はてなキーワード: カタカナとは
バゲットはある程度の水準をクリアしてればよくて、そこから先はパンに塗るバターでの勝負になってくるんだけど、皆のおすすめのバターを知りたい。
いまのところはよつ葉の「よつ葉パンにおいしいよつ葉バター」で運用してるところ。
なお、バゲットはVironとかPaulあたりのスゴクカタイバゲットあたりでOKといった感じ。
---
【追記】
沢山のおすすめバター情報をありがとうございます!
知ってたけど食べたことはなかったバターから完全に知らないバターまで色んなバターをおすすめいただいたので、片っ端から試しながら楽しいバターライフが送れそうです。ありがとうございます!
大山バター人気ですね!他にもマーガリンやフランスやイタリアバターのオススメもありがとうございます!
トラピストバターは、あの缶に書かれたカタカナで腰が引けてしまっていたので後でチャレンジしてみます!
また、手作りでバターの出来立てを味わえるのも良さそうですね。作り方もみましたが、ちょっとゆるめの仕上がりで美味しそうです。
カルピスの発酵の方とグラスフェッドは食べたことなかったので、これも見かけたら試してみます!
丸ビル地下のフレッシュバター工場の情報もありがとうございました!有楽町のアンテナショップのついでに覗いてみたいと思います!
あとは最近話題になっていた佐渡バターも気になっていたので手に入りそうでしたら試したいですね。
オリーブオイルのコメントもいただいたので、イータリーのオンラインショップを覗いてみました。産地が北部や南部で分かれていたりとここらへんも奥が深そうな感じしますね。(ちなみに普段はカルディの徳用サイズのやつを使ってます)バターに飽きたら試してみたいです。
この話題だけど、IT系のサービス名に限った話ではなく有名なところでアナ雪がFrozenだったりカールじいさんの空飛ぶ家がUpだったり作品タイトルすら全くの一般的な単語が使われている。
実話系だと一般人の人名タイトルなことも多いし、アメリカで起きた飛行機不時着事故を描いた「ハドソン川の奇跡」なんて原題はSully。
日本で「Fukushima 50」が「よっしー」だったら誰が見に行くだろうか。
要するにあちらはそれが普通っぽい。
被りだとか検索性だのググラビリティだのとか気にしてないしそもそも名前にこだわってない。
多分ひらがなカタカナ漢字英語を組み合わせられてやたら表現の幅が広い日本人がこだわりすぎなだけで、世界のほとんどはそんなもんなんじゃないだろうか。
中国語はどうなんだろうね?
辞書とかじゃ「ベッド」「バッグ」が標準で、日本語の書き言葉としては濁音で表記するのが正解とされていると思う
でも実際の英単語としての発音で考えたらどれが一番近いんだろうっていう疑問?興味?もあるし、個人的にはどれかの表記を「これが絶対的な正解!」と言い切るほど強めの思想はない
文章読んでて「ベット」「バック」って出てきたら、一瞬気になるとは思うけどまあ目くじら立てるほどじゃないか…って感じ
どちらかというとその「ベット」「バック」の表記を使っている人が「red」を「レッド」と書くことには何の疑問も感じていないのだろうか、という点が気になる
物心ついたときから私には母と兄しかいなかった。母はまだ幼い兄と私を連れて父と離婚した。暴力を振るわれたとかで離婚したと言っていた
狭いアパートに家族3人で暮らしていて、深夜に仕事をしている都合上、夜になると兄と私は同じアパートに暮らす母と同じ国籍の夫婦に預けられた。
今では真偽は不明だが、母は私達を預かる代わりにその夫婦にお金を渡していたらしい。ほんとうに苦労して育ててくれていたと思う
兄と私が園児になったころ、その夫婦のところに預けられなくなった。トラブルか何かがあり、母はその夫婦に私達を預けることをやめたらしい
母は私達にゲームを買い与えたりして手間を省いてたかもしれない。他にもおもちゃは買い与えられたが、私達が欲しがったのはわかりやすいゲーム機で遊ぶことだった。
家に子供だけがいる状況で、その頃から私達はおかしくなっていたのだと思う
