付き合ってたら好きになるかもしれんと思って。
交際相手が将来的な話をしたいとメールで言ってきた。婚活での交際相手。
身構えつつ会った時に話を聞く。
「住む場所に希望はある?自分は勤務先考えると、この辺か、あとは…」
一通り聞き終わった後に、その質問には返さずに言った。
そもそも自分はそんなところまで考えていない、と。
あなたがどんなつもりなのかは知らないが、そこまでの関係だと思っていない、と。
「価値観の差はどんな人とでもあるものだし、そこはしょうがないもんだとして、一緒に生活していけたら良いと思っていた」。
一緒に生活?本当にそれだけで良いのならむしろ有り難いくらいだ。
聞き返した、「だったら友達でもいいわけですよね、ルームシェアくらいの気分で良いならすぐにでも結婚できますけど」
結婚するならなにかしら情熱のようなものが必要だと思っていて、自分は現在そういう気持ちはない。
ただ、一緒にいてラクではある。だから付き合っていた。
結婚するのが当然、とでもいうようなあなたの態度には、常々温度差を感じていた、と。
一通りぶちまけたらスッキリした。
まず、検察官はどう考えているでしょうか?
不起訴の意味は多義的ですが、今回のケースでいう「不起訴」には、嫌疑がないことによる不起訴、嫌疑が不十分であることによる不起訴、情状や犯罪の軽重からして起訴の必要がないことによる不起訴(起訴猶予)などが含まれます。
今回は、不起訴の理由が公表されていないので、このうちのどの理由の不起訴なのかは分かりません。
(弁護士のコメントの冒頭で、強姦致傷は重大犯罪なので、示談したとしても悪質性が低いなどの事情がない限り起訴は免れません、と書いてあるのは、上記の起訴猶予のことを意識した記載と思われます。)
不起訴の理由が分かりませんから、検察官が嫌疑についてどう考えているかは分かりません。
強姦致傷が重大犯罪であって簡単には不起訴にならないのは弁護士のコメント通りですが、示談が成立していること、前科がないこと、社会的制裁を受けている部分があることなどから起訴猶予となった可能性も否定できないと思われます。
個人的には、無罪推定の原則からして、逮捕や不起訴の前後を問わず、犯罪者として扱われるべきではないと思います。
2 高畑さん又は弁護士は女性と合意があったと主張しているのか?
弁護士のコメントでは、高畑さんは合意があると思っていた可能性が高い、と言っているだけで、合意があったと述べているわけではありません。
女性との合意がなかったとしても、高畑さんが合意があると誤信していれば、強姦の故意がなかったとして、強姦(致傷)は成立しないのであり、弁護士コメントで述べられているのはこの点です。
3 じゃあレイパーは合意があったと思ってたと言えば無罪になるのか?
本当に合意があったと信じていたことが立証されれば故意がなかったとして無罪です。
ただ、そのような弁解がされたとしても、前後の状況や行為の態様から、合意がないことを知っていた(確定的故意があった)ことや合意がなくても構わないと思っていた(未必の故意があった)ことが認定され、有罪になるケースが多いと思われます。
親告罪(起訴に告訴が必要とされる犯罪。過失致傷や強制わいせつ、強姦など)は、告訴がなければ起訴できませんから、示談が成立して告訴が取り下げられれば、起訴はされずに有罪判決がされることはありません。
親告罪以外については、示談があって告訴が取り下げられたとしても、起訴は可能ですから、起訴されて有罪判決を受ける可能性はあります。
もっとも、示談が成立していることが起訴猶予とするか否かの判断に影響することはあるでしょう。
5 示談不成立なら起訴されることを盾に、被害者は際限なく示談金の額をつり上げることができるか?
示談は当事者間の合意ですから、金額を決めるのは当事者の交渉です。
どうしても起訴を取り下げてほしいケースでは、被害者側が強い交渉力を持つことはあるでしょう。
しかし、示談はせずに贖罪寄付(示談の代わりに公益的な活動をする団体に寄付をすること)をすることで反省を示し、検察官に起訴猶予の方向で考えてもらったり、裁判官により軽い量刑にしてもらったりすることもできますから、高額な示談金を要求してもそう簡単には奏功しないでしょう。
不在通知が入ってたから週末の配達にしようと24時間の自動応答の番号にかけた。
週末は数日先だった。何度も配達させるのも悪いと昼間に今度はコールセンターにかけた。
なんかの手違いかはしらんが非常に面倒くさい。
栃木県の彼女に会いに行くために時刻表の線路図にペンを引いている先で、
この映画を当時、映画館で観たときには絶対に気づかなかっただろうことに気づく。
東大宮駅がない!
