はてなキーワード: 同性愛とは
合衆国南部で州レベルの中絶禁止法廃止案が否決されたり、小さなケーキ屋が同性愛者にウェディングケーキを作るのを拒否すると北部のリベラルは大挙して南部の田舎町に押し寄せて抗議デモと称して大騒ぎするけどその逆は聞かない。南部の人たちはニューヨークやワシントン州、カリフォルニア州でどんな州法が可決されようが廃止されようが北部のことに干渉しようとしない。「北部は北部、南部は南部」って感じで不干渉だしわざわざ都会に押し寄せてデモなんてしようとしない。でも北部リベラルはわざわざ南部の田舎に行って大騒ぎ。
アメリカ縦断旅行をしてた時、北部の自称「多様性を認める」人たちと話すとやけに「should」が多くて嫌になった。「日本はこうすべき」「アジアはこうすべき」「人々はこうあるべき」。でも北部の人間が「差別主義者」って見下すルイジアナとミシシッピのコットン農家とかオレンジ農家の人たちと話したら、住むとなるとわかんないけど旅行するくらいじゃ全く人種差別なんて受けなかった。ミシシッピ州のラファイエットにいた時ダイナーでオックスフォード出身のトラックの運ちゃんに「明日はオックスフォードに行く」と言ったら町の人みんなが「日本から旅行に来た人だね。あいつから聞いてるよ」って言われてびっくりしたくらいには閉鎖的だけど。そんで南部の人たちは「こうあるべき」「こうするべき」「should」じゃなくて「南部じゃこうなんだ」「うちじゃこうなんだよ」が多くて、決して日本や海外やアメリカ北部を否定するような話が出てこなくて居心地が良かった。バーベキューとか招待してくれたし帰る時にはビーフジャーキーいっぱいくれたし(狂牛病の関係で持って帰れなかったけど)。南部の気質の方がよっぽど多様性を尊重してると思う。
先日、「美術館が「差別主義者お断り」という張り紙を出していた」というツイートがバズっていた。以下のリンクがそれである
https://twitter.com/tamago_sukidesu/status/1520608613127008256
このツイートのリプライや引用を見ていると、以下のような「冷やかし」のようなツイートが実に多い。
大別すると
①ミサンドリー(男性嫌悪)が入っていない。男性差別には賛成するのか?
②今まで排除される側だったマイノリティが他人を「排除」して楽しいのか?
といったものだ。
もういつもいつもこの手のカスみたいな意見を見て、しかもどうやら本人たちは上手いこと言ったつもりらしくてウンザリなので、改めて反論しておきたい。
①ミサンドリー(男性嫌悪)が入っていない。男性差別には賛成するのか?
→それで言えばイスラム恐怖症とか学歴差別とかここに書かれていない偏見、差別は山ほどあるけど。あなたはこの看板を見て
「なるほど、同性愛差別はダメだけどイスラム教徒の差別はオッケーなんだな」とか思います?
普通は思わないだろ。そこで敏感にミサンドリーの不在だけ読み取ってしまうのはなぜなんでしょうか。
男女関係でいえば歴史的に女性が被差別層だったわけで、反差別の文脈でミサンドリー反対よりまずミソジニー反対が出てくるの、そんなにおかしいか?
こういう人たちがBLMに対して「アジア人の人権も擁護しろ」とかイチャモンつけてたんだろうと考えると勝手な納得感はあるよ
②今まで排除される側だったマイノリティが他人を「排除」して楽しいのか?
→一端冷静に考え直して欲しいんだけど、「感情的な理由に基づく差別」と「「全ての人間は平等に権利を持つ」という理念をベースにした反差別」が、本当に同じものに見えるのか?
自分が極めて差別主義者に優しく、差別する人の肩を持っている自覚がある?
