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はてなキーワード: ゴッホとは

2012-01-04

http://anond.hatelabo.jp/20120104225345

鳥山明とか大友克洋絵師に入るの?

ゴッホとかゴーギャンも?

入るだろ。

萌絵描かないで商売成立してる絵師っているの?

山ほどいるだろ。

http://anond.hatelabo.jp/20120103222557

画家イラストレーターも含めて、絵を描いて公開している人

鳥山明とか大友克洋絵師に入るの?

ゴッホとかゴーギャンも?

 

萌絵描かないで商売成立してる絵師っているの?

2011-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20111013190929

それ見たけど、色弱の俺には、一番上の絵以外は修正版とオリジナルとの区別がほとんど付かなかった

要するに俺は約95%の人が見てるゴッホの絵とは違うもんを見てたんだなと思って、ちょっと愕然とした

自分はきっと健常な色覚の人よりくすんだ色合いの世界を見てるんだろうな」とは漠然と考えてたけど、これだけハッキリと違いを突き付けられるとなかなか強烈だ

ゴッホは右のを描いてたつもりだった

http://anond.hatelabo.jp/20111013190929

つもりだったって事ですか?

不思議ですね。

色覚異常について、少しだけ

http://b.hatena.ne.jp/entry/asada0.tumblr.com/post/11323024757

ゴッホの絵で色覚異常の話が盛り上がっているので、せっかくだから語っておきたい。



色覚異常は、色覚が異常な状態だ。

人間の目には、3つの色覚がある。赤メイン(L錐体)、緑メイン(M錐体)、青メイン(S錐体)だ。

メインと書いたのは、それ以外も見えているからだ。

メインの色覚が欠けているからといって、赤が見えなくなるわけじゃない。

うっすらとだけど緑側でも見えてるのでフォローできるからだ。

2色覚の人間は、日本人だと男性に多い。

大体日本人男性の4.5%と言われている。22人男がいたら1人は2色覚だ。

メインか緑メインが無い場合が多いらしい。



ただ、日常生活では滅多なことでは問題にならない。

赤と茶色の区別がつかなくて困ることはめったにないからだ。

色の区別がつきにくいとは言っても大体なんとかなる。

結局生まれた時からずっとそうなんだし、世界はそう見えている。

別に困ることはない。

LANケーブルを自作しようとして色の区別がつかなくて困るぐらいだ。

色に詳しい人なら、独特な色相を持っている人、と言い換えても良いかも知れない。



他人にとって自分の「青」と「赤」が入れ替わって見えていたとしても、

例えば海が真っ赤に見える人が居たとしても、区別はできない。

本人には海は赤く見えている。

でも他の人はそれを「青い」と表現するし、本人もその色を「青い」と表現する。

実際にどんな色で見えているかは、他人の頭の中を覗けないかホントのところはわからない。

から、赤と青が入れ替わっている異常な人がいても、それを識別できない。



そのかわり2色覚の人には問題がある。

さっきさらっとLANケーブルを作る時に問題になるといったが、表現には問題がある。

赤と茶色に区別がつかない人は、赤を表現しようとして茶色を使ったり、茶色表現しようとして赤を使ったりする。

それも、色が濃く見えるからとか、色が鮮やかに見えるからとか、そういう理由で。

場合によってはクレヨンが余っていたからという理由で使ったりもする。



判り難いだろうか。



こう想像して欲しい。

あなたは、白黒でしか世界を見ることができない。

色の半分は白で、色の半分は黒だ。

から、絵を書こうとクレヨンを開けると、半分は白で半分は黒にしか見えない。

そして、人物を書いたとしよう。

区別はつかないけど、微妙に黒の中にも種類があるように見えるから

濃い黒や薄い黒、区別がつかないとき適当に混ぜてそれっぽく絵を描いてみる。

目に写った色をそのまま再現できるわけじゃないから、自分で黒を選んで描く。

間違えたときには白いクレヨンで修正したりするかも知れない。



ここで、カラー世界で生きる人がその絵を見たとする。

赤橙黄をほぼ一切使わずに、緑青藍紫で人物を描いている。時々緑に紫が混ざる絶妙な色合い。

それを絶賛する。素晴らしいと。



でもそれは、偶然の産物だ。



たまたま黒(緑)と濃い黒(紫)を、描いたあなたには区別がつかなかったから使ってしまっただけだ。

ある時それに気がついて、あなたの絵を、カラーの人にも判りやすいように、白黒に直してくれた人がいたとする。



そしてさっき絶賛した人はこういう。

オリジナルのほうが良かった。

白黒では単なる凡庸な絵だ。

あの色合いが素晴らしいのに判っていない。



僕はそれはとても悲しい事だと思う。

あなたの絵には価値がないと批評する人が言う。凡庸だと。

そして、あなたには認識できない偶然の産物こそが素晴らしさだと言う。



芸術とはそういうものかも知れない。

作品の評価と、作者の才能とは別だというのも理解は出来る。

自分には理解できない偶然が、他人を感動させるのかも知れない。

でもそれは、作者の意図とは離れたところにある。

それだけは覚えておいて欲しい。



僕は、ゴッホの絵は素晴らしいと思う。

変換後の絵が素晴らしいと思う。

それは、ゴッホの描く作品が素晴らしいと同時に、ゴッホ本人の才能によるものだ。

僕はそう信じる。

2011-08-12

もしドラ作者「エースの系譜」あとがき全文

もしドラ」は処女作ではない。

から十三年前の一九九八年に、二九歳にして小説家への転身を図った僕は、およそ三ヵ月という期間をかけて、

真の処女作成るこの作品「エースの系譜」を書き上げた。その執筆の経緯をここに記しておきたい。

うん、そうなんだ。すまない。「もしドラ」作者の次回作を期待して買ったと思うが、実はこっちのほうが先なんだ。

でも、この本を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない 「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。

