はてなキーワード: 共存共栄とは
あなたの感じていることについて、まずは理解を示したいと思います。労働組合や集団行動に対して否定的な感情を持つことは、個々人の価値観や経験によって異なるため、決して珍しいことではありません。あなたが述べたように、「徒党を組んで戦う」というアプローチが、個々の自由や選択、合意形成のプロセスを重んじる立場から見れば、疑問を感じることもあるでしょう。
労働組合や集団による交渉は、個人では力が及ばない場合に、より良い労働条件や待遇を求めるための一つの手段として存在します。この背景には、労働市場における権力の不均衡があり、個々の労働者よりも組織されたグループの方が交渉において有利な立場を得やすいという実情があります。
しかし、あなたが指摘するように、個人が自分の利益や価値観に基づいて職場を選択し、働く場所を自由に選べる状況が理想的であることも確かです。経営者と労働者間の利害が一致し、共に目標に向かって努力できる環境があれば、対立することなく共存共栄できるかもしれません。
労働組合や集団交渉のアプローチに対して異なる見解を持つことは、多様な意見や価値観があることの表れであり、それぞれの立場や考え方には一定の正当性があります。また、労働組合に対する批判的な意見を持つ人々もいれば、労働組合の果たす役割を高く評価する人々もいます。
重要なのは、異なる視点を理解し、それぞれのメリットとデメリットを考慮に入れながら、より良い労働環境と社会を目指していくことでしょう。そして、個々人が自分にとって最適な選択をできるよう、情報や選択肢を広げていくことも大切です。
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
狩り(食料調達)も育児もメスがやり、オスはメスにとって繁殖用に必要な単なる精子製造機といってよい。
しかもチンコの先から精子をぴゅぴゅっと出す以外役立たずの穀潰しなのだから、健康で頑強な1頭がいれば十分だ。
選ばれし種オスは一見ハーレムを築いているように見えるが、老いて力衰えれば若いオスにその場を奪われ、
これはニホンザルでも似たようなものであり、チンパンジーやボノボではもう少しオスがコミュニティに混じってくるが、
コミュニティの運営者はやはりメスで、オスは子育てに参加するでも、メスのために食料調達を担うわけでもない。
しかしそれでは、オスは常に精子奴隷の地位を争い合い、弱オスは子孫を残せぬまま独りで自分のために食料を探し、
食って糞して死んでいくだけだ。
だがそんな中で知恵のあるオスが、一人より二人、二人より三人で協力すれば生存確率が上がり、
屈強な1頭の種オスを倒して、精子奴隷の地位をシェアできると考えたのかもしれない。
しかしメスコミュニティにとって精子をチンコの先からぴゅぴゅっと出す以外脳のない穀潰しのオスは何匹もいらない。
そこで知恵のあるオスが、「姉さんたち、オレたちが狩りして食料調達してくるから、子育てに専念してくれていいぜ。
その代わり、これからもずっとオレたちに精子をぴゅぴゅっとさせてくれ。」と頼んでコミュニティに残ったのだろう。
そういった複数のオスたちによる共存共栄戦略がサルを人間へと進化させたと考えられないだろうか。
その結果、世界中の殆どの文明で、男が外で働き、女が家事や育児を担う性的分業が生まれたのだろう。
それはやがてコミュニティの運営者としての地位を女から男へと移行させ、男が支配する社会がスタンダードとなった。
人類社会はコミュニティの共栄のため、様々な支配体制やコミュニティの拡大を繰り返し、
その過程でいわゆる理系男子たちが道具や技術を発展させ、生活環境を改善、効率化させてきた。
特に近代以降、産業革命と資本主義経済により、技術進化と経済利益追求がガッチリと噛み合って、
社会は急速に発展した。当然家事の効率化も金になると判断した男たちは様々な家電機器を生み出し進化させた。
