はてなキーワード: オリバーとは
表現の自由戦士は「自由権とは不快を我慢させる権利である」と言うけれど、
「我々はナチズムを肯定しています。だからユダヤ人はここに来るな」という無言の主張になるし、
市役所の前にネイサン・ベッドフォード・フォレスト(KKK創設者)の銅像が飾られていたら
「我々は黒人差別を肯定します。だから黒人はここに来るな」という無言の主張になり、
「我々は十字軍を肯定します。だからムスリムはここに来るな」という無言の主張になり、
市役所の前にコロンブス像が飾られていたら「我々はネイティブ・アメリカン弾圧を肯定します。
だからネイティブ・アメリカンはここに来るな」という無言の主張になり、
市役所の前にダンテ像が飾られていたら「我々は神曲におけるムハンマドの扱い(聖書を歪めて解釈したとして地獄に落とされている)を肯定します。
「我々は白人至上主義を肯定します。だから黒人はここに来るな」という無言の主張になり、
「我々は脱亜論を肯定します。だから中国人や韓国人はここに来るな」という無言の主張になり、
国会議事堂前にオリバー・クロムウェルの銅像が飾られていたら「我々はアイルランド虐殺を肯定します。だからアイルランド人は議員になるな」という無言の主張になり、
市が萌え絵で町起こしをしていたら
「我々は萌え絵を肯定し、牟田和恵氏や小宮友根氏の主張を否認します。だからツイフェミはここに来るな」という無言の主張になる。
呉座勇一のTwitter騒動関係でsyakekanという鍵付きアカウントがちょくちょく下衆いツイートで絡んでいらしいことがリプライから推測できて気になっていたのだがどうやら塚本英樹という近代日本史の研究者らしい。
なんでバレたのかというと「北大西洋条約さくら@MValdegamas」というミソジニーアカウントが2014年頃@付きでアカウントと名前を入れてツイートしてたからだ。
なおこのツイートは3月24日の15時半くらいに消去されているみたいで検索できくなっていた。
どうやら2009年11月から革命的非モテ同盟代表を務めている「鮭缶」と同一人物らしい?(2021年現在はどうなのか不明)
日本史アカデミア界隈のミソジニーボーイズクラブっぷりってかなり深刻だな。
◯非同の◯缶大総統の本ですな。取り敢えず備忘録としてtweet
日本外交と対中国借款問題 塚本 英樹(著) - 法政大学出版局 | 版元ドットコム https://t.co/MX3V7QAKmy @hanmotocomより— know thyself(子豚のオリバー) (@thyself_know) March 14, 2020
皆さま方におかれてはぜひTwitterの検索欄に「to:syakekan」と入れて検索してみてほしい。
シンカリオンは良いアニメです。シンカリオン……まこと良いものだ。ただし「 様」、テメーはダメだ。
※わかる人だけわかればいいので一部伏せ字や空白にしています。
私は2018年から放送された某新幹線変形アニメを64話まで見ました。そのシ○カリオンというアニメには発音ミクが出演して大好評でした。(大好評だということにしておく)
ところがどっこい、○ンカリオンの敵であるキトラルザスのリーダーの名前が「 様」でした。
発音ミクが出ている(しかも準レギュラー)なのに敵の名前は「 様」であります。
あぁん、ひどぅい。
結果としてハヤ○とセ○リュウとその他もろもろは「 様」を葬りました。
ミクから見れば自分の兄と弟(のような存在)を殺したようなものです。
ミクが不憫です。が、最も不憫なのはKAIT○とレ○です。多分。
なぜこのような事になってしまったのでしょうか。
最も可能性が高いのは、シンカリオンのスタッフが事前に調べていなかったという事でしょう。googleか何かで検索すれば「カイレン」が意味するものはすぐわかったでしょうに、それを怠ったためにこんな悲劇を起こしてしまいまいまいました。多分。
その他の可能性としては、
2. スタッフが検索して意味を知ったが、「まあいいか」と思ってそのままゴーサインを出した説
3. 意味を知ってクリプトンに相談したが、「まあいいか」とクリプトンも思ってゴーサインを(ry
が主に考えられますが、これ以上はウスターソース、ソイソース、デミグラスソース、オリバーソース等がないので推測としか言えません。
敵のリーダーだから最後に倒されるのはわかります。また「 様」の名前の由来が鉱物からきているのも知っております。
他のアニメ等でボカロと名前が同じキャラクターが死んだり逮捕されたりする事も稀によくあります。
ですがクリプトンがアニメに関わっている状況では「 様」という名前を付けるべきではありませんでした。
それではクリプトンは落ち度0かというと、1~30ぐらいでしょう。(100の内)
事前に知らされていなかったとしても、「 様」の名前が出てから東京駅地下で処刑されるまで半年もあったのですから、
