はてなキーワード: 歌手とは
最新技術の粋を尽くして、それなりに聞こえる歌手ならいっぱいいるんじゃないかな。
一体どういうジャンルを何曲くらい聴いてそこまで自信満々に言いきれるの?
最新技術の粋を尽くして、それなりに聞こえる歌手ならいっぱいいるんじゃないかな。
実際ライブにいって、それが生音声だと判って、すげぇって思う人は(世界的な一級品を除いて)思いつかんな。
ライブが盛り上がるって意味で、生声すげぇって人は、ロック歌手とかにいるけれどさ。
変な話、プロの音源ってのは、人材と技術と金を潤沢に使って音を調整できる音源なわけで、そりゃよく聞こえるよ。
逆に言えば、音源がボカロでもマジもんのプロが手を当てればちゃんと聞こえると思うんだぜ。
(そしたら、これはボカロじゃないとか言い出すだろうが)
ミク曲の中でも好きな曲と嫌いな曲があるライトなミク好きとしては
音楽において重要なのは、曲と歌詞で、歌声は「悪くなければいい」程度なんだよね。
「面白い曲にのせて面白い歌詞をちゃんと歌ってて、面白い映像もついて飽きさせない工夫もしてて、何が悪いの?」って思ってしまう。
面白い曲を作れるけど歌えない人が、才能のある歌手と知りあわなくても、自分の曲をそれなりに満足のいくクオリティで発表できるようになったんだよ。
女性歌手としてのミクの魅力は、どんな曲でも歌ってくれるところだと思う。
俺も横だけど、横の人に聞いていい?
「歌唱力」と「顔やスタイル」と「パフォーマンス」以外の歌手の魅力って何?
というか、そういう比較は両方それなりに聴きこんでる人が言わないと説得力無いのよ。
その本物の歌手とやらが歌っている声なんて、録音で構わないならいくらでも聞く機会があるわけで
テレビでもラジオでもあるいは家にそういうものがなくてもコンビニですらかかってるのだし
私は君の言っている「本物」というのが実際に存在するという意味ではなく「実質を備えた本格的な」という意味と誤解したんだよね
いくらでも聞く機会のある「実際に存在する歌手」と比較してないなんて事はありえないから
で、君の言う「実際に存在する歌手」と「ボーカロイド」を比べると、確実に「良い」などと言えるはずがない
「実際に存在する歌手」は上手い奴から下手な奴までそれこそピンキリだし、
歌手の定義を歌うことを生業としている者としても、良く出来た「ボーカロイド」曲より下手な歌手はいっぱいいる
「良い」の意味もまた別で「ボーカロイド」の良さっていうのは「身近」であることだったり、
あるいはニコニコ動画のシステムまで含めての「同化」であったり歌詞の「同調」だったりするわけで
今までの「実際に存在する歌手」が評価されてるのは基本的には「歌唱力」で、
テレビなんかを通してなら「顔やスタイル」、せいぜい「パフォーマンス」までだった
比較している要素がまったく違うんだよね
ここでは、本物の歌手の声と比較しない限り、君自身も「人間だからって「ボーカロイドの声はなぁ…」っとか言って良さを「分かろうとしない」」ということになる。つまりどっちもどっち。
もちろん、実際に本物の歌手とボーカロイドのどっちが「良い」かは別問題。当然ながら、現状では任意の方法で「良さ」を定量化しようとしたら確実に本物の歌手の方が「良い」という結果になるだろうね。
残るのは感情論的に「どっちが好きか」あるいは「どっちに興味があるか」だけ。もしそういう基準で君が判断してるんだとすると、仮に周りの人が君の言うように感情で判断してたとしても、それを非難する資格は君にはないよね。
立場が逆なだけで同じことをしてるんだから。
あ、あとどうでもいいけど「お前は何を言ってるんだ」ってのは一般に煽り文句だから、言われた方は普通「ああこいつはまともに会話する気が無いか馬鹿なんだな」と判断するよ。
普通の会話をしたいなら使わない方がよい。
たとえば自分が何か(歌手でも漫画家でも作家でもなんでもいい)のファンになって、
その人の作品をむさぼるように集めて「やっぱこの人の作品素晴らしい!」と心の底から堪能している時に
「この人のファンじゃなくなったら、集めたこれらの物は一体どう処分するつもりなのか」というリスクは考えない(好きという感情に隠れて思い浮かばない)と思うんだけど、増田はそう考えてしまうの?