殺伐とした糞小説の中で、そういう傑作を忘れないで欲しい

そう思って、このあとがきを書いたんだ。 ついでに俺とこの小説の馴れ初めを聞いていってくれないか



三十歳を目前にして小説家になりたいと強く願った僕は、まず手始めに四百字詰め原稿用紙にして六十枚ほどの習作を書こうと試みた。

六十枚とした理由は2つあって、

始めての作品だったから短めに仕様としたことと、

もう一つは、文藝春秋から出ている「Number」という雑誌で当時、スポーツノンフィクション新人作家を発掘するコンクールが開かれていたのだが、応募規定が六十枚だったことである

その時ぼくは、「Number」に掲載されているようなものを書きたいと思っていた。

といっても、スポーツノンフィクションを書きたかったのではない。

Number」に掲載されている記事のようなテイストで、フィクションを書きたいと思っていたのだ。


なぜ「Numberテイストフィクションを書きたかったのかといえば、その文体に惹かれていたからだ。

Number」の文体には「Number文体」とでも呼べるような、ユニークな特徴があった。

簡潔でリーダビリティに富みながら、遠く特の修辞法や言い回しによって読者をワクワクさせるケレン味も兼ね備えていた。

それをフィクション適用すれば、フィクションノンフィクションの境目が曖昧になる虚実皮膜の魅力を小説に持たせられるのではないかと考えたのだ。

そうしてNumber文体小説を書くことは決まったのだが、どうせなら内容や分量も「Number」に準拠したものにしようと考えた。

さらには、それを洒落で「Number」の新人賞に応募しようとまで考えたのだが、これは後述する理由で断念することになる。

ともかく、そういう狙いをもってぼくはその作品の準備をし、執筆に取り掛かった。

小説を書こうと思った僕は、自分が好きだった雑誌Numbers」の文体を参考に執筆を開始することにした。



肝心の物語は、とある高校の野球部舞台にしようとした。

高校時代、ぼくは拠ん所ない事情から野球部のない学校に通っていたのだが、そこで野球をするには軟式の同好会へ入るしかなかった。

そのため、甲子園への道ははじめから閉ざされており、そのことが、甲子園出場が幼い頃からの夢だった僕にとっては身を引き裂かれるような痛恨事となっていた。

そのため、いつからか「今のこの状態から甲子園に行くにはどうすればいいか」と、その道筋を夢想するのが癖となった。

そのことを書こうと思ったのだ。

高校時代自分学校はどうすれば甲子園にまで辿りつけるかと考えた道筋のあらましを、小説にしてみようと思ったのである

題材は、高校野球にすることにした。



書き始めに際し、僕はその夢想の道筋---則ち野球部のない高校が甲子園に出るまで---には、最低でもおよそ十年間の歳月がかかるだろうと見積もっていた。

から最初は、その十年の歴史をあらかじめ設定してあった六十枚という分量の中で書ききろうとしたのである

ところが、いざ書き始めてみると予想外のことが起こった。

その夢想を追憶するうちに、次から次へとさまざまなエピソードが思い浮かんで、筆が止まらなくなったのである

おかげで、予定の六十枚にはあっという間に達したのだが、内容はというとまだ本の一年半分ほどしか書ききれていなかった。

そこでぼくは、方向転換を余儀なくされた。

分量を、当初の予定だった六十枚に納めることを諦め(同時に洒落コンクールに応募するのも諦め)、この先何枚かかるか分からなかったが、とにかく十年を描き切るまで書き続けようと決めたのである


そうして三ヵ月が経過した後、ぼくはとうとうそれを書き上げた。

書き上げた時には、原稿用紙は六百七十枚にも達していた。(当初予定していたもの十倍以上だった)

「緻密に選手クローズアップするNumber文体」と「10年間の分量を原稿用紙60枚」。どっちもやらなくちゃいけないってのが小説家のツライところだな。

覚悟はできてるか、俺はできてる。

(中略)

とおもってたんだけど無理だった。ごめんてへぺろ☆(・ω<)



