業界の末端だ。情報を伝えてきたのはあくまで所属する組織であり、わたし個人には、なんの技能もない。「芸能人にインタビューしたことあるよ★」「いいレストラン知ってるよ★」なんて、いまどき合コンでも使えない。文学部卒の知識は今後復興に活かせる予定もない。わたしはいま、かろうじて繋がれた貴重な電気を消費しながら、なんの生産もせず生きている。
生命の危機を乗り越えたら、こんどは復興のための莫大なお金が必要になる。既に指摘されつづけているように、なんの能力もない素人が貢献できる唯一のことは、募金であり、この経済活動の維持だ。そのために、東京23区は(一部を除いて)計画停電の枠組みから外されているのだから。
そこで、初めて思った。わたしがきちがいだと罵った人たちは、寧ろ、その人たちこそ、被災地を救う力を持っているのだと。今のわたしには多くの消費をできる力も、募金できる力もない。ここにある100%天然コットンのシャツや、オーガニックのコーヒーは、何ひとつも地球を救わない。それが悪いことだとは今も思わないけれど、しかし、文化はパトロンがいて初めて成り立つものだ。日常の危機に対して、わたしが大事にしてきたものたちはあまりにも無力だ。
働きたいと思った。自己実現や、キャリアアップ云々ではなく、初めて純粋に、お金を得たいと思った。「家族のために」とボロボロになりながら意味のない労働に励む人たちを、なんて非効率な、とバカにしてきたけれど、ほんとうはわたしにも守りたい人たちがいる。そのためには思想や知識だけではない、現実的な力がいる。わたしはそれを、なんとしても、両立させたい。
ちょっと、世の中とかさ、もうだいぶしんどいし嫌になるし朝起きたくないし組織に所属するなんてまっぴらだし自由に生きていきたいし毎日フジロックだとイイヨネー、とか思ってんだけど、まあ、もっぺん、頑張ってみるよ。こんなにみじめな思いはもうしたくない。