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生類憐みの令によってキモくて金のないオッサンも慈しむよう諭した徳川綱吉は名君
私たちはいつから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説!
https://intojapanwaraku.com/culture/48024/
疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉、から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができます。しかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちのご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。
日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授・中澤克昭先生のお話をもとに追ってみました。
うつりかわる肉食への考え方
日本史の教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代(明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜は労働力を提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。
3世紀ごろの日本(ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀に仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避(タブー)につながっていくのです。
しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシやシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代の遺跡から出土した木簡からわかっています。中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地の所有権を確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。
古代には禁欲の対象だったお肉も、平安時代になると禁忌つまり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代も飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物が確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。
「天神さま(菅原道真)の牛のように、神話や伝承の世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓(ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。
新鮮な馬肉
では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。
なお、近代以前に肉を地方から京都や江戸へ運ぶとき、塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉も存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカやイノシシでしたが、貴族社会の宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお(現在の味噌・醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています。
肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家に権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家の食事のマナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別な作法があったようです。
江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料上確認できますが、その後しばらく姿を消してしまいます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗は徳川家康を尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名の特権ではなくなりました。明治天皇も御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇が狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野で鷹狩りをして以来のことでした。天皇は800年ものあいだ狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士の時代と重なっているのが興味深いところです。
明治天皇は1872年に牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後生まれの世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥でちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活も高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。
一方で2030年ごろには、世界の人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食の研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。
「動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ちを自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。