するとぼくは、その書き上がった現行に対し、不思議な感慨を抱いた。自分が書いたものであるにもかかわらず、自分ものとは思えなかったのだ。

いや正確に言うならば、その分を書いたのが自分だという実感はあった。しかしながら、そこに書かれている物語自分が考えたものだとは思えなかったのである

それはまるで、もとからこの世界存在していたものであるかのようだった。

いや、もはやある種の「事実」のようであもあった。

ぼくのしたことは、その事実テキストとして書き起こしたにすぎなかった。

まり、まるでスポーツノンフィクションの作品を書いたような気持ちだったのである

そのため僕は、書き方についてはともかく、内容については大きな自信を抱くこととなった。

なにしろ、自分が興味をいだいた事実を取材して書いたような気持ちだったから、誰が読んでも面白いだろうと信じて疑わなかったのである

そのため、これを誰かに伝えたいと強く思った。伝えて、その面白さを共有したかったのだ。

面白いものができた。



そうしてぼくは、これを世に出す算段を巡らせた。

初めは、幾つかの出版社手紙を添えて原稿を送付した。

しかし、そこではなんの答えを得ることも出来なかった。

いつまで経っても返事は来ず、そのまま数カ月が過ぎた。

そこで、今度は電話で問い合わせてみた。原稿を送付した出版社に対し、

原稿は届いているか、届いているなら読んでもらえたのか、読んでもらえたのならどんな感想だったのか---それらを聞こうとしたのである

しかしながら、そこでも芳しい答えを得ることは出来なかった。

何人かの編集者は実際に応対してくれたし、一人は会って話をしてくれたが、しかしやっぱり、前向きな返答を引き出すことは出来なかった。

評価されなかった。



それから、ぼくの苦悩の日々が始まった。三年をかけて、さらに四作の小説を書き、小説家として世に出ることを試みた。

しかし、紆余曲折の末、ついに挫折するに至ったのだ。

その試みを諦めざるを得なくなり、おかげで、それらの作品が出版にいたることはついになかった。

そうしてぼくは、小説家への転身を諦めたのである

小説家を諦めたぼくは、以降の人生を勤め人として生きることを決意する。

落ち込んだ。



ただし、小説は勤めの傍らで書くつもりだった。

ぼくの敬愛するルソーゴッホという画家は、絵は売れなかったがずっと描き続けた。

カフカ宮沢賢治も、生前は脚光をあびることはなかったが、死ぬまで書き続けた。

そういう存在に、ぼくもなろうとしたのだ。

小説出版しなくてもいいから、死ぬまで作品は書き続ける---そんなふうに生きていこうと決意したのである

立ち直った。



ところが、そんなぼくに青天の霹靂ともいえるできごとが、やがて訪れる。

処女作を書いてから十年後の二〇〇八年、ダイヤモンド社編集者である加藤++さんから小説執筆依頼を受けたのだ。

そこで、ぼくの胸中にはさまざまな物思いが去来した。

思わぬ形で描き上げた処女作のこと、それからの三年間の苦労、さらにその後の勤め人としての生活---そうしたことがぐるぐると駆け巡った。

チャンスがキタ

ところで真のアルファブロガーま○めさんはいなかったことになってるね




その時、ぼくは決意した。

この作品は、二百万部を越すベストセラーにしようと。

そうしなければ小説家としてのぼくの人生はいよいよ完全に閉ざされたものになってしまう。

あるいは、ぼくの書き上げた「エースの系譜」を含めた五篇の小説は、永久にその出版の機会を失われてしまう---そんな危機感を抱いたのだ。

チャンスに浮かれることなく気を引き締めた。



そうして書いたのが、「もしドラ」だった。

すると、二〇〇九年十二月に発売されたこの本はすぐさまベストセラーになり、幾度も版が重ねられた。

大ヒットした。



それから半年が経過した二〇一〇年五月、講談社マンガ編集者である村松++さんから連絡を頂いた。

要件は、「もしドラ」をコミック化したいというものだった。

しかし、この時は既にコミック化に関しては別のオファーを頂いていたから、彼にはそれを断る旨を率直に伝えた。

その上で、無碍に断るにも失礼かと思い、何か別の形で貢献できることはできないかと考えた。

その時ふと脳裏をよぎったのは、十二年前の記憶だった。十二年前、あれほど強く世に出したいと願いながら、結局それが叶わず、今もパソコンハードディスクの奥に眠ったままの、「エースの系譜」のことだった。

これを世に出すことはできないか---ぼくは、会いに来てくれた村松さんにプリントアウトした原稿を託すと、「もしご興味がおありなら、これをコミック化してもらうのはどうか」ということを打診した。

チャンスを活かしてヒットをものにしたら、さらにチャンスが広がった。



すると数カ月後、村松さんからぜひコミック化したいとの返事を頂いた。

それは、僕の積年の願いがかなった瞬間であり、嬉しかったのと同時にホッとさせられた出来事でもあった。

このままこの物語を眠らせておくのは、何よりこの物語に対して忍びないと思っていたからだ。

ところがその数カ月後、さらに思わぬご依頼を村松さんから頂く。それは、これを単にコミック化するだけではなく、小説としても世に出さないかというものだった。

村松さんが言うには「この小説はとても文学的なので、コミック化したときには、表現の特性の違いなどから、この文学的魅力がいくらか薄れてしまうことになる。しかしそれは非常にもったいない。この作品は、物語としての魅力もあるが、純粋文学としてもとても魅力的だ。それを十全に表現できるのは岩崎さんの書いたこの原稿以外ない。だから、それをこのまま眠らせておきたくはない」とのことであった。