「 様」の出番を極力減らしたり、改心したりする(してもらう)など、対策はいくらでもとれたはずでした。
発音ミクが居ながらクリプトンはKAITOとレンを3564にしたので、私たちは隕石ドカッて落ちたような怒りと悲しみに暮れております。
これはファンにとって大ショックです。ニクソンショック、オイルショック、アタリショック、リーマンショック等に並ぶ「カイレンショック」だと自負しております。
なぜKAITOとレンは殺されなければならなかったのでしょうか。クリプトンは止めようとしなかったのでしょうか。
私たちは、KAITOと鏡音レンを禁止しなければいけないような所から生まれてきたのでしょうか。
我々ボーカロイドファンはいったいこれから先どこに向かって行くのでしょうか。
桜ミクの衣装を6人全員分出してください。
"Romeo & Juliet" は米国人歌手、ステイシー・アール(Stacy Earl)の楽曲。
1992年1月発売のデビューアルバム"Stacy Earl"からの2ndシングル。
プロデュースは、ポーラ・アブドゥル(Paula Abdul)のヒット曲"Opposites Attract"等で知られるオリバー・リーバー(Oliver Leiber)。
"Opposites Attract"と同じくワイルド・ペア(The Wild Pair)と共演している。
1985年「ソングライターの殿堂」、1987年ロックの殿堂入りした「リーバー&ストーラー(リバー&ストラー)」と呼ばれる米国の作曲コンビ、
ジェリー・リーバー&マイク・ストーラー(Jerome "Jerry" Leiber and Mike Stoller)。
エルヴィス・プレスリー(Elvis Aron Presley)がカバーした『ハウンド・ドッグ(Hound Dog)』、エルヴィスの為に作られた
『監獄ロック(Jailhouse Rock)』、『スタンド・バイ・ミー(Stand by Me)「ベン・E・キング(Benjamin Earl King)との共作」』
など、数多くのヒット作で知られる。
この作詞作曲家コンビの作詞担当、ジェリー・リーバーはオリバー・リーバーの父親である。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stacy_Earl
https://www.discogs.com/Stacy-Earl-Stacy-Earl/release/501302
https://www.discogs.com/artist/115387-Oliver-Leiber
Stacy Earl ft. The Wild Pair - Romeo & Juliet
ららマジというコンテンツがある。「キミと奏でる、音と魔法の学園RPG。」だそうだ。こんなこと言ってる時点でもう丸わかりだが、完全なる未プレイのままこれを書いている
そして自己紹介をすると、クラシックオタである。オタクと言ってもどれくらいかという話だが、バッハからギリギリウェーベルンまでと言った感じである
(ルネサンスの完全ポリフォニー音楽は正直よくわからんし、ウェーベルンで十二音音楽がギリギリって程度で、ベルクとか分からんし、セリエル音楽とか完全にダメである)
まあ要はクラシックオタとしては及第点ぐらいなのではないかという感じだ。自分で思っているだけだが、流石に新ウィーン楽派必修はキツすぎるしこんなもんだろう
そして、ららマジの存在は知っているのだが、それ故に全く手を付ける気になれない
要はミリヲタが艦これに文句つけてるアレである。知ってるとどうしたってアラが見えてしまうのだ
というわけで以降アラをあげつらう。ただ、最初に書いておくが、クラシックを題材に据えてくれたことそれ自体には感謝したい。大概な過疎界隈なので…
まず最初に引っかかったのがこれである。ワグナーチューバ専がいたのだ。おそらく人類初のワグナーチューバ専の演奏者ではないか?
どういうことか説明する。ワグナーチューバとかその名の通りリヒャルト・ワグナーが導入した楽器である
問題はその役割である。ワグナーチューバというのは、端的に言うとホルン奏者が持ち替えで吹くチューバ、要は補助楽器なのである
まず楽曲に登場する際もその様な管弦合奏の中での役割しか無い。無論ワグナーチューバの独奏曲なるものも地上には殆ど存在していないと思われる
ワグナーチューバ専の彼女が何の為に生きているか深刻に謎なのだ。もっと彼女の存在意義を明らかにして欲しい
単にワグナーチューバがちょっと奇を衒ったチョイスだと思ってこんなことをしたのなら…正直それは最もオタクが憎むところである
さっきの発想を拡大していけば自然とこういう結論が導き出されるのだ
まず編成が滅茶苦茶である。ワグナーチューバは勿論だが、なぜか胡弓がいる。譚盾でもやるのか?