剥き出しの名詞としてではなく、学名や標準和名でもなく、あるいはペットなど特定の個体を指し示すわけでもない、「その動物」を指す親しみを込めた呼び方を表にしてみた。基準は自分が使うかどうか、もしくは聞いたことがあるかどうか。たとえば道端や動物園や水族館でその動物を見たときに子供に向かって「○○がいるよ」と言いたいときになんと呼ぶか的な。
- | 種族名+様 | お+種族名+さん | 種族名+さん | 種族名+ちゃん | 擬音語+ちゃん | 寸評 |
犬 | お犬様 | × | × | × | ワンちゃん | 「お犬様」は江戸時代の徳川綱吉に絡めた揶揄表現以外ではほぼ使われないので、実質的に鳴き声の擬音語に基づく「ワンちゃん」のみ。めちゃめちゃ親しまれてる。 |
猫 | お猫様 | × | 猫さん | 猫ちゃん | × | 「お猫様」はネコを飼わせていただいている人がそこそこ使ってる印象。人口に膾炙してるのは「お」を抜いた形だけど、種族名で呼ばれてるので犬より敬意を表されてる感。 |
馬 | × | お馬さん | × | × | × | やっぱりお侍さんの乗る動物だから社会的ステイタスが高いのかな? |
牛 | × | × | 牛さん | × | × | 馬と比べて農民に近い動物だから「お」が付かないんだろうか? |
豚 | × | × | 豚さん | × | × | ある種の人間に対して呼びかける際の使い方については関知しない。女王様とお呼び! |
猿 | × | お猿さん | × | × | × | やっぱ賢い動物には「お」を付けたくなるんだろうか。 |
狐 | × | × | 狐さん | × | × | 民間伝承では賢いってことになってなかったっけ? |
狸 | × | × | 狸さん | × | × | むじなについてはカウントしないものとする。 |
鳥 | × | × | 鳥さん | × | × | なんかよそよそしくない? |
魚 | × | お魚さん | × | × | × | 冷静に考えたらなんでこんなに敬意を表されてるんだろう……一番身近な食い物のはずだよね? |
人間 | 人間様 | × | × | × | × | 人間さんチームは爆弾を背負って敵チームの戦車の下に潜り込んでください。特殊カーボンがあるので相手戦車の乗員が傷つくことはありません。 |
「お+種族名+さん」と「種族名+さん」が綺麗に相補分布してるように見えるからなんか音韻法則とかでそうなってたりするんだろうか。
私は刀剣乱舞というゲームを通して刀が好きになった。美術館博物館に足繁く通い、刀を見ていた。
その名を五月雨郷という。
五月雨郷、あるいは五月雨江とされる刀はさまざまな家を渡り歩き最終的に尾張徳川家、徳川美術館所蔵となった刀である。郷義弘が作刀、江派の打刀だ。
チラ見せの段階で江だと分かり、雫型の耳飾りだとかで五月雨江では?と囁かれるのに推しの実装が怖くて怖くてずっと拒否していた。推しが来るなんて耐えられない、と。
でも実装されたら、すていじあくとに加えてもらって、何を愛するんだろう。晴れを切望なんてちょっとありきたりだろうか?村雲江とペア枠になるとか?回想で後藤くんとか亀甲とかの会話があるだろうか?何が来るんだろう!本当に楽しみだった。ただただ怖くて、ただただ楽しみだった。
『越中国の刀工、郷義弘作の打刀。景色を名に宿した名刀は華々しき来歴を辿るが、その言葉には同じ時代を生き、名を詠んでくれた俳人への思いが表れる。
行雲や犬のかけ尿(ばり)村時雨』
https://twitter.com/tkrb_ht/status/1333334963043790850?s=21
北へ向かったこともない。初めて見初められたのは福岡である。黒田長政が購入し、徳川将軍家に献上したところから彼の歴史は花開く。一番北は加賀か江戸かである。
私は俳句に明るくない。必死に松尾芭蕉を調べた。もしかしたら尾張徳川家とただならぬ仲があったのかもしれない。調べて分かったのは「五月雨」と詠んだ句が結構あることくらいであった。
中学国語程度の知識しかない人間でも知っている「五月雨や集めてはやし最上川」に始まり、10以上残しているらしい。私が適当に地元の図書館で借りてきた句集にはそれくらい載っていた。
忍どっから出てきた?
犬耳なんだ?
『行雲や犬のかけ尿(ばり)村時雨』
五月雨を使った句は素人が適当に図書館行くだけで10以上見つけられる。
集めて早しがダメなのは艦これにいるからまあわかるとして、何でいくらでもあった中で五月雨も関係なく、ぱっと意味の分からない犬のおしっこなの?
※この俳句の意味は犬がおしっこしていくみたいな速さで雲が流れては戻ってきてという天気の移ろいを歌った少し面白い歌らしい。(http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/sigre0.htm)
ゲームをしていない人、入手できなかった人、何よりやっていても第一印象が犬のおしっこである。
この場合の村時雨は降ったり止んだりの雨なので五月雨と意味はほぼ同じとはいえるが何で犬のおしっこなの?汚いでしょ。
そして顕現セリフもまたひどい。
『郷義弘が作刀、名物、五月雨江。え? これですか。これは前の主に対しての義理のようなもの。
それよりは、同じ時代に生きたあの方への思いの方が強いのです。そう、私の名前を詠んでくれた、あの方への……』
これが指すものがはっきりとしないが、他のセリフと合わせるに多分犬関係の部分である。
犬といえば生類憐みの令。犬を大切にした彼への義理である、と。
だが悲しいかな、ネット上では「犬公方」が元だという考えが散見される。はっきり言いたい。
義理というか直接的にdisってる。生類憐みの令が元だと言ってくれ審神者。全然義理とか思ってない、前の主を嘲笑うクズ男士になってしまうから。
また、刀帳説明において『五月雨江です。五月雨の季節に打たれたことからこの名がついたとも言われております。』と発言しているが、現在この記述が確認できるものはない。由来は
・五月雨の頃の極められた
・五月雨のように美しい刃文
創作というか嘘をつくな。
もう一つ言いたいが忍どっから来た。松尾芭蕉からならひどいトンチキ説を採用したな……と呆れるし、柳生新陰流とするなら遠過ぎてびっくりするぞ。というか五月雨郷が尾張徳川家にやってきた段階では柳生家はもう剣術の指南を中心にしてて忍者だった頃じゃないぞ。あと忍者だった頃っていう概念で行くなら奈良と伊賀の間辺りなので本当に五月雨郷関係ないぞ。
さて、ここまで前置きというか許せない部分の羅列である。
松尾芭蕉の刀だと思うだろうか?元の主に忍がいると思うだろうか?俳句に関係する何かがあると思うだろうか?
