はてなキーワード: 倦厭とは
昨今、オンラインゲームでチームプレイが必要とされるジャンルのゲームが増えてきた。
そんな中、味方に迷惑をかけるのが怖い、味方の行動にイライラする等々の理由でチームゲームに嫌気が差してしまっている人が身近にいたので、チームゲームをプレイする上での心構えを書いてみる。
初心者でも上級者でも勝つために最善を尽くす事。大前提としてこれは必須事項だ。
勝負事の世界において、負けてもいいやというプレイをすると勝負が成り立たなくなってしまう。
これは勝負事における最低限のマナーであり、過去に何かしらのスポーツや将棋などをやった事がある人なら分かるだろう。
大抵のゲームは長い歴史の中で、強いキャラ、強い装備、強い動きといった勝率が高くなる要素というのが発見され、常識化している。これを”メタ”という。
チームゲームをプレイする上で重要なのはメタに沿ったプレイを心がけるという事だ。
メタを気にせず自分のやりたい事だけやる味方がいるとどうなるのか?例えばサッカーで考えてみよう。
サッカーにおいてスパイクを履くのは当たり前だ。極端だがこれがサッカーにおけるメタだとする。
そんな中、裸足が好きだからという理由でスパイクを履かない味方がいたら周りの人はどう思うだろうか。
頼むから真面目にやってくれと思うだろう。相手は全員スパイクを履いているのにこちらのチームには裸足の人がいる、そんな状況ではゲーム開始時点でもう面白さが半減してしまうだろう。
一緒にプレイする人が気持ちよくプレイできるよう常識はずれの行動は控えよう。
ただしこれはチームゲームでの話であって個人競技には当てはまらない点には注意が必要だ。
例えば個人競技の100m走で1人だけ裸足で走っている人がいてもそれはその人の自由であり、誰からも文句を言われる筋合いはない。
チームゲームにおいて、味方が強ければ勝てた、味方が悪い、あの時味方がこう動いていれば…といった味方に対する不満を言いだしたらキリがない。
オンラインでマッチングした即席チームに過度なチームワークを求めるのは無理がある。
筆者が思う最高の心構えは、”自分が勝たせる、味方は関係ない、俺がチームを勝ちに導くんだ”という心構えだ。
所謂”キャリー”と呼ばれる存在に自分がなる事を目標にプレイし、味方に多くを求めない事が重要だ。
毎回同じチームでの活動やプロのゲーミングチームに入って活動する場合はチームワークが重要になってくるので味方に対する意見は重要になってくるが、ランダムマッチングの即席チームでは味方に対する意見などほぼ意味がない。全員がこの意識を持ち、自分がキャリーする事だけに集中してプレイ出来ればベストだ。
んな訳ないじゃん
中国産(或いは北朝鮮産)として売ったら倦厭する人が多くて売れないから国産に偽装したって話なんだから、偽装止めたところで値段は変わらないよ
偽装せずに国産品で商売するなら、ブランド化してアサリを高級品として売るしかないんだ
「安くしなきゃ売れない」「安くしなきゃいけない」って思い込みや義務感が人を突き動かす
金儲けの為だけの、悪意だけを動機にしてああいう構造が生まれると思ったら大間違い
ブラック企業とかもそうだけど、義務感や善意の方が人を間違った方向に突っ走らせる
多分だけど、偽装やってた人達は自分達のやってる事は人の為になってると思ってたと思うぜ
安倍昭恵を担ぎ上げて、国を詐欺でだまくらかした諸悪の根源。経済犯で死刑は難しいのでとりあえず無期懲役で。
