はてなキーワード: 不謹慎とは
精神科病棟の中でも一番症状が重い人を救急・集中治療するスーパー救急というところに入院していたら、まあまあ非日常的なイベントを目撃した。
1人目:解離性同一性障害(いわゆる多重人格、以下DID)の人。初めて会話した時に「僕ね、ゆうたっていうの。5歳。ゆうちゃんって呼んでね」と言われたのでDIDであることは一瞬でわかった。ゆうちゃんは人懐っこい性格で明るく、閉鎖病棟という限られた空間でインターネットも失って完全に暇だった僕にとってはいい話相手だった。初めて会話した次の日、デイルームにその人がいたんだが、DIDの人は人格が入れ替わるとそれに応じて記憶も入れ替わると聞いたことがあったので、デイルームにいる人が今日は別人格で過ごしていて昨日僕と会話したことを覚えていないのではないかと思って敢えて声をかけなかった。しかしそれは杞憂で、ゆうちゃんの方から僕を見つけて「あ、おはよう!」と声をかけてきてくれた。この人は病棟では基本的にゆうちゃんとして過ごしていたが、時折エレベーターで1階分移動する時など一瞬で人格が変わることがあり、声も口調も目つきも変わって、おもしろいと言っては不謹慎かもしれないがおもしろかった。
2人目:知的障害の人。看護師と会話はできるが一方的で、3分前に言われたことすらよくわからなくなってしまうレベル。ドラゴンズが好きで、1日中デイルームにいて「ドラゴンズ勝ったの?」「ねえ俺ドラゴンズ好きなんだけどさあ」「早く退院したい、ドラゴンズの応援に行きたい」を繰り返していた。まあ知的障害があるからしかたないんだが、同じ内容を起きてから寝るまで延々と大声で繰り返していて、正直うるさかった。あまりにうるさいので他の患者からは嫌われていた。とある患者がデイルームに置いてある公衆電話から家族に電話をかけて「なあ、ここ知的障害者がいておちつかなくて最悪なんだけど。早く退院させてくれない?」と言っているのを聞いていて、しばらく「あいつが俺のことバカにしてくるから嫌い」とわめき続けてその患者とガチ喧嘩に発展した。
3人目:スピリチュアルおばさん。病棟の女性の半分以上を巻き込んで仲良しグループを作り、グループのトップに君臨してデイルームでお喋りに興じていた。話している内容はだいたい2つで、「うわあ~木下さんの塗り絵素敵~!」とグループの女性に媚を売るか、他の人の話を聞いてあげて「待ってね、それ何て言うんだっけ…今はど忘れしちゃって出てこないんだけど、金星の力が強くて木星の力が弱いとくぁwせdrftgyふじこlp(何て言っていたか僕は忘れました)になるのよ~」「あなたの気持ちすごいわかる!くぁwせdrftgyふじこlp(同じく忘れました)のゾーンに入ってるの!」といった調子。典型的スピ系。そして随所で「私病気なのかわいそうでしょ、でもこんなに頑張ってるのすごいでしょ」アピールをしてくる。極めつけには、とあるスピ系の本に載っているポエムを紙に書き写しては「これいいのよ~」と病棟中に配ってまわり、認知症のおばあちゃんが洗脳されて「私の病気も神様がくださったものなのね」とか言い出して、マジでうっっっわと思った。
4人目:食事療法お兄さん。たぶん統合失調症。入院患者を捕まえては「良くなるためには米、小麦、肉、脂質、卵なんかは食べてはいけないのですよ…」と長々と言い聞かせるのだが、じゃあお兄さんがそれやって病気治せよ、もしくは例えばその食事療法を実践していたとするならばなぜあなたは精神科閉鎖病棟に入院するまで症状を悪化させたんですか?以外の感情が無。厄介なことに、2人目で紹介した知的障害者がこれを耳にしてしまい、病院食を拒否するようになった。
インパクトがあったのはこのくらいですかね。あとは認知症の男性患者が自分の部屋がわからなくなって女性患者の部屋に侵入するくらいしか事件起きてない。たぶん。
悪趣味かも知れんが、大好き
「ドキュメント 気象遭難」は、ほかの作品に比べて、ものすごく人が亡くなる。
吾妻連山の楽しい仲間たちでの中高年の登山から、道迷い、天気の悪化、体力がないことにより、一人また一人と欠けていく。
すごく怖い。
絶対山には登らないぞと思う
トムラウシのツアーによる大量遭難が有名だけれど、その前にほぼ同じ場所で類似の気象遭難事故があったことも知る。
悪天候なのによろよろと山頂を目指したのはどういう気持ちなんだろう。
間近で友人が絶命するとはどういった状況だろう。
こわい、絶対山には登らない
山岳部に所属する高校生が、近所の山で遭難する、「空と山のあいだ」も恐ろしい。慣れ親しんだはずの山が、突然牙をむく。
年末年始、剱岳に挑戦し帰ってこなかった3人のメンバーを、同じ登山会の人が目撃証言を辿って、行動を推測し、遺体の場所を特定する「いまだ下山せず」も面白い。
証言や性格から、足跡を辿って答えに至る様は、ミステリのようでもある
後者は、高度8000メートルを超える、その場所にいればいるほど死に近づくデスゾーンで、ほかの仲間のサポートをしていた、若い男性登山家が力尽きてしまう