ついに、ぼくの願いは十三年越しにかなった。



そうして「エースの系譜」は、実に十三年という長い月日を経て、ついに世に出ることとなった。その小説版編集には柴山++さんにあたっていただいた。村松++さんと柴山++さんのお二方には、大変お世話になった。この場を借りて、お礼を述べたい。ありがとうございます

最後に、この本はぼくの幼なじみである+++++くんに贈るということを、ここに記したい。小学校一年生の時、クラスメイトだった+++++くんの家に遊びに行った折、そこで彼の持っていたマンガドカベン」に出会ったぼくは、たちまちその虜となった。そのことが、後にぼくが野球にのめり込むきっかけにもなったし、マンガ創作活動に対する興味を抱くことのきっかけにもなった。これがなければ、ぼくは「もしドラ」や「エースの系譜」を書いていなかっただろう。++くんが、ぼくにこの物語を書く契機を与えてくれたのだ。++くん、ありがとう

そして伝説・・・




熱い、熱いぞ岩崎先生。申し訳ないけれど、小説より彼のあとがきの方がおもしろかった。

ぜひ彼の熱い人生を「アツイホノオ」の島本先生コミカライズしていただきたい。

2011-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20110213194221

まあ全て正論なんだけどさ

そういうのできない人いるじゃん?

ゴッホたい性格破綻者とか

テオみたいな慈愛に満ちた人がいればいいけど

いない人とか、でもうまくやれない人って多いと思うんだ

そういう苦痛ぶっちゃけてみたらと思った

セルフブランディングなんて自分にとっちゃ嘘だもの

2010-12-02

ゴッホが咳をしたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

ゴッホゴッホwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

2010-09-17

ゴッホ「夜のカフェラテ」が挿絵に使われていた、子供でも読める様な簡単な小説の事を唐突に思い出したんですけどタイトルも具体的な内容も覚えていません。

有名な作品だったと思うのですが、誰かご存知ある方はいないでしょうか?