そんな反社の連中にほいほいと喜んでカモネギのごとく担ぎ上げられて、広告塔になってた安倍昭恵はアホだし、万死に値する。マルチ商法や詐欺的商法に担ぎ上げられた芸能人が謹慎したり芸能界での立場をなくしてるのに比べたら、反省のコメントも一切なく、処分が大甘すぎて急性高血糖で倒れるレベル。
こいつが背後で絵を描いて、森友学園が利益を得るように支持しただの関与したなんてのは絶対ありえない。私注目されてうれしい!とかの感情だけで動く乳児レベルなので、そんな大掛かりなことができるようなアタマを持っていないことくらい、医療大麻で騒いでた頃から皆わかってただろ。
妻の立場でやらかしたんだから、責任とって離婚して尼寺に座敷牢を作ってもらって一生そこに籠もってろ。
安倍晋三が絵を描いて、安倍昭恵の関わる森友事業に利益を誘導しようとしたなんてのもありえない。アホ妻を放置してたら、まんまと犯罪者に利用されてたのは保護責任者として重罪。ただし、あんなアホ妻でも成人なので、それを放置したからといって罪に問うのは難しいのがムカつく。危険生物を野に放った罪は認めろや。その罪によって首相辞任、議員辞職すべきかどうかは国民が決めるから。いくらほんとに関わってないからって、「首相辞任&議員辞職」なんて大層なエサをぶら下げちゃうから、安倍大嫌い民が忖度させた罪とかで大騒ぎして、籠池夫妻の詐欺と官僚の不注意による失敗への追及が弱くなってる。
(谷査恵子の所属が経産省だけど首相夫人付きになったときに所属とか変わってたら経産省じゃないね)
経産省「首相夫人は、好き勝手に担がれてるけど、他の省庁の人が止めてくれるでしょ。うちで止めて首相夫人、ひいては首相の機嫌を損ねたら面倒だしね」
文科省「経産省の職員がついてる首相妻が広告棟になってるんだから、経産省で素性はチェック済みでしょ。うちで止めて首相夫人、ひいては首相の機嫌を損ねたら面倒だしね」
財務省「いろいろ怪しいけど経産省と文科省がチェックしてるから大丈夫でしょ。うちで止めて首相夫人、ひいては首相の機嫌を損ねたら面倒だしね」
事件発覚後の三バカトリオの無様な言い訳は、もっとひどいんだけど、忙しいので後で追記するかも
このエサに食いつきすぎだよ。野党もマスコミも安倍降ろしばっかりに躍起になって、映像を何度も流したのが致命的にまずかった。ノイホイだの籠池が演説に押しかけて100万円返すだの、籠池の自宅に押しかけて珍説披露させたりだの、バラエティ番組レベルのクソ放送を延々と繰り返したのはもっとまずかった。国民だってバカじゃないから、首相がお友達に国有地バーゲンセールみたいなわかりやすい利益供与なんてあるわけないだろうって思うから、森友問題が扱われて籠池夫妻のクソヅラを見るたびに、倦厭感を覚えるようになってしまったのが失敗。
首相でもお友達に便宜を図れるのは、文科省のチェックを緩ませて加計学園を認可させる程度がせいぜいで、直接金が絡むようなら財務省で普通は止まる。
森友がこんな有様になったのは、首相夫人を担ごうとする大胆な詐欺師、まんまと担がれる首相夫人、他省庁任せのズボラで無責任なチェック体制、これらが絡み合って起こった事件なので、首相の関与への追及やら籠池の珍説披露に時間を費やしたのが本当に最悪
増田さんが「コーヒーの味がわからない」とお悩みのようなので、コーヒー豆を選ぶうえでご参考になればと思いました。
▼コーヒーの味
「これはとてもコクがある豆で・・・」
正直、そんなこと言われても味の想像なんてつかない!っていうのが正直なところだと思います。
多くの場合
フルーティー=酸味がある、後味がすっきりしている、紅茶のよう
コクがある=油分が多い、苦みが強い
ことが多いです。
(もちろん粉の挽き方や淹れ方に依存する部分も多々あるので、必ずしもとは言い切れませんよ!)
