はてなキーワード: 青年漫画とは
青年誌の中ではジャンプに近い気はするが、かなり根本的なところで違う気がする。それを明文化できるほど漫画に造詣があるわけではないんだだけど、無理に書くなら少年漫画はキャラクター、青年漫画はストーリーってことかな。
少年誌のの読者はキャラクターに感情移入しようとして読んでいるから青年誌が面白くないし、青年誌の読者は感情移入できる心の柔軟さがないから少年誌が面白くない。
でも、「小難しく書く」ことで表面的に深みある青年漫画を目指していて失敗している、かといってキャラクターに魅力もない少年漫画崩れがアフタヌーンには多い、と解釈すると同意できるかもしれない。
とりあえず面白かった3本が知りたい。
「ちはやふる」を読んだときに脇役の同じ部活の子だったかクラスの子だったかがかなり簡略な絵柄で描写されていて、「主人公たちにとっては、あるいはこの世界にとっては、こいつはその程度の存在なのか」と大変冷え冷えとした気持ちになったことがある。いままた別の有名な少女漫画を読んだらクラスメイトが同様に描写されていて、同様の気持ちを体験した。
少年漫画や青年漫画ではあまり意識したことはないのだけど、少女漫画では中心のキャラとその他の描写の密度の差異が大きくなる傾向があるのだろうか。それとも少年漫画などでも同程度のことが行われているけど、僕が少女漫画的省略の文法に不慣れなためにより大きな差異を見出してしまっているのだろうか。
最近どっかの記事だかブログで、グラビアアイドルの収益が厳しいという話を聞いてふと思った。
俺は中高のころ、上堂薗恭子という巨乳グラドルに惚れ込んだ。それからずっと今でも自分にとって最高のグラドルおっぱいだった…って書いてから気がついたのだが、昔同じような話を増田に書いた気がする(汗)。
まあ、昔の増田エントリはいい。今回書きたいのは、当時DVDが買えなかった、イベントに行けなかったという話だ。
なんせ中学生高校生である。一枚4kとかする円盤を買うのはやや大変だ。そこはPS2のゲームを犠牲にして何とかなるとしても、今度は店に入って買うのが恥ずかしいというハードルがある。
もしかしたら店員に呼び咎められるんじゃないか…という恐怖は、子供心にはなかなかリアルだった記憶がある(あと近所で売ってる店がそもそもなかったというのも一応)。
大好きなグラビアアイドルに直接会えるのだ。いや会えるというのはおこがましいが、とりあえず肉眼で見えるのだ。そのためには、
わざわざ秋葉原まで行って、先ほど問題に挙げたDVD購入を成し遂げ、大人(その大半は歴戦の猛者だろう)に混じってイベント参戦!
これはキツい。中高生には複合的にキツい。
さらにトドメとしてカメラ問題がある。猛者共が一眼を構えるなか、少年は一体どうすればよいのか?
家に置いてある中古のコンパクトデジカメでいいのか? 当時の話なので、写るンですという手も現代より身近だったが、でもそんな装備で大丈夫か? ルール的には大丈夫でも、空気的にどうか?
当時はミラーレス普及前…いや、普及していてもDVDにプラスそれ買え、というのは無茶苦茶であろう。
そういうわけで、当時の純朴(グラドルに惚れた時点で純朴ではない)な少年は、上堂薗恭子のDVDイベントに行けなかったのでした…。
時が経って大学生になり、それなりに恥も外聞も捨てられるようになった(あとカメラについて偶然算段がついた)時には既に遅し。
もちろん、歴史にifなしというか、たかが中高生一人が円盤買ってイベントに行ったぐらいで引退せずに済んだとは言うまい。
しかし一回ぐらいはこの目で憧れのグラビアアイドルを見たかった、という話でした。
おまけ。
冒頭のグラドル収益に話題を戻すが、中高生から無理のない金額、しかし青年漫画誌以上の利益率で収益を得るってなんか方法あるのだろうか。
それを主軸にするのは無理だろうが(主軸は大人のオタが頑張るしかあるまい)、副軸的になんかあれば…ということ。
スマホ向けネット配信で短い動画を、という手が有効そうだが(親から隠しやすいし、PC文化から離れているので円盤よりは割られにくいというメリットもある)、
しかし課金を親に制限されていた場合、そしてクレジットカードしか使えない場合はアウトだ。
敏感なおとしごろの個人情報を慮るという意味で、できれば会員登録制も無しとしたい。登録を恐れる子は多かろう。
この条件下だと、どんな手法があるだろうか?