刀剣乱舞のログイン画面には「この作品は創作であり、史実等とは異なる場合がございます」とある。
だから史実と異なるキャラだとて仕方がない、それでも史実を叫ぶ人間は史実厨と呼ばれ嫌われる。
史実と異なる創作(本来は死んでいる人間を生かしている、史実では否定されている戦況などを使用するなど)を批判する人間に対する蔑称である。
行き過ぎた史実に対する想いは時に創作の幅を狭めるだろう。どんなに史実を愛しても司馬○太郎がある限り史実のみの創作なぞあり得ない気がするけれど。
閑話休題。
五月雨郷とキャラクターの五月雨江とではあまりに史実からかけ離れている。
その上史実を語る場=回想が一個もない。江なのにすていじあくとさえない。
もっと苦しいのがその直後に実装された真田の二振りにも監査官さんにも大量の回想があることだ。というか回想なし実装は2018年末の袮々切丸以来である。二年ぶりの回想なし男士だ。
何故犬で忍者で松尾芭蕉ファンで元の主の話をしてくれないのか一切分からない。何も語ってくれない。
五月雨郷という刀は犬のおしっこも関係なけりゃ元の主を犬公方とバカにもしない。
男士としての彼は何も言ってないとわかっていても審神者特有の深読みで変な謗りを受けるのは刀剣男士の五月雨江で、刀剣の五月雨郷だ。
全部が全部、今までかの刀が作り上げてきた全てをぶち壊して新しいものを勝手に創作する割に名前だけは堂々と名乗るのだから質が悪い。
いっそ関係のない刀だと明言しろ。徳川美術館にある五月雨郷と一切の関係がないと言ってくれ。そしたら私は自分の推しが汚いものとして凌辱されたと泣かずに済む。
私は刀剣乱舞が好きだった。だから六年もずっと私の本丸を稼働していたし、金だって大量とは言えないけど課金したしグッズ買ったし推しを愛したしリアイベ行ったしてんごだってデビューしたし円盤だって買ったし私なりに推してきた。
人生で初めて同人誌も出すほど好きだったしいつか来る五月雨江という刀剣男士を待ち望んでいた。
私が求めているのは、五月雨郷という実在の刀剣の名前を騙って創作という免罪符を振りかざすな。それだけである。
何度も言われた。刀剣乱舞は創作なんだから。刀剣乱舞は史実とは違うから。私自身も何度も何度も創作だから仕方ない、創作と史実は違うのだからと必死に自分に言い聞かせた。
でも、やっぱり、許せないのだ。
刀剣乱舞は、国と共同で日本博に出るなどここ最近は文化の担い手として伝統を伝える試みを多くしている。それを行うところが五月雨郷という一振りの刀を適当なキャラメイクでキワモノ実装した。創作という免罪符を元にして。
今この世にある刀に汚いもの、元の主の蔑称を体現するものとして認識させるのどうかと思う。
創作であるという免罪符を、文化の守り手を自称する企業が振りかざさないでくれ。
私のことを史実厨だと謗ってくれていい。それで五月雨郷という本当に美しい刀が不当に扱われないのであれば何度だって声をあげる。五月雨郷という刀は本当に美しい。私が愛した刀は、何物にも変えられないくらい美しい。私が一番好きで、何度でも見ていたい刀である。
キワモノだからと、犬耳だからと、どんな刀か知られずに松尾芭蕉のことしか語らない刀であると認識しないでほしい。犬も基本関係ないし、歴史がないわけでもない。
五月雨郷が歩んできた歴史全てを蔑ろにして松尾芭蕉という誰もが知っている要素を組み込んで出来上がったキャラクターは可愛いか?
信長も秀吉も家康も持っていない、有名な武将の手に渡っていないそんな刀の創作は、誰も知らないから好きにしていいのか?
もう一度言う。
五月雨郷の美しさを知ってくれ。
五月雨郷は本当に美しい。
でも、間違った意識というのはあまりにも容易く色々なものを壊すこともある。創作は免罪符ではない。
Twitterを見た。
様々な意見が噴出している。私が見た範囲が全てとは思わないがいくつか言うべきかなと思って追記だけつける。
1.他の刀剣もだろ。
A.私の推しじゃないので史実確認できるほど詳しくないです。各々当該刀剣が推しの人が叫べばいいと思うのに五月雨郷だけ叫ぶなっておかしくない?
生類憐みの令が元だって審神者全員が言ってくれたらそれは構わないよ。犬公方っていう言葉と五月雨江をつなげるツイートをいくつか見たからこその意見だよ。
3.犬の尿は汚くない
汚いよ。俳句としては汚くない意味でも、今の時代にそれを検索なりなんなりして意味を調べる人間がどれだけいる?