北大宮駅という三十年上の先輩がいたために"東"にさせられたかわいそうな駅だが、
それでも一昨年50周年を迎えている。
(地名が見沼市、もとい見沼区東大宮に変わったのは駅開業後である)
大宮駅で通勤快速に乗り換えたために何度通過したかわからないが、
名簿に乗る無数の誰かは、皆、今もどこかで生きている。
一触即発の地雷マスタを大量のドキュメントと誓約書と一緒に触らされて、心苦しさばかり覚えるこの日頃。
郷土史好きの文系として、SF考証に( ´_ゝ`)な顔をしていた自分が監督の脇の甘さをこういう形で知らされるとは思わなかった。
批判覚悟!デートで男がおごるのは当たり前でしょ? - 19歳で倒産に追い込まれた忙しい女子大生のおしながき
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.1919az.com/entry/2016/09/10/020441
Aという煽りにBという正論が脊髄反射で導き出せる初歩も初歩のクソ煽りじゃねえか
あれおかしくない?
脱衣所がよくある100円入れて使い終わったら戻ってくるロッカーでさ、
自然と100円を握りしめてるかポケットに入れた状態で通りかかるから、
100円で売ってるのを見て「おっ牛乳飲もうぜ」ってなるんであって、
「あ、牛乳飲みたいな、でも財布出すのめんどいし、小銭なかったらやだし__」
俺は思ったね、たとえ量を減らしても、一本あたりの利益がキツくても、
100円で飲めるという線だけは死守すべきだったと。
「ちょうど100円持ってたしつい__」需要を取り逃がしてしまっては、
早晩自販機の維持もおぼつかなくなるだろうと。
わざわざ十円玉を3つ揃えて牛乳を飲んでくれる奇特な人はいないだろうと。
わざわざ精霊石を3つ揃えて時の神殿を開けてくれる奇特な人はいないだろうと。
奇跡か。
私は宮廷(旧帝大)卒業後、就職、退職、無職、起業という道を進んできた。
こういう貧困ニュースを見るたびに思うのだが、苦しい人は人への頼り方も知らないと思う。
働くだけではスキルが身につかないことが多い。
それを率直に主張し続ければ、居候ぐらいさせてやるという人が100人に数人は見つかる。
そういう人たちに頼ることで自分の時間を作り、必要なスキルを身につけた。
だが、レールの上に乗っているとこんな生き方はとんでもないと思うだろう。
しかし、本当に自分の生き方を変えたいと願うのであれば、一人では不可能なことはたくさんある。
また、行政に頼っても、支給される金額以上の恩恵は受けることができない。
よく考えて欲しい。
彼らは特殊なのではない。
人に頼ることに関するスキルが長けているのだ。
そういう生き方を全肯定するわけではないが、人に頼るという面においては学ぶべきことがある。
人を研究した方がいい。
可処分時間がかなりあるのにもかかわらず、そういう努力を怠ってきたのが今の結果をもたらした要因の1つでもあるだろう。
人を利用するのではなく、人に頼るという方法を学ばない限り、八方塞がりな状況は続くだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160908174756
増田の友人は増田の潜在的な能力や行動力などを知っててその借りは何かの形で帰ってくると思うから居候させてくれてると思う。増田はただの貧乏人に頼られた時に気持ちよく軒を貸す?
人間だから、ただ助けてください、恩返しはしないけどって人には力を貸さないと思う。
ただ、貧困から抜け出すにはレバレッジが必要。そのためには人に頼る必要がある。
人に頼るには相手に何かを返すという姿勢を示すことが必要なのでは?
あと、相手に返すのは金銭を想像する人が多いと思うけど、それだけじゃない。
一緒にいる安心感とか楽しさとか経験でも十分な場合があるんだよ。
水商売で働く人間はそれを理解しているから要領がいいんだと思う。
いや行政に頼れよ。その方が個人に頼るより双方の負担が(心的にも)軽かろう。行政の制度なんて良い方にも悪い方にも変えることが出来るのだから皆が使いやすいように変えれば良い
だが、現実として、行政に頼るだけで貧困から抜け出せないパターンもある。
それは人によって背景がまちまちだけど、人に頼ることで行政からでは受けれない恩恵はたくさんある。
貧乏人は知識が足りないかもだけど、増田には想像力が決定的に足りないね。どうして自分ができたからお前らもこうすれば上手く行くのに、って単純な発想になるんだろう。
もちろんいきなりこの考え方を見て抵抗を感じる人・すぐに実行できない人もいると思う。
ただ、現実的な解決策としてこういう手段もあるということを伝えたかった。
私がうまくいったからこうすればいいではなく、こういう手段もあるしそれで救われている人は想像しているより多いと知ってもらいたかった。
旧帝の人脈があるからというニュアンスならこれは否定しておく。
意外とレールの上に乗っている人間が差し伸べてくれる助けは限定的。
私を助けてくれた人間はたくさんいるが、大学時代の友人よりも困窮した時代に知り合った人からの恩恵の量の方が多い。
世の中には助けてくれる人は想像以上にたくさんいるのだ。
ならば自業自得だと思う。
どんな振る舞いをしても救われるべきというのは傲慢だろう。
湯浅誠は経済的困窮に加えて人的ネットワークの弱さが貧困を生んでいると指摘している。頼れる人がいないから貧困に陥るんだと思うよ
これはその通りだと思う。
なぜネットワークが弱くなったかというと、まともな人間のハードルが上がりすぎているのもあると思う。
評価項目が多くなりすぎていて、一つでも落第点があれば変な人扱いする人間は意外と多い。
みんな変な部分は何かしらあるのにもかかわらず、相手に求める要求は高い。
リアルで肉体労働者を底辺ってあざ笑っている人間を見た時は、ぞっとしたよ。
余談だが、私が人に助けれらていた時期は、
「自分なんかのたれ死んで当然、生活させてもらえるだけで有難い、行き詰まって死ねばそこまで」
くらいに考えていた。
ネットの意見と自分の経験とのギャップを感じることがあるのだが、
それは「自分は生きたい、生きて当然、救われる手段がないのはおかしい」という旨の考え方だ。
救われるための行動よりも、周囲に原因を求めているように感じる。
彼らはやれることはやったというが、果たしてそうだろうか?