その結果、洗濯板でゴシゴシ体力と時間を浪費していた女たちはボタン一つで洗濯ができるようになり、
炊飯器、電子レンジ、ガスコンロで簡単調理、掃除もホウキとチリトリから掃除機やルンバに替わって時短され、
余った時間で男と同等の社会活動が可能となった。女性を解放したのは経済利益を追求した男たちなのだ。
また、こういった家事の効率化は、結果として男も仕事と両立して簡単にこなせるようにした。
もはや家事を男女で分業する必要性は全くなくなってしまったのである。
子育ても、もともと哺乳類としてはメスたちがコミュニティで担っており、母親一人でやらなければならないものじゃなかった。
現代人間社会では保育園や学校といったシステムで、社会が子育ての多くの部分を担うようになっている。
会社の産休・育休といった仕組みを工夫し、仕事を効率よくシェアできる環境作りをしていけば、
チンコの先から精子をピュピュっと出す以外役立たずの穀潰しだった精子奴隷のオスたちが、
生き残り戦略として知恵を使って共存共栄社会を築く人間へと進化し、メスが運営者のコミュニティから
男中心社会へと逆転させた。しかし更なる社会の効率化と技術進化、そして経済利益の追求によって
女たちを時間的拘束から解放し、再び社会の運営者として参入する道を開いたのである。
もはや男女の社会的平等は必然的結果で、繁殖活動は個々に納得する男女がつがいとなるのが当然の成り行きだ。
社会としては変わらず共存共栄のために、平等な男女が生きやすく子育てしやすいシステムと技術の進化に
知恵を絞ることになるのだろう。
元増田のように、今更女コミュニティを作って男を精子奴隷として争わせるのは、人類史を一からやり直すに等しく、効率が悪すぎる。
時代の流れに合わせて生まれ変わる言葉の一つ、「ダイバーシティ」。それは一体何を指しているのだろう。今回はその「ダイバーシティ」の意味について深堀りする。
初めに、その音色に耳を傾けてみよう。「ダイバーシティ」。独特の響きがあり、切れ目のない流れるような音列が特徴的だ。この言葉は、まるで自然の流れ、風の音、流水の音を思わせる。
次に、その言葉の形状に目を向けてみよう。「ダイバーシティ」。一つの言葉だが、「ダイバー」と「シティ」という二つの要素に分割することもできる。それぞれどのような意味を持つのだろうか。
「ダイバー」は、深く潜る者を示す。見知らぬ世界を探索し、自身を未知の領域に投じる。これは探求心や冒険心、未知への挑戦を表現していると考えられる。
一方、「シティ」は都市を思い起こさせる。人々が集い、さまざまな文化や考えが混ざり合う場所。それは人々の集まりであり、一つの場所に多くの要素が混在する状態を示す。
それぞれを見てみると、「ダイバーシティ」は「未知への挑戦」と「多くの要素が混在する状態」の二つの要素を持つと解釈できる。未見の世界への探求と、そこに存在するさまざまな要素が混在する状態、それが一つの全体を形成するという考え方を含んでいる。
しかしながら、「ダイバーシティ」が本当に指すものは、単純な二つの要素の組み合わせ以上のものかもしれない。それぞれの要素が交錯し、融合することで新たな意義を生む。未知の世界に対する挑戦と、そこに存在する多くの要素を受け入れること。「ダイバーシティ」は、この二つの概念を統合した挑戦的な思考や行動を表現しているともいえる。
このような視点から「ダイバーシティ」を捉えることで、その深い意味が見えてくる。それは私たちが遭遇するさまざまな事象に対する新たな視点を提供し、私たちの生活に新たな色彩をもたらす。そしてこの言葉を理解し、行動に反映することで、私たちはより豊かな人生を歩むことができるだろう。
言葉は、その形成と進化を通じて、私たちの意識に強力な影響を及ぼす。そして、「ダイバーシティ」はその良い例である。