第一印象で俳句の意味など全て知らずに犬の尿だけを覚える人間って多分思ってるよりずっと多い。だから嫌だと言ったし、俳句自体が汚いとは言ってない。
知ってるよ。でも今出した意見は松尾芭蕉=忍者説と柳生新陰流における忍者の話だけだよ。
柳生家と関係があるのは尾張徳川家にいたときだけで、五月雨郷が尾張徳川家にいた時点で柳生家は剣術指南の家だったという話。なお柳生家が忍者じゃない云々に関しての議論は別なのと尾張といえば忍者は伊賀の町おこし壊すからやめてくれ。
五月雨郷を実際に見に行って松尾芭蕉は?ってなるより悪い印象って何?キャラが好きになった人が五月雨郷を見にくることをやめろとは一切思わないけど自分が見に行ったときに松尾芭蕉の話を五月雨郷の前でしている人がいたらげんなりはすると思う。
私は最初から史実厨と言われていいから元となるものを貶してまで創作をするなと言ってるのであって、史実厨という言葉をいい意味で使ったことないよ。創作を認めるなって言っているのに近いと思う。
6.とうらぶやめろ
やめるよ。今回の監査官さんが原因で余計病んで五月雨郷をこうしたのに創作で出来上がった自分を考える監査官さんがいることが嫌になったからこれを書いたんだから。
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
目次 [非表示]
1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
(非公式)二次創作について検索避けを部外者から強要されて従ういわれはない。ナマモノについては、わたし(筆者)のメインジャンルではないうえ、少々ややこしくなるので、保留とする。
「配慮」という言葉が、「検索避け」の強要の理由として使われているように思う。アダルトなエログロや、原作にない性愛の関係などを描いた二次創作物を見たくない「だれか」への配慮だ。
なるほど確かに、見たくない人もいるだろうな。ウンウン。そうかそうか、不快な思いをさせてしまうのか。
いや、待て待て。つまりそれはアレか? 「だれかが不快な思いをするから検索避けをしてくれ」と言うのか? 「だれかに不快な思いをさせたくないから検索避けをしてくれ」?
冗談じゃない。キリがない。万人に受け入れられるものはない(そんなものがあるなら教えてほしい)。これがまかり通るとき、検索しうるあらゆるものが検索避けをさせられているわけだ。
「刀剣乱舞」知ってる? 略してとうらぶ。伝説の刀剣やらが付喪神になって(擬人化して)男性の姿をとって、刀剣男士となったんだ。わたし「実在したものを題材にしている作品の二次創作だから云々」と検索避けを押しつけるのを山ほど目にしてきたけれど、それなら、そもそも「刀剣乱舞」自体に検索避けをさせるべきじゃない? 「加l州l清l光」って。もちろん、DMMのブラウザゲームのページにはアクセス制限もさせてさ。だって、刀剣を勝手に擬人化して、あんなことやこんなことを言わせて、あまつさえ戦わせている! 不快な思いをするひと、いると思うんだけどな。
「家庭教師ヒットマンREBORN!」は? ごく普通の中学生だった沢田綱吉ことツナの前に殺し屋リボーンが現われて「おまえはマフィアの十代目だ」なんていう。かれに家光という父親がいることからわかるように、名前の元ネタは徳川家なんだ。どう? 徳川綱吉のことを調べようとしたのに、沢田綱吉ばかりが出てくる! なんていうことを不快に思うひとは、絶対にいないの? 名前を変えさせるべきじゃない? あの主人公。
いやいやいや。キリがないよね。田中、鈴木、佐藤。(申しわけないが)このありきたりな姓の持ち主はありふれていて、創作物に登場することも、ままある。一郎、太郎、幸子。いるぞ。
言っとくけど、違わないからな。これは「アダルトなエログロや、原作にない性愛の関係などを描いた二次創作物を見たくない」のと違わないんだぞ。根底には「不快感」があるんだ。この配慮の点で検索避けを求めるということは、「嫌な思いをするだれかのために検索避けをしろ」ということと、違わないからな。