集めたものの処分はたいして大きな負担でもないので、「好きという感情に隠れて思い浮かばない」のではなく、そのリスクを引き受けて買ってるだけだと思う
たとえば、「この人の作品素晴らしい!」とおもえてるときでも
「この作品を捨てるときは50万円かかります」と言われたら、リスクが思い浮かばないなんてことはないんじゃね?
(婚約破棄の慰謝料の相場は100万~200万らしい。実際に払わなくても、それだけ相手を悲しませた加害者になるのは負担だ)
この印象は観測範囲によってガラリと変わる。なんとなく友川かずきという古いフォーク歌手の動画のコメントをみてたらさ、70歳とかそこらへんの年齢のコメントがあるわけ。んで、その内容はあれから30年以上たってとか、各臓器に沁みるとか渋いコメント。しかも、そのコメント上でほかの人とやり取りしているんだよね。youtubeに70歳がコメントするって想像もしていなかったし、大抵はガキが上手いこといってるか、信者がなにかを唱えているか、賛否両論しているだけのコメントかと思い込んでいたから、かなり驚いた。
いつか、70歳のほとんどがyoutubeを利用する時代、下手したらニコニコ動画に髪の毛の代わりに草を生やす時代になると思うと、不思議な気持ちになる。なんかなんだかなんだろう。分かんないな。感性が衰えると思ったら大間違いだ。
「どうして日本を嫌いな人がこんなに多いの?」って。
http://anond.hatelabo.jp/20110519085139
まあ当然の疑問だな(笑)。
あっちは国家規模の事業として官民一体で日本ヘイトを展開してるのに、日本だけがやっちゃいけない理屈は無いだろうし。
http://anond.hatelabo.jp/20110519004953
「K-POP」ってのはあの国の国策の一環なんよ。それこそ何十億だか何百億だか知らんけど、海外のプロモーションに国の予算が付いてる。
日本のテレビ局はそのカネに釣られてるだけで、他にも「日本のテレビ局系列の音楽会社と契約した韓国人歌手の宣伝」って一面もある。
ゲームの実況をしている人がいた。
そのゲームは私の思い入れあるもので、彼の実況の巧みさと徹底されたネタは彼のそのゲームに対する思い入れを感じた。
もう何年もしていないゲームだが、懐古心に擽られ継続的に視聴した。
物語の核心、というわけではないが、ひとつの頂点を迎えるところにきた。
彼は実況を入れないという。いい配慮だと思った。
冷めた。
これまた嫌いではない歌手のよくカラオケで歌う曲でもあるそれが、「大事な」場面でこうも冷ましてくれるとは思わなかった。
コメントを見る。
感動した;;
何音楽批判してる奴いんの?wwやれってことだよ言わせんな(ry嫌なら見るなks
冷めた。そのコメントが本心かどうかなんて知らないが、冷めた。
BGMを差し替えるなら実況の有無など大した問題ではないだろう。なぜどっちつかずの配慮をするんだ?
これまで信じられないほど好セーブを連発していて、この人の作品に対する愛を様々なところから感じた。
しかしどうだろう、その一点のミスを以て積み上げてきたあらゆる感慨を底から打ち崩された感覚になった。
信頼ってこんなに脆いんだな。
大事な局面で失敗すると、80点でも100点でも20点の評価を下したくなってしまう。
客観視って難しい。これまで彼はよくやってきたのに、自分が大事にしているものをひとつ汚されただけで、感情的になってしまう。
どうして、どうして?
