はてなキーワード: ラッキーとは
なんかもう疲れた。
泥船だとは雰囲気で十二分に察知できたので、船から降りること自体は悲しくもなんともない。
ずっと眺めてたかわいい生き物が見れなくなることだけが残念だ。
どうにも離れがたく、失うことが惜しい。
それが愛情なのか同情なのか、ただの慣れによる愛着なのかは分からないけど。
切れてしまうのがひどく辛いと感じる。
けどそんな気持ちも一時のもので、3ヶ月後にはすっかりなくなっているのかもしれず。
もう休んでたい。
仮に、平和に暮らす人々の「恐怖心」が魔王軍団の活動の源泉だとしたら
部下「ご無沙汰ですね。しばらく籠もっておられましたが」
魔王「そうなんだよ、世界中の大木が枯れちゃったから、みんなの連絡手段の案を考えてて
種の作り方を緑の人に尋ねに行ってきて、それで新しい大木の種を作ってたのよ。
うまくできたか、分かんないけどねー」
魔王が言ってる緑の人と言うのは、植物を司る大きな存在で人々からしたら植物の神とでも言いましょうか。そんな感じ。
魔王と言っても、そう言ったいろいろな物を司っている者同士では、とくに邪悪な存在ではないので
魔王「そうそう、ラッキーなことに東の果ての地の一番大きな大木の種はいくつか残ってたんだって
手下を飛ばして見に行ってきてもらったの」
部下「おお!それは良かった!でもあの大木の種は発芽すると言うことは聞いたことないですが」
魔王「そうなんだよね、あの種の発芽は私も芽が出るかどうだか聞いたことないけど
東の果ての地とは反対の西の地に植えてみようと思う、どうかな?」
部下「あそこは東より環境が良いでしょうから、もしかしたら芽が出るかも知れませんね」
部下「それで籠もってる間に出来た種とは?」
私は専門じゃないし、でもこれ意外とやってみると大変だよね
緑の人に種くれ種くれって、以前はよく無茶言ってたの悪かったなぁーって。よくわかったわ」
魔王「で2つ出来た種は、北と南に植えるよ。
南は熱い過酷な環境で、日差しを遮る大きな緑の葉が茂る大木を」
部下「考えましたね、なかなか面白そうですよ
上手くいくと良いですね!」
魔王「種を植えに行くの、しばらく籠もってたから、私自らが行くよ」
部下「その間、私は留守を任せて下さい!」
魔王「以前、世界中にあった5本の木にまだ及ばないけど、新しく植える種がちゃんと育つといいね
ぼちぼち支度したら適当に行ってくよー。まずは北と南ね」
インフラ再建もなかなか大変そうです。
北へ南へ、しばらく籠もってた魔王は羽が伸ばせるかな?
なぜ種を植えに行かなければならないかは前回も併せてみてみてくださいね。
雇用者が派遣とかバイトで募集かけたら、たまたまめっちゃ仕事できる人が来たとする。
それまで想定してたスピードの何倍もの早さでこなしたり、言われなくても必要な書類用意したりとかそんな感じ。
で、しばらくしたらそのできる派遣なりバイトが「貴社にお役に立てると思うので昇給をお願いしたいのですが」と言い出してきたとする。
だけどそこでなぜか「じゃあ安い人に変える」ってなる。
思ったんだけどそういう発想になるのって募集かけたらこのレベルの人が来たんだから、もう一度同じように募集したらまた同じくらいのスキルの人が来るんだろうってすごく都合のいい考えをしてるからの気がする。
実際にはそういう仕事がほんとに出来る人ってごくわずかで、それがあたったのは超ラッキーくらいなはずなのに。
ホワイトカラーの仕事柄か、社会人数年目までは、会話や議論がまったく成り立たない、
という人にはあまり出会ったことがなかった。その1点のみで自分のキャリアパスに自信を
持っていたが、今考えればラッキーだったと思う。
年次があがり様々な人と接するようになって見えてきたが、リーダーを負かされていても
認識力や理解力が異常に低かったり、幼稚な性格のまま大人になった人が1顧客のメイン担当
だったりということがざらだった。だから世の中はストレスフルだったわけだ。
はっきり言って「頭の弱い人」に仕切られるのなんてたまったもんじゃない。