この「配慮」の面から検索避けを強要するひとたちは、世界のあらゆる人の不快感を解消するため、あらゆるところへ検索避けを呼びかけてくれ。ぜひに。
トランプを探しているの。カードゲームよ。でも、あら、なんということかしら。わたしの大嫌いなドナルド・トランプばっかり出てくるわ! 嫌だわ。不快だわ。
「二次創作は実質違法行為なので、公式に見咎められないよう隠れて活動しなければならない」というアレ。
著作権。二次創作とのことで、TPPとともに話題になった。TPPに参加すると、著作権の親告罪がどうのこうのというあれそれ。まあ今のところ、公式が突きつけるまで、それは罪ではないということになっている(はずである)。
はい終了。
公式に見咎められないように……そうだね。公式の利益を損なうのはよくない。
でも、判断するのは公式だ。「見咎められないよう隠れて」など、まるでやましいところがあるようではないか。
公式の指示に速やかに従う。これだけでよいだろう。
ところで、アダルトとの境目にはのれんがある。物理的なフィルタだ。わたしたちは、物理フィルタのないところに、フィルタを見ることはできない。
まだ、その技術は普及していない。ARを目にし続ける将来は訪れるかもしれない。そうしたら、見たくないものを見なくてよくなるかもしれない。たとえば、露出度の高い女性の水着の広告だとかなんだとか。
でも、今はない。だから店側が物理的なフィルタとしてのれんを設け、年齢と覚悟を問うわけだ。おそらく。
で、検索避けを強要する舞台がどこかというと、インターネットだ。あなたのコンピュータだ。フィルタがかけられる。お互いに。けれど、あえて「不快に思うかもしれないだれか」のために、作者がのれんを用意する必要はない。どうしても見たくないものなら、それは見たくないひとが、見ないために努力をするはずだから。コンピュータは、見たくないものを見ないことができない舞台ではない。
法的に年齢制限をかけるべきあれそれに検索避けを求めるのは、わかる。だが、それについては、検索避けより直接的な手段をとるべきだと思う。ここではおいておく。
そして、それ以外の「見たくない」ものについても(コンピュータでは)、検索避けより直接的な手段をとるべきだ。検索の仕方を工夫する(not検索とか)とか 、NGワードを設定するとか。やり方は、ぜひ自分で検索してほしい。「ウェブブラウザ ngワード」とか。で、そうする手段がまだ用意されていないと思うなら、自ら開発するか、おとなしく待つといい。それすら我慢できないなら、もうやめたほうがいいと思う。インターネットが向いていないかもしれない。
全世界の、なにかを不快に思うだれかのために、調べたやり方を共有すれば、より具体的に不快感を減らせるだろう。
(そのために、わざわざ嫌なものを一度は見なくてはならないのかとか文句を言うひとは、「食わず嫌い」の意味を調べてくれ)
もちろん、公式からなんらかの対処を求められたときは、それに速やかに従いますよ。でも、それまでは、なんら疚しいところのないわたしは、堂々と二次創作をする。公式(原作)への感謝も忘れずに。いつもいつも原作を、たのしませてくださって、ありがとうございます。
http://anond.hatelabo.jp/20161005192648
飼って良いのは飼われる覚悟のあるヤツだけだ。
彼女がオマエに対して、次のような「紹介」をした際に、受けとめる必要がある。
「犬のおまわりさんって困ってしまってわんわんわわんわんわんわわんだったんだって。で、メタモルフォーゼできる犬の出るカートゥーンが……」
「桃太郎に出てきた犬ってきびだんご一個で鬼退治させられたわけでしょう?それで、こんどPETAが……」
「渋谷駅の銅像のモデルになった、ハチ公っていう忠犬がいて……」
「N.W.Aてドクター・ドレーが所属してたんでしょ?それで、will.i.amのCD持ってきたんだけど……」
「『アーティスト』のアギーちゃんが出てた『俺たちスーパーポリティシャン』って映画……」
こういう「非犬好きの彼氏に勧める」「犬興味ない彼氏を」「散歩不精の」「雑種未体験の」「飼いたい犬を」みたいな、
