はてなキーワード: 外人とは
何が日本が大変な時期だよ
なんでただ善良に生活していた奴らがテメェらの失敗のケツも拭けねえヤツラのお小遣いで動かなきゃなんねえ
お願いしかできねえのはテメェらが出来損ないをしたからなんだよ
本当は地に額つけて「申し訳ありませんでした」から始めなきゃならんことなんだよ
それをテメェらも一緒に検疫して外人相手に消毒液散布してるならまだしも
お金払うから〜っていうならどこまでも請求したら何が詐欺じゃ他は頑張ってるだ、この日本が大変な時期だ、だよ
俺はインバウンドで儲けてねえの
それなのに何がインバウンド失敗してコロナ禍だから日本の国難だよ
金払うんならいくらでももらってやるよ、自分の年収以上貰えるかもしれねえのは鼻で笑うしかないけど、でもそれぐらい未来を摘む行為をしたのは国の方なんだよな
いくら先細りの国でも、その責任ぐらい取らなきゃ寿命が早くなるってなもんだよ
そんで?この誰しもが死んでいい状況で走り回ってくださる方々はこのお給料で我慢してるんだからお前も我慢しろってか
おい、ふざけてんじゃねえぞ
言葉が違うだろうが
あの人達に払える給料がその額しか出せない情けない生命体ですいませんでしただろうが
お前の命の価値を上げに行くんだよ
トラックドライバーが命張ってるのがわかってるなら毎日トラックドライバーさんに敬礼なり顔見たら「お疲れ様です」なり声掛けしてやれよ
低賃金で扱って何が「トラックドライバーはその額だけど?」だボケカスコラ
お前がやってるのブラック企業と大差ねえんだよ
一話目が主観目線で希望のない荒野を映し出したのに対して、二話目は完全に客観目線なので感情移入より社会派を目指したのかな、という冷静な目線に立ち戻ってしまう。要するに突き放した目線で見てしまう。内容もナショジオなどで取り沙汰されたクマリの儀式を模したもので、作中の価値観は極めて現代的な「自由」を標榜したもの。
人身御供などの題材は普通、洗脳下における人物の感情の無情さ、無機質さ、怖さが必ず絡んでくる。あるいは逆に、そうまでして守りたい信心というあらゆる意味で多角的に文化を捉えなければならないものでもある。今回はそうした重みのある題材を軽々しく作品にしてしまった。こうしたものの取り扱いには現地の倫理観という優先すべき事項も存在するわけで、外人であるほぼ西洋化した日本人の感覚で語ることは、本来あまり歓迎すべきことではないように思える。タンクトップの女も民族衣装的ではなく、歴史を正視するノイズになっている。
一方(原作未読だが)二話以降は感情の伴わない神が送り出した物体と少女との不思議な交流がメインとなるわけで、感情が伴わないものと感情豊かなもの、死なないものと確実に死にゆくものの対比が描かれる。そう考えると歴史的に行われる人身御供や巫女の儀式は全くメインではなく、視聴者が感じる旅情感と作品のメインモチーフである「人であることとは」という現時点の問いかけに全力で振り切っていると言い換えたほうが適切なのかもしれない。それならなぜ重たい背景を持つクマリをあからさまに題材にしたのかという疑問点は残るが。
今回の引用は「他人に害を及ぼすという意味での『問題発言』」ではないのですが、虚飾を剥ぐ意味で紹介しておきます。
出典は『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判2』(2004年、洋泉社)、発言者を「町山」及び「柳下」と表記。記述形式は
[ページ数]
(初出)
です。
[p207-208]
【※】監督・ソフィア・コッポラ、出演・スカーレット・ヨハンソン、ビル・マーレイ『ロスト・イン・トランスレーション』の話題。
町山:アメリカでは日本語のセリフに英語字幕をいっさい使ってないんだ。
柳下:日本語のわからない主人公たちの孤独感を観客に共有させるためでしょう。
町山:いや、これは野蛮人扱いだよ。親父コッポラの『地獄の黙示録』にも意味のある言葉をしゃべるベトナム人が全然出てこなかったけど、この親娘はアジア人をバカにしきってる。
柳下:ソフィア・コッポラの通訳や彼女の面倒を見てやってた日本人たちは、この映画を観てどう思うんだろう?だって、ずっとあの女(引用者注:主人公)は「バカみたいな英語ね」って腹の中で笑ってたわけでしょ?