世の中そういう人たちにイライラすることは日常茶飯事だ。そんな時、つい耐え切れ
なくなって私がやってしまうのが「煽り」。普段から、やまもといちろう氏をTwitterで
ウォッチしている自分としては、その鮮やかな煽りを見るにつけ「いつかやってみたい」
「相手を混乱させてみたい」と思ってやまない。そんな気持ちをぶつける相手として
そんな "頭の弱い人" は格好の相手となる。
"頭の弱い人" は物事をちゃんと認識することが苦手なので、ちょっとした勘違いに
軽くふれてあげるだけであっという間に怒り心頭。やまもといちろう氏の口調を真似すれば
とはいえ、"頭の悪い人" は煽られている状態も認識できないらしく、意味不明のロジックで
反論してくる。理解できない絡み方をされると超面倒くさいし、周りから心配されるのも嫌になる。
煽ったはいいが、煽られた奴の後始末なんて反吐が出る。「ちゃんと文章読めやクソ」なんて
思っても後の祭り。イライラは結局自分に戻ってきてしまうのだ。
そんな訳で "頭の悪い人" は調子に乗らせず、かといって怒らせもせず、クールに最低限の
一応ぼかしておくと、AKBでも、ももクロでもなく、地下アイドルから人気が出て武道館をやれるステージのグループだ。
過去はよくあった接触イベントも、人気の高まりからか減りつつある。
(というと、おおよそ絞れると思うが)
ふとネットでその女性アイドル名をググり、気がついたらYoutubeの公式・非公式問わずライブ動画を繰り返し見まくっていた。
すぐにアルバムを買って、何度も何度も聞いた。
やがて女性アイドルには「接触」イベントがあり、相手から「認知」されることもあると知った。
もちろんその前から、AKBの握手会なるものがあるのは知っていたけれど、それで「認知」なんて馬鹿じゃないのと思っていた。
私は10年ぐらいジャニヲタをやっている。
ジャニーズからしたら認知なんてものは基本的にありえない。(いや、追っかけとかオリキとかっていうのは置いといて)
ついでに言うと目が合ったっていうのもありえないと思っている。
けれどコンサートに行って自分の担当であるメンバーに手を振ってもらえたらとても嬉しい。
規定に反しない、Twitterで叩かれないようにと考え、それでもどうにか目立つように作ったうちわを振り、タイミング見計らって、名前をコールして手を振る。
そこで向こうが手を振ってくれる。
私にだけではなく、私の周辺のファンに向かって、あくまでもサービスの一環として。
ところが女性アイドルの現場では、この現象を「レス」と呼んでいた。
いやいやただのファンサービスだろ、と思っていた。その当時は。
もちろんCDやチケット代というお金が発生しているものに対するサービスのはずなのに、それを超えての「レス」と感じられる反応が返ってくるのだ。
驚くことにメンバーはTwitterでリプをくれるファンを認知していた。
初めて接触イベントに参加した時、当日の朝にメンバーに「こんな服装で行くよ!」とリプを送った。推しの色を身につけたのだ。
私としては、「あなたの事がこんなに好きです」という気持ちを表すための行動だった。
ジャニヲタの時には手作りうちわを作ったりメンバーカラーのものを身につけたりするのと一緒だった。
ところが、いざ接触の時、メンバーは「ツイッターでリプくれたね!」と言ってくれたのだ。
嬉しかった。
と同時に、「ファンである自分がアイドル本人に認識された」という、信じられない出来事に震えるしかなかった。
しかも結構しゃべれる。ドルヲタさんからしたら短いかもしれないけれど、ジャニヲタ接触イベントで流しそうめんかってぐらいに高速はがしされたことがあるので、あんなにちゃんとまともな会話ができるなんて信じられない。
その後も2回ほど接触イベントに行ったが、ツイッター認知というか、私のリプで覚えてくれたという感じだった。
だがもはや私は、それだけで満足する体ではなくなってしまった。
次の目標は、私が名乗らずとも推しの方から私の名前を呼んでもらって、認知されることだ。
「認知」された後、次は何を目指すのだろう。