考察を深めることで、この言葉が内包する本質は、「未知への挑戦」そして「多くの要素が混在する状態」であることが明らかになった。しかし、それだけではなく、これら二つの要素が相互に作用し合うことで生まれる新たな価値もまた、「ダイバーシティ」の一部と考えられる。未知への挑戦が多くの要素の混在を可能にし、その混在が新たな挑戦を生む、この循環こそが「ダイバーシティ」の真髄である。
これは、何か新しいものを追求し、その過程でさまざまな要素が交錯する経験を重ねることの重要性を私たちに教えてくれる。また、新たな挑戦が更なる混在を生み出し、その結果として生まれる新しい価値が、次の挑戦への道筋を示す。この循環的なプロセスは、私たちが日々の生活の中で経験し、学び、成長するための鍵となる。
私たちが「ダイバーシティ」を理解し、その思考を行動に反映することで、私たちは自身の視野を広げ、新たな価値を見つけ出すことができる。また、それは他者との関わりの中で生まれる新たな絆や共感を可能にし、共存共栄の社会の実現へとつながる。つまり、「ダイバーシティ」は新たな挑戦と多様な要素の混在を通じて、私たち個々の成長だけでなく、社会全体の発展をも促進すると言えるだろう。
私たちは日々進化し続けるこの世界で生きていく中で、新たな言葉に出会い、その意味を理解することで自己成長を遂げる。そして、「ダイバーシティ」は、その一つの言葉として私たちの生活に深い影響を与え、私たちの思考や行動に対する新たな視点を提供してくれるのだ。
まず沖縄の米軍基地は動かせないという前提が共有されてないんだよな
それと「理解してくれ」「思いやってくれ」と、相手に要求するばかりで本土人もいい加減辟易としてる事に気付いた方がいい
いやいやいや……
「どうしようもない」じゃねえよ「どうにかしろ」よ
「彼らは基地反対にかこつけてイキってるだけの迷惑者です!」ときちんと言え
何もせず黙認するって事は、すなわち本心では賛同しているって事だからな?
その苦しみの根源は住民自らが生み出した対立と軋轢だからな?自分で蒔いた種なんだよ
なぜか?沖縄以外は基地と共存共栄の道を模索し歩んでいるからだよ
「ザイニチを日本から叩き出せー!」とかやってるネトウヨを見たことあるだろ?あいつら幸せそうに見えるか?すごく惨めに見えるだろ?何か感じるものはないか?
写真家の今森光彦氏が、段々畑のある里山に土地を買ってアトリエを作り、雑木林などを大改造。様々な種類の樹木を植え、溜め池を堀り直し、花々の咲き乱れる庭を作った。大好きな蝶を沢山呼ぶためである。足掛け30年でつくり上げられた「チョウの庭」には75種類もの蝶が来るようになった。
写真が多くルビも適宜振られている、分類としては児童書なのだが、大人が読んでも面白い本。
私は庭いじりはあまり本腰入れてする方ではないが、必要に駆られてちょっとはするので、草木の手入れについて知っている事もあるけど、それでもこの本を読んで「へー初めて知った!」という事があった。草刈りの必要性についてだ。
年に数度の下草刈りが必要という事までは知っていた。だが草を刈る事で特定の丈の高い草に土地を独占される事を防ぐ効果があり、それによって植物の種類が多様になり、するとその植物達を利用する昆虫達の種類もまた増える事になるというのは、私は知らなかった。つまり里山の生物多様性は人の手によってつくられるのだ。
昔、映画『もののけ姫』の監督インタビューを『アニメージュ』か『もののけ姫を読み解く』で読んだ。そのインタビューで宮崎駿監督が、世の人々が「自然」だと思っている里山の風景は人工的につくられたものだと言っていたと記憶している。
人の手によってつくられた「自然」とは何か……その具体的な有様をこの『小さな里山をつくる』によって見せられた。人の手の入った里山の「自然」はありのままの自然よりも豊かなのだ。それは人間にとって有用という意味だけではなく、植物や昆虫、小動物など生物にとっても住みやすい環境なのだ。
