はてなキーワード: コンテンツ産業とは
オタクが経済回してるってのは半分嘘で、いまコンテンツ産業にお金をかけるのがオタクしかいなくなっているだけだと思う
日本の経済状況はどんどん悪くなってるし、コンテンツ産業も全体的に見れば先細っていってる
文化が産業になってるものは、一般論としては、景気が悪い時期になると挑戦的なものが市場には出てこなくなる
(代わりにインディーとか地下活動とかは活発になって新しいカルチャーを育む下地をうんだりするけれども、これらは大規模なものをやる力を持ち合わせていないため広まらない)
資本主義の原理が働いていることや、オタクが市場を支配していること、市場から多様性が失われていること、それが批判されるべきことであるという意見、これらはどれも全部正しいし、どの立場がどの立場と相容れないというようなものではないと思う
オタクにとってはオタクが占める現環境を満喫できることはしあわせなことだろう
ただ、オタク市場はオタクのチカラによって他にはない長く続く強い生命力を持っているかのようなイメージはオタクの幻想でしかないと思う
いや、これは支持者として結構ショック。
何がやばいってあちこちで言われてる通り、「非実在児童ポルノ」という言葉を使ってること。
「非実在児童ポルノ」は石原都政の表現規制を象徴する言葉である「非実在青少年」を嫌でも想起させる。
これに対して民主・社民・共産など野党が一丸となって戦い、阻止した歴史があるのに。
いくら「マンガ・アニメは法規制しない」と明記してても「非実在児童ポルノ」という単語が出た時点で規制側のイメージがつくに決まってる。
そもそも例の文言は表現の自由でなく「女性・ジェンダー」の項なので、わざわざそんな言葉出さんでもよかったろうに。
あそこは表現の自由の話を混ぜるのでなくゾーニングの話に持っていってほしかった。
実際共産党関係でもゾーニングを推進する活動をしている人もいるのにあまりに勿体ない。
投票先変えようか、他の党はどうなんだろと調べてみたら、政策見た限り自民党はマンガ・アニメ規制に触れられてもないし公明党は表現の自由にすら触れられてない。
立憲は明確に規制に反対してないし、維新はそれなりに踏み込んでるものの「過度に干渉しない」と含みを持たせた表現。
「法的規制の動きに反対」と明記しているは共産党だけなのだなあ…
それでもやはりあの一文は看過できないので、共産党には投書しようと 思う次第。
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/20211011_pamphlet.pdf
「表現の自由を最大限考慮しつつ、インターネット上の誹謗・中傷やフェイクニュース等への対策を推進するとともに、人権意識向上の啓発活動を強化し、様々な人権問題の解消を図ります。」
■公明党
https://www.komei.or.jp/special/shuin49/wp-content/uploads/manifesto2021.pdf
https://cdp-japan.jp/election/tokyo2021/policies
「SNSなどの拡散力のあるインターネットでの創作活動、マンガやアニメなどの創作活動を委縮させてしまわないよう、表現活動に対する都の率先的な啓発に取り組んでいきます。また、青少年健全育成条例の運用にあたっては、漫画家や作家、編集者など、現場に近い方から意見を聞く工夫を行います。」
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2021/10/2021s-bunya-007.html
「現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)。非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。」
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2021/10/2021s-bunya-060.html
「「児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きに反対します。」
https://o-ishin.jp/policy/8saku2021.html
「表現の自由を最大限尊重し、マンガ・アニメ・ゲームなどの内容に行政が過度に干渉しないコンテンツ産業支援を目指します。 MANGAナショナルセンターの設置による作品アーカイブの促進、インバウンドを意識した文化発信やクリエイターの育成支援などを行います。」
「表現の自由に十分留意しつつ、民族・国籍を理由としたいわゆる「ヘイトスピーチ(日本・日本人が対象のものを含む)」を許さず、不当 な差別のない社会の実現のため、実効的な拡散防止措置を講じます。」
「SNSなどにおける誹謗中傷問題につき、行政による過剰な規制や表現の自由侵害には十分に配慮しつつ、発信者情報開示請求を簡素化するなど司法制度を迅速に活用できる仕組みを整備し、被害者保護と誹謗中傷表現の抑止を図ります」
『権利者が何も言わない場合においてのみOK』ってだけで普通に今もグレーだが?