なんでフルーティーとかコクがあるとかっていうわかりにくい表現にしているかというと、
「酸味」とか「苦み」ってマイナスイメージが強いからでしょう。
▼豆の種類について①~スペシャルティコーヒー?~
まずはスペシャルティコーヒーor通常の豆という種類で分けられます。スペシャルティコーヒーってのは、要は「特別な豆ですよ!」ということなんですけど、必ずしも美味しいとは限りません。
もちろん、品質管理された生豆であるというの重要なポイントですが、日本でされる焙煎、ハンドピック、その後の管理等によっても味は大きく左右されるからです。
(ちなみに、コクテール堂さんなんかは通常の豆を使用していますが、とても美味しく、増田も大好きです)
▼豆の種類について②~産地とブレンド~
コーヒー豆って国名がつくことが多いですよね。けれども、例えば「コロンビア」という豆のすべてが同じ味かというと、そんなことはありません。
あくまでも「コロンビア」原産の生豆ですよっていうことであって、味は焙煎などの後工程でいくらでもかわります。だから、沼にハマるまではあまり気にしなくてもよいです。
むしろ、そのお店のブレンドを飲むことをお勧めします。ブレンドは文字通り、いろいろな種類の豆を混ぜたもので、そのお店の個性が非常によく出ます。
美味しいブレンドを作れるお店って本当に一握りしかない(と思っている)ので、ぜひぜひ飲み比べてみてください。
(ちなみに、一種類の豆から淹れることをシングルオリジンといいます)
▼豆の種類について③~焙煎~
コーヒー豆はコーヒーノキになる果実の中にある種です。もちろんそのままでは食べることも飲むこともしませんが、焙煎して、そのエキスを抽出することであんなに美味しいコーヒーになるんですね
。その焙煎ですが、一般的に煎りが浅いほど酸味がつよく、煎りが深いほど苦みが強くなります。
時々カル〇ィで行くと、レジ前に豆がずらーっと並んでいますよね。あの豆、たぶん半分以上は不良豆です。未成熟豆やカラが混じっていると、それだけでコーヒーの美味しさが損なわれます。
そのため、美味しいコーヒー屋さんはそうした不良豆を取り除く作業をしています。俗にハンドピックと呼ばれる作業です。この作業、地味だし豆の量が減るので倦厭されがちですけど、ちゃんとハンドピックがされた豆とそうでない豆とは、本当に味が違います。
▼コーヒー豆の買い方~豆が粉か~
コーヒーは粉にした瞬間から酸化が始まりますので、絶対に豆で買ったほうがおいしいコーヒーが飲めます。また、仮にハンドピックされていない豆であっても、家でピックできますからね。
どうしても粉がよいということであれば、密閉容器に入れて冷暗所で保存してあげてくださいね。
▼まとめ
・スペシャルティコーヒーとかはあんまり気にしなくてよい。
・ブレンドを飲んでみる。
・美味しかったら豆を買って帰る。
・自分で容れてみる。
・コーヒー沼へようこそ。
ディスっている訳ではなく、残念ながら私にアイドルを楽しむ才能がないみたいだ。
モーニング娘。、AKB、perfume、ももクロ……。ジャニーズなどの男性アイドルにもハマれたことがない。
二次元なら推しはいっぱいいるのに、三次元だと全然ピクリとも来ない。二次元でもアイドルものは倦厭してしまう。いくつかは見てけれどノリについていけなかった。
まず、ダンスに興味がなさすぎるのかもしれない。好きなキャラでもMMD動画には食指が動かない。
そういえばミュージカルもそんなに得意じゃない。劇団四季のキャッツで寝てしまうくらい。
なんでこんなにグダグダ言ってるかと言うと、友人が二次元アイドルのコンサートのチケットが余ってしまって一緒に行って欲しいと頼んできたからだ。
譲渡先を探してはいるようだけど本人曰くなかなか見つからないらしく、チケット代も交通費も晩御飯代まで出すとまで言っている。
そんなことしたら万はゆうに超えて心苦しいし、興味がないもののために一日を費やし、完全アウェーの状態で過ごさなければならなくなる。
その友人は一番の親友といっていいほどな仲がいいのだけれど、ことアイドルに関しては少し距離を感じてしまう。
以前家で上映会をしよう誘われて行ったら、そのアイドルアニメの映像を3時間以上見ながら、時には一時停止し、巻き戻し、延々と熱く語られてげっそりしたことがあった。同じジャンルの友達が少ないらしく、話したい欲がもの凄く溜まっているらしい。
でも二人で同ジャンル(アイドル以外のアニメ)にハマってた時はこんな感じで私も話してたしな、話す相手いないと辛いよな、と思って付き合ってきた。
そして今回のコンサートである。一度はきちんと用事を作って断った。そしたら違う日も一般発売で当たったらしく、また同じ条件で誘われてしまった。無理にとは言わないけどと言いつつ、先に予定が空いているか聞いてから誘って断りづらくしている。それは卑怯じゃないか……。譲渡先探してるって言ってるけどどのTwitterのアカウント見てもその件に関してツイートしてないじゃないか……。私が行けないなら一人で行くとか可哀想さアピールしないでくれよ。
私もハマってるジャンルに対しては盲目だし、宗教じみてくるのはわかる。でも、無理矢理布教しないで!仲間同士で楽しんでください。同士が見つからないとか知らんし。私に布教するエネルギーを身近な同士を見つける方向に使って頂きたい。
幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。
また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。
ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。
バイトのシフトにはちゃんと遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。
現役で地方の駅弁大学に入学して、卒業が近くなってからは資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。
一応何とか大学は卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。
自分は、根本的に人生はディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的に自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分の学力のピークになっていたと思う。
確か当時の全国模試の総合偏差値は70を超えていたはずである。
でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。
何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。
その頃から学力の減退も生じていて、自分で自分がコントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校のランクを一つ落として、何とか国立の大学に合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分の人生の最盛期だったのではないかと思う。