蝶は、それぞれごく限られた種の植物に依存して生き、しかもその美しく奇妙な姿と優雅で愛らしい羽ばたきからよく人の目にとまる。そのため、ある土地に暮らしたり立ち寄ったりする蝶の種類の数というのは、その土地の生物多様性の指標としてはもってこいなのかなと思った。
30年もかけて土地に多様な種類の樹木や草花を植えてつくられた蝶の楽園。楽園の維持には草刈りや木の間伐、野焼きなど、農業や園芸を知らない人ならそんなにやって大丈夫なの? と心配になってしまうようなダイナミックな手入れが必要なのだ。
自然のまま草木の生えるままにしておけば強い草木だけが生え、それに依存する少数の昆虫しかいなくなる。そしてやがてそこに生えていた木々は老いや共倒れにより滅びて、ただの荒れ果てた草原に戻る。
人間による手入れは自然の中ではたまにしか起きない天変地異の再現であり、しかも計画のもとに行われる。本来だったら競り負けてしまう草木を残し、土地の養分と日照権を独占する草木を打ち倒したり、勢力を抑えたりする。
環境保護というトピックにおいてはつい人間の存在を不要の物として私は考えてしまいがちだったのだけれど、人間は自然のよき管理者にもなれる可能性も持っているのだと知った。本書のメインの蝶の話からは脱線しているけれど、私は本書を読みながらそんな事に思いを馳せた。
裏を返せば、自然の中に住む様々な生物……こと植物……生態系のベースとなるので彼らの生き様というのは重要だ……にとっては、多様性や共存共栄というものはあまり重要な事ではないのかもしれない。常に競い合い頂点を目指す、自分の繁栄だけが願いなのかもしれない。人の夢見る生物多様性というのは、不自然な事でしかないエゴなのだろうか。
まあそんな面倒臭い思索は置いといて、庭がクリエイトされていく過程は読んでいてわくわくするし、里山の風景や草木や蝶をはじめとする昆虫の写真は素敵だし、全75種類もの蝶がずらりと並んだページは壮観で興味深い。お、『鬼滅の刃』の胡蝶しのぶさん柄の蝶まで。アサギマダラという珍しく美しい蝶だ。
それと、本書に度々登場するジャノメチョウ。私はこいつに嫌な思い出がある。だからあまり出会いたくないのだが、本書で久しぶりに目にしてふと気づいた。昔はよく家の網戸に停まっていたのに、最近全然見かけない。本書によればジャノメチョウはススキに依存して生きる蝶であるらしいので、最近とんと見かけないのもむべなるかな。ススキの生えた場所なんて、市街地には全然ないもんなあ。
Arcaneは実際見て正直めちゃくちゃおもしろかった。けど言及で「日本人には合わない」とか言われてるのめっちゃ悲しみ~ぴえん、ってなったので、全9話中まだ3話しか公開されてない段階だけれども、良かったポイントをあげていこうと思う。
LoLやってなきゃわかんないんじゃないか、みたいな意見もあるけど、今回のArcaneに関しては、LoLをやってない人にもかなり考慮された物語の作りになってると思う。
物語の舞台はピルトーヴァーとゾウンという2つの都市なんだけど、簡単に言えば上流階級が住むキレイに美しく発展したのがピルトーヴァーで、その地下にある下層階級が住むピルトーヴァーの陰とも言える、様々なはみ出しもので構成されたカオスな都市がゾウン。
孤児である2人の主人公、ジンクスとヴァイが住むのはゾウン側で、ゾウンの中にもピルトーヴァーと戦うべきだと考える過激派と、ピルトーヴァーと共存共栄できると考える穏健派が居て…みたいな枠組みの中で、それぞれのキャラクターがそれぞれの考え方を持って動いてる、ってのが割とわかりやすく描写されてると思う。
その枠組みのおかげでキャラクターの行動原理がハッキリしているので、LoLをやってない人でも楽しみやすい、というかLoLをやっている人からすると、現在ゲーム内のキャラの前日譚を描いているので、ある程度ネタバレを知ってしまっている部分もあるので、むしろLoL知らない立場で見てみたかったくらい…w
海外ではイカゲーム超えになってるのも、決してLoLファンだけの力ではなく、結構未プレイ勢からの高評価が多いのも確かなんよ?