町山:それ言ったら、主人公が二人とも最後まで一人も日本人を好きにならないってのも問題だよ。日本人とカラオケに行って盛り上がるというシーンでも、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンは二人でばっかり話してて、日本人と打ち解けることはない。
柳下:だからさ、ソフィア(引用者注:コッポラ)をちやほやしてた日本人は友達だと思ってたけど、向こうはサルとしか思ってなかったんですよ。
(中略)
柳下:それにインチキもあるよね。ポールが立ってて、ラップダンスがあるストリップ・バーが出てくるけど、あんなのアメリカの風俗であって、日本じゃないじゃん。
町山:え、歌舞伎町にあるよ。
柳下:あんたが僕らを連れてった店でしょ(笑)。あそこはダンサーも客も外人ばっかりじゃん。
町山:あの店のストリッパーを口説いて連れ出して飲んでたら、イスラエルから来た娘で「パパはモサドなの」だって。
柳下:それ、口説いたのは✕✕✕✕✕くんで、あんたはおこぼれもらおうとしてついていっただけじゃん。
町山:バラすなよ。で、イスラエルだから、その娘も兵役経験があってさ、破壊工作班だったって言うんだよ。「建物を爆破するときは片方の柱だけ壊して自重で倒れるようにするのよ」だって。
柳下:何の話してるんだよ!『ロスト・イン〜』でしょ!
町山:そういえば『ロスト・イン〜』の製作会社で、コッポラ親父が社長やってるアメリカン・ゾートロープって、サンフランシスコでもいちばんの風俗街のド真ん中にあるんだよね。向かいにストリップ・クラブがニ軒に、のぞき部屋一軒。ビデオBOXニ軒にファッションヘルスもあるよ。
柳下:詳しいですね。
町山:ヘルスはボッタくりだぜ。サンフランの他のヘルスは本番あるのに、ここは手コキのみで…。
=引用ここまで=
(初出『映画秘宝』04年vol.53)
以下は感想です。
【※】二人が『ロスト・イン〜』について言っていること自体には全く同意するのですが「英語能力が不足していて、現居住地のアメリカで日本語字幕無しに観ている映画の内容を、町山智浩は正確に理解できていないのではないか?」とか「現地の地域コミュニティに町山智浩は融け込めておらず、現地人の友人がいないのではないか?」との疑惑を持たれるようになってしまった、現在の町山智浩の視点で『ロスト・イン〜』を観直したら一体どんな感想になるのかは興味深いところです。以前、パトリック・マシアスと英語で会話する場面で、町山智浩の英語をパトリックが聴き取れない、もしくはパトリックの英語を町山が聴き取れないと思しき場面もありましたが、今はどうなのでしょうか。
【※】さんざん非・都市部に暮らす非・富裕層のアメリカ白人を「土人」呼ばわりして差別していた町山智浩たちが「アジア人をバカにしてる」とか言っても「目くそ鼻くそ」ですね。
【※】あいも変わらず性風俗の話をし始める町山智浩は、他にアメリカでの楽しみが無い/無かったのでしょうか?
【※】今回の引用でも柳下毅一郎からは「おこぼれ目当てで後から着いて行った」とバラされているように、性風俗の話はしても「独力で女性を口説いたエピソード」を出せないような町山智浩が、何故「オレは『大人の恋愛論』を語れる!」と踏んだのか本当に不思議です。
そこそこ勉強できて友達もいて、まともな大学出て会社員やってます、って人が学校は必要だっていうのはわかるのよ。
ということは、大して勉強できず友達もいない、ロボットみたいに学校行ってただけの人が一定数いるんじゃないか?という予想。
例えば英語なんて家で引きこもって外人とゲームでもしてればある程度わかるようになるし、
PCスキルも家で引きこもってPCいじってれば自然と身に付く。
ほとんどの日本人は、学校で勉強しているにも関わらずそのレベルに届かない。
一部エリートを除けば、その勉強本当に役に立ったの?って人が実は少なくないんじゃないか?
旦那さんは立派な職業で奥さんはピアノを嗜む専業主婦、お子さんは私立校中高生。近所のそんな家が兄弟の子猫を保護団体から貰ってきて飼い始め、ただ今絶賛放し飼い中ですよ。
うちは猫好きなんで庭を通りかかってもあらかわいい程度ですが、隣は大の猫嫌いで庭中にトゲトゲのやつを敷き詰めたり、猫が寄ってこない薬剤を撒いていたりまあ大変。
こちらの増田さんに貰われていたら、子猫たちももっと大事にされてたのにね。保護団体は猫のことばかりで案外人を見る目無いんじゃないですか。