はてなキーワード: ラマヌジャンとは
プロ棋士の中には5手先まで読める人がいるらしい。ラマヌジャンは数字を見て瞬時に素因数分解出来たという。カレンダー計算が早いサヴァンの人もいる。
これらの能力は努力では身につかないような気もする。気もするけど、筋の良い訓練と強い関心、情熱によりある程度は目覚めるものもあるのではないか?と思った。
というのも、自分の場合、ふとした瞬間に曲が頭に浮かんで、頭の中で作曲することがある。音楽が好きで、物心つくかつかないぐらいから、クラシックばかり聴いていた。いや、そういう環境だから、好きになったのかも知れない。
友人にこのことを話すと、誰しもがそういうことが出来るわけではないと言う。和音を分解したり、対位法的な旋律を自然には組み立てられないらしい。何をやっても続かないダメな自分だと思っていたけど、人とは違う能力のカケラを客観的に得られて驚いた。
自分から見れば、獲得パスの見えない他人の能力にも、こういう感覚が伴っているのではないか、と思った。つまり、彼らは、自然にそれをやっている (好きだから+苦もなくできるから+いつでも頭の中はそのことを考えている)。
ひよこの雌雄選別の能力は、師匠について2, 3年、その作業を見続けることで涵養されるらしい。
一見、自分には無理だ、と思われる目標も、リラックスして、うまく取り組み続けることで、道が見えてくるものなのかも知れないという希望を抱いた (例え幻想であったとしても)。
http://anond.hatelabo.jp/20170204225930
こんなこと増田でしかかけないが、なんでこんなやつより俺の評価低いんだよ。いやこいつのことは全く知らないが、なんで学ぶことの意味も目的もフワフワしてるような奴が「東大卒」とかいうブランドで着飾ってられんだ?おかしいだろ。俺は学ぶ意味を、喜びを知り、就職してから学びまくった。学問は最高に面白れぇ。夜間大学に今も通ってる。トータルでみたら東大で勉強やめたこいつより俺のほうが評価されるべきじゃねえかな!?でも結局、こいつは東大卒、俺はFラン卒だ。夜間大学で修士をとっても、学歴で見られるのは「18歳時点での学歴」だ。俺なんか「学歴ロンダリング」扱いだぞ。なんなんだよ。
「学問は自分の世界を広げてくれる」ってのは真実だが、そのパワー、そのすごさ、その感動は全然人に伝わらねえんだよな。
勉強は知識にインデックスを付けて回る行為だ。そして学問とは、そのインデックスを掘り起こして整理し、組み合わせ、関連に気づくことだ。今まで解かれてきた数学の難問はほとんどこういう経過で説かれてる。人生も、仕事も同様だ。隠されたつながり、関連に気づくことがすなわち価値のあるアイディアだ。何も知らなけりゃ組み合わせねぇ。ラマヌジャンみたいな異次元の天才はまずいないからな。
そして、勉強とは「ものの名前を知ること」でもある。現象、状況、歴史、物体、あらゆるものに名前がついている。名前を知るということは、そのものに関する歴史を知るということだ。世の中の99%のものは、すでに先人が発見済みだ。車輪の再発明を防ぎ、無駄に迂回する必要もない。
単に映画を見るのでも、視点が全く異なってくる。世の中の創作物というのは、製作者が全霊をかけて「うまいこと」を言おうとしている。通常、その「うまいこと」は5割も気づいてもらえればいいほうだ(実際に創作してる人ならわかるだろう)。学べば、その6割、7割、もしかすると8割を気づけるかもしれない。その瞬間の感動は、3割の理解に100倍する。そして、もっと学びたいという欲求が生まれる。死の間際まで学びたいと思う。任天堂の岩田社長も死の間際まで勉強していたらしいしな。あこがれるわ。
明日死ぬとしても学びたい。知らないことを知りたい。このエネルギー、この興奮は、いかなるものよりも価値がある。俺はそう思っている。
正直こいつを殴りつけたい。俺のほうが価値のある人間だと信じている。たとえ金がなく、配偶者を一生もてずとも。もちろん、「俺のほうが~」なんてのは傲慢だし、そんな風に思ってはいけないと賢人たちもいっているが。俺はこいつに嫉妬している。なぜだ、なぜ、と、理不尽な怒りがこみ上げてくる。こいつは国内最高の大学を出ているのに学問への尊敬がないからなのか。先人たちから受け取った最高の財産を軽視するばかりか、次代に伝えようともしていない。腹がたつ。
先日、地元の図書館から市民講座の講師をやらないかと誘いが来た。最高に楽しみにしている。どうやって面白さを伝えようか、緊張もするがそれ以上にワクワクしている。不評だったらどうしようと思うが、それを糧にまた学んでいきたいとも思う。
すげぇむかつく。18歳で成功しただけのマンダリンが。まぁその努力はもちろんわかるし尊敬もするが、納得は行かねぇ。俺のことも尊敬しやがれこの一発屋が。くそが。ちくしょう。納得できねぇ。
あーもー!ままならねぇ!