キャラクターデザイン・衣装デザインパクるんじゃねぇって言われたら終わり
https://anond.hatelabo.jp/20210716092542
そもそも配布とか言っておきながら利益出してる時点でグレーどころかアウトなんですけど?
おそ松くんのヤツは損害賠償請求してるから利益も算出して提出してるよ
https://anond.hatelabo.jp/20210802193628
https://anond.hatelabo.jp/20210802202553
未成年を対象にしたポルノを垂れ流しとかあたおか。儲かればいいじゃないだろ
そしてSDGsとか言ってるんだからいい加減電子販売許可してよ
それか儲けるのは禁止として無料公開のみ許可するようにするとかして
でも消費者じゃなくてデベロッパー・パブリッシャーがそれを理解していないからな
そして電通や小山田圭吾氏を作るようなどうしようもない私立文化を持ってたりする
普段生活している環境外から別の価値観を持ち込むことができるのが
TV・音楽・アニメ・ゲーム・マンガ・小説だったりするわけだけど、
現実と空想は違うからどんな非倫理的でも売れればセーフとやってきてしまった
その結果が上級ソシオパスである。ほんまこれ以上にないくらいに駄サイクルだね
どうにもならないので下記の評価基準というか指標を日本も早急に作ろうぜ
この枠を無視してる作品は大人向けの限られた愛好者で消費される娯楽みたいな認識も作ろう
知らんから調べてみた。
魚拓を探してみたところ、インターネット上ではバンダイ傘下のプロバイダである『ひのぼりドッとネッと!』以外禁止、逆に言えばそこならOK、だった。
現在のサンライズHPの著作権について、に「サンライズ作品をもとにしてご自分で制作された小説やイラストでも、サンライズが許諾していないかぎりインターネット上では、ご使用頂けません。」ってある。あくまでネット上の話。
もちろんそのうえで一般的な著作権についての記述があるけど、そりゃコンテンツ産業で書いてないとこなんてない。
よって、ネット上での発表については他社より厳しいが、そうでないものについては他社と同程度(繰り返すがそもそも二次創作自体がグレーな行為)だと理解した。
もしここで中国政府が急に方針転換して「アニメとゲームと二次元は表現規制しない。政府批判OK、暴力表現OK、エッチなのもOK」としたら、瞬く間に中国のコンテンツ産業は大成長して世界市場を席捲制覇するだろうに。そうなったら香港の人達もデモや反政府運動よりアニメ視聴に傾注するようになるかも— 小森健太朗@相撲ミステリの人 (@komorikentarou) 2019年11月27日
草。
まさか私以外にもこんな考えある人がいるとは思わなかった。
今のトップがアレだから、サウスパークが中国を皮肉る位には日本の方もまだ漫画や創作文化は助かっているけど、あそこ共産主義だけども実利重視だから、もしエログロ解禁とかになれば、一気に他分野と同じ様な状況に持ち込まれるんじゃないかなと思っていたりもする。
それに日本の漫画界隈も何を勘違いしたのか指摘されたにも拘らず、この期に及んで、自身でネット規制の推進側に加担し始めたしね。
8歳の女の子に「ボーっと生きてんじゃねーよ」って言われる気持ちの悪い娯楽がマジで嫌いなんですよね
あれ、「本来は我々に逆らうことの許されない立場であるにもかかわらず、無知ゆえに生意気なことを言ってしまう“女の子”に叱られて、つい従ってしまう寛容な我ら」っていう立ち位置を楽しむ娯楽だろ?何重の差別だよ。
そろそろ定年過ぎた近現代で一番使えない年代が大好きな美談知ってるか?「寛容な社長エピソード」なんだけど。
戦後復興のなか、一代で大企業を築いたメーカーの社長(ホンダだったり日立だったりするが、まあそのへんだ)があるとき現場の視察に来る。スーツに革靴で工場に入ったら、掃除のおばちゃんに「コラあんた!そんな格好で来ちゃだめでしょ!」って叱られる。工場内では安全靴にヘルメット着用が絶対だからだ。