2009-11-14

[blog][music]学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点

http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650



はてブクマしてほっといたがコメントを後から読んでみた感想増田に書きますよ。

あ、先に断っとくとブログ主じゃないですよ。

主さんの考え方とはおそらく明らかに違うことをざっと書きますので。



さて、センス至上主義の人たちってのはことごとく残念な方が多いですね。

僕も頭は悪いけど、どんなことでも自前で考えることを辞めてはいませんから、

この人たちと比べりゃ少しはマシかなと思っています。



なぜマシかな?と思っているかを書きましょう。



芸術に限らず物事を見るっていう行為には、必ず束縛されるものがあります。

物事を見るヤツの脳みそです。

脳みそ(全身の神経、肉体を含んでもいいです)にはそいつが生きてきたあらゆる経験が蓄積されています。

全部喋るワケにはいかないので、芸術鑑賞に限りますが、

鑑賞するにも当然経験というものが大きなファクターを占めることになります。



生来のセンス、なんてものはここでは殆ど意味を成しません。

というか、芸術における生来のセンスなんてものは人間には備わっていません。

しいて言えば、生まれた環境、育った社会で目にし耳にしてきた事、この蓄積が異なるくらいでしょうか。



ですが、肉体の素質の差というのは、確実にあります。

有名な話ですがピカソは10歳ごろには既にものすごく達者な写実絵を描かれていたそうです。

そんなに幼いころにすばらしい絵を書けたという事はものすごいセンスの持ち主ということじゃないか!と言われるかもしれませんが

残念ながら全くの早とちりから来る誤りです。

写実絵というものは、インプットアウトプットの精度の問題であり、センス云々は全く関係しない分野なのです。

つまるところ、肉体性能…筋力とかじゃないですよ。この場合は目の力、空間把握能力、そして手の器用さです。

これが達者だったからピカソは幼くしてすばらしい絵がかけたんですね。



あ、こういうとまた文句を言うヤツが出ますね。

写実絵というのもセンスは必要ですよ。

構図のとり方、ライティング、描くものの配置など、考えなければならないことはたくさんあります。

ま、これはセンス至上主義者、才能至上主義者信仰するような

生まれ持ってのセンスなどではなく(そもそもそんなものは存在しないといいましたね)、蓄積されたセンスですがね。



ピカソの絵はルールを破っているということを理解できてはじめて意味がある。守破離と言うヤツですね。

ルールが無いヤツは最初から型破りなんて出来ないんです。ルールが先にあってこそ、型破りを実行することが出来る。

美においてルールとは、観察と経験の蓄積と人間の肉体感覚によってのみ規定されるものなのです。

かつては文化圏文明圏ごとに感覚が分かれていましたが、ネットによってある程度統一化されてきているなぁと感じます(脱線)。

精巧な写実絵を幼くして書くことが出来たピカソは、それまでの画法と異なる彼独自の画法で表現を行っていく道を行った。

何故かと言えば、それが彼が伝えたいことを彼が伝えたい人に一番伝わる方法だとピカソが結論したからでしょう。

優秀な表現者というものは、ここでは芸術家のみの例を挙げていますが、文筆家にしろ、技術者にしろ、あるいは一個人でも同じですが、

自分が伝えたいことが自分が伝えたい相手に、どうすれば伝わるのかを常に考えているはずなのです。



純粋芸術なら、当然、芸術家本人が持つ問題意識(単純に環境破壊とかそういうものでなく、

赤ちゃんをどうやって可愛く描くか」のようなライフワーク的なものも考えられますね)からなるテーマがあり、

それに対する回答が作品となるでしょう。受け手は問題意識を理解してほしい鑑賞者であり、作者自身でもあります。

商用芸術では昨今では仔細なマーケティングが行われていることは周知の通りです。

それがたとえアウトサイダーアートだとしても、自覚的に商売としてやるのであれば

自分が何をしているのか、自分はそれをどうしたいのか、どう売り込みたいのか、考えているはずです。



それが理解されるかどうかは別として、自分が伝えたいことを自分で明確に出来ない芸術家は大成するはずがありません。

伝わるアテの無いものを創ることは幼い子供や、本当の趣味人に与えられた特権と言えるでしょう。

「そんなこと一切考えて物を作ったことなんて無いけど芸術で暮らしていけているよ!」という方は

きっとダウンタウン松本氏における浜田氏の様な素晴らしい相方と出会えたのですね。おめでとうございます。



さて、問題は伝わる方です。



自分の見たことの無いものを鑑賞するとき、人はどうするでしょうか?

生来のセンスがあれば、ちゃんとした評価が下せるのでしょうか?

それとも、間違っていてもセンスで感じたことが正しいのだと言い切れるのでしょうか?



順を追って考えれば、殆どがまずそのものをちゃんと見ようとするはずで、

目にした瞬間エレクトリックサンダーが全身に走るような至福の体験を得るなどということはありえないはずです。

人間なんてもんの見た瞬間に出る感情は、自分がそれまでに見てきたものから割り出すように出来ているんです。

人は完全にわからないものと触れる時、評価を下すには多少の時間を要するのです。

生来のセンスなるものがあるなら、そんな時間は必要ないでしょう。何も考えずその場でパッと決めてしまえばいいのです。ゲド戦記はクソ、とか。

ま、ゴッホみたいに死ぬまで放置されてから評価される画家もいますから、そんなヤツはセンス0の大馬鹿者であると断じてしまえるわけですが。



ちょっと古いですが、アイフォーンをはじめてみたとき、

「ああ、ついに完全タッチパネル携帯が発売されるのだな。人類革新だ」って思った人は先に記事を読んでる人だけで、

そうでない人は「キーパッドないの?」「液晶DEKEEEEEEEEE」「なにこの□」のように、

見た目からはこれまでの携帯とは形が違うから、どういうものなのかを判断しようとしたと思います。

芸術だって同じです。見たことが無いような作品、バックグラウンドがわからない作品を理解することは出来ないのです。



ゲルニカを最初に見た時、僕はこの絵が壁画として作成されていることがわかりませんでした。

あと感じたことは、「ちょ先生教科書に微グロ入ってるんですけどこれ」くらいのもんです。

だってなんか変な生き物が人を食んでいるんですから。

戦争の絵って言われても戦争まんがははだしのゲンしか知らない僕からしても大いに差があり(だって人間しか出て無いですからゲンは)、

戦争関係なくね?マジキチ」としか考えられなかったことを思い出します。



今ではこの絵がどういう背景で、どういう意図を持ってかかれたものかわかります。

だから、あの大きな絵に描かれた一つ一つの人物、動物にどんな意図があるのか、

それがピカソという偉大な画家の考えと一致するかはわかりませんが、僕なりに思いをはせることは出来ます。

即断即決で評価を下す必要なんて無いのです。時間がたてばわかることだってあります。それが蓄積されたセンスの成長なのです。

一つの作品を前に、作者とその時代、昔の自分、今の自分、そして作品そのものと触れ合う体験が出来るのが芸術鑑賞なのです。

同じような体験として、聴かなくなった音楽を久々に聴いたときの感覚があるでしょうね。



卑近な例で示したとおり、自分自身というものは変らないように思えて、

仕事学校人間関係を経ることで常に変化しているものなのです。

センスなんて言葉確信的に使ってはいけない理由はこの一点なのです。

使っても問題ないのは人を褒めるときくらいでしょう。それ以外の場面では、使わない方がいい。



人間のセンスはある程度のブレ幅までは抑えられるが、完全に固定できない。

それなのに、センスなどという曖昧模糊なもののみを後ろ盾にし、

他に根拠の無い好き嫌いを強弁するなどという子供じみたマネは

魔術的盲目さすら感じる薄ら寒い行為と断じるほか無いのです。



それとも、共感できれば、自分が根拠なく、しかし好きだ、正しいとは感じることが出来ればそれでいいのでしょうか?