彼女がオマエに対して「自分の犬を紹介して、できれば一緒に飼ってほしいな」という願望に対して
オレは犬にも犬にも犬にも犬にも犬邦画にも興味はねェヨって言わないヤツだけが
次のオススメ一覧を参考にできるし、その上で勧めても良いし、勧めなくても良い。
アレは犬がかわいそうでとっ散らかってる上に、全体的に「神経を試す」要素が強い。
「甘え」とまでは言わないが、「科学の発展」と言う割に、相手にだけ負荷をかけていると思う。
想像して欲しい。
「混合ワクチン接種は現在のペットを飼う上ではどうしても外せない。どう思ったか聞くのが狙い」
現実世界は徳川綱吉じゃねえから、病院のベッドの上でイヤイヤされたら二度と仲良くなれねえぞ。
彼女と一緒に「君の名は。」を観に行って、相手が「犬出てなかったじゃん!」となっていること。
犬を嫌悪しない
犬に忌避感がない
犬なら付き合ってくれる
目標は「自分が勧めたら、アフガンハウンドでも一緒に飼ってくれる」ところに持っていくこと。
いきなり超大型犬かよ!とか言わない。
必要なのは「相手の飼いたいもの」と「自分の趣味」とがクロスしている部分を探す努力だ。
『アルプスの少女ハイジ』でもおなじみの犬種で、基本的に性格はおだやか。
こどもに対しては人間にも犬にもやさしくて頭のいい、よく出来た犬種だ。
大きいイヌは威圧感があった怖い……みたいなベタ先入観を茶化しつつ、ベタベタにじゃれてくる。
オタクとして観るなら「換毛期に落ちた毛をどうやって回収するか」に着目してみよう。
昨今観ることのなくなったデカい犬の一挙手一投足に注目するのもおすすめ。大型犬すげえぞ。
たまに大型犬が嫌いな女性もいるが、普通の犬なのでそこまでマイナスになることもない。
(ただし、相手に負荷をかける意味は全く無いので、イヌがのしかかってきたら配慮してあげること)
一見気品ある、気位が高そうな見た目ながら、実際飼ってみるとに(彼女にとって)親しみやすい要素を多く含む。
しなやかな肢体と、すらっとしたチャーミングな体躯で目をたのしませてくれ、
ガチャガチャとした被毛や、実は意外とヌケている性格をスッキリ見せる。
オタクとして観るなら「ロシア貴族に猟犬として愛されてたころの名残」を一つでも多く探そう。
彼女に「ボルゾイちゃんと今日も一日がんばるぞい」と言わせられれば目的達成。
オマエまた超大型犬かよ!とか言わない。
ドッグショー要素を排除しつつ、あくまで人間のパートナーとしての遺伝子を挟んでくる犬種。
親父の都合で引っ越しを余儀なくされ、アクシデントにも前向きに取り組むものの、
転校初日の自己紹介で情緒不安定になってしまう少女ライリーちゃんにもきっとやさしくしてくれる犬だ。
人見知りやすい割に、ちゃんと身内にはなついてくれて安心できる。
「『フランダースの犬』のパトラッシュとちょっと違うけど、みてて面白い」と相手が思えば目的達成。
「ブリアード」→「ボーダーコリー」→「オールド・イングリッシュ・シープドッグ」
(コーギーを完走できれば、ほぼ教化は完了している。ペンプロークとカーディガンを一緒に飼えるだろう)
ジャックラッセルのテリアじゃないけど、かなりのガッツもある。
「『デレステ』の渋谷凛のテリアとは方向性が違うテリア」を違和感なく観てもらえればOK。
この辺で多少、飼い終わったあとに在りし日の思い出が言い合えればベストだけど、どうかな。
いまさら柴かよ!とか言わない。
偽装飼い犬になるバイトを憧れの人間から持ちかけられたわんこが、
人間の実家でかわいいかわいいと親戚一同にモミクチャにされながら
「かわいかったけど、犬は苦手かな」と言われたらここで一旦諦めよう。
皆様おなじみシベリア生まれの雪玉野郎だけど、ちゃんと血統をつなでいるのがエライ。
前提知識が要らない、極端にじゃれにいかないけどじゃれも入れてくる、
紛れもなく犬オタ向けであり、歴史ネタ(最初に南極大陸を踏んだ犬)もちゃんと入ってる。
あとは好きにしろ。
犬から入って、犬、犬、犬、犬、そして犬。
おおよそ、20年~100年半ほどかけて、いわゆる犬オタの好む犬に寄せて行こう。