大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活が崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数の語学習得を目指し大学のゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分をコントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。
俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分の計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活は大学を卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。
何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐、牛乳、納豆、青魚、葉野菜。こういうものをバランスよく摂るようにしていた。でも、自分が自分をコントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神でバイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。
いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。
さて。
いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しかし実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己をコントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。
原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である。身体におけるありとあらゆる不調や、自身のコントロールを掌握できていない感覚は殆どの場合、血流の低下に基づいているのである。ADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動が有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効なもののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。
シンプルながら散歩はADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である。普段自転車や原付で移動する距離を、例えば自転車や原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneのヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。
腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレは実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。
ドストエフスキーや夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHDの改善法となると俺は思っている。大抵の場合、活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書のカテゴリーに加えておく。
基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。
同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである。
すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書や文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画のイラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間を生活の中に設けるようにしている。ファミレスやハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。
ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHDの改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなのである。なので俺は最近は文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。
鬱持ち・ADHD持ちにありがちな、思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。
上で書いた通り、卵や牛乳、青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。
つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなのである。つまりそれは、そう、料理の煩雑さや億劫さである。
基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。
脳に一定以上の煩雑さや負担を押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。
追記。瞑想は効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブな効果が起こっていると思われる。
読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアルな瞑想を行うことがある。これもまたオススメ。
など
こんなところだろうか。
思い出し次第追記を行いたいと思う。
今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要な発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である。
上では書かなかったが、俺は重篤なインターネット依存症持ちでもある。
しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所や欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである。