「認知」されても、それは覚えてもらっただけだ。
ツイッターは他のファンの動向も丸わかりだから、私の推しにめちゃくちゃレスもらった会話のレポがいくつも読めたり、認知もらってる人たちがすぐ見える。
それに対して、どうして私はああなれないのだろう、と悲しくなる。
現場を増やして、接触に参加して、「認知」されても、次はこの嫉妬のループが続くんじゃないだろうか。
最初は、ただ好きなだけのはずだった。
私だけの「レス」が欲しいって思うようになったんだろう。
これが沼なのか。闇なのか。もう既に病みなのか。
最寄駅は、アメリカ西海岸のマイアミのような街に、と嘘のような本当の話で命名された舞浜駅。
ここは異様に関西人率が高い。
駅前には日本でもトップクラスの売り場面積を誇るダイエー新浦安店があるが、この中を闊歩している関西人の多いこと。
震災、液状化現象の影響もあり、一時期ほどのブランド力はなくなったが、それでも理路整然と区画整備された道路、広い歩道、並木道、
そして何よりもあのネズミーランドの近辺ということで、関西人にとってはあこがれの土地らしい。
しかもタチが悪いことに、新浦安近辺に住んでいる関西人は自分のことを千葉県民だと理解していない。
関西の友人にも千葉県民であるとは伝えず、ネズミーランドに近い、家からネズミーランドの花火が見える、ということのみを自慢にしている。
自慢される側もUSJで対抗するのだが、やはりネズミーランドの魔法にはかなわないらしい。
それでも近年の魔法勝負なら、メガネ魔法小僧が関西人になったので、いい勝負になっているかもしれないが。
またこの手の関西人に多いのは、関西住む友人を新浦安まで呼びつけて、家に泊めてあげるから遊びにおいで、とまた要らぬ自慢をするのだ。
誘われるので試しに来てみると、新浦安の埋め立て住宅地からネズミーランドまでは結構遠かったりするのだが。
なんにせよ、私はネズミーランド周辺の住宅環境にあこがれて新浦安に住んでいる関西人が嫌いだ。
そんな奴らと付き合うくらいなら、ただ土地を持っていただけで超ラッキー的に金持ちになった漁師町浦安住民であるの一軒家成金のほうがよっぽどマシだ。
いや、不思議でもなんでもない。
そもそも、「東大の外国人向けコース」と東大の一般コースは全く違う。
PEAKは、初等・中等教育(日本では小・中・高校の教育)を日本語以外で履修した者を対象にした、英語で授業を行うコースです。
ってか、ほぼ居ない、受ければ受かる、と言う程度。
これが世界的に開かれてて世界各地から受けに来るならともかく、単に小さいころに親の都合で海外に居ました、程度の帰国子女が東大ブランドを語れる、というだけのラッキー制度。
また、東大自体は学部の授業のほとんどは日本語なわけで、ここで学べる物は物凄く絞られるし「東大」クォリティーとは言えない。
そんな所に海外からわざわざ受けにくるバカも居ないし、まともに大学行きたい奴が来るところではない。
「東大」と言うブランドがあるから、ってんで取り敢えず受けた奴が居る、って程度なんだろう。
実際学べるレベルとしてはその辺のF欄と変わらないのでは?
更にコメントのバカどもは東大は世界ではレベルが低いだの何だの全くもって頓珍漢な議論。
アホらしすぎる。
人とのご縁というやつには感謝しなければいけないのだろうか。
いや、そりゃ僕だって感謝することもある。あの人がいて良かった、この人と友だちになれて良かったと思うことはそれなりにある。そんなに多くはないけれど。
でも「ご縁に感謝」とは言わない。ましてやFacebookで書き込むなんて絶対にしない。
ご縁というやつはただの偶然であって、ご縁に感謝と言うのは単にラッキーとつぶやくことと何も変わらない。
たまたまの幸運に感謝するのはそんなに変なことではないけれど、ご縁ご縁と連呼するなら、君は純粋に偶然を信仰する偶然教信者というわけだ。
偶然を信仰するなら、一通りご縁に感謝したら、次は偶然その人に出会えなかったことにも感謝しろよ。
それも縁だろう。その人との縁ではなく、何かの縁。