僕はそうは思わない。



勿論経験によるセンスは人それぞれなんで、好き嫌いはあります。

見たものをそのまま感じ取ってそれがよい体験となる芸術作品もたくさんあります。

ですが、感情にそのまま訴えかける芸術というものは、やもすれば危険物にすらなりうる可能性を捨ててかかってはいけないのです。



人類歴史は、いかに肉体欲求をコントロールしてきたかの歴史でもあるわけです。

人間のしくみが生命機械であるとわかっている以上、感情もまた肉体欲求の一つです。つまり、制御出来うるのです。

オカルトなんかじゃありません。

あなたがメディアを通してあなた自身とかかわりの無い人間に対してどれほど多くの感情をもっているかを想像してみれば、わかるはずです。

MMRに書いてあったサブリミナルみたいなヨタなんてメじゃない恐ろしさです。



で、メディア芸術の違いは、僕からみれば非常に曖昧です。

出自や成り立ちは芸術大学なんて出てませんから知りませんし、教養も無いからわかりませんが、

聴覚(場合によっては他の感覚)を通して物事を伝え、感情を伝えるという共通点があります。

もしあなたがメディアになにかしらの違和感を感じ、それが問題であると考えるのであれば、

芸術に触れた違和感を感じたら時にも問題意識を持たないといけません。

あなたの友達がそう訴えてきたら、ちゃんと話を聞いてあげないといけません。

(ま、友達の感じたことも受け入れられないのであれば芸術鑑賞そのものの否定をしていることと同じと言えなくも無いですが)



そんな窮屈な思いはしたくないと言うなら、好き嫌いすら語らないことです。

それならセンスが似たもの同士で集まればいいじゃないかと思われるかもしれません。

それが良くないとは思いませんが、しかしその集団に居続け他の意見を聞かないことは、

徐々に感覚麻痺させ自分たち以外の感覚への無理解をはぐくみ、閉塞へ向かって突っ走ってるだけであり、

スイーツ(笑)」やらなにやら言って喜ぶ人間に成り下がるだけのよろしくない行為と言えましょう。

現に今の社会は閉塞したコミュニティの複号体になってしまっており、

その要因の一つが芸術メディアの受け取り方だとすれば、

表現という形でコミュニケーションを図る物自体の存在意義が変化していることの表れなんでしょうか。

(テレビみねー、ゲームとか興味ねぇ、美術館とかブルジョアか!などいろんな派閥がいるでしょうな)

その変化が感覚や感情のような曖昧でふわふわしていると思われているものに密着しているなら、危惧すべきことだと思います。



なんかとっちらかっちゃいましたが、つまるところ、

センス至上主義者は考え直せ、頭を使え、鑑賞してる時の楽しみ方に文句をつける気は無いから。

と、言いたいわけです。



僕としては、こんなクソ長くクソ面白くもなく他人人を完全に否定するようなシャドーボクシング的文章を最後まで読んでくれたあなたが

自分の考えもオンリーワン世界に一つだから思想修正主義絶対反対とか言いながら

芸術作品に対して自分の考えのみを誇示し続け、異論をことごとく無視し自分と同じセンスの持ち主だけで結託して外に出ない、

あるいは自分と異なるセンスは認めず叩き潰すことに快感を覚えるようなサイコパスでないことを祈るばかりです。



だって、芸術の感じ方なんて、人それぞれでしょう?

2009-09-21

http://anond.hatelabo.jp/20090921220226

ゴッホみたいに後で評価されるんじゃない?

2009-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20090901160005

意味が分からない.軽く笑った.




いくら著者が「レビューを欲しがっていない」としても,その意志はなんの拘束力も持たない.

売り物として並べた以上,買い手が法に触れないいかなる行動をしようとも,それを禁止する権利なんて販売主にはない.

ゴッホの絵ほど社会的価値が高い訳でもないから,社会運動になって晒しが止められることもなかろう.

2009-07-19

http://anond.hatelabo.jp/20090719215235

理解されないまま苦しむしかないのかなあ・・・?

死んでから評価されたゴッホみたいに。

2009-05-14

http://anond.hatelabo.jp/20090514005826

そういうビンテージもそう言われれば中古販売になるな。

何でも鑑定団とかの古伊万里とかもそうだね。西洋アンティークとか。

ああいうのも基本捨てろってことなんだろうか。ゴッホひまわりだろうがダビンチのモナリザだろうが二人目以降の所有者は基本ダメだと。

親から住宅受け継ぐのもなしか。新しい住宅立ててあげないと建築会社に失礼だもんね。

ていうか楽器なんて思いっきビンテージ世界あるよなあ。ギターとかの近年のものだけじゃなくバイオリンとかで何千万とかさ。ああいうのも捨てろってことか。

2009-04-09

http://anond.hatelabo.jp/20090408121545

はて、才能の有り無しをかたるのは芸術に限った話か否か?

何事につけ才能の有る無しはあると思うんだが。あらゆる分野で。

才能があるからアーティストとして幸せになれるのか。幸せって何?お金

未だに人に衝撃を与えるゴッホはどう見ても社会的には不幸だったし、自覚的にも幸福にはなれなかった。

彼は才能はなかったのだろうか?それとも才能を見出す人間がいなかったのか?

たまた成功するアーティストはどこから生まれてくるのか?

ストリートから生まれて商業的に成功したミュージシャン才能があったのかなかったのか。

NYのアートシーンから生まれるアーティスト才能があるのか。

大器晩成型のアーティスト存在しないのか。

自分才能自分で見切った時点でアーティストとしては失敗なんじゃないのか。

アーティストとは生きている間に評価されるべきものなのか。

人の能力を人が評価することがどれだけ確かなのか。

そこには本当に驕りはないのか?