是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。
自身の病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生」なのだ。
それでは。
自分は30代前半独身男。まわりも結婚を考え始めている。ある日、同じく独身の同期のA君がこう言った。
「オレ、タバコもギャンブルもやらないのにな。酒も飲まないのにな。働いてるし優良物件だよ。」
違和感がある。
たしかにA君はタバコは苦手だし、アルコールはアレルギーがあるし、ギャンブルには手を出さない。ただ、それが優良物件になると思ってる理由を知りたい。
タバコを吸わないから優良物件なのか、違うだろ。内面や経済面がメインの条件で、タバコや飲酒、ギャンブルをやらない事ははオプションじゃないのか。過度にのめり込んでいると倦厭されそうな気はするが。やらないからプラスになる気はしない。
自分は飲酒は日常的にするが、タバコやギャンブルはたまの休日に愉しむ程度だ。別に女性ウケを狙ってはいない。世の中の女性に、男性のタバコ、ギャンブル、飲酒はどれくらい重視してるのか聞きたい。
面と向かっては誰にも言えないような、自分たちの世界の話。馬鹿げた三文小説のような、稚拙で安っぽいものかもしれない。けれど自分たちにとっては本当にあった事だ。
幼い頃から自分の中にはたくさんの人間(今思えば別の人格とも言えるような、あやふやだけど確かに存在すると思っているもの)が居る。遊ぶのが大好きな明るくちょっとやんちゃな人。本を読むのが好きなおとなしい人。気が弱く、ちょっとしたことで泣いてしまう人。ごっこ遊びが好きで、いろんな物語が好きな人。音楽が好きで、特に歌うことが大好きな人。怒りやすいけど言いたいことははっきりと言う人。大人のような知的で冷静な行動をとる人。日々をぼんやりと、俯瞰するように見つめている人。心優しく、他人を大事にする人等。とにかくいろんな人いた。
そんな人たちが、自分の身体を通して物事を見たり、感じたり、表現したりしていた。主に行動していたのは優しい人と物事をはっきりと言う人だった。
そうして日々を過ごし、普通の日々を幸せに感じながら成長していくはずだった。
そんな中、ある出来事をきっかけに優しい人が殺されてしまい、自分という世界からいなくなってしまった。たくさんの人たちが驚き、嘆いて悲しんだ。その中でも物事をはっきりと言う人が一番取り乱した。優しい人と物事をはっきり言う人は双子のように特別仲が良かったからだ。殺される原因となった出来事を憎み、その出来事を起こした人物や、それを見ていて放置した人々を殺したいほどの衝動に駆られた。それを見た他の人はどうにかその怒りを外に出さないように、変わるがわる表に出て、怒りを誤魔化すように他人と会話をしたり、怒りを鎮める行動をとったりしてどうにかしようとした。
しかしそれが、自分という人の行動そのものをしっちゃかめっちゃかにして、次第に他人から倦厭されるようになった。頭のおかしい人だと思われていった。
それを目の当たりにしたはっきりと物事を言う人が、ついに耐えきれなくなって、周りに当たり散らした。当時はそのおかしさ故にそこそこいじめられていたため、それに報復するような形で怒鳴ったり物を投げつけたりと、今思えばなかなかに酷い行動をとった。猜疑心に駆られていて誰も信じず、また誰にも頼ることもなくなった。
ある日、急に糸が切れたかのように、朝起きれなくなっていた。何もする気が起きず、ずっと携帯をいじっていたり、ぼうっと天井を眺めていたりした。
そうしていくうちに、睡眠障害になり、うつ病になった。自分の世界の人たちも疲れきっていて、ただ黙っていた。主に活動していたのは周りを俯瞰するように眺めている人と、はっきりと物事を言う人だった。しかしはっきりと物事を言う人は、優しい人を失くしたショックで絶望していた。全てが色を失ったかのように、無気力に過ごした。
次第に自分の世界に居た人々は少なくなっていき、今は両手で数えるほどになった。
今はそこそこ回復しつつあるものの、自分の世界の人間はやはり安定しないままで、話し方も雰囲気もころころと変わってしまう。おそらく他人から見たら相当に奇妙な人だと思われているだろう。
このままではどこにもいけないし、生きることすら難しい。
主に行動していた優しい人の残した傷痕が深く、何をするにもその出来事を思い出してしまい、まともに息すら出来なくなる。
色々調べていたが、イマジナリーフレンドや解離性同一性障害という言葉に行き当たったものの、自分たちはそういうものではなさそうだった。
じゃあ何だと言われれば何も言えなくなってしまう。
果たして、自分たちは何者なのか。そればかりを考えて、今日も答えが出ないままだ。
確実に言えるのは、これから先は生きていけそうもないことだけ。毎日湧き出てくるような希死念慮とそれを誤魔化すためのネットサーフィンをして、生ける粗大ごみの如く、駄目人間として息を潜めている。
支離滅裂な上に長く読みづらい文章だけど、どこかに自分たちのことを書きたくてたまらなかった。創作でもなく、実際に感じたことだけが頼りで、記さなければ形すら得られないからだ。
こんな駄文を残すことをどうか許して欲しい。
なぜそんなに病的に、物事をマイナス評価で見よう見ようとしてしまうのですか?
ネットでそういう斜に構えた見方ばかり見て思考汚染されていることを心配してしまう。
だから、同じ作品をみていても、自分が枠に嵌めた見方をしているのに、それを自覚できずに作品が枠に嵌っていると批評してしまうのではない?
そういう姿勢はクリエーターや他人に対する尊敬や謙虚さが著しく欠けて、自我が肥大しているせいではないかと本当に心配になる。
作品鑑賞は、ケチをつけて「自分は賢い」「もう知っている」「だからこれは陳腐だ」という事を確認するためではなく、
作者の描くその世界観や思想に自分から近づいて、受け入れ、それを以ってまず何より「楽しむ」ためにする、前向きな行為のはずでしょう。
「予定調和」と言って倦厭するよりも、王道なスポ根展開の中に込められた、
キャラたちが互いの個性を尊重する柔らかい受け止めや距離感の取り方に、今時の「らしさ」を感じ取ったり、
主人公の巧遅拙速な思考回路が叩き潰されるのではなくむしろ周囲に愛されて引き上げられる世界観をみて、
そうやって良さを汲み取ろうという目線で観るほうが、明らかに脳内の解像度があがり、
感性のアンテナ感度もあがって、感動できることが増え、楽しめると思うのだけど。
もちろんこれも、ある意味「ポジティブな型」に嵌めた思考法で、ときには「さすがに無理がある」とか
「作者の意図を逸脱しすぎている」と思われるような状態に陥ることもあるけれど、
楽しみを見出そうとしていて、その人は楽しめているという点では、「ネガティブな型」に嵌めるよりはるかに有意義。
あるいは、「ネガティブな型」に嵌めて、声高らかに叫ぶことで、作者の耳に届けて矯正してやろう、みたいな考えが働いているのではないですか?