ヒステリックになる女性の気持ちなんて露程もわからなかった。男だからってのは関係ないんだな。
今目の前の惨状をどうにかしたい。違う、それは違うんだ、もっといい表現があるでしょ。ねえ。
やりきれない。
そっとBackキーを押す。
「嫌なら見るなks」
今まで子供の狭量なコメントだなと無視してきたけど、これほど突き刺さるものはない。
信者、か。
誰にでも優しかった可愛いはてなは、春休みが終わると、似合わない金髪のソバージュに、真っ赤なルージュをひいて、校門の前に停まる黒塗りの高級車にのって汚い男の前で股を開く下卑たアパズレに変わっていた。
はてなブックマークは大きな改悪をブックマークコメントに施した。
その改悪の要旨は、
・デフォルト表示コメントをスターのついた人気コメントと新着コメントに限定
・全てのコメントをすぐに一覽で見られない
というものだ。これははてながその本質をかなぐり捨てるような、大きな改悪だ。
新着コメントとスターの多くついたついた人気コメントだけを表示するというアプローチは極めて旧世代的だ。旧世代とは、ベストセラーしかおかない本屋、人気歌手のCDしかおかないCDショップ・・・時代とともに滅びさろうとしている『人気のあるもの、新しいものだけが価値あるものだ』という『恐竜の頭』的考え方のことだ。この馬鹿げた考え方を恐竜のロングテールで引っぱたいてきたのが、Amazonであり、appleであり、はてなだったはずだろう。
いまさらになって、恐竜の頭を選択するのは、はてなの自殺というしかない。
スターがついたものは見るべきコメントではない、ただ単に10人の人が気に入ったということだ。10人の人が気に入ったということは、そのコメントが『僕にとって』価値のあるものだということにはならない。上地雄輔のブーンブンシャカブブンブーンがいくらヒットしていても、僕にとってはオリモノ以下の廃棄物なんだから。
見るべき価値のあるコメントはユーザーごとに異なる、異なるからこそ楽しいし、多様性が生まれる。ユーザーがコメント一覽の中から探す、探すのもまた楽しい。そのニッチなコメントを評価しあい、好意を好感しあうのがはてなの楽しさだった。
その過程を台無しにすることで得られる利益はなんだろう?たぶん、「たいして見やすくもない、見やすさ」だろう。見やすくもない見やすさを目指すために、本質的な価値を犠牲にするのは、度のあわないメガネを買うために内蔵を売り払うようなものだ。誰にも利益なんてありゃしないんだ。
50000000歩譲って、人気のあるものか新しいものが見るべきものであるという旧世代のアプローチが現在においても価値をもっていたとうしよう。
けれど、「人気がある」ということを判断する為の指標として、はてなスターを使おうというのならば、間違いだとしかいえない。なぜなら、はてなスターは個人が何個でもつけられるから価値の基準になりえないからだ。AKB48の曲がいくら売れようとも、誰もが知っている国民的歌謡曲にはなりえないのと同じで、一人が何度も投票できる人気投票は人気投票として機能しない。そんな曖昧模糊とした基準で見るべきコメントを抽出する意味があるなら教えて欲しい。
ブックマークコメントが改悪されてから、明らかにコメントを書きこむユーザーが減った。
昔の「ニッチなコメントでも誰かが見てくれて評価してくれるかも」という楽しい期待が失われたからだ。どうせ新着からも落ち、人気コメントにもならず、誰にも見られないコメントなんて誰も書こうとは思わない。当然の結果として、コメントの数も多様性も面白さすら減った。一部の常連のコメント頻度も下がった。濃い人達が積極的にブックマークをしなくなり、クズみたいな手垢のついた胡散臭いライフハックばかりが目立つようになった。
なおして
まーこれ読めば狂ったように批判する人が多いだろうなっていう内容を雑に書き殴る。その内気が向けば、徐々に加筆するかも。特定の人が見れば誰が書いたか分かりそうな・・・。