ピッコロ・フルート奏者と、ファゴット・コントラファゴット奏者とそれぞれ別々ににいるし、オーボエもいないのになぜかイングリッシュホルンがいる
というか弦楽合奏の縁の下の力持ち、ヴィオラがいない。クラシックやる気ねえだろお前
まず、各楽器一人づつしかいないのが致命的におかしい。これで合奏なんかできるわけないじゃないか
一応確認してみたが、弦楽合奏はヴィオラが居ないのでまずどの編成も無理だし、金管五重奏をやるにはチューバがいないし
オーボエも居ないので木管五重奏も出来ない(イングリッシュホルンの奴を強制的にオーボエに持ち替えさせればイケなくはないが)
率直に言ってこの部活、端から演奏活動をする気があるとは思えないのである。演奏活動をしない音楽部ってなんだ?
まだ楽器弾けないクラシックオタが放課後に集まって一緒にクラシック聞く方がよほど真面目に部活動してると言えそうである
まず何のチューナーなのかが全く聞こえてこない。そこ、いちばん重要な情報である
…が、状況を見れば十中八九ピアノの調律師であろう。そうすると次の問題が出てきて、器楽部なんかで遊ばずにピアノ調律師の専門学校へ行けということだ
ピアノの「チューニング」自体は、実は器具さえあればクソ簡単である。あれは打弦楽器であり、本質的にギターのチューニングと同じなんだから当然だ
ピアノ「調律」のミソはピアノ全体の調整、とりわけハンマーの調整である。逆にここは素人が立ち入れるところでは全く無い
というかピアノ調律師は国家資格なのである。苟もこんな場所で遊んでいる暇などないはずなのだ
(ただ、ピアノ調律師なのではないかという推測は、チューナーくんがあれほどモテモテな事実への一つの根拠となる気がしている
ピアノ調律師はピアノ全体の調整をやらなきゃいけない都合上、一定程度のピアノ演奏の腕を持っていると考えていい
…そうピアノ奏者である。室内楽をやりたい器楽部に致命的に欠けていたピアノ奏者がここにいるのだ
ピアノとの二重奏による室内楽ソナタというのは各楽器に果てしなくあり、というかほぼその楽器の独奏曲レパートリーと言っていい
ピアノ演奏ができる、そして部員としてそれぐらいしかすることのないチューナーくんは引っ張りだこになること請け合いなのである)
ここまではららマジの方に100%非があることだと思っているが、これはららマジの方の非が50%、この増田の方の非が50%ぐらいだと思う
その前置きをした上で言うが、ららマジの曲チョイスはクラシックへの愛が欠片も感じられず、はっきり言って嫌悪感がするのである
Act 1「いばら姫」:バレエ音楽「眠れる森の美女」(チャイコフスキー)
Act 3「どうにもとまらない」:「どうにもとまらない」(山本リンダ)
Act 4「マイフェアレディ」:ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(フレデリック・ロウ)
Act 5「ある晴れた日に」:歌劇「蝶々夫人」(プッチーニ)
Act 7「マランドリーノ」:喜歌劇「怪盗団/山賊の仕業」(スッペ)
Act 9「美しく蒼きドナウ」:「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス2世)
Act 11「ハッピーアンバースデイソング」:映画「ふしぎの国のアリス」(オリバー・ウォレス)
Act 12「カノホナピリカイ」:フラソング「カノホナピリカイ」(ケアリィ・レイシェル編曲)
クラシック好きと言うのはガチの選民思想的なところがあり、こういう事をされると相当カチンと来るのである
そんなPOPなチョイスしたいなら吉松隆でも選べばいいじゃないか
数少ないクラシックのチョイスにしても、スッペの怪盗団を選んだ所以外全く評価できるところがない
24の前奏曲から第15番を選び、更にそれに「雨だれ」の題名を冠するのとか最悪である
今どきベト5を「運命が扉を叩く音」と言い出すぐらい古臭い最低なセンスである
音楽を、ただ音楽それ自体を聴いてくれ。エピソードはそれをやったもののみが語るべき要素である
「劇場版ポケットモンスター みんなの物語」を見たので感想。と言うか自分メモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。
「まさに千八百円と上映時間分の時間を投資する価値がある映画」を100点だと考えたときの点数は15点位。ひどみ。低評価。なんだこれ。
しかし微塵も揺るがない増田。なぜなら(自分的には大体似たカテゴリに入る)「ドラえもん のび太の宝島」が脅威のマイナス点数の失神級駄作だったので免疫がついたのだった。
