はてなキーワード: リンスとは
香りが苦手な人でも、安心してお洗たくできるランドリーシリーズ「ファーファ Free& 超コン液体洗剤無香料」
「ファーファ Free& 柔軟剤濃縮無香料」2018年10月中旬より全国で発売開始
https://www.iza.ne.jp/kiji/pressrelease/news/180828/prl18082812540188-n1.html
すでに香害で化学物質過敏症になった人々には、この洗剤は使えないと思うけど…。
それでも、有害物質を振り撒き、あちこちにくっつかせる「香り付き柔軟剤」に比べればはるかに良い。
実は無香料の柔軟剤ってミヨシの「石けん屋さんが考えた衣類のリンス」なんかがあったんだけど
ネットにはあってもお店では見かけないのよね。
(この柔軟剤は化学物質過敏症の人でも大丈夫だと思う…クエン酸しか入ってないから)
私は地方都市近郊に住んでいるけど、今年初めから徐々に近所の柔軟剤臭がなくなって来ています。
6月あたりから臭う日が減り、現在8月には気がつけば全然臭いません。
小学生からも高校生からもOLさんからも、全然臭わないんです。
私の住んでいる自治体が香害対策のポスターを貼って注意喚起を促したこともあると思うし、
何よりやっぱりシャボン玉石けんの広告の威力じゃないかと思います。
かすかに香って、はかなく消えていく香水の香りは素敵だと思うけど、
健康被害まで出す香りはすでに悪臭でありネットでは「毒ガス」とまで言われています。
私の近所の人々が速やかに不健康な香り商品から卒業できて良かったと思います。
先日、「香りつき目薬」というとんでもない物が発売されて、
朝風呂に入っていてふと思い出したのですが、わたしは昔から心配症なのか、それとも他の要因なのか、大量に物(特に液体物)を消費してしまいます。
例えば、リンス、コンディショナーなんかはずっと3プッシュいっぱいで使っていたり(今は流石にしていません)、醤油やソースを余るほどたっぷりかけたり、絵の具を大量に出したり(よく多いと怒られました)、塩をかけすぎて辛くなったりなどです。
適量の分量なんかが書いていない美容液やオイルなどは特に、どれぐらい使っていいのか基準がわからず使いすぎてしまったり………
昔出した分では足りなくてトラウマになった、とかは多分、記憶の限りではないと思うのですが……そういったものって、ただの心配症なのでしょうか。それとも、なにかの○○症とか、○○症候群とか、そういう類いのものなのでしょうか……?
あーやっぱり
洗剤というのはマイナスの電気持ってる界面活性剤が主成分で、柔軟剤はその逆のプラスの電気持ってる界面活性剤が主成分なのね
これ同じタイミングで入れたらお互いにくっついちゃって、洗剤も柔軟剤も働かないのね
臭いのがワイドハイターで気にならなくなって、匂いつけたいならすすぐときに入れなよ
最近の洗濯機は柔軟剤入れるとこがあって、すすぐ前に扉が開いて洗濯槽に入るんだけど、
それもなくて面倒なら今は柔軟剤入りの洗剤があるからそれを使うといい
柔軟剤入りの洗剤は、リンスインシャンプー方式になってて、お互いに邪魔しない界面活性剤使われてるか、カプセルになってて干渉しないか、すすぐタイミングくらいに溶け出すかして匂いもつくようになってるから
私は20代後半の男性、今までの人生における髪型は、小学生低学年の前髪が目にかかるぐらい伸ばしていた以外は、小学生中学年以降ずっとスポーツ刈り。
中学生半ば、高校生にもなれば、もはやそれは坊主へと髪型は固定され20代後半になるまで髪型は変わらず坊主だった。
しかし20代前半辺りから思っている事があった、それは「オールバックを一度でいいからしたい」ただ単純な願望だった。
だが坊主の経験がある者なら分かるかもしれないが、坊主の状態から髪がある程度伸びると髪の先端が耳にかかって、
紙のこよりで『こちょこちょ』されているようで、正直うっとおしく、それが嫌で坊主にしていたので中々髪が伸ばせなかった。