デマは不安を煽るものが多いが、中途半端にインテリな奴が根拠薄弱な安全情報を流したりする例も。原発に対する非科学的な恐怖感に対する反動化だろう。無闇に恐れることはないという主張が勢い余って無闇に安全だというデマに繋がるのだろう。どっちにしてもデマは大迷惑なので止めて欲しい。
切込隊長こと山本一郎までその中に入ってしまったのが、人間の能力の限界を感じさせる。彼は結構賢い部類に入ると思ったんだけど、それでも人間の能力は個人レベルでは限界値も低いようだ。知能や倫理のネットワーク化が人類の課題。相互に補完・訂正し合って相乗効果を高められるか否か。
国同士が協力できずに地球規模でまとまれないのは、人類にとって地球が最大単位だから。それ以下の単位では、争いはあっても、学習によって視野を広げればまとまることも可能。そう言う意味でも宇宙開発は意味がある。地球よりも広い範囲を自然な意識内に収められれば、地球規模で人類がまとまれるだろう。
あと、デマに関しては、どこそこの教授が言ったからとか、米軍情報だからとか、そういう理由で信じた人が多かったが、やっぱりそういうのに弱いんだなと。 MITの教授だけど実は原子炉や原子力工学は専門外で物理の先生ですらなくマーケティングだか何だかの先生だと後で分かったりということがあった。デマに対する方策として、「信頼できるソース」というのがあるけど、これは肩書きとか機関名の権威に盲従しろってことではない。あくまで、自分の頭で総合的に情報分析・判断する際に、どういった情報を取捨選択するかという際の目安でしかない。取捨選択の判断基準としては、学問的手法によるのが適切。仮に優秀な学者が唱えた説でも、それは学説に過ぎないという当たり前の事実。あと学者の情報と現場を知ってるエンジニアの情報を組み合わせることも考えて欲しい。
これは私のような存在、中の人の気持ちも知ってるし、外の人の立場でもあるので書いておこうかと。もっとも中の人、外の人にも色々いるんだが。
絶賛する声が大きすぎて怖い。もちろん、気持ちは分かる。だから絶賛を非難する気はない。
しかし、まず第一に彼らはそれが仕事であること。つまり平時より課せられた使命であること。特に自衛官は我が身を顧みないことを宣誓し署名している。だから義務を果たしているに過ぎない。
念のためにもう一度書いておくが、それでも彼らに感謝するという気持ちは充分分かる。そうした過酷な義務を大阪市バスの運転手よりはるかに安い給料で遂行してくれるのは確かに有り難い。
が、しかし、彼らには宣誓に応じた義務を給料と引き替えに果たすというのが役割だということを忘れないで欲しい。
度を超えた絶賛は、自衛官らにとっても国民にとっても不幸なことだ。彼らは超人ではない。肉体的・精神的に被災者以上に過酷な状況の中で作業を続けることは、自衛官などなら平気だという訳ではない。
精神的に余裕のない被災者から容赦ない罵声を浴びせられることもある。自己完結型の組織として自前で用意した環境を享受すれば非難される。自分の家族も行方不明のまま。大量の遺体が腐り始める。理不尽なことが山ほど降りかかってくる。
そんな現場にいる人達をヒーロー扱いするというのはやや失礼なことだとさえ言っても良い。もっとも彼ら自身は何とも思う余裕もないだろうが。彼らに報いる方法は、彼らが充分能力を発揮できるような環境を平時の間に整えることだ。はっきり言ってしまえば、毎年の予算を増やすこと。そしてそれが有効に使われているか、官僚の都合が優先されていないかチェックすること。彼らに感謝すると言いながら、予算には関心を持たない人は多いのではないか。年々減っていく予算をどう思っていたのか聞いてみたい。いや聞きたくないわ。予算に関しては全体の額だけではなく、内訳も非常に重要。イージス艦とか支援戦闘機とかMDとかも大事だけど、もっと地味なところは蔑ろにされがち。柱の浮いた廃墟のような倉庫とか、すぐちぎれるペラペラの個人装備とか、歩いてるだけですぐ部品がなくなる小銃とか。今や第三世界と呼ばれた国々の軍隊の装備にも劣る点が多々ある。ハイテク装備にだけ目を奪われるとこうなる。