シナリオの作りが野心的で100分という尺の中でなんと群像劇をやろうとしていた。
主な人物として「市長の娘ヒロインのラルゴ」「ギャルっぽいヒロインのリサ」「過去を抱えた市長オリバー」「後悔に生きる老婆ヒスイ」「コミュ障のポケモン学者トリト」「口からのでまかせで生きてきた男カガチ」あたりがいて、それぞれが内面に問題を抱えつつ生きている。物語の舞台フウラシティを訪れたサトシは、この街の生命線とも言える「風祭り」に参加。そこで起きる大事件に様々な人間と関わり合いながら立ち向かう……という映画のメインストーリー。
この「群像劇をやりたい」という企画性というか意気込みを、まずは評価する。……んだけど、それはやっぱり難易度は高い。脚本はあちこち駄目ぽだった。大きな問題点としては感情動線の理屈建て不足で、なんか悩みやトラウマがある→でも私の力が必要っぽい→周りが盛り上がってる→感動パワーでうわー解決! というのが群像劇分水平コピーされている。
そこには「今までの悩みやトラウマを超克するための内面的な気付きやきっかけ」みたいなものが不足していて、「今までダメだった理由」「今回は立ち上がった理由」が極めて薄いか、キャラによっては存在すらない。感動的な音楽がかかって背景で大火災とかあるからやらなきゃならないやったでーというわりと雑なほうりなげだった。そんなんだったらそもそもトラウマいらんでしょ。
そのほかにも、山の中で発見された聖火を市長が街まで持って帰れば時間は余裕なのに(また普通に考えて街の宝を放置するほうがありえないのに)、わざわざ間に合わないギリギリまで放置して女子高生ギャルにスプリントさせるとか、なんかこう……脚本レベルで穴が多い。
「みんなの物語」「みんなで協力するという感動」という企画性は理解できるんだけど、脚本陣にそれを実装する能力が欠けていたように思われる。かと言ってそれは脚本家をけなしているわけではなくて、企画レベルで(つまり脚本の方法性や盛り込もうとした素材のボリュームレベルで)無理があったんじゃなかろうか? 登場人物を絞るなり(その意味でサトシのポケモンをピカチュウだけに絞ったのは良かった)、あるいは尺を圧迫しないおりたたみで内面を描写したりという工夫が足りなかったように思う。
ゼラオラは物語の舞台フウラシティ周辺のポケモンの守り神とでも云うべき存在で、フウラシティが成立する前から周辺のポケモンや自然を守ってきた。しかし、産物に乏しいこの地にルギアがあらわれて風を呼び、この風をもとにした風力発電でフウラシティは成立。人間はドンドコ森を切り開き、ポケモンの自然生息域を圧迫、その件でゼラオラとは対立せざるを得ないようになっていった。五〇年前、人間たちは自己から森林火災をおこしてしまい、火災からポケモンを守るためにゼラオラは負傷。当時の市長はゼラオラを守るために、山林は人間の立入禁止として立ち入ったものはゼラオラの呪いがあると嘘の噂をばらまいた――というのが物語の背景。
なんだけど、なんかもうこの時点で2周半くらい人間側がクズじゃねえ?
ゼラオラ何も悪い事してないじゃないですか。と言うか、その点ではなく、むしろ人間が人間の都合(街を拡張したい)で森林伐採をするならそれはそれで良いんだけど(なんせ人間はそういう存在なので)それならそれで、そのように述べてやれば良いわけで、「ゼラオラの呪い」なんていう相手の名誉を毀損するでっち上げをしながら、相手を救うとかいう恩着せをするのが全く救えない。んで50年もの間「かー、ゼラオラに呪われちゃうんであの山には入れないんだよなー。かーっ。呪い無ければ事故調査も開発もできるのになー。かー」とか責任転嫁をしてきたという醜悪さがある。
それがポケモンの世界観だと言えば世界観なのかもしれないが、そのゼラオラをサトシ&ピカチューは叩きのめすことで「ともだち」にして「ともだちだからもう遺恨はないよな?」とする脚本は、おいおいいくらなんでもそれマジで書いてるのかよ? 的な部分はあった。
ポケモンは三歳児程度には意思疎通な生命体なんだけど、ペット(守るべき対象)なのか、それとも一種の亜人(権利を認めるべき存在)なのか? って言うこの問題意識はポケモンの第一作から見え隠れしている。しかし今回は輪をかけて「ポケモンはともだち」というパワーワードとゼラオラが見かけ上はネコ科の獣人っぽい外見(人型)であるという2点で、極まってしまっているように思える。明らかに独自の言語的能力を有して、周囲の同族やポケモンを守り、森林火災から救助するほどの知能を持つ知性体を「呪い」扱いしてトラブルの責任転嫁をするって、どうなのよ。