それは25歳になっても続き、気がつけば20代後半に突入していた。私生活の忙しさや、精神的なダウンしていた事により、
洗顔や歯磨きといった基本中の基本の身だしなみを整えるだけで精一杯だった為、気がつけば髪が今まで以上に伸びていた。
髪が伸びている自覚があったものの、やはり散髪する余裕も無いまま、時だけが過ぎていった結果、
小学生低学年時とは言わないまでも久々かと思えるぐらい髪が伸びてしまったので、もうここまできたら伸ばそうと決めた。
それから数ヶ月、髪が小学生低学年時の記録を超えて伸びたのはいいが、実際問題、
私の人生においてそこまで髪が伸びたことがないので『前髪がウザい』『洗顔時に前面の髪がビシャビシャになる』等といった問題に直面した。
母上にアドバイスをいただきヘアバンドなる物を装着してみたが、恥ずかしながら私の頭は割とデカいので、装着したものの『ゴムの元に戻る力で髪の上を滑り、
スポンと抜けてしまう』もしくは『おでこに下がってきてラーメン屋スタイルになる』という新たな問題に直面した。
これには困った、そこでヘアジェル(ハードタイプ)なる物をこれまた母上からいただき、早速塗り慣れない手で櫛を使い七三分けにしてみた。
なるほど、これは便利。この日から私の人生から『ヘアジェルを塗る』という工程が加わった。
そしてまた数ヶ月経ち、伸びた私の髪はついにオールバックにする事が出来た。「自分がオールバックにするとこういう外見になるのか……」と思いつつも、これには満足がいった。
目標も達成したので、もうそろそろ髪を切ろうかなと思っているとそこへとある一言、「どうせ切るなら金髪とか髪染めてみない?」と言う発言。
これには悩んだ。外見とか、日常的には髪を染めてもいい状況かなど、そんな事はどうという事は無い。問題は頭皮へのダメージだ。
幸い、我が家に頭がハゲ上がるような者は一人もいないので高確率でハゲる事はないだろう。
しかし髪を染めるとなれば話は別だ、どれぐらいダメージあるのかと気になり、ある程度調べたりした。
悩んだ結果、「金髪なんて余程似合う人でもない限り、若い内にやっておかないと痛い外見になりかねないから今のうちにやっておくか。もう20代後半だけど。今を逃すとキツそう。」という考えに至り、
出来るだけ頭皮にダメージを与えないタイプの金髪用ブリーチを買い、親に手伝って貰いつつ染めることにした。
染めている間は暇だというのは話には聞いていたが、本当に暇を持て余していた。あまり顔を動かせないのでTVをボーっと見つめている間に終わった。
髪を洗い流し、鏡を見て驚いた。鏡を見て抱いた第一印象は「誰だコイツ」。その一言に尽きた。
その日以来、鏡を見るたびに見慣れない自分の姿が映るので、家でも外出先でも、鏡に映った自分を見てはビクついていた。
それから数日後、季節は真夏。坊主では楽だった髪も長髪では話が違う。
夏は蒸れるわ、蒸れた影響で痒い。季節関わらなくても、ヘアジェル・シャンプー&リンス量使うわ、洗うにも乾かすにも時間が掛かるわで徐々に自分の髪にストレスが溜まってきた。
坊主時代なら、シャンプー&リンスもワンプッシュもいらない半プッシュで済むし、髪はパパッと洗えて、乾いたタオルで拭けばドライヤー要らずだった。正反対過ぎる状況にもはや限界だった。
あぁ、なんという素晴らしき事か、すこぶる気分が清々しい!こんなにも頭が軽いとは!世界は明るいぞ!!
なんて高揚した気分に浸りつつも、カットされた髪を見て「こんなに長かったのか……」と驚いた。そりゃ色々と髪に使うもの量減るのは当然か。
すでに香害の被害に遭っていて、頭痛・めまい・鼻血などの症状がある人は、
Twitterで「ファブラッシュ」「さらさ」「ベビーファーファ」が
いきなり人気沸騰中だけれど、化学物質過敏症にとっては
「ベビーファーファ」は、カチオンの毒性が高い。(本当に赤ちゃん用なの?)