(3/12 超今更追記)
もともと書き捨てる的なイメージで書いてた&書いた直後は反応なかったんで、自分でもこれ書いてたの忘れてたんですが、
なんか3月になってからちょっと反応があった(のに今さっき気がついた)ので驚いています。
一体何があったんだ。上堂薗恭子が復活したりとかは…していませんねハイ。じゃあ一体本当に何が。
ちなみにリドリー・スコット作品だとブレードランナーとキングダム・オブ・ヘブンが好きだが、これ書くと安直っぽく見えるのが悩みだ(デュエリストとかまだ見ていないんですけど面白いんですか)。
グラブルは詳しくないのでなんか申し訳ない、ダヌアというキャラがエロそうだということしか分からない。
ちなみにコンビニでプリペイドカード買うのはいいんだが、AppleにもDMMにもニコ動にも"登録せず"プリカを使うトレーニングをしている人はいないので気をつけるように。
吹き出しの内外を問わず、台詞とそれ以外のモノローグや傍白すべてに句点がつけられています。
何気なしに読んでいて一度その存在に気がつくと、これが気になって気になって仕方がないのです。
この違和感をおぼえる一例を挙げると、
漫画家・楠みちはるは『湾岸MIDNIGHT』というシリーズ漫画を、
この2社にまたがって描きつづけています(※)。
後者の最新作『銀灰のスピードスター』では、その傍白にもきっちり句点がつけられています
(三点リーダー「……」やダッシュ「——」のあとにはつけられておらず、それだけが救いです)。
自分の場合、特に吹き出し外の傍白は登場人物の内面の詩的なあらわれ(文字どおりのポエム)として読むので、
そこに句点をつけられるとどうにも決まりが悪いように思われます。
そこまで気になるものだろうか、と思われる方は、
ぜひ集英社や講談社など漫画に句点を使っていない出版社の単行本をご用意いただき、
試しにそこに句点を加えて読んでみてください。
内容によっては、句点の有無で台詞の印象が変わってくることがあるように感じられると思います。
もちろん小学館には出版社としてのポリシーによってこの方針をとっていると思います。
それをあらためてほしいなどと大それた要望をするつもりはないのですが、
最近好きな漫画家のウェブ連載作品が小学館から物理書籍として発売され、
やはり句点が気になってとても残念な思いをしたことをきっかけに、
ここでこの悩みを吐き出してみました。
予告やNHKの宣伝特集見た限りだと、アニメ映画はほんと期待できそうにはないと思う。
主人公のすずのホンワカで明るい性格から繰り出す嫁ぎ先での恋愛ドラマがいい。
予告や宣伝特集には、こうした恋愛ドラマであることや主人公の魅力アピールが足りなすぎる。
ようは、漫画以外の媒体では、普通に描かれてきた世界であるわけだ。
ドラマや小説で、戦争中の生活をテーマにした女性物語は山ほどあるしな。
名作扱いされるのは、結局青年漫画誌というメディアで戦争テーマの女性物語が珍しかったから、余計に「これはスゴイ!」となったんだろうな。
それを漫画から飛び出して映画の世界にいったら、そりゃ予告の段階としても他の作品と比べられて、う~んってなるのはうなずける。
『累』という青年漫画がある。
大女優の娘でありながら、非常に醜い容姿の「かさね」という少女が主人公である。
かさねは、ある日《接吻した相手と、一時的に顔を取り替えられる口紅》を手に入れ――
彼女は己を「女の身体にバケモノの顔がついたよう」と表現する(実際絵的にもそういう描かれ方をする)。
髪は己の顔を隠すように長く、いつもビクビクと人目を気にしている。
道で誰かにぶつかって、会釈をする程度のことさえ「滑稽」に思えてできない。
《口紅》の力で美少女と顔を取り替えたとき、美しさを得て彼女は呟く。
劣等感のない…うたがいのない“自信”…!
それ一つ持っている事が
こんなにも快感だなんて…!
彼女にとって、世界とは、容姿によって著しく姿を変えるものである。
醜い顔のかさねが見る世界と、美しい顔の人間が見る世界は別だ、と
そしてかさねが「美しい顔で見る明るい世界」に焦がれることによって話は続いてゆく。
「俺は見た目のせいで、人間としてさえ扱ってもらえなかったんだ!」という叫びである。
おもにミソジニーの人とかが言う。
正直に言うと、この作品の主人公かさねに対しても、そういう増田たちに対しても、私は同じ気持ちを持っていた。
って感じだ。
だからといって、己の人生の不幸すべてが容姿に由来すると考えるのは不毛に思えた。
作中、かさねは非常に美しい容姿を持つ「無二の友人」を得る。
かさねも彼女が「不幸のただ中にいる」ことは薄々気がついている。
男のひとが……
私の顔を見て「美しい」とか「きれいだ」
とか言って
近づいてきたけど
皆 私をまともに
人間として扱っては
くれなかった……
あるひとは私を
“見かけだおしの欠陥品”と罵り
またあるひとは
どんなに避けても言い寄ってきて
あとをつけられたり…
襲われかけたこともある
使い方次第だわ
私なら……
○○の美しさを
もっと上手く
使いこなせる…!
私は、これを読んだときに驚いた。
前述の通り、彼女はかさねにとって無二の友人だ。
ほかの人ならともかく、友人の不幸に持つ感想それかよ!
かさねの美しさに関する執着はもはや修羅のごとしなので、まったく自然ななりゆきともいえるし
さほど重要なモノローグでもなさそうなのだが、この言葉は強く印象に残った。
それは、かさねや「容姿コンプレックスの増田」に対して私が持っている思いと、全く同じものだと気がついたからだ。
しかも彼女たちは、実際に顔を取り替えてさえ、互いの苦しみを理解できないのだ。
かさねは美しさによる苦しみなど理解できない。
「友人」である彼女も、かさねがビクビクと人目を避ける理由を理解できないし、
己がその顔になっても「他人に嘲笑われた」などの苦しみを感じない。
互いの中には己の苦しみだけがある。
人の苦しみに寄り添うのはどうしてこんなに難しいんだろう。
悪いことしてるイケメンにはみっともないシーン一切無い勝ち逃げみたいな
主人公にはサドみたいにしつこく惨めな思いさせていじめるのに悪役のイケメンには一切かっこ悪い場面与えないから
しばらく読んできてからその女性作者が好きなのは悪のイケメンのほうだったんだって気づくんだけど
男性読者が主人公に感情移入して読んできちゃってるとストレスだけ溜まる構造
まだまだあるよね咄嗟に思い出せないけど
男性憎悪とイケメン萌えを発露するメチャクチャ気持ち悪い露出狂みたいなあの行動なんなの?
男女逆なら超気持ち悪いって袋叩きなのにね
少女漫画誌に乗り込んでミソジニー漫画描く男がいたら俺だって叩くよきもちわりいから
はっきり言ってモテなさそうな・男性関係でしょっぱい思い出ある(マギの作者とか)人ほどそれやるよね