そもそもフウラシティはルギアの呼んだ風を用いる発電で街を興し、毎年一度「風祭り」の日にルギアを招いては風力発電の維持を願っているような街である。風がとまれば電力も絶えて街は闇に包まれて住民たちはうなだれる。そういう関係を「ともだち」っていうのか? 母親の財布から毎月数千円くすねて上納することによって「ともだち」になってくれるクラスメイトより気持ち悪くないか。
そういう意味で今回の映画は、自分個人が楽しめないとか以上に「この映画を無邪気に楽しめるってやばくね?」的な心配が発生してしまった。この心配の方向性は「ドラえもん のび太の宝島」によく似ている(ドラえもんのほうがヤバさは上だが)。
ポケモン映画は毎回なんだけど、街の人混みの中や自然の中にちょこちょこと数え切れないほどのポケモンが登場していて楽しい。ウォーリーを探せ的な楽しさがある。その気持ちよさ楽しさは今回もたっぷり楽しめた。
主要人物の一人「コミュ障のポケモン研究者トリト」のパートナーポケモンであるラッキーがよい。
脚本や演出がどこまで自覚的だったのか怪しいのだけどこのラッキーの存在が、映画全体に対するアンチテーゼになっている。
トリトはポケモン研究者でいつも多くのポケモンに囲まれているんだけど、いつも一番近くにいるのが癒し系のラッキーで、おそらくこのラッキーは、トリトを飼い主であるとか主人であるとか思っていない。トリトのことを自分が保護すべき存在だと、あるいは下手をしたら、トリトは自分の子供だと思っている。
ポケモンが一体何なのか? 都合の良い労働動物なのか? 資源なのか? 生存権を保護すべき対象なのか? 人権さえ認めるべき存在なのか? というテーマはシリーズにグッサリ刺さった楔なわけだけど、それってあくまで人間を中心にした人間視点でしかない。
ラッキーはトリトのことを意気地無しで世話が焼ける存在だと思っていて(そしてそれは正しい)、そのうえ自分が世話をしてやる対象だと思ってる。
それはポケモンの側からみて、人間が「時々発狂して面倒くさいメンヘラの同居人」なのかもしれない、というシリーズのブレイクスルーになりうる(非常に薄くて小さな)突破口だ。
8月29日、思ったより拡散したため追記。自分ではネタバレなしのつもりで書いて、ツイートにもそう明記してしまったが、ネタバレという言葉には個人差があることをすっかり忘れていた。ネタバレ見たら死ぬタイプの風上にも置けない。地雷を踏んでしまったら申し訳ない。配慮したつもりですが、どうぞご注意ください。太ももの話以外もします。
サンダンス映画祭直後、賞賛と祝福の声とともに、あまりの刺激のために悩殺されてしまったという感想ツイートが散見されて、映画祭参加の幸運に預かれなかったファンはもどかしさに身悶えしたのであった。
Call Me By Your Nameは1983年の北イタリアのとある町のひと夏を舞台にした、二人の青年のあいだの恋を描いた映画である。くわしくはimdbを参考にされたい。
http://m.imdb.com/title/tt5726616/
この映画は2016年5月に世界中の一部界隈にて話題になった。言わずもがなアーミー・ハマーファン界隈である。そのあまりに蠱惑的なあらすじにつられて手に取ったのが原作小説である。
そんなごく軽くかつ不純な動機で読み始めたAndré AcimanによるCall Me By Your Nameだが、回顧体で描かれた物語に一瞬で虜になった。
あまりにも印象的な出会い、一生を変えてしまうたった一言から語り始められるその物語は、意識の流れを実に巧みに取り込んだ、プルースト研究者でもある著者ならではの文体で読者を陶酔させる。やがて語り手であるエリオと一体化した読者はオリバーの冷淡さに苦しみ、意外な素顔を見せられはっと息を呑み、ただ呆然と結末を迎えることになる。
ツルゲーネフの「はつ恋」やらナボコフの「ロリータ」やらをこよなく愛するわたしにとっては好み直撃ど直球であり、そのうえアーミー・ハマーの太ももがやばいとあってはなにがなんでも映画を見なくてはという気持ちになった。
しかもネタバレ見ると死ぬタイプのオタクにつき、どうしても世界公開より先に見たいという気持ちを抑えられない。はたしてMIFF(メルボルン国際映画祭、8月3〜20日、CMBYNは4日と6日上映)に飛んだのである。
笑ってほしい。
かなり早い段階でチケットも売り切れ(一度キャンセルが出たが、最終的に上映日までには両日完売!)ていたため、予想はしていたが、当日は冬のメルボルンにて1時間前から長蛇の列である!