今日の17時頃ニコニコ実況というサイトでNHKの大相撲を見ながら実況してた。
そこでアナウンサーが
「待機児童の数を都道府県別に見ると、東京都が3417人で最も多く、次いで埼玉県が~」(上記記事から抜粋)
と喋った「数秒もない」うちに次のようなコメントが唐突に流れてきた。
(2017/01/16 17:04:37 http://jk.nicovideo.jp/log/jk1/201701161704-201701161705)
ただそれだけのことなんだけど
”ニュースに出た何の変哲もない4桁の数字をものの数秒で素因数分解して書き込んだ人間を見た”
え?これ何?超人じゃね?数学の天才?リアル『博士の愛した数式』?現代のラマヌジャン?え怖い怖い
俺はとても驚いた。と同時にいろんな疑問が出てきた。
そんなことするやついないだろ、と思いたいが、NHKのニュースが発表されたのは上記のURLからわかるように今日の16時43分
おそらく5時のニュースが初出。まじかよ…(他局、BSで放送してた可能性もあるかも)
例のコメント以外はごくまとも。逆に数字だけのコメントが浮いて見えるっていう
こわいこわい
にしちゃあ過去ログの内容が人間すぎる。それにBOTにする意味が分からん
そうだな、きっとそうだ
お、おれだって51 = 3 * 17 だってことぐらいわかるさ
今日は寝れそうにない
本題に入る前に少しシリアスな話題があるので聞いてほしい。
男女にイメージについて聞くと面白い。男はほぼ例外なく目を閉じても真っ暗と答え、女は半数がありありとイメージできると答える。これはなぜか?
一方男性率の高い理数系の学部ではイメージを軽視する伝統的風潮が根深い。これはプラトンから来てるのだがな。本質を直観すべきでありイメージなど些末も些末、ゴミクズ同然という考え。対する女性率の高い芸術系の学校ではイメージを尊重する。『脳の右側で描け』に始まるイメ描きの連綿たる伝統があり、ナンシー関の記憶スケッチアカデミーは今や市民権を獲得した。
ここに来て先ほどの問いの答えが見えてくる。性差よりも習慣の問題なのだこれは。そして男である諸君は驚くほどイメージを軽視している。だから真っ暗なのに輪をかけて真っ暗。糅てて加えて真っ暗なのだ。
そこで世の中の男性に活、いや喝を入れようというのが本記事である。シリアスでもなんでもないくだらない前置きは終わりにしてちゃっちゃと本題に入ろう。
煮ても焼いてもまずこれをやりなさいというのがこれ。詰将棋マニアの巷間では「ブラ詰」とも呼ばれる。早い話が目隠し詰将棋である。脳内詰将棋という蔑称、いや別称もある。
こまけーこたーいいとして大切なことだけ言うと、これには2つのスタイルがあって1つがアイマスクをして符号の読み上げを聞くものでこちらが本格的なやり方。(そもそも符号ってなんだよってレベルの人はggるなりしてください)
もう1つが手軽な方法で詰将棋の盤面または印刷された紙を見て5秒で初形と持ち駒を覚えて目を閉じて脳内で解く方法である。ほとんどの人はこっちでやったほうが身のため世のため人のため。最初は詰将棋の入門書をテキトーに購入して1手詰めや3手詰めから始めるとよろしい。
先ほど理数系のイメージ軽視に賽を投げかけたが分かってる人は分かってる。暗算が得意なタイプがそれだ。私は一流大学の数学科を出て現在底辺大学の数学科にいるのでよく分かるが数学畑では手を動かすことをモットーとする物理畑とは正反対に計算が軽視される。しかし一流の世界ともなると話は別でノイマンのような暗算の達人が割といる。数学の天才には二種類いてラマヌジャンのような数覚がずば抜けたタイプは案外少数派なんだ。数論は数学の女王。岡潔も晩年は『情緒と創造』を著している。
底辺大学だと数学は論理の学問といったことを平気で言う先生もいる。論理は当たり前の大前提であり無味乾燥なつまらないものだ。そう世間で計算がつまらないと思われてるのと同じくらいに。実際、数学ではなくコンピュータサイエンスで計算理論を学べば分かるし学ばなくてもある程度想像がつくだろうが論理とは計算であってそれ以外の何者でもない。計算も論理もつまらないそのことには全く同意するが無価値というわけでもない。忘れもしない卒業の日同級生になぜ暗算をするのかと訊かれて私は暗算で扱う数学的対象に親しむためと即答し彼または彼女はもっと早く教えてよと地団駄を踏んでいた。