生活させてもらうために公衆の面前で泣いたことがあるだろうか?どけ座をして頼んだ経験が何度あるのだろうか。
逆の立場で考えた時、謙虚さを忘れた人間を救いたいと思うのだろうか。
行動していない人間を救いたいと思うのだろうか。
そこを受け入れられればまた見え方が変わってくると思う。
あと、筆者はうつ病を経験しているので、動けない立場の人間のことも理解している。
病を抱えている者はまず治療すべきだし、上記のような行動は荒治療となり、当然おすすめしない。
私の伝え方が悪く、趣旨とは違う指摘を呼び込んでいるように思える。しかし、私が伝えたかった事は、
ということで、そういう解決策もあるのだということ。
特に2.に関するトレーニングをしている人は少ないのではないだろうか。
すべての人がこれで救われるとは思わないが、これによって救われる人もいるだろう。
そういう人に届くことを願う。
2014年の映画で、一言でいえば音楽院でドラマーを目指す青年ニーマンとそこの鬼教師フレッチャーとのガチバトル?
愛読しているブログで考察記事があり心惹かれたので、さっそくレンタル。
朴訥な青年が鬼教師の傍若無人なふるまいを受ける中で狂気じみてくるのがたまらないですね。
血だらけで笑いながらドラム叩くシーンあるんですよ。おっかないけど、狂うほど突き詰める人間の姿そのものってもはや芸術的。
個人的には、フェスの舞台で恥をかかされたニーマンが、父親から抱擁の後、舞台に舞い戻ってフレッチャーの舞台を乗っ取る展開が印象深いです。
ここ、ニーマンが父親の愛情に浸るより、フレッチャーに自分のドラムを見せつけることを選択したシーンだと感じます。
彼はドラムを評価しない父より、たとえ鬼でもドラマーとして自分を見るフレッチャーの評価がほしかったのかもしれません。
ブログの考察記事ではニーマンの承認欲求とその達成のための手段としての彼のドラムに触れていて、興味深く読ませていただきました。
最初、ニーマンは普通のドラマーでした。しかし、フレッチャーとの関わりが進むにつれ、ドラムへのめりこんでいきます。
ただ、ここでのドラムへの執着は、ドラムという音楽そのものよりフレッチャーの評価に向けられたものです。
この点に、彼にとってのドラムが承認欲求を満たす手段であると表れているのかと。
ニーマンはフレッチャーからの承認を乞い続け、最終的にはブチ切れて憎悪が爆発する。そこまで至った彼の演奏が、フレッチャーを感服させるというね。
なんというか、愛憎劇ですね。
それを集中して向けたフレッチャーの行いによって、さらにそれが育ち、ついに狂気へ変わる。
狂気に走ることで芸術が完成される図式は映画『ブラック・スワン』と通じるものがあるように思います。
承認欲求って一般的にめんどくさいもの扱いされますが、あそこまで昇華させると薬、というか劇薬ですね。
ニーマンはドラマーとして天才だったかわかりませんが、それほどの承認欲求の種を持っていたこと自体が天賦の才だったかもしれません。
私はブスだ。
どのくらいブスかと言えば、街中のガラスや鏡に写った自分を見て思わず「うわっブサイク」と言ってしまうくらいにはブスだ。
最近会えばやたらと写真を撮りたがる人がいるが、私は写真に写るのが好きではない。
以前は写真に写るのを頑なに拒否していたが、最近はとりあえず写るようにしている。
写真に一緒に写るのを拒否することは、確実にその相手に嫌な気持ちを与えるからだ。
しかし、LINEやらなんやらで送られてくる写真をまともに見たことはない。なぜならば、自分の顔が見たくないからである。
ただの一ブスごときが、芸能人でもないのに写真に写りたくないと言ったり、周囲を変な空気にしたりするのは良くないとわかっている。
しかし、ただの一ブスの、「自分のブス顔のデータをできればこの世に残しておきたくない」と思う気持ちは、そんなに悪いものなのだろうか。