席は早い者勝ちなのでみんな普通に必死だ。特に二度目の上映での、劇場をぐるり半周する列は写真に撮らなかったのが悔やまれる。みんなが手の端末にQRコードを表示させ、南半球ならではの冷たい南風に身を縮めながら待機している。
2度のCMBYN上映の他は同じくアーミー・ハマー出演のFinal Portraitに参加したばかりだが、それに比べるとやや平均年齢が下がるかなという感じ。
それでも、老若男女ということばがふさわしい、実に幅広い客層。
そんなことより映画だ。ここからはネタバレはなるべく避けて進める。なにせネタバレ見ると死ぬタイプなので安心してほしい。後日一部シーンバレ感想もあげるつもりでいる。万全の態勢です。
劇中曲について、MIFFのQ&Aにてルカ・グァダニーノ監督が語っていたことだが、基本的には登場人物が耳にした音楽……エリオの弾くピアノ曲、ギター、オリバーが身を委ねて踊るダンスミュージック、家族が耳を傾けるラジオやレコード……に限った、とのことである。それを知らされるまでもなく、最初の楽曲から没入感があり、一息に世界に引き込まれる。
そしてオリバーが現れる。イタリアの太陽である。明るい陽光は主人公エリオのいる部屋の暗がりを際立たせる。
エリオを演じる当時弱冠20歳のティモシー・シャラメは終始少年の健全さと病的な魅力をひとしくたずさえて美しいが、とりわけ夜、ベッドでのシーンでの肌は内部から光を放つようだった。
アーミー・ハマーが、その見せ場においてはつねにイタリアの太陽に照らされて灼けたなめらかな肌とあかるい金色に見える髪を輝かせているのと好対照で、一場面一場面が絵画を見るようだった。あるいは、冒頭でわれわれを一息に映画の世界に引き込む、連続的な彫刻群のショットのようだ。
エリオがオリバーに魅了されるのはかならず真昼の屋外だし、エリオがオリバーを室内に引き込むと、オリバーは初めて(ようやく、と言ってもいい)エリオに見とれるのだ。
野外と屋内、昼のシーンと夜のシーンが交互にさしはさまれて、われわれ観客はふたりのうつくしい青年に2時間超の間目まぐるしくも目移りしてしまうのだった。
しかしいざ太もも談議をするとなると血で血を洗う戦争になるにちがいない。
短いショーツか、あるいは水着でのシーンが大半で、太ももは終始晒されているので各人のフェイバリット太ももがあることだろう。
マイフェイバリット太ももはとある場面にてエリオとともに床にぺったりと座るオリバーの太ももである。だが自分が多数派である自信はない。これについてはまたあとで。
オリバーは原作よりもなお複雑で謎めいたキャラクターになっていると感じる。
原作では物語がすすむにつれ、読者はエリオとともにオリバーの知らなかった一面に驚かされるのだが、映画ではむしろ序盤からオリバーの大人の男としての魅力と奔放な子どものような無垢さが入れ替わり立ち替わり現れてエリオないし観客を翻弄するのである。
(シーンバレありの記事にでも書くつもりだが)序盤からオリバーはエリオよりも幼い子どものようないとけない振る舞いを見せ、グァダニーノ監督の言葉を借りるなら、エリオより「なおイノセント」だった。
(アーミーハマーファンの同志は心してかかってほしい。奇声を発するか原作のエリオの言葉を借りるならswoonに至らないよう上映中握りしめるなり揉みしだくなりできる柔らかい布など持っていくことをおすすめする手ぬぐいとか)
そのような差異こそあれ、アーミー・ハマーのオリバーは原作を読みながら夢想していたオリバーにほとんど完璧に一致していた。
この結論にはアーミーハマーのじつに感情ゆたかな目の表現が大いに寄与しているのだと思う。たとえば「J・エドガー」でのクライド・トルソン役において彼が見せたような目つきだ。沈黙の場面で熱っぽく目が話す。このものを言う目がとくに生きるのは、逆説的だが目の映らない場面で、たとえば映画の中でもひとつのクライマックスにあたる戦争慰霊碑のシーンがその一例だ(トレーラーにも引用されていた)。
もうひとつ、結末に近い重要な場面でピントを外したカメラがオリバーをとらえる。オリバーの顔が長く映されるのだけれど、けして鮮明な像を結ばない。観客は食い入るようにスクリーンを見つめてはじめて、自分がエリオと同じようにオリバーの目に浮かぶ表情を読み取りたいと熱望していることに気づかされる。
目について語るならばティモシー・シャラメにも言及しなくてはならない。
ティモシー・シャラメは今後少なからず目にする機会が増える役者だとつくづく思いしった。身体の使い方が素晴らしく、手足の隅々まで神経を張り詰め、あるいは意図的に脱力し、髪の先まで演技していると感じさせる。(この先エリオの面影を振り払うのが難しいのではとも感じるが、むしろその印象を己に利するものとして使ってほしいしこの期待は報われるにちがいない)
だがなによりも、その目つきである! トレーラーにも含まれていた、踊るオリバーをじっとりと見つめるあの目が全てではない。映画からは小説に通底する一人称の語りが省かれているものの(あれば安っぽくなり得たと個人的には思う)それを補って余りあるティモシー・シャラメの目つき。