やんちゃする兄を母は躾としてハンガーで叩いたことがあったらしい。当時はまだ体罰が許されていた時代だったかもしれない。そしてまだ幼い兄はそれを真似て、私が言うことを聞かないときにハンガーで叩いて言って聞かせた。
兄は母がいるとき私に躾をすることがないので、私は夜になるのが怖くなっていた。
すぐに言えばいいものを、子供ながら母が苦労していることがわかっていたので言えずにいた。自分だけが我慢すればいいことだと思っていたかもしれない
兄の行動は徐々に歯止めが効かなくなり、ある日、本当に怖くなってしまったから泣きながら母に兄のことを話した。
父は山に囲まれた田舎に住んでいた。亭主関白そのもののような人だと思う
私は父が何をしている人なのか職業以外なにもしらないまま育った。それより父を父親だと思うことができなかったのでどうでもよかったまで思っている
まだ読み書きもできなかったころ、母がお父さんと話してほしいと言って電話をわたしてくれた。父とは物心ついたときに父親だと言われて会ったことがあったから、電話先にいる人物を父親だと私は認識して話していた。
そしてある時、父にお金がほしいと頼むように母に「おねがい」された。私達は教えられたとおりの内容を電話で話した。
例えば、お母さんがお金がないって言ってるからお金ちょうだい。といった子供が言える最大限の言葉で父に頼むのだ。
そして頼むことができれば褒められ、父が無理だと言った日にはもう1回電話して頼むように言われることもあった。
まだクレヨンとかで絵を描く子供が5万円ちょうだいなんて言うのだから、ほんとうに今考えると気持ちがわるいと思う
もうその時点で母に合わせないといけないと思っていたかもしれない。そしてこれは19歳になるまでやっていた。
たぶん離婚したとき養育費について具体的に決めていなかったのだと思う
父から父親らしいことをされた記憶は私には数えるくらいしかない。それも本当にたまに会ったときにだけだった。10代半ばあたりからはお金を頼む相手としか見てなかった
まだ園児だったころから、私は自分が他の子たちと違うことを認識していた。
母は日本語の読み書きができないのだ。だから私達が通う場所のことなどを理解するのに苦労したのだと思う
持っていく必要なものや行事などは、私はいつも忘れていたしできなかった。兄もそうだったのか今では過ぎたことなのでわからない
しかし他の子が不自由なく過ごしていて、自分にできないのはなぜかわからなかった。
それと母が昼間に働くようになったときは、いつも私達の迎えだけがすぐには来なかった。
兄が小学生になったあたりで、静かになる施設の中ひとりで迎えを待つ時間が途方もなく感じたのを覚えている。
小学生になった私と兄は多少物事を理解するようになっていた。引っ越しして前よりもまともな生活ができた。
ここから母は私達の教育を学校に任せるようになった。元々、教育などされていないかもしれなかった。教えられたことと言えば、母が帰ってくるまで家事をすることだったかもしれない。
今でも母が仕事から帰ってくる時間あたりから何かしなきゃいけないとか、待たなくちゃいけないとか焦ったりする。怒られないようにしなきゃいけないと考えていたと思う
仕事をしなければいけない母は日本語を勉強する時間は無い。大きくなったらお母さんを支えてねみたいなことを言われた覚えがある
厳密には仕事で疲れて日本語を勉強することができないのが正しいかもしれなかった。
勉強を教えられなかった私達は学校へ行って授業を真面目に受けても、勉強をするということがわからないのだ
宿題をやってくるように言われて家へ持ち帰っても、宿題をするということを教えられていないからやれなかった。
兄もそんな感じで、私達が自分から勉強することができたのは高校生からだったかもしれない
学校関連の保護者が処理すべきプリント用紙や、家での細々とした書類なんかはその頃から兄と私がやるようになっていた。
ここまで読めば予想できるとは思うが、もちろん学校行事に母が来れるはずもなく、私達も親が日本語を理解するのが難しく仕事で参加できないのをわかっていた。