数学の素養がない人たちへ。最初はアイマスクを着用せずJSやJC(俗に言う小中学生)が学んでいる幾何のパズル問題(『目で解く幾何』シリーズなど)をやり次第に他分野や高校数学や大学数学科の数学や工業系の応用数学に守備を広げる。意識高い系より意識広い系で頼む。
数学科には将棋ならまだしも美術に造詣が深い先生が結構多いがそれに比べて写真芸術に関心のある人は拍子抜けするほど少ないと思う。つまり数学的美と将棋の美はクロスオーバーするが数学的美と写真芸術の美はオーバーラップしないということだということだ。つまり詰将棋と暗算の不足分を補うのにカメラはやはり大事なんだよなあ。
芸術論において言い古された表現だが音楽は音の瞬間の芸術であり写真は光の瞬間の芸術である。だからシャッターチャンスやチラリズムという言葉が端的に表しているのは瞬間性。写真家は人物や風景をとるとき手でフレームを作る。このあたり詳しく書かれた文献が少ないがこの切り取り方には必ず意味がある。単になんとなくバランスがいいからそう切り取るのではない。シャッターチャンスという言葉から誤解されがちだが確かに瞬間のおもしろさを切り取るのが写真芸術であるが決しておもしろい瞬間を切り取るのではない。この違いが大切でおもしろいものはわざわざ写真にしなくてもおもしろいのであって思い出アルバム程度の価値しかなく芸術たりえない。つまりおもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけりで、おもしろさを能動的に発見しそのおもしろさを表現するには今この瞬間しかないしかもこうフレームを切り取るしかないと断言できるのである。そんな見方を学べるのはカメラくらいしかない。数学では学べないし絵画もにているようで全く違う。写実的な絵画であれそこで必要とされるのはある種の演出でありもっと乱暴に言えば捏造であるから、あるがままの良さをうまく切り取って見せる写真的な見方とは根本が違う。
そんな見方を身につけて日常の「あれ」「おや」「あら」「おっ」と思う点が増えるとそれが理解や記憶のフックになる。理解というのは必ず興味から始まるだろう?しかし興味は洪水のように訪れて過ぎ去っていく。つまりアイデアマンはメモして興味を書き留める。だからメモする時間と労力すら惜しいのでだから「これならここが気になる」とフックをつけて興味をブックマークしておくことで未来の理解や記憶のきっかけになる。そういう面白い体験をしているんだよカメラマンという種族は。
以上簡単に見てきたがどれ1つとっても始めたその日から人生を揺るがす劇的な効果があるので試してみてほしい。また6つの方法は相補的な働きをするようチョイスされており、1つでも欠かすのはもったいないので6つ全部試してもらえるともっとうれしい。
まあ気持ちはわかるよ
だけどお前があんまり気にすることではない
本気で学問したい奴は
そこで本当の学問を始めると思うんだ
そして本当に学問をしたい奴は
考えつづけているだろうと思う
http://en.wikipedia.org/wiki/Srinivasa_Ramanujan
研究の深さと広がりは格段に大きくなるだろうね
お前らが入ってきた枠の外側に
本当に学問したい奴が押し出されてたらと思うとやりきれなくなる。
http://anond.hatelabo.jp/20100307133147
森毅は「数学者」だったということを考慮に入れなかったために起きた勘違い。
天才というのは
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない、つまらない数字だったよ」
これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 12^3 + 1^3 = 10^3 + 9^3
すなわち、1729が「A=B^3+C^3=D^3+E^3」という形で表すことのできる最小の数であることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。