アーティストとは、名付けられるものなのか、名乗るものなのか。

私にはわからない。









自分は何流だか知らないゲイ大を出て一部上場製造業デザイナーをやっています。

自分才能があるなどと思ったことは一度もありません。

それでもデザイナー仕事にした以上、自分が満足できる仕事がしたいと思いますが、果たせることはないでしょう。

2009-02-24

http://anond.hatelabo.jp/20090224223532

「優秀」という言葉をそういう風に使い始めるとすべてが混乱するぞ?

そもそも自分に不利な大学を選択した時点で優秀ではないことになる。

結果ですべてを判断すると、世間に認められない場合は優秀ではない。

チューリングテスラゴッホは優秀ではないということなのか。

2008-12-15

処女厨議論(笑)

なんで好き嫌いだけでそんなにみんな必死になれるの?

そもそも、なんで価値観について議論する必要があるの?


処女が好きな人は処女探せばいいじゃない。

処女嫌いな人は処女じゃない人と付き合えばいいじゃない。


価値観」は議論できないんだよ。


納豆はウマいかマズいか』とか、

ゴッホピカソどちらが優れた絵を描くか』とか、

笑い飯キングコングはどっちが面白いか』とか、

そんなの結論出ないに決まってるでしょ?

処女厨議論もそれと全く同じベクトルだよ。

2008-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20081205094708

俺の書いたことに一人

「「ベートーフェンが正しい」× オランダ語由来だからヴァン・ベートーヴェンが正しい(ただしヴァンは家称には含まない)。ドイツ語固有名詞の発音では Duden Ausspracheworterbuch が権威ドイツ人にとっても)」

って指摘してる人がいるんだけどさ、俺がこのベートー“ベ”ン表記問題を知ったのって、石井宏 著「クラシック音楽意外史」東京書籍刊なんだよな。

著者の石井氏もこのことを疑問に思って周囲に聞いて廻ったら、「オランダ語由来だから濁音でかまわない」って言われて安心していたら、いざオランダに行ってみたら清音だったんでびっくりしたって書いていたんだよ。ビンセント・ヴァン・ゴッホのことも指摘していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B

俺がこの本を読んだのが大学生の時で、語学に堪能な奴に聞いてみたらやはり「オランダ由来だから…」と言いかけて喋るのを辞め、あわてて撤回していた。

(それとも、アレか?ベートーベンナポレオンと同時代、ナポレオンオランダ経由で新井白石たちに知られていた、新井白石徳川綱吉の子家宣のブレーン、この綱吉・家宣の時代のオランダ語はvは濁音だったのか?)

あと大学卒業してから商用で渡独する人に聞いてみてもらったら、ドイツ語ってもの地方によって様々なんだってな。プロイセンバイエルンザクセンなどなどで、「実は俺ん所の言葉ドイツ語の模範になるべきなんだ」と思っているようで、絶対的な正しさを決めるのは困難らしいんだってさ。

でさぁ、俺の言いたい一番の問題は「本当のところ、何が正しいんだ?」じゃぁ無いんだよ。

一般的な日本人は、こういった外国語に疑問を持っても、気軽にネイティブに聞ける環境には無いってのが一番の問題だと思うんだよ。

指摘してくれた人、生粋ドイツ人に確認して書いたのか、ドイツ語を学んだ日本人から聞いて書いたのか、そこが重要だと思うんだよ。

2008-11-16

http://anond.hatelabo.jp/20081116013756

逆に聞くけど、じゃ幸せって何?

ゴッホが本物かどうか、絵に疎い僕は知らん。

知らんが、芸術家の本物偽物を見分けるには、ひたすらひたすら見る聞く触るしかないんだよ。こういう言い方に抵抗があるかもしれないが、本物としかいいようがない 、そういうことが出来る人ってのは世の中にいる。分かる人には分かる。分からん人間には分からん。仕方がないから、分からん人間は世間の評判やブランドに頼って、かりそめに感動してみたりする。でも、分かる人間からしたら、あほくさってことが多いもんだ。それはとにかく、ひたすらひたすら見る聞く触る。そうやって少しずつ分かるものなの。

そういう本物が幸せになれるかどうか、それは分からん。世間的にも本人も幸せと思うかもしれない、世間から見たら幸せだけど本人はそうでもないかもしれない、あるいは本人だけが幸せかもしれない。それは誰にも分からない。でもこれは芸術だけの話じゃない。

もっと自分の目と耳と触感を信じて判断することだ。それで必ずしも幸せになるとは限らんが、幸せになりうる要素は増える。月並みな言い方だが、もっと自分を信じなさい。そういう人間が少なすぎる。

http://anond.hatelabo.jp/20081116011316

っていうかですね、アートってなに、芸術家ってなにって話ですよ。

元増田のいう本物ってなに?ゴッホって本物なんですかね偽物なんですかね。

本物と偽物はどうやったらわかるんですかね。

本物は幸せになれるんですかね。

2008-09-13

みんなわどぅ?