映像制作をしている会社は、Fortiche Production。
フランスの映像プロダクションなんだけど、細かいディテールと光の表現が本当にすごい。
この会社は今までArcaneの元になったLeague of LegendsのMusic Videoを数多く制作してきたんだけど、その中でもK/DA - POP/STARSはYoutubeでも4.7億再生されてるレベルで話題になったので知っている人も多いと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=UOxkGD8qRB4
世界大会2018のテーマソング、RISEのMusic Videoもすごかった。タイトル通り上を目指して登っていく戦士の姿を最高にかっこよく描いたMVでめっちゃおすすめ。
https://www.youtube.com/watch?v=fB8TyLTD7EE
今回のArcaneの主人公、ジンクスが実装された時のトレーラーもFortiche制作。
https://www.youtube.com/watch?v=hCdcHBW54eE
これらのMVのクオリティが非常に高く、ファンの間でも定評があったけれど、まさか1本40分のアニメでもその表現力を遺憾なくフル発揮してくるとは…ってレベルなんよね今回のArcane。
今回のArcaneの主題歌、Imagine DragonsのENEMYのMVも良いぞ~
https://www.youtube.com/watch?v=F5tSoaJ93ac
正直3話まで見てからこのMV見直すと泣きそうになるくらいには良いんだ…
やっぱり日本の声優さんの技術は特に高い。それをひしひしと感じたね。
どのキャラの声優さんも良いんだけど、特に素晴らしいと感じたのはパウダー役の玉野るなさん。
彼女13歳ってマジ??人生何周目??ってレベルですごかった。
パウダーってキャラは、上であげたジンクスの過去の姿ってのは公式で言及されてるんだけど、『暴走パンクガール』の異名を持つ彼女からは考えられないような、か弱くでも一生懸命な過去のパウダーをとんでもない演技力で演じきってた。
というわけで、ネトフリ入ってる人ならぜひ見るのをおすすめしたいね。LoLやってる人なら入ってなくても入って見るべき。
3話見て正直普通の映画1本以上の満足度があったんだから1000くらいケチるなというか、映像が素晴らしいのでフルHDで見るために上のプランで1500払ってもいいと思うぞ。
そしてArcaneを見てLoLの世界観に興味を持ったらぜひ登場キャラクターたちの住む、ピルトーヴァーとゾウンのキャラクターたちのユニバースを読んでほしい。
https://universe.leagueoflegends.com/ja_JP/regions/
キャラのストーリーがコロコロ変わる、みたいなことを言う人も居るけど、RiotGamesは、LoLに登場する全キャラクターの設定をしっかり整えている最中なので(もう10年にもなるゲームなので初期の実装キャラは設定が適当すぎて他のと齟齬生まれるようになってるから、一本筋を通したのに変更していくよと言ってる)、たまに変更されることもあるけど、これから行われる変更は基本変形されない決定稿になっていくんだと思うよ。
そして出来ればLoLをプレーしてもらいたいと思うんだけど、実際ハードル高いのはわかるw
暴言当たり前の無法地帯みたいなDisコメも見るけど正直大半のプレーヤーは無言で、ゲーム内でPing焚いてコミュニケーション取ってることのほうが多いよ。
まぁ暴言吐く人も勝ちたいあまりそういうふうになっちゃう一生懸命なだけだよねって言って即ミュート&ゲーム終了後にレポートすれば、全然楽しめるとは個人的には思ってるけどね。
でもまぁArcaneからLoLの世界観、ルーンテラに興味を持ったなら、カードゲームのLegends of Runeterra(LoR)がおすすめかなぁ。
https://anond.hatelabo.jp/20210919095507
カードのフレーバーテキストとか、キャラ同士の掛け合いとかがあるから結構たくさんルーンテラの世界観に触れることができると思う。
Riotの中の人はこの先数十年は開発を続けたいって言ってるし、ゲームですでに10年の実績があるんだから、長く楽しめる趣味として、LoLやLoR、LoLオートチェスのTFTなんかをやって、そしてルーンテラの世界観を楽しむってのは結構おすすめできる趣味なんじゃないかと個人的には思ってるよ!