「ファブラッシュ」は、エステル型ジアルキルアンモニウム塩がまだマシだけれど、
過敏症の人にはやっぱり危険です。
市販されている製品で選ぶなら「石けん屋さんが考えた衣類のリンス」を選ぶのをおすすめします。
もちろん小さいお子さんお持ちの方にもオススメ。
でも、手作りの方が安上がりに済むと思うよ!(ミヨシ石鹸さんゴメン)
水: 200ml
クエン酸: 大さじ3
グリセリン: 大さじ2~3
これを混ぜるだけ。(よく精油入りレシピがあるけど、過敏症の人は精油も入れないで!)
うちのご近所は一時は香りつき柔軟剤が流行ったけど、今はみんなこういうの使ってます。
あるいは「柔軟剤なんて今まで使ったことない」って人もちらほらいます。
うちも冬の静電気が酷い時期以外は使ってません。
ネットで検索して、子供の健康に悪いからと香りつき柔軟剤をやめた人もいます。
それまで、そこの子供は落ち着きがなくて、近所でも話題の問題児だったんだけど、
今はすっかり落ち着いて問題行動もなくなりました。
やっぱりイソシアネートが脳に作用するって本当だなと思います。
こういう生活をしていると、世間ではせっせと有毒物質たっぷりの柔軟剤に
ああいうことをしていればアレルギーも悪化するだろうなと思います。
私も、今は以前あった肌トラブルは全部なくなりました♪
最近Twitterで「一見無香料だけど実は有害な柔軟剤」が推されているので
以前にも似たような日記を書きましたが、再度書きたいと思います。
香害を感じている人は、物質に敏感な状態になっていると思います。
有害物質を低量であっても、ずっと浴び続ければ、
あちこちに炎症が起きたり、中毒症状が起きるのは当たり前です。
なので、商品を選ぶ際はくれぐれも成分に気を遣って欲しいです。
「無香料」と表示してあっても、すぐに飛びつかないようにして欲しい。
あまり書きたくなかったけど、使ってはいけない商品名を書きます。
・ULTRA Downy (ウルトラダウニー) 柔軟剤 フリー&ジェントル 無香料
これらは、無香料をうたっているけれど、物質に敏感になっている人にとっては
とくにトップバリュのが内容が酷いです。
その他には
「パックスナチュロン衣類のリンス (洗濯用) 」は抗菌防臭のためか
ヒノキチオールが配合されているので症状が悪化する人が多いと思います。
(化学物質過敏症の人の場合は針葉樹の精油で反応する人が多い)
アラウはラベンダー入りなのでアウト。
エコベールも無香料のがありますが、第4級アンモニウム塩入りなのでアウト。
…と、このように成分を見ていくと、安全そうに見えてもほとんど使える物がないのが現状です。
では、何を使えばいいのかという話になりますが、
くらいしかない…。
あとは、いっそ手作りで柔軟剤を作ってしまうしかないと思います。
(「クエン酸 グリセリン 手作り柔軟剤」でググってみて下さい。
くれぐれも香りづけのエッセンシャルオイルは入れてはダメです)
最終的に香害被害に遭っている人は外出もままならなくなるので、
重症になると化学繊維の衣類も着られなくなるので静電気防止成分は関係なくなります。
なんか「買ってはいけない」って本みたいな内容になってしまいましたが、
そろそろ冬に近いので、ウールなどの衣類が増える季節。
芳香性柔軟剤で困っている人達はどういう洗剤や柔軟剤(静電気抑制目的)にすれば良いのか
とまどっていらっしゃるので、ここで一案を書いてみようかと思う。
自分が毎日使っている「シャンプーとリンス」を使ってみるといいんじゃないかな。
ウールは羊の毛だし、同じ毛ならオッケーってことで。
シャンプーとリンスなら手近にあるし、わざわざ洗剤難民にならなくても大丈夫だし。
香害被害に遭っている人達で慌てて無香料の柔軟剤を買っている人もいるけれど、
くれぐれも原材料はチェックしてから購入して欲しいと思います。
すでにいろんな成分に反応し始めているので、たとえ無香料でもアウトということに
なりかねません。
裏に「エステル型ジアルキルアンモニウム塩」とか書いてあったら症状重い人はアウトと
私は症状出始めてから、以前は好きだったラベンダーで頭痛や吐き気が起きるようになってしまいました。