それで社長の取り巻きが「社長に向かってなんてこと」って言いかけたところで、当の社長は「おお、そうだった、すまんすまん」とアッサリおばちゃんの言うことを聞く。それを見た取り巻きが「さすが社長、常人とは器が違う」と感動するっていう美談だ。正直なにが美談なのか分からない。取り巻きが無能すぎるって事しかわかんねえよ。
話を戻すと、チコちゃんは「寛容な社長エピソード」の超劣化版だ。目下の人間に逆らわれるという娯楽を安全なところで楽しむ差別だ。
しかも、オマエは社長ですらない。ただムダに歳をくっただけの人間だ。
あんなのを作った人間が中心になって、吉本興業主導の教育産業に進出するらしい。あのコンテンツの倫理的な問題に気付きもせずに多様な学びだとよ。何だそれ?
日本のコンテンツ産業関係者の実務能力のなさって本当に凄くて、資金調達だけして結局何にも形にできなかった例は枚挙にいとまがないんだけど(暇ならCiP協議会でぐぐってみるといい、コンセプトトークだけで何も形にできない連中のバカみたいな夢の記録が出てくる)、だからクソみたいな倫理観でもコンテンツを形にできればそこで仕事が成り立っちゃうんだろうな。
去年ぐらいから流行っているVtuberってコンテンツがある。
テキストサイトから続くネット文化の進化系+日常アニメの延長の生きているキャラクターでバーチャルな姿をした新人種。
去年の今頃から嵌っているが、自分に取っては日常アニメの進化した姿という認識で特に変わっていない。
だから好きなアニメのキャラがライブやったり、バラエティやドラマに出てるっていう長年の夢みたいな物が叶いつつあり、
アニメのキャラが現実を侵食するなんて光景を当事者として見れるなんて楽しくて仕方がなかった。
が、同時にこの考え方が界隈ではマイノリティではないかとずっと感じていた。
その一番大きな違和感が押しって言葉と異常に生放送を神格化している界隈全体。
僕は未だにファンの事を敢えて押しって言っている意味が分からないが、みんな使っているのでそんな物なのかと思っていたが違和感しかしかない。
そして1時間の生放送ってよくよく考えたら正直コンテンツとしてとんでもなく重たい。
シットコムが20分、アニメなら25分、ドラマなら50分、映画なら2時間ぐらいが普通の中で1時間が普通で、それ以上も当たり前ってコンテンツとして見るとありえないレベルの重さだとずっと思っていた。
もちろん僕は生配信を否定する気もないし、別にそれはそれで構わないと思っているけど、いくらなんでもコンテンツとしてそこまで生放送を神格化しているのはおかしいともずっと感じていた。
で、気づいた。「押し」って言葉積極的に使っている人達と見てる世界が違うなって。
僕はあくまで究極に進化したコンテンツ産業の一つで漫画とかアニメの仲間だと思っているVtuberだけど、アイドル声優さんとかアイドルさんの代替として見てる層がいてそれが実は大多数なのが実態だったりするんじゃないかなって。
僕もアイドル文化に詳しく無いので分からなかったが、パリピとヒッキーを同じ箱に入れるような物で本質的に別の種族だったのに同じ物が好きってだけでわかり会えると勘違いしていた。
結局、その事に早めに気づいた人達はさっさとVtuberと距離を取って、残っているのはそういう層ばかりって事だ。
なので、長々と書いたが僕は1年間やってきたVtuberファンってカテゴリをやめる事にした。
別に今ファンをやっている人達のファンをやめる気はない。ただその人達をVtuberとは今後認識せず、数あるコンテンツの一つって認識に改める事にする。
何が変わるかは分からないが、とりあえず界隈からは距離を取る。生放送中心の人はカテゴリーエラーなので近づかなくて良くなる。新規発掘はできなくなるが、本当に力があるコンテンツなら目に着くところに上がってくるだろうと信じている。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
先日、総合アニメーションイベントであるAnimeJapanが終了した。
今年は15万人以上が参加し、順調にイベントとして成長しているようだ。
今年のAnimeJapanを見ていて一つ思ったことがある。
「AnimeJapanはE3(或いは東京ゲームショウ)になりうるだろうか?」