その人が生き残ったのは、何がよかったのか、逆にそういう苦境に陥ったのは何が悪かったのか、が知りたいのかな、と思う。
何度も思い出してしまうのは、羽根田治「ドキュメント 道迷い遭難」にあった、遭難者が行き合った、犬を連れたおじいさんの話だ。
遭難者は不安になりながらも、「こちらだとおもう」と進んでいた。
そこでおじいさんに出会い、話す。
「この道で合っているか?」と尋ねられ、遭難者は「合っているとおもう」と返した。おじいさんは犬を連れて道を進んでいく。
その後、遭難者は迷っていたことに気が付き、生還することができた(自力で下山までできていたと記憶している)。
しかし、そのあと犬だけが戻ってきて、おじいさんの姿を見た人はいない。
そのエピソードがずっと胸に残って忘れられない
石原さとみちゃんが結婚するって大ニュースはさすがに東京証券取引所も止まるはずだわ。
ここんとこ最近、
石原さとみって見た瞬間、
もうさ
東スポの一面、
なんとかかんとか結婚って芸能人の名前がデカデカと掲載されていて、
え?この人結婚するのね?って思って
ちゃんと一面広げたら、
折ってあって見えなかったところが完全に見えるわけじゃない
結局「○○××結婚か!?」って「か」のところ隠すんじゃないわよ!
ってそんな感じよ。
もうさ
つくづくそう思ったし、
あと、
石原さとみちゃんばりの今回の石原さとみショックが起こるのが懸念されるところね。
私はやっぱり
ギリギリ面倒くさくないチキンラーメンをぐだぐだと作るガッキーが好きだわ。
そのぐらいで丁度いいと思うし。
たまに食べたくなるのよねチキンラーメン。
思ったんだけどさ、
振り掛けられるようなタイプにして、
調味料代わりに使えちゃえるようにしてみるのも、
なんか新しいチキンラーンの可能性が見いだせるような気がするの。
あれ一袋分使うとなると
使いたいときに使いたいだけチキンラーメンが振り掛けられるようなものが出たら私買うわ!
うふふ。
無かったら無かったで食べたくなっちゃうことってあるわよね。
スイカいつまでまだ出回ってるのかしら?って思うけど、
シーズン外れているのに、
強気な値段なのよね。
もうちょっと安かったら良いのにって思うけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
うちは父親が15年程前に自殺し、その理由を知る術もなくずっとモヤモヤしていた。
お金に困っていたわけでもなく、両親の仲も良かったと思う。
当時小学生だった私は「自殺」という事実を認めることができず、お父さんは誰かに殺されたんだとすら考えていて、以来ずっと父親の死について心にわだかまりがあった。
でもここ最近の芸能人の、そして今朝の竹内結子の自殺報道を見て、こんなに綺麗でキャリアも抜群、子どもにも恵まれて非の打ち所がないように見える人でも自ら命を絶ってしまうことがある、というのを改めて実感した瞬間、なぜか父親の自殺について「父にも父にしか分からない何かがあったんだな」とフッと心が軽くなった。
無理くね?
[FNN]「これ以上わがままは言えない…」震災から9年、被災者向け仮設住宅からの退去期限が3月末に迫る
https://sp.fnn.jp/posts/00050704HDK/202003111840_morimototaro_HDK
富岡、浪江、飯舘の3町村の住民は原発事故の際、福島県内外に避難することを強いられ、そのうち応急仮設住宅に住むことになった人たちが今回の退去期限の対象となる。
つまり、被災者たちは強制的に避難をさせられて住んだことのない土地に移り住み、なんとか慣れて生活を再建したところで、今回、そのようやく慣れた家から出ていかなくてはいけなくなるのである。
今後どうするのかを聞くと、「とりあえず荷物の整理をして運んだりはしているんですけど…。どうしましょう?どこかシェアハウスとかを探すしかないのかな?もしかしたら当面はネカフェで寝泊まりすることになるのかもしれません」
Sさんたちの住む東雲の国家公務員住宅は、被災者が退去した後、国家公務員であるキャリア官僚の住居になるのではないかと見られている。
完全に壊れていない限り仮設住宅へも行けず自費らしい
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190402/index.html
宮城県石巻市に、今も壊れたままの家に1人で住む70代の男性がいる。家の外観は特に問題ないが、1階の柱は朽ちて中が空洞だ。床も抜け落ちそうで不安を抱えながら暮らし続けてきた。
震災直後の被災地には、自宅の1階が壊れ、かろうじて残った2階に逃れた「2階族」と呼ばれる人が数多くいた。男性もその1人。自宅の1階は津波で水没し、大規模半壊と判定された。国から202万円の補助が出たがそれだけでは修理しきれずに住み続けている。