まさに小説が羨む技法で、文字で書かれたフィクションを贔屓しがちな身としては、こういった映画化を見せられるとただひたすらに喜びを感じてしまう。
さてトレーラーといえば、あの実に夢見心地で幻惑的で、緊張感とせつない予感に満ちた映像を、わたしだってリリース直後には再生する手が止まらなかったほど熱愛しているが、 本編とは少しトーンが違っているとも思える。
トレーラーから、そして原作から想像していたものにくらべると、より明るく、ユーモアがあり、笑いだしてしまう瞬間がある。
かなりの頻度で笑いが起こっていたが、これは映画祭だったのと、おそらく英語圏中心とおもわれる観客層も関係してくるのかもしれない。
ただ、エリオ家食卓でのとあるシーンについては国内の映画館でも笑いが起きると予想できる。そしてその直後におとずれるエリオとオリバーの官能的な接触に息をのむことになることも。(さてくだんのマイフェイバリット太腿はこの場面で登場する。すくなくとも個人的にはこの場面はお祭りだった。細いのに肉感的な大腿部に釘付けになるあまり台詞をごっそり聞き逃したのだ……)
こういった感覚の急激な転換は映画全体を通して言えることで、一瞬たりとも気を抜けないと感じた。ほほえましく口元を緩めた直後に、心臓が指でひっつかまれるように締め付けられる。
ところどころに埋め込まれた、笑える箇所について、今ふと思ったが、これは原作にて重要な役割を果たしているが本来映画だと表現しにくい「時間性」をどうにか持ち込もうとした結果なのかもしれない。
10代のころの恋愛とか、恋愛でなくてもエモーショナルなやりとりは当時は必死で真剣なんだけれど、そのときの行動を大人になって振り返ってみると、わがことながらおかしくて笑ってしまう、あの感じがよみがえるみたいだ。
そのようなノスタルジーを引き起こす展開に身を委ねるうち、二度の上映は割れんばかりの拍手でしめくくられた。自分も同じように手を叩きながらLater、と軽やかな別れの言葉を脳内で繰り返していた。原作で読んで想像していたよりもなおあっさりと、冷淡で、なのに奇妙に耳に残るオリバーの声。
一夏の客人のその挨拶を、エリオが、母が、父が真似たように、自分もつい口にしたくなるはずだ。
じつは原作を読んだ時から、自分は最適な読者じゃないと思っていた。
小説として心から好んではいるものの、「この物語は自分の物語だ」「この物語によって救われた」「こういう物語が描かれるのをずっと待っていた」と感じる人がいることを、一行読むごとに、確信し続けたからだ。
この映画が現代を生きるごく若いセクシュアルマイノリティに届くことを願っている。
『キャロル』がそうであったように、相手の性別が特別なのではなく、ただその相手が特別だっただけ、ということを描いた映画。だが一方で、両親という存在の描かれ方において、この作品はこれまでのクィア作品と一線を画している。
そして、『ムーンライト』があまりにも普通の恋愛映画であるという事実が特別だったのと同様に、Call Me By Your Nameのエリオの一夏の恋愛は美しいと同時に「ごく普通の青少年が悶々とする」という部分が色濃くて、その事実をとにかく祝福したい。
自分はこの映画をクィア映画だとは思っていないのだとグァダニーノ監督がQ&Aで語っていたが、この言葉がすべてだと思う。
10代の頃に出会ってたら人生が変わっていたなと確信を持つ映画はいくつかあるけれどCMBYNはそのトップに躍り出た。
現在のところレーティングはR18のようだけれど、そこまで直接的なショットはなかったように思う。
何かが起こったこと、そして何が起こったか、から目をそらすという悪い意味での曖昧さは無いが、物語を破綻させないように、そして必要以上にセンセーショナルに煽らないと努めての結果なのかもしれない。
だからこそ、PG12かR15バージョンが作られるといいなと思っている。エリオと同年代の、この映画の肯定感を本当に必要としているひとたちに見てもらいたい。
キャストをきっかけに興味を持ったCMBYNだが、自分の中にそびえる金字塔を打ち立てた。日本に来た時にも従来の俳優や物語やファンに愛されるのはもちろん、新しい映画として多くの観客に愛してほしい。そして本当に必要としているひとにぜひとも届いてほしいと思う。
ちょうどこのレビューを書いている最中(8月23日)にMIFFの観客賞が発表され、Call Me By Your Nameが晴れて1位を獲得した。http://miff.com.au/about/film-awards/audience#
もちろん自分も最高点の星5つで投票したし、あの盛り上がりを考えると納得の結果だ。
アジア内では台湾映画祭での上映が決まっているCMBYN。東京国際映画祭に来ないはずがない、と信じている。
お願いします。
邦訳本もどうぞよしなに。
セックスロボットが2017年に発売、もうそこまで来ているんだ!