買ったけど合わない、症状が出た、結局捨てた、ということが少しでも減るように
書いてみました。
内面の整理のために吐き出しています、その関係上乱文になってると思います。
間違いなくあそこに地獄があった。
少なくともあの時の僕にとっては地獄だった。
虐められた、とても虐められた。誰も味方がいなかった。
虐められるターゲットだった。友人は居なかった。一人だった。
家の中にも安らぎはなかった。家もまた気を張る場所であった。信頼ならない場所であった。
母は精神障害者だった。弟は知的障害として小学校の時分から養護学級の者として生きていた。父はそんな二人の世話に明け暮れていた。
とても頼ることなど出来なかった。
学校では「死ね」「キモイ」そんな言葉がずっと浴びせかけられていた。常に居場所がなく、昼休みは別の校舎の廊下や音楽室の陰といったひと気のない場所に避難する時間であった。
とても辛かった。そんな場所だった。
部活は小学校の時にサッカーが好きだという理由でサッカー部に入った。大失敗だった。
部活中にも時折、野球部の方からボールが飛んできて僕に当たっていた。たぶん、ぶつけられていたのだと思う。頭に何度も当たっていた。とても辛かった。
中学校1年の2学期から休みがちになった。1学期でも体調を崩しがちであったが、休むために休んでいたのはこの頃だったように思う。
とても行くことが嫌だった。そんな風に休むものだから、勉強も遅れがちになった。宿題が溜まったのもより行きづらさに拍車をかけた。
英語がついていけなくなった。
家は貧しかった。貧しいが故に常識も知らなかった。小学校の宿泊研修で初めてリンスの存在を知る程度には貧しかった。
とても閉じていた。服もなく、娯楽を知らず小学校の夏休みの絵日記に苦労していた、そんな記憶が残っている。
旅行に行く人達を羨ましく思いながら、隣町の祖父母の家に行く位が一番の遠出だった。
どんどん私は中学校に行けなくなっていた。田舎の中学校故だろうか、治安もよくない学校であったのも一因だったとは思う。
通学の自転車が指定の自転車だったが、指定の物ではないものを買い与えられ、そのことがまた虐めの原因にもなっていた。
通学することが苦痛だった。
家の中では良い子でなければ、迷惑をかけないようにしなければならず、学校には居場所がなく、そんな状況が続いていた。
中学1年の三学期にはほとんどいけなくなっていた。ひたすら虐めの恐怖に怯えていた。布団の中でまるまって何故虐められるのか分からず、相談できる相手もいない、一人で苦しみ続けていた。
家の外に出るのが怖くなっていった。休んだことを揶揄されることもまた恐怖だった。ひたすらに家の中で時間を過ぎ去るのを願っていた。夜になってようやく少しだけ外に出られるような有様であった。
中学2年には全く通うことができなくなっていた。申し訳ないと感じつつも動くことができなかった。昼に父が職場から帰ってきてお昼の支度をしてくれる時間が僅かばかりの気晴らしといった毎日であった。
中学3年のころには少しだけ保健室登校のようなことをしていた。それでもほとんど休んでいた。勉強についていけなくなっていた。将来の恐怖に押しつぶされていった。
受験があった。とてもできず、また遠方へ通えるような財力はなかった。地元の県立高校に進学した。
高校に入った。周りは大人になっていたからか、虐められることはなかった。だが、僕自身は人間不信になっていた。やはり一人だった。
そして、とても落ち着かなくなっていた。
授業中に突然笑いだすようなこともあった。エア友達と脳内会話して笑いがこぼれていた結果だった。
ギャップを感じていった。普通が分からなくなっていった。休むようになっていった。精神科へ通うことを勧められた。ここで初めて通うようになった。
月イチでの通院の日々だった。それでも行けないことには代わりはなかった。
出席日数が足りなくなっていった。補修を受けるようになっていた。補修にも行けなくなった。単位を落としてしまった。通わなくなった。
単位が複数落ちてから、一つだったら頑張ればなんとかしてあげれたと言われた。もう遅かった。手遅れだった。