「普段のイジメは完全に無視するくせに、いじめられっ子が反撃するやいなや高速で駆け寄ってきて「君は今暴力を振るったよね。暴力を振るった自覚はある?」「今君はいじめっ子と全く同じことをしたわけだよね」とか言い立てる人」
なんだよね。そのくせ自分は中立の立場で冷静にものを言ってるという自認なわけ
でも実際には「差別に対する抗議」を差別に仕立てることで、「たしかにイジメは良くないけど、イジメの被害者がそれに反撃するのは「イジメっ子イジメ」だから平等に悪だよ」みたいなことを言ってるんだよ。
頼むからその行動力を最初に差別した人に向けてくれませんかね。
■追記
・ミサンドリーはミソジニーの対義語なんだから無いと不自然と感じるのは当然では?
→別に対義語だからというのは理由になってないでしょ。じゃあホモフォビアがあるのにヘテロフォビアは無いのはいいんですか?
この手の話をする際に重要なのはマジョリティとマイノリティの非対称性で、人種差別もトランス差別もホモフォビアもミソジニーも、ぜんぶマジョリティからマイノリティへの差別なわけですよ
で、マイノリティがその差別に対抗するためにこういう言説を持ち出すわけでしょ。だからマイノリティ目線の主張の方が優先度が高いのは何もおかしくない。
こういう話の時に「マイノリティがマジョリティを差別するのは許されるんだよなw」みたいなことを言う人がたくさん出てくるわけだけど、もちろん許されないですよ。明言しておくと当然ミサンドリーだって許されない。
でもそれって「当然マイノリティ差別は許されない」という大前提があってのものでしょ。「差別に反対するくせにミサンドリーに反対してない、はいアウト。やり直し」みたいな態度は何様なんだよ。
「どっちもどっち」的な構図に引きずり込もうとする意図が見え透いているんだよな。
→これはその通りと思う。それにこういった意見は多かったので最初から取り上げるべきだった。
改めて記載しておくと、差別・偏見といった人間の思考をあえて病状に例える必要は無いと思う。
根拠がないし、そういった思想が何らかの精神疾患とセットになっているケースはあるのかも知れないが、それは個別のケースに過ぎないので。
それをあえて病状のように記載すべきではない。
→じゃあ世界で一番人口が多いのはアジア人だからあらゆる白人はマイノリティで弱者になりますね。
■追記2
深夜に書いたせいか重要なことから抜けている。コレを最後の追記にしたい。
→これは重要なことなんですが、あなたがもし「内心ではめっちゃ差別してるけど、言動には移さない人」であれば、あなたは差別主義者ではありません。
しかし最近自慰行為は女性との性行為ではなく男性にされることを想像しながら行うことが多い。
だから出来れば実際の性行為の際にも相手にリードされて責められるセックスがしたいと願っている。
だが残念ながら現実世界、というか私の出会いの範囲では私をリードしてくる異性というものと出会ったことがないしこれからもおそらくはないだろう。
ならば、せめて空想の世界だけでも自分の嗜好を満足させてくれるシチュエーションを……、と考えて所謂痴女ものであるとか女王様ものをおかずにして自慰に励んだりしてきたのだが何かが違うのだ。
どうもしっくりとこない。
理由はいくつか考えられるがおそらく自分の中の固定概念として女性はセックスをリードしてくれることは決してない、という思い込みがあるからであろう。
自分の知っている範囲では女性は殆どの場合性行為に対して受け身であるし、女性側から誘ってくる場合においてさえ受け身であることを好む。
つまり私を性の玩具として、対象として犯してくれるようなセックスなど夢のまた夢なのだ。
そういった私の頑強な思い込みは痴女、だとか女王様というものがつくりもの絵空事としてしか捉えることが出来ず、風俗的なプレイという範疇を超えることが出来ないのだ。
そう私が求めているのはプレイではないのだ。
私が求めているのは、性行為の相手が私のことを欲求の対象として強く求め、私の肉体を(相手方の)極自慰的で自分勝手な欲望を満たすための道具としてしか考えていないような状況なのだ。