それだけはさすがに保護者が必要なので仕事を休んでもらって来てもらっていた。
先生に宿題や成績のことを言及されたとき、私を責めるような辱めるようなことをその場で母から言われたのを覚えている。
親が外国人の教え子なんて当時はまだまだ珍しかったのだろう、私の担任になった先生たちはあまり触れないようにしてるよう感じた。
勉強ができなかった私は高校生になり、片道1時間弱かけて偏差値の低い高校に通っていた。
1年生の時はまったく勉強ができなかったのと、いじめられて孤独だった私は深く傷がついている状態だった。
それでも周りに心配させないように隠して過ごしていたが、途中から環境が良くなったこともあり卒業するまでは一般的な高校生だった。
変わらず母は私達に教育などしてくれなかった。私達は家事を手伝っていたが、それは怒られるからやるといった感じでしていた。
私はその頃には周りの顔色を伺ったり合わせようとするような人になっていた。自分さえ我慢すればいいと思っていたのだ。
ある時死にたいと母に泣いて告げたときすごく優しくしてもらったことを覚えている。
兄が成人して家から離れるまで、まだ私達は家族でいたのかもしれない
大学生になった私はいなくなった兄の代わりに家のことをやるようになった。私には無理だった
兄と私は違うのだ。それなのに母と兄は私にも同じように立ち回ってほしかったらしく、できない私を責め続けた。
昔から私は泣き虫だったのだが、感情を出すのを悪いことだと捉えているかもしれなかった。
怒るときも悲しいときも泣いてしまうし、自分の気分が落ち込んでいるときは自分を責めていた。
母はそんな私に向かって泣けば済むと思っているとか、もう今じゃどんなことを言われたのかここに書けなくなってしまった。
そして悪い出来事が積み重なっていたときのある朝、玄関のドアノブに手をかけた時、開けられなかった。まだ1年生の夏休みすら過ごしたことがなかった
私が引きこもってる間に母はなにもしてくれなかった。普通は親とかが休学手続きなどをしてくれるだろうが、私の母はそんなことわかるはずがなかったのだ。
そして一切大学に連絡がいかない状態が続き、ある日家に届いた退学通知を見た時から、私はそれまでの自分が失くなったように感じたのを覚えている。
兄もたまに家に帰ってきていたが、私が何もしてくれなかった周りを責めたときから帰ってくることはなかった。
それからは半年か1年引きこもって半年アルバイトをするかしないかみたいな生活をしている。友達もいなくなってしまった。
引きこもりから脱せた時、低賃金でも収入を得てやり直そうとしている私を見て、母は応援してくれていた。正確には何も言ってこないようになっただけだったが。
仕事をするようになっても上手くいかないことが多かった。馴染めなかったり体力的にも向いてないのに無理やり働いて続かなかった。
まだ家から出れないときから、母は光熱費などの支払いを忘れることが多かった。口座引き落としにすればいいと思われるだろうが、母がそんな手続きできるわけがない
電気やガスが止まるとさすがに私も困るので、何も話し合いをせずに自然と私が家の支払いの一部を負担するようになったのだが、私の貯金はたまることがなかった。それよりも本当に忘れているんじゃないかと思うくらいだった。
さらに私からお金を借りていくことが多かった。ある時、私の貯金がたまらないことと支払いについて母に言ったことがあったのだが、今まで世話していた分やるのは当然で一緒に住んでいるのだから当たり前といった感じで喧嘩になった。
私はこの時点で支払いのことや諸々の家のお金にまつわることが嫌いになっていた。喧嘩をしたくないので母が忘れている支払いを全部していたのだ。
働けるようになったのだから私が負担することは自然な通りかもしれないとは思うが、先に進むためのことがなにもできなかった。
安定した収入を得る仕事をする必要があるのはわかっていたが、自信がなくなっていたのと自分はなにがしたいのか今でもよくわからない。