自衛官らを超人扱いして有り難がるのはやめよう。頑張ってくれてる同じ日本人として感謝しよう。
コンプレックスの強い人がそれを軍隊のロマンへの心酔という形で発散したがるというのはよくあることなんだが、今の日本では主にネトウヨがこれに該当する。極端な国粋主義というのは軍隊の内部よりも、外部から内部に浸透してくるものだと考えている。三島由紀夫が自衛官に冷笑されたのは当然。軍隊ではああいう人は一番浮く。井上和彦とか話にならん。ああいう人はヒーローを語ってその尻馬に乗ろうとしてるだけ。
連日の過酷な状況を伝える暗いニュースの連続で、自分自身は直接被災していないにも関わらず、心が参ってしまう人が続出。見なきゃ良いんだけど気になるから見てしまうんだろうね。そういう人はなるべく民放のセンセーショナルな番組を見ないようにした方がいいと思う。とかく人の不安や恐怖やらを煽りがちなので。情報は1日1回、NHKのニュースを見て、後は新聞の一面でもざっと眺めれば充分でしょう。
ネットの情報は読み解くのに相当のリテラシーと時間が要求されるのでこういうときは実はあんまり実用的でない。
んで、自主規制とか自粛とかいわれる物が行きすぎというのも分かるが、わざわざ話題を逸らすこともないとも言える。そういう訳でこの文章を書いている。
遺体を映すべきだという声をよく聞くけど、それは要らないと思う。それを見てたらどうなるの?慣れるの?そんな場面を見なくても震災から学ぶことは十分出来ると思う。
以下加筆するかも・・・・多分しない
日本の先駆的研究者、松浦祥次郎氏も再考を迫られたことを明かした
不可欠であっても数は減らせる
M9レベルを基準にすることについての国民の合意を確認しておく必要
数十兆のダメージか→国民皆でかなりの負担をすることになる(全員が「被災者」でありサバイバー)
今の日本に必要なのは抽象的な協力概念ではなく、国民が賢くなって賢い政治を選択すること
戦後政治を変えるのは震災前から喫緊の課題であったがもう猶予は一切無い
今、間違った復旧・復興をすると取り返しがつかない→反面、新しい街作りの機会
補償にも効果測定は必要(効果は補償された人・されなかった人・国民全体の人心の安寧も含む)
その防止策は?
場所は確かに難があるが、では財政難の中でどの選択肢を採れるか
庁舎近辺を徐々に再開発するのは無理?庁舎が来れば需要も生まれるのでは?
数々の地震に耐えた現庁舎も今後はさすがに不安(そこが出発点だったはず)
他にもあったけど、ありすぎて忘れた。とにかく考えさせられたことが多すぎて全部覚えてらんない。不安を煽るつもりはないが、もはや崖っぷちであることは事実であると認識した上で勇気が必要。
こういうアホなりにも真面目に考えてびっしり(というか8行おきじゃなく)書かれた文章(つっても作文程度だが)より、どっかの歌手が書いた5行くらいの詩を読みたがるのが大衆なんだと思ってるけど。
きっちり考えるより、分かりやすい言葉に感動してる方が圧倒的に楽だという誤謬の根本原因をどうするのかまで考えないとな。それは俺なんかより、インテリが考えるべきことなんだけど。インテリというのは優れた思考力を与えられている分、俺たち愚民を導く責任があるんだよ。ワンフレーズで国民を先導ならぬ扇動する政治家とか論外。
で、NHKの水野解説委員と横尾アナウンサーには萌えた。彼らは常識的なインテリだと思う。他にもテレビに出てる人でもいいこと言ってる人はいるし、それが放送されているのだから、まだマスメディアには存在価値が残っている。
追記
読めば分かると思うが、私のこの文章が歌手の安っぽいフレーズより有用だという主張をしているのではない。下らない物が結果的によい効果をもたらすことは良くあるし、私から見て下らない物が世の中のためになる価値ある物かも知れない。しかし、そういった価値判断以前に、単純に、真面目に書いた長文より情緒的なワンフレーズがとっつきやすく、それだけで満足してしまうことによる誤謬の可能性というのは大きいという構造の話。いずれにせよ、その辺はこの文章の主題ではないんだけれど。