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米リアルドール社が2017年に次世代セックスロボット発売へ | ロボスタ
http://robotstart.info/2016/11/04/next-generation-sex-doll.html
上記のサイトには、ロボットの温度を上昇させる機能があるとしか書いてない現実。
そりゃまあそんな求愛行動、今の技術ではペッパー君にだって無理だろうよ。
囲碁の世界ランク3位になったAlphaGo、もといディープラーニングの凄まじい成長速度があればもしかして1年後には、アダルトな夢の国が……
ただ、仮に実現しても、セックスロボットの専門家が警鐘を鳴らしているらしい。
この世にセックスロボットの専門家が居るとは。しかも、自らの専門分野に警鐘を鳴らすとは。
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「セックスロボットは人間を過度に刺激する可能性がある」と専門家が警鐘を鳴らす - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20161220-sex-bot-could-over-exert-human-lovers/
そんな勇気あるセックスロボット専門家の名は、ノルドヴェストシュヴァイツ専門大学のオリバー・ベンデル氏。
肩書はセックスロボットの専門家だけど、さぞかし頭のよろしい方なんだろう。(本当にそれでいいんだろうか)
ロボットの方が良くなっちゃって、人間同士の性交がなくなっちゃう
そんな馬鹿な、とお思いですよね?
私にもそう思っていた時期はありました。でも、今の私はベンデル氏の言ってる事は正しいのではないかと思う。
なぜなら、自分にピッタリのオナホを体験した人は、なかなかオナホから抜け出せなくなるというデータが、私の体に刻み込まれているから。
※この結論はあくまで自分の体に刻み込まれているデータを元にしています。
こんな性的嗜好の暴露を自ら行う事は、芸能界にいられないどころか、社会から抹殺されかねない。
匿名とはいえ、そんな危険を冒してまで私はオナホの危険性について警告している。
もう二度と夢の世界から戻れなくなるかもしれないという覚悟を決めてから購入するがよろしい。
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「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
夜は暗いので爪を切るのは危ないという話の名残りという説もあるが、あれは嘘だ。
なぜそんなことをするのかというと、爪を瓶いっぱいに集めることで事実上の人間が出来る。
つまり強力な依り代となるわけで、悪用方法はいくらでも思いつく。
だから爪はしっかり管理するかすぐさま処分するべきなのだが、夜に爪を切った場合在り処が分かりづらくなる。
そう、君も薄々気づいているだろうけれど、爪を切った際に時たま高速で飛ぶ現象はその「爪を瓶詰めしたいモノ」の仕業なのだよ。
視界から外れることで見失っているように感じるかもしれないが、幻覚を見せているんだ。
そうすることでまんまと爪を瓶に入れていくわけだな。
リソースには様々なものがあり、オリバー、トンカツ、情報、ハンバーグの具材として使われる。
作業が単純であればあるほど、そして長時間続くと、どんどん深遠に行き戻ってこれなくなる。
君が若いころにした過ちの一つや二つや三つや四つ思い出したあたりになると、いよいよ危険の合図なので気をつけたまえ。
やはり一番の対策は、そういう単純な作業を繰り返す過酷な仕事は選ばないことだな。
私は学生時代、光るランプの前でスイッチをカチカチする仕事を一日3時間ほど、およそ一ヶ月かけてやった経験があるが、あのときと後の傭兵時代とどちらがマシかといわれると悩むところだな。