という問いだ。
今年はAnimeJapanが始まる数週間前から多数のアニメ企画に関するPVが発表されていた。
そしてそういったニュースは多数のアニメニュースを取り扱うサイトで拡散された。
実は昨年のアメリカのAnimeExpoというイベントでも似たような事をやっていた。
トリガーの新作アニメ企画発表や、ヴァイオレットエヴァーガーデンのワールドプレミアなどアニメイベントを利用したプロモーションだ。
昨年の時点ではAnimeExpo側か日本アニメ業界側の施策かどうか判断に迷っていたのだが、今回ではっきりした。
どうやら日本のアニメ業界ではこういったアニメ関連のイベントをプロモーションの場として利用しようという潮流になってきたようだ。
もし今後もこの方向性を取るというのであれば一アニメファンとしては大いに歓迎すべき事態だ。
またここから先は単なる妄想ではあるが一つ意見を述べておきたい。
AnimeJapanがこの先もこの方向性を取るのであればイベント開始直後に全世界に生放送するメインステージを一つ用意するべきだと思う。
そして、そのメインステージの場で今後放送予定のアニメ企画のPVを大々的に発表するというE3方式を取るという選択肢だ。
少し話が変わるが、最近のアニメ関連のYoutube生放送で興味深いのが、生放送のチャット欄で英語コメントが大量に流れ始めていることだ。
※生放送以外にもアニメ関連の動画は日本語・英語・中国語・韓国語・スペイン語・ロシア語 etc...が入り乱れたカオスな空間になりつつあるが。
これは外国人アニオタにも日本で行われているアニメのイベントや発表会を見たいという需要があることを意味する。
で、あるならば今現在各社ばらばらに発表しているアニメ化発表PVをメインステージで一斉に発表し、英語への同時通訳放送を用意すれば良い。
もちろん予算的な問題もあるだろうからE3のように生オーケストラを準備したり、発表会場をお金をかけてド派手にしたりする必要まではない。
しかし、プロモーションを集約することによる効果はでかいはずだ。
また、メインステージにおける発表でゲスト枠として外国産のアニメやインディーズアニメを発表するなどの構想も考えられる。
そうやって世界各国でのプレゼンスを増大させることで結果的に日本のアニメの宣伝にも繋がる。
今、新興国の中間層の増大による全世界的なコンテンツ産業の市場拡大と技術的な進歩によるアニメーション産業の勃興が起こりつつある。欧州製2Dアニメの地味な復興、中国製アニメの台頭、中東のアニメ産業への進出。
アヌシーを代表とするように海外でもグローバルに目を向けてアニメ産業を拡大させようと言う流れが出来つつある。
そういう時代に日本のアニメーション業界やアニメファンが取るべき態度なのは
「中国製アニメが台頭してきたから日本のアニメはもう終わりだ」
と言ったような対立を煽ることでもなく
「これ以上の技術流出を避けるべきだ」
と言うような閉じこもった態度でもないと思う。
ではどうするべきなのか。
それは
「日本のアニメ業界にできる力を使って全世界のアニメ産業市場規模を拡大することに貢献すること」
だと思うのだ。
そしてその態度が結果として日本のアニメの全世界でのプレゼンスを上げることにつながるんじゃないか。
私は今そう思っている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53545
1.については正しいだろう。中国経済は急速に拡大を続ける一方、日本の経済は一進一退を繰り返している。
4.については日本のコンテンツ産業を過大評価しているきらいがある。日本のコンテンツもかつて栄華を誇った家電製品と同様、凋落の道をたどるのは確実である。これに関しても色々言いたいことはあるが、文章の主題から外れるためこれ以上書くのは控える。
私はすべての20代を代表して、人生の先輩方であるあなたに言わせてもらいたい。先兵のひとりとして、管理職を務めるあなたに、経営者のあなたに、意思決定権をもつあなたに言わせてもらいたい。
(中略)
出生率のデータを見ろ、大卒初任給平均のデータを見ろ、平均労働時間のデータを見ろ!