そういうふうな求めに応えてくれるのは空想の世界でさえも男性の貪るような性欲でなくてはならずそうでなければ私の中のリアリティラインを満たしてくれるものとはならないのだ。
構築主義「本来、男性は女性の身体に欲情しないものであり、社会によって刷り込まれた変更可能な性質である」
本質主義 「本来、男性は女性の身体に欲情するものであり、変更不可能な性質である」
本質主義な平等主義者 「本来、男性の同性愛者は男性の身体に欲情するものであり、同性愛は変更不可能な性質である」
本質主義な差別主義者 「本来、男性は女性の身体に欲情するものであり、同性愛は社会によって刷り込まれた変更可能な性質である」
構築主義な平等主義者「本来、男性の同性愛者は男性の身体に欲情するものであり、同性愛は変更不可能な性質である」
構築主義な差別主義者「本来、男性は男性の身体に欲情しないものであり、同性愛は社会によって刷り込まれた変更可能な性質である」
女性の心というのがあるとすると、確実に「自分に合わない外見で世間に出るのは恥ずかしい」ってのがあると思うんだよね。
よく言われる「おままごとが好き」「ピンクが好き」なんかより、それはかなり強烈だと思う。
だから、女って「もしある日自分にちんこが生えたら公衆浴場には行かない」って人のほうが大半じゃないかな。
ちんこがある以上「女だから女湯に入りたい」とは思わない。そっちが普通。
実際、自分の知り合いのトランス女性の多くは、完パス(どこから見ても女に見える状態)できるまでは外に出るの怖かったって言ってるし、温泉は貸切風呂があるところ、トイレは多機能トイレを選んでいる。
これは、一般的な女が「こんな格好はイタくない?」「足太いから短いスカートは履けないよね」って悩むのと同じ観点であり、そうやって自分の外見を客観的に見ている。
そういう性格だからこそ「この人の心は女なんだなあ」って思うし、女コミュニティにもガタイのいいおばちゃんとして違和感なく馴染めてる。
だから、外観や年齢にそぐわないロリータ服や女子高生みたいな服を着て出歩いてる「トランス女性」を見ると微妙な気持ちになる。
多くの女はコスプレイベントとか撮影スタジオ以外の公共空間ではそれをやらないんだよ。
その時点で「心が女」とはいえないんじゃないかと思ってしまう。
結局、世間の性の多様性への理解が深まったのと、フェミの「女性特有の恥じらいやルッキズムは女性への抑圧!あるがままに生きろ!」みたいな思想が混ざって却っておかしいことになってる気がする。
男性ジェンダーロールをうまくやれない発達障害男性が「自分は男ではない、だから女だ」と思い込む。
「ルッキズムはよくない!」「服装は個人の自由」というお題目のもと、年齢や社会的立場に合わない服を着て女装おじさんとして街を練り歩く。
さらに「トランスでも同性愛はあり得る」ということでレズビアンを自称し女性への性欲も隠そうとしない。
そして、同じ女性であるということで距離感を間違えたコミュニケーションを取り、加害に及ぶ。
自分としては自分の知り合いのトランス女性おばちゃんたちが差別されるのは悲しい。
でも、トランス女性レズビアンを自称する男性からの性被害を防ぐためには「女体持ち」「パス度」で線を引くしかないのかなあと思ってしまう。
ただ、冒頭に述べたような内在的ルッキズムみたいのは定型発達前提の話だ。
非定形女子の中には、そもそもそういう感覚がなかったり、あっても自分のこだわりのほうを優先させちゃったりする人もいる。
女子特有の空気の読み合いとか距離感の保ち方もわからず、女子コミュニティに溶けこめないシス女性発達障害者も存在はする。
ならば、私がトランス女性レズビアンを自称する弱者男性って思ってる人は、本当は 「トランス・レズビアン・発達障害女性」ってことになるんだろうか、と考えるとなんかよくわからなくなってきた。
"NL"表記問題、理屈はめちゃくちゃわかるし、それだったら確かになって思う。
ただ、代替として上がっている"HL"を使いたくないという気持ちがあるのは"ヘテロ"を侮蔑として使っている人がいるからなんだよな。