私は甘ったれなんだと思う
母とはいつも喧嘩しているように思える。昔と同じで家事をやらなかったりすると怒るのだ。
一緒に住んでいるならして当たり前だと思うだろうが、感情が爆発してから何かをやろうとするのが本当にできなくなってしまった。私自身もこういうことはできなくちゃいけないと思っているのに上手くできなくなってしまった。
私は母を話が通じない相手として見ている部分があるのでこの家には異常者しかいないんじゃないかと思うことがある。
1年前、心療内科に通うようになってそこで初めて私には精神疾患があることがわかった。処方された薬を服用するようになって母にそれを説明したのだが理解されなかった。
そして私自身ただ薬を服用してるだけで次に繋がっていかないことを自覚してしまって数ヶ月前から通院をやめた。
また半年前にアルバイトをやめてしまったので少しだけの貯金を切り崩しながら家の支払いをしていたが、もうその貯金もなくなってしまって今に至る。
よくある親エピソードなんだろうと書いてて思うが、日本語を理解できる親というのが私には羨ましかった。
私の母はコミュニケーションがとれるくらいには日本語が扱えるが、ひらがなとカタカナの一部を除いて日本語の読み書きができないのと難しい言葉などが全くわからない。
故に学校で勉強した自分の子供だけが頼りということだ。そしてそんな私がいつまでも家にいるから生活できているんだろうと思うことが何度もある。私の人生は母のためだったかもしれない
わかりやすく言うなら宗教的な考え方を持っていて、科学を話すことができない人だといえばいいのだろうか。言語さえまともに通じる相手ならここまで苦労しなかったのかなとか、こんなふうになることがなかったのかなとか気休めに考えてしまう
ほんとうはもっと筆舌に尽くし難いエピソードが多くあるのだが、書いていたらきりがないのでここで終わりにする。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
娘が字を書けるようになり、可愛いレターセットを買ってあげたところ、お手紙を書いてくれるようになった。
難しい文字(あ、ぬ、ね 等)はカタカナに置き換えているのが、また愛おしい。
ある時、娘が好きな芸能人(お笑い芸人)にもお手紙を送りたいと言い出した。
売れっ子の方だし忙しくて読んでくれないだろうな〜と思いつつ、娘が書いたお手紙を事務所宛に送った。
それが半年前のこと。
返事が遅くなってごめんね。ネタを面白いと言ってくれてありがとう。これからも応援してね。という趣旨のひらがなの手紙にサインが添えられていた。
娘はもうすっかり他の芸能人(イケメン俳優)に心を奪われてしまっていたところだったが、届いた手紙を見せると当時の熱を思い出したようで、またYouTubeなどでその人の映像をしばしば見るようになった。
文学部B4 就活も終わり卒業要件単位を満たしたので卒論の下準備の傍ら学費がもったいないため他学部の面白そうな授業に潜っている。
商学部の授業に潜っているのだが、授業のレベルがとても低い。まず私語がうるさい。なんでこんなにうるさいんだというか大教室だから声が響く?先生の声よりも私語の方がうるさい。そして授業内容もこんなものなのかと呆れた。3、4年生向けの授業であるが一から大きな政府、小さな政府、レーガノミクス、サッチャリズムについて説明。それぐらい前提知識じゃないの?
そして極めつけは授業の評価方法。出席点はポータルから授業の感想を一言入れるだけ。出席の確認にもなってない。期末レポートは500字以内。リアペでももっと書いてるよ。
「ゼミでアンケートやってるので協力お願いします!」とインスタのストーリーにGoogleFormのリンク貼る、卒論書かなくても卒業できる。この学部はなんのためにあるのかって思ったよね。授業真面目に受けて、ゼミで文献調査や現地調査やって、卒論書いて、それなのに「遊ぶん学部」と言われる始末。就活での文学部に対する反応は芳しくない。遊んでるのは経済とかそこら辺の学部かカタカナ学部じゃないの?