預金残高100万円を持つあなたが、十二人の貧しき芸術家に「一ヶ月分の生活費を貸してくれ」と頼まれたら、誰々に貸しますか?

(人力アンケートhttp://q.hatena.ne.jp/1221299514

モーツァルト →来月まで、お金借りたこと自体覚えてなさそう

ベートーヴェン →(∩゜д゜)アーアーきこえなーい

シューベルト →来月まで生きてる?

スタンダール →来月には違う土地にいって女の子くどいてそう

ラム →来月には心を病んでて会えなそう

ドストエフスキー →どう考えてもギャンブルでスってるだろJK

ゴーギャンゴッホに又貸しして利子まで取ってそう

ゴッホ  →来月になっても絵が売れなくて返せない

モジリアニ →どうせ酒代なので回収不能

樋口 一葉 →唯一まともに返す意志はありそうだけど返すアテはなさそう

石川 啄木 →「あの金返して」と言ったら言いくるめられ更に金を貸す羽目に

内田 百?? →とりあえず返してはくれそう。でも機嫌そこねたら、金があっても「返すのは嫌だから嫌なのだ」とか無茶言いそう。

2007-11-09

「高尚な」って言葉意味にもよるんだけれど、エロゲだったりエロ本だったりってのは、一番根っこの部分に「オナニーの為の演出装置」とかそんな感じの役目があるんじゃないのかな、と思ってさ。で、所謂萌え文化とかラノベとかを好きでない自分は、そのあたりも「結局オナニーネタなんじゃないの?」って程度に捉えてるんだけども、それが正しいとすれば作品ってよりも道具としての側面が強いんじゃないのかな。

純文学ラノベを比べる事に、ゴッホとかのファインアートの人とミュシャを比較するみたいな違和感を感じる。俺はゴッホミュシャも観てて和むから好きだけど、ミュシャファインアートの人と同じ基準で評価されるのはなんか違くないかって思うし、その逆もしかりで。

なんつーかこう、ラノベとかエロゲユーザありきで作られてるって言うか。だんだん書きたいことが分からなくなってきたから半端なままで投下してみる。ドスケテ。

2007-10-27

http://anond.hatelabo.jp/20071027000652

今日エロゲプレイヤー増田が大漁です。



俺の場合はこの

ハァハァする

って感覚が客観的な場合だとありえないんだよね。

つまり、まぁ例をあげるとすると、おれが想像オナニーするときはですね、俺が誰か女の子と何かをしてることを想像してオナニーするわけですよ。その場合は当然視点は俺で女の子にこんなことをしてるよ、ああいやらしいあーうーあー。

みたいになるわけなんですよ。エロを感じる場合、おれの場合は必ず行為者自身の視点にならないと感じないわけなんですよ。

だからその感覚を自分以外の人にもあてはめて(というかそれ以外の方法がわからないので)聞いてみたので混乱したんです。


つかもう女子のいう「エロが好き」ってのは言い換えるとゴッホの絵が好きみたいな、もう単純な視覚と脳だけで感じるもので

性感はまったく通らないということなのかなぁと。

というか性感は脳じゃないかとか言われえたらもう俺混乱なのでつまり、俺がいいたいのは

こんなにエロゲが好きな女増田がいっぱいいるというシチュエーション想像して今晩のおかずにしようと思うのでした

かしこ

2007-09-25

著作物概念を少し考え直してみる必要があるのではないか

http://anond.hatelabo.jp/20070924231846


著作物流通、対価の支払いなどにいろいろと問題が起きている。PC関連機器の発達が著作物流通過程に生じるコストを大幅に現象させたからである。著作物をなにか形のある商品として流通させることが困難になった今、著作物概念の見直しが迫られているのではないか。


この文章では、著作物とは「誰が」、「何を」(、「誰に」)伝えたかが重要であると主張してみる。例えば、ゴッホが描いた「モナリザの微笑み」には価値があっても、私が描いた「モナリザの微笑み」には価値が認められないだろう。ビートルズが歌うイエスタデイは、私がカラオケで歌うイエスタデイとは違う。


録音物はあくまでも録音物。MP3プレーヤーがどんなにがんばろうと、歌い手も聞き手もそこには存在しない。録音物を聞く限り、自分はそれを横から聞いている第三者でしかない。


言い替えれば、現行のインターネット上における著作物流通は中身だけが先行し、その中身を伝える人が見えない。これは表現の世界においてものすごく損をしているのではないか。J-POPの歌詞がどれだけ愛を叫んでいても、それをCDプレーヤーで聞いている限り、その伝えたい内容はあくまでも他人ごとでしかない。つき合っている彼女が私に「愛している」と言えば感動するが、スペースシャワーTV(歌や音楽の専門チャンネル)などで「愛してるぅ」といったフレーズを百万回聞いても感動しない。


つまり、メディア流通はあくまでデモであり、そのアーティストが自分という個に向けて発信(すなわち、聞き手が共感)したときに初めて大きな価値が発生すると考える。そのアーティストが使った表現を他人が単にパクるだけでは単なる劣化コピーでしかなく、アイディアを拝借するにしても、それが作品として認められるにはより高度な洗練が要求される。




本文章の問題点

- 転職ならen
- 派遣ならen
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