地震が起きたとき、男性は倒れてきたたんすの下敷きになり、足に大怪我を負ってしまう。けがのため避難所に行けず、壊れた自宅の2階で過ごすしかなかった。しかし、津波で生活に必要なものを流されてしまったため、厳しい暮らしに耐えかねて仮設住宅への入居を希望したが拒否されたと言う。
「市役所に行って『仮設住宅に入りたいんだけど』と申請したのよ。そうしたら『あなたの場合ダメだ』って。『何でダメなの?』と言ったら、
『あなたの場合、自分の家あるでしょ。2階で避難してたから、2階の部屋があるから2階で住んで下さい』と。」(被災者の男性)
国は災害救助法の運用基準で、仮設住宅に入居できる対象を原則として次のように定義している。
「家が全壊・流出するなどして、居住する住家がない者に供与する。」(内閣府の告示)
70代の男性は、壊れたままの家で8年間も暮らしている。厳しい環境で次第に体調を崩し、病院通いが欠かせない。医療費がかさみ、食費にも困窮している状態だ。
「うどんはね、3袋で百円なのよ。もやしは15円。もやしが一番安いのな、野菜で。おれ最近思ったのはさ、この震災になって7年目になって、自殺する人の気持ちが分かってきた。考えても考えても、生活が苦しくて苦しくてさ。生きる力っていうのが、考えれば考えるほど暗くなってきて、明るい気持ちが持てなくなったのよ。それで死んだ方が楽だなと思って。死んだ方が、何にも考えることないなと思って。」(70代の男性)
[NHK]「震災直後は夢があったけれど…」 老舗菓子店 Tさんの9年
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325051000.html
岩手県宮古市で老舗の菓子店を営むTさん(63)は、今回のアンケートの自由記述に「思い描いていた未来のようにはなっていない」とつづりました。
Tさんは東日本大震災の津波で自宅と店舗、そして工場を流されましたが、それでも震災の直後は前向きな気持ちになれたと言います。
Tさんは、当時の心境について、「すべてを失いましたが、家族で住宅フェアや見学会に行って再建するならどんな家がいいかと考えたりして、不謹慎かもしれないけど、楽しい、夢が持てた時期でした。店の再建もできない訳がない、お菓子屋さんをまたやるんだと、当然のように思っていました」と振り返りました。
しかし、再建は当初思い描いたようには進みませんでした。仮設住宅で不自由な生活を送りながら仮設店舗で営業を続け、震災の2年後には工場を再建。しかし、売り上げは震災前の10分の1にも届かず、不安材料だけが増えていく日々が続きました。
▽「震災1年頃までは明るい夢を持てたが、それが2年たっても実現出来ない。むなしさを感じる時が多々ある」と書き、震災3年のアンケートには「仮設3度目の冬はマイナスイメージの言葉しか思い浮かばない。全てを失った震災直後は、それでも立ち直るという強い意志と希望が芽吹いていた。当時の思いは3年で日に日にやせ細り、しおれかけている」と記しています。
当時の胸の内についてTさんは「復興のつち音が響きたくさんの人が来て復旧復興に尽力してくれていることが励みになって自分も明るい気持ちになれたが、そういう人たちが去っていくと人が減り静かでさみしくなった。売り上げがゼロの日もあり、切なくて、自分たちでお菓子を買ってレジにお金を入れたこともあった」と語りました。
それでも「完全復旧する」と意気込み、店の再建という夢に向かって進んでいたTさんに「建設費の高騰」が追い打ちをかけました。復興需要の増大などで震災前1坪あたり50万円程度だった工事費用が、2.5倍近い120万円程度にまで上がったのです。
工場に加え震災から5年後に自宅を再建し、すでに多額のローンを組んでいたTさんは、震災6年のアンケートに「歩みが減速して、1度勢いを失うと、強い気持ちを持続させるのは難しいと実感している。借金を増やしてでも店舗再建を目指すことは正しいことなのだろうか?」などと、自分が選んだ道は正しかったのかと自問自答を繰り返していた当時の心境を記していました。
震災から6年半近くたった2017年の夏、仮設店舗の退去期限が迫る中、Tさんは店の大きさを当初の計画の半分程度に縮小してようやく再建を果たすことができました。
Tさんは「店と工場が離れてしまうなど当初考えていなかったことが重なった。行政の方針が二転三転して読めないのでその時その時で対処していたら借金が1億を超えてしまった」と話しました。
ところが、ようやく戻ることができた街は思い描いた姿とは変わっていました。住宅が高台に移転し商店街もなくなったため店の周囲ににぎわいはなく、震災前は大勢いた自転車や徒歩で店に来る客は今はほとんどいません。
Tさんは「元の場所に戻ったら悪くても震災前の半分は売り上げがあるだろう」と思っていたと言いますが、震災の影響で商品の卸し先が廃業したこともあって、売り上げは震災前の3分の1程度にとどまっています。