留年するか転校するか退学するかの選択肢となった。金銭上、転校することは出来なかった。そのまま退学することになった。
高校に入ってからしばらくしてから与えられた携帯でネットに依存するようになっていった。
普通じゃなくなっていく苦しみを誤魔化していた。なんとか逃れようとしていた。
ネットに居場所を求めるようになっていった。その間は少しだけ救われていた。
将来への絶望は消えなかった。
父母弟の介護をしつつ、田舎町から出られず永久にそのまま終わるようにしか思えなかった。
17になった。心を誤魔化すためのゲームで繋がりができていた。オフ会に参加することになった。
オフ会に参加するのが唯一の遠出だったと思う。
隣の県まで電車で行った、少しだけその時は救われていた。
18になった。早く頑張らなければ、何かしなければという焦りと苦しみがちりちりと焦がしていたが見ないようにしてゲームに没頭していた。
19になった。オフ会で会った友人たちが大学生になっていった。僕は一人取り残されていった。
また一人になった。
一人の時間が長くなった。その分だけ余計に焦りと苦しみが増していった。向きあおうとして、オフ会の友人との繋がりを控えた。
より苦しくなっていった。薬に甘えないようにせねばと思ってあまり通院してなかった時期でもあった。
夜に原付を飛ばしてみたり、自分なりの反抗をしていた。それでも苦しさは消えなかった。
夏の終わり、自殺を図ろうとした。海の近い町だった。このまま砂浜から海に入っていけば泳げない自分は死ぬのではないかと感じていた。
服が海水を吸って重くなっていった。明確に死の恐怖を感じた。このまま自分が死んでいなくなる恐怖だった。この世から消え去りたくないと感じた。
砂浜へ引き返した。びしょ濡れのまま、一人家に帰った。自殺しようとしたなんて打ち明けることなど出来なかった。
死ななきゃいけないという感情はそれでも消えなかった。僕は考えを捻じれさせていった。
死ななきゃいけないなら、自分自身が死ぬことを納得できる人間になろうとすればいいじゃないかと考えるようになっていった。
当時のニュースの影響もあって、大量殺人者に憧れるようになっていった。ああすれば死ねる!と。
30になったら行おうと思っていた。そこまでの命ならと思って、散財するようにもなっていった。
課金ゲームにハマっていった。諫められても、助けてくれなかった親への恨みから正当化していった。
深みにはまってどんどん続けていた。
バイト探しをするようになっていった。田舎だから、求人は貴重だった。
毎度のごとく落ちていった。
21になった。レンタルショップのバイトに受かった。バイト代はすべて課金ゲームにつぎ込んでいった。
22になった。僕はバイトのままだった。世間の就職にまた焦っていった。
23になった。友人の誘いで地元の原発の作業員になった。入ってウキウキな気持ちと原発への嫌悪感がごちゃ混ぜになっていた。
半年で辞めてしまった。よりヤケになっていった。クレカで借金を作れば自分も死ぬことに納得いくだろうと破滅的な行動が増えていった。
24になった。転職サイトで中途で入社した。ネットの販売員だった。営業だった。件数は全然取れなかった。頑張っても取れなかった。
頑張ることの意味が分からなくなっていった。努力しなくなっていった。ネットへの依存は深まっていった。
グループ内で転籍させられた。借金は増えていった。死にたくてたまらなかった。
25になった。課金ゲーで出会った友人に職に誘われた。僕は後先考えずに飛びついた。殴られるような営業から逃げられると思った。
転職先は良いところだったが付いていけなかった。そのころにはもう考えてもストレスで意識が飛ぶようになっていた。
無職になった。生活保護を受けるようになった。治療を受けても、あまり合わなかった。借金は残ったままだった。
四か月経ち、今日バイトを始めた。あまりのおぼつかなさに愕然とした。
死ななきゃいけない声が聞こえていた。今までは、周りを批判的に見たり、自分の実力を弱く見せたりして補助を貰おうとして誤魔化していた部分も遂に終わりを迎えた。
虐められていたときに亡くなった祖父母へのお別れの気持ちも1週間ほど前に整理がついた。