毛並みの綺麗な犬や上級者向きの野犬ばっかりの構成では意図するところが達成できず
ディンゴとの邂逅で絶縁されかねない。
ティーカッププードルとかカニンヘンダックスあたりですら「ちゃちゃい活発な犬種」ってだけで
いきなり見せたら、かわいい!マジで!このわんちゃん以外みんな(おまえも含め)死ねば良いのに!って思われても仕方がない面もある。
(ボクサーとかブルドッグとか、その手のきもカワ犬からの距離を考えよう)
みんな麻痺してると思うが、結構一発アウトになる犬ってあるんじゃないかな。
シャーベイとかチャウチャウとか、非犬オタから見たらアビシニアンと同レベルだと思う。
(正直、ワイマラナーも一発目はムリ)
段階さえ踏めば犬は好きなので良いと思うんだけど、
いわゆるオタク向け犬に慣れてもらうのって大変だと思う。
ポルテュギーズ・ウォーターとかオバマが飼いはじめたことで知名度あがったけどまだ貴重だし、
ペキニーズみたいなアクの強いのもアレだし、
書いてて思ったんだけど、「勧めたら一緒に飼ってもらえる」信頼を得つつ、
『101匹わんちゃん』観てても「ああ、なんかダルメチアンばっかりのアニメだけど、面白いのかな」って思ってもらえるって
すんごいハードル高いな。オレの友人はついに犬のきぐるみを購入することに成功したらしいが。すげえな。
やべー。
うちの犬について書くの忘れてた。
おまえらにはやんないけどな。
健闘を祈る。
どんなに内容がくだらなくても(実際くだらないのだが)、ツッコミどころ満載で笑えるからだ。
中国や、どこの国か分からないけど何となくオリエントな要素がごちゃ混ぜになっていたり、突然忍者が出てきたり、坊さんのように意味もなく合掌したり。
批判を予期してか、本作は赤穂浪士をモチーフにしたファンタジー・フィクションと銘打たれている。予防線を張っているわけだ。
しかしいくら『ファンタジー』と断りがあっても、『ラストサムライ』がまともに見えるほど本作はぶっ飛んでいる。
まず冒頭、モンハンに出てきそうなバッファロー然としたモンスターが現れる。
オッコトヌシ様みたいな化け物ではなく、地球外生命体みたいなやつだ。
監督の"殺る気"を感じる。
ちなみにこのモンスター、ストーリーの本筋とは関係がない。完全に『この作品はファンタジーなんですよ!』という監督のエクスキューズである。
おかしなところを挙げればキリがない。以下、ひときわ突き抜けている点だけを挙げていきたい。
まずキアヌ・リーブス演じる主人公カイ(オランダでもポルトガルでもなく英国人とのハーフという設定だが特に意味はない)
なんとなく才能がありそうだからという理由で赤穂藩浅野氏に可愛がられるのだが、召し抱えられるわけでもなく身分は不明なまま。
ベンチでぼぉ~っとしているキアヌみたいに、訳の分からない小屋で暮らしている。足軽くらいにでもさせてやれよ。
赤穂にはもう一人珍客が来る。赤穂の"隣国"長門(?)の吉良だ。……う、うん。
そして真剣を使った赤穂 VS 長門の1対1ガチ真剣バトルが将軍様の面前で始まる。……う、うん(2回目)
そのバトルにキアヌが闖入し、「身元不明なキミがバトっちゃダメよ」と将軍がキレ、浅野氏は詰め腹を切らされる(物理) 気の毒だ。
キアヌは「俺は悪くない。悪いのは妖怪なんだ」とアニメみたいな言い訳をし、お取り潰しの憂き目にあった赤穂浪士たちはその言を信じる。
浪士たちは散り散りになるが、なぜか大石蔵助だけ「危険だから」という理由で吉良によって1年近く投獄され、その後なんのお咎めもナシに釈放される。
晴れて自由の身となった大石はキアヌ、そしてかつての仲間を集める。
ちなみにキアヌは「ゴロツキで溢れかえる出島」でファイト・クラブの真似事をしているところを大石に拾われる。私の知っている出島と違う。
仇討ちを決意する浪士たち。しかし「刀が無い」というよく分からない理由でキアヌのふるさとである天狗のすみか(!!)へ行く。
天狗のすみかへ行くと、スター・ウォーズのヨーダとチベットの僧侶を足して2で割ったような生物がキアヌを迎える。どうやらこの生物が天狗らしい。