おれたち若者は疲れ果て、飢えている。もしもいまのような見当違いの戦略で、いつまでもおれたちを戦わせ続けるつもりなら、おれたちはこんな国から出ていくぞ。
この文章からは、かわいそうな若者vs無知蒙昧な高年齢層という対立構造が見え隠れする。
若者は無知蒙昧な高年齢から搾取を受けた被害者だといわんばかりの文章である。
逆に高年齢層は、昔甘い汁を吸い今は若者から搾取する加害者としてデモナイズされている。
被害者であるがゆえに、加害者と勝手に認識している層に対し呪詛を吐こうが命令に従わなかろうがそれは仕方がないといわんばかりである。
イノセントな被害者としての若者。特定世代に属している人間はすべて純粋な被害者(または加害者)だという言説は被害妄想でしかない。
若者だって高年齢者層から被害を受けるだけではなく、高年齢者層に対し何らかの加害行為を加えて生きているが、そういうことへの想像力が完全に欠落している。
だから、私はあなたに言いたい。頼むから、私たち若者をあなたの愚痴に付き合わせる案山子としてではなく、経済的な鉄砲玉として使ってくれ。
(中略)
20代に機会を与えよ。我々に恩を与えよ。そうしなければ、私たちはもう、日本を捨てて、勝手にやる。それも一斉にではない、能力のある者から順番に、だ。
これを書いた藤田氏はエビデンスに基づき文章を記したわけではない。
ただ中国の深センという一つの都市を訪れ、そこで感じたことを勝手に日本社会全体に敷衍し、天下国家を論じているに過ぎない。
統計などであらわされる社会と、自身の皮膚感覚とは大きく乖離する(そして自身の皮膚感覚の方が間違っている)ことは往々にしてあるが、藤田氏は皮膚感覚を過信している。
加えて「被害者の言うことはすべて正しい」という前提も含まれているように思われる。
この文章の根拠は著者自身の皮膚感覚と被害者無謬の精神の2つだけである。
政策などを推し進めるにあたっては、エビデンスが不可欠である。しかし、皮膚感覚と被害者無謬の精神はエビデンスとしてのポテンシャルを持っていない。
藤田氏の主張する「凋落した日本ではなく中国に行かせるべきだから老年世代は支援しろ」という議論は、著しく根拠に欠ける無理難題である。
話半分に聞くぐらいならいいが、本気にすると痛い目をみるだろう。
この文章にとって、中国の発展について論じた部分は枝葉末節に過ぎない。本質は被害妄想とそれに基づく無理難題の要求である。
若者らしい無鉄砲さといえば聞こえはいいが、この文章を上梓したことによる影響について無頓着ではないのか。
若者がこの記事のせいで被害妄想を持ち、上の世代への敵愾心をむき出しにすれば、社会の分断がさらに進むのは確実である。
こんな駄文を書き散らしたのは自分が藤田氏と同じ1991年生まれの26歳だからである。
読んでいて頭に血が上ったので思わず書き散らした。根拠もへったくれもない駄文未満の代物だが、こういうことを考える人もいるということで読み流していただければ幸甚である。