同情するよ。俺も「習ってない漢字を使うな」とか「教えてない解き方で解くな」とか、だいぶ公立小学校には迫害されたからなあ。
自分が好きで色々勝手に本を読んだり暇があったら考えたりして知ってただけのことなのに、「親の詰め込み教育の犠牲者」みたいに扱われて、本当にひどい話だよ。
あなたに足りなかったものは「自分の方法と一般的な方法が同値だと証明するための知能」です。
確かに考える事は大切ですが、もう少し頑張れば良かったですね。
違う。相手は子供だぜ?そんなことを求めるのは無理。
「証明できるかどうか」なんてのは技術的な問題。大事なのは概念を体で理解していること。
概念が体になじんでいて当たり前のように使いこなせていれば、そのうちいつでも必要なときに証明はできるようになる。一番極端な例がラマヌジャン。
大学以降、厳密性に必要以上にこだわりすぎて勉強の進度が遅れてしまう奴ってのがたまにいるんだけど、あんたみたいに「証明できなければ先に進んではいけない」という教義を子供(当時の)にまで押しつけるような人には、はっきり言ってそういう危険性感じるね。
ラマヌジャンの公式は、証明がきちんと書かれていなかったからこそ、未解決問題として注目されたわけで。
それにラマヌジャンの死後、100年経っていないと思う。
知りたいのは、証明がきちんと書かれていて、その存在が知られていて、かつ理解されるのに数百年かかったような数学の理論があるのか
ということ。
[一万時間][努力][天才][反復][質より量][閾値][九九]
Genius is 1% inspiration, and 99% perspiration.
Thomas Alva Edison
イチローに学ぶ「天才」と言われる人間の共通点 - 電子書店パピレス
イチローに“偉大《いだい》な才能”を与えたのは、名古屋空港の近くにあるバッティングセンターである。
イチローは小学三年から中学三年までの七年間、そこに毎日通いつめた。
それも一週間に一日くらいは休むといったレベルの生易《なまやさ》しいものではない。
一年間に三六三日通いつめたという。休んだ二日は、バッティングセンターが休業した、正月の二日間だけだった。
天才と言われる人間であっても、絶《た》え間ない精進《しょうじん》を繰り返して、初めて彼らは成功者の仲間入りをすることができる。
イチローが一流選手としての称号《しょうごう》を得たのは、二一〇本の安打を打ち、打率三割八分五厘で首位打者に輝いた九四年の秋である。
なんJ PRIDE : 【野球】門田博光(40) .311 44本 125打点 OPS1.062
ホームランバッター門田博光氏が・・・《500本塁打は誰でも打てる!》|ベースボールバイブル
門田博光の本塁打一閃―ホームランに魅せられた男 : 門田 博光 : 本 : Amazon.co.jp
http://www.h-kadota.net/profile.html
小学校の頃からプロ野球を目指し、中学、高校(天理高校)と野球部に籍をおいたが目立った成績もなく、
ホームランも公式戦はおろか練習試合でさえも打つことは出来なかった。
40歳を迎えた1988(昭和63)年には打率.311、44本塁打、125打点で2冠王に輝き、チームが5位ながらMVPを獲得。
ホームラン記録は王氏(現ダイエー監督)、野村氏(現楽天監督)に続き
史上3位の567本を打った。
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あらすじ検索サイト あたまにスッと入るあらすじ:無形の力 楽天を応援しようという気になる野村克也氏の私の履歴書
2年目で解雇されそうになるが、泣いて頼んで残して貰う。
それまで歯が立たなかった大投手稲尾も、クセを発見して3割近くまで打ち込むことができるが、同僚の杉浦がオールスターで3人一緒になった時に、稲尾にばらしてしまう。
404 Blog Not Found:一発は百の空振りから生まれる
伝説のインドの天才数学者ラマヌジャンは、貧乏で進学できなかった子供時代、
一人で分厚い数学の辞典「純粋数学および応用数学における基本結果概要」にでてくる5000の公式、方程式を丸暗記していたそうだ。