キアヌは天狗とちょっぴりバトルし、怪しげな妖刀を47本くらい手に入れる。ちなみに妖刀である設定は英国人なみにどうでも良く、のちの展開には全く影響しない。
赤穂藩を併合した"長門"の吉良は、赤穂藩の城で妖女(狐になったり竜になったり髪がメデューサみたいになったりとキャラが定まらない)と暮らしている。
吉良を討ち取るべく赤穂に向かう浪士たちは道すがら、かつて浅野氏に召し抱えられていた臣下たちに出くわす。
大石内蔵助「47人じゃ勝ち目ないからさ、協力してくんない?」
元臣下たち「……はい(パイセンに言われちゃ断れないよな……)」
巻き沿いにするな。
"大勢の赤穂浪士"はノリと勢いで討ち入りし、吉良と妖女を倒す。
最後、浪士たち(47人のみ)は切腹を命じられるのだが、大石の息子(赤西仁)だけは「お前、許してあげる」と将軍に言われて助かる。事務所圧力だろうか。
以上がストーリーの概略だ。
俺の書いたことに一人
「「ベートーフェンが正しい」× オランダ語由来だからヴァン・ベートーヴェンが正しい(ただしヴァンは家称には含まない)。ドイツ語固有名詞の発音では Duden Ausspracheworterbuch が権威(ドイツ人にとっても)」
って指摘してる人がいるんだけどさ、俺がこのベートー“ベ”ン表記問題を知ったのって、石井宏 著「クラシック音楽意外史」東京書籍刊なんだよな。
著者の石井氏もこのことを疑問に思って周囲に聞いて廻ったら、「オランダ語由来だから濁音でかまわない」って言われて安心していたら、いざオランダに行ってみたら清音だったんでびっくりしたって書いていたんだよ。ビンセント・ヴァン・ゴッホのことも指摘していた。
俺がこの本を読んだのが大学生の時で、語学に堪能な奴に聞いてみたらやはり「オランダ由来だから…」と言いかけて喋るのを辞め、あわてて撤回していた。
(それとも、アレか?ベートーベンはナポレオンと同時代、ナポレオンはオランダ経由で新井白石たちに知られていた、新井白石は徳川綱吉の子家宣のブレーン、この綱吉・家宣の時代のオランダ語はvは濁音だったのか?)
あと大学卒業してから商用で渡独する人に聞いてみてもらったら、ドイツ語ってもの地方によって様々なんだってな。プロイセン、バイエルン、ザクセンなどなどで、「実は俺ん所の言葉がドイツ語の模範になるべきなんだ」と思っているようで、絶対的な正しさを決めるのは困難らしいんだってさ。
でさぁ、俺の言いたい一番の問題は「本当のところ、何が正しいんだ?」じゃぁ無いんだよ。
一般的な日本人は、こういった外国語に疑問を持っても、気軽にネイティブに聞ける環境には無いってのが一番の問題だと思うんだよ。
指摘してくれた人、生粋のドイツ人に確認して書いたのか、ドイツ語を学んだ日本人から聞いて書いたのか、そこが重要だと思うんだよ。
元増田だけど痴漢行為に対する「憤り」の低さ自体はあったと思うよ。
痴漢をするまでのハードルが低いっていうかさ、やっぱり男目線の常識はあったと思う。
「男の子は元気があってよろしい、わっはっは」
てなもんで、それに反発すると、
「そんなことぐちゃぐちゃ言っているのはブスだけ」
みたいな反応はやっぱりあったわけだから。
でも、今、逆向きの反応もあるっていうか、
男が男として感じる理不尽を言えば、
みたいな反応もやっぱり今はあるわけで、そういうのってフェミはやられたことをやり返しているだけじゃんと思ってしまう。
そういうのって不毛だなと。
徳川綱吉の生類憐みの令が、むやみに殺生をする殺伐とした戦国時代の名残が残る社会の意識改革だった、という考えが、
今はあるみたい。そういうプラスの効果もあったと。
でもやっぱり社会システムとしては無茶苦茶な結果を招いたのも確かで、
じゃあ野犬を処分したら人間は処刑されるようなことがそのまま続いてよかったかと言ったらそうでもないわけで。
痴漢犯罪に対する意識を大きく改善させたのは間違いないと思うよ。
こうまでしなければ、男のほとんどは問題意識ももたなかっただろうってのもたぶんそう。
でもやっぱり、冤罪を生じさせやすいシステムは間違っているわけで、
男だ女だという以前に一個の個人にシステムの負荷をおわせる仕組は改められるべきだって思う。