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2024-02-01

anond:20240201133313

いろんな国でそれぞれ異なった起源があるが、フランク王国のそれを日本史に当てはめると

公爵 御三家親族)や徳川初期の豊臣家・朝鮮王家(併合した領地の元国王クラス部族大公など)

侯爵 外様大藩(独立性のある大貴族)や奥州探題関東管領辺境軍事指揮官辺境伯とも)

伯爵 譜代大名幹部クラス)。元々は城代意味

子爵 譜代大名(それ以外)。元々は城代代理

男爵 旗本兵力の基盤としていくつかの村落くらいは領有している

伯爵以下が王様の直属の家臣、それ以上はどこか遠慮が必要関係が多い

独仏伊以外の爵位はこれをベースに、自分たちの有力者を「どれと同格と主張するか」でバランスとって決められた感じ

2023-07-18

参勤交代ってつくづく神制度だったよな

室町幕府とかを見ていると、

自分領地を放り出して政治中枢で権力闘争を始める大名」と

自分領地経営に専念して中央の統制から距離を置く大名」がいて、

幕府にとってはどっちにもデメリットがあった。

前者は政治へ介入してくるし、それが暴走して内乱が勃発することもある。

後者も、半ば独立して強大化して、幕府の統制が利かなくなるのは問題である

あと、前者が領地を長いあいだ留守にしてると留守役のNo.2に領地を乗っ取られたりして、

そんな乗っ取りをするような奴は独立志向であることが多いので、やっぱり幕府の統制が利かなくなる。

戦国時代の始まりである

そこで江戸幕府は考えた。両方の良いとこどりをしよう。

まり中央」と「領地」を半々にすればいいのである

中央政治官僚譜代大名旗本)だけでやる

大名地方領地経営に専念する

・ただし大名一年おきに中央滞在する

こうすれば延々と中央に居座る大名を追い払えるし、

といって領地に腰を据えて独立志向するのも防ぐことができる。

いやあ、神制度だよな。

江戸幕府が260年も続いたのは参勤交代のおかげ!と言っても過言ではなかろう。

黒船という外圧のせいで幕府は倒れたけど、それさえなければ内側から崩壊はしなかっただろうな。

2023-05-11

またChatGPTが嘘をついた。にしてもなんでこんなに嘘がうまいんだろう?

関ヶ原の合戦後、石田三成血筋がどのような形で継承されていったか説明すると、以下のようになる。

関ヶ原の合戦で敗れた石田三成は、徳川家康によって処刑されたが、その血脈は断絶していない。

三成には正室のほかに側室が二人おり、それぞれに一人ずつ男子が生まれていた。

正室の子は為信といい、側室の子は為重と為勝といった。

為信は父と同じく豊臣政権重臣として活躍し、関ヶ原の合戦では東軍に属して伏見城守備を任された。

しかし、西軍が攻め寄せる前に城を逃れたため、戦後に改易されてしまった。

その後、京都隠居生活を送り、慶長19年(1614年)に死去した。為信には嗣子がなく、その家系は断絶した。

 

一方、側室の子である為重と為勝は、関ヶ原の合戦の前に母方の親族である木下家に養子に出されていた。

木下家は豊臣秀吉正室高台院実家であり、秀吉の甥である木下勝俊が当主だった。

勝俊は関ヶ原の合戦東軍に属したが、伏見城放棄したこと家康の怒りを買い、改易されてしまった。

しかし、勝俊には嗣子がなかったため、その跡目は為重が継いだ。

為重は木下利房と名乗り、大坂冬の陣では豊臣方として参戦したが、大坂夏の陣では徳川方に寝返った。

その功により、播磨国内に1万石を与えられて大名となった。

利房は寛永9年(1632年)に死去し、その跡目は弟の為勝が継いだ。

為勝は木下利高と名乗り、播磨姫路藩主・池田光政の娘を娶ってその与力となった。

利高は寛永17年(1640年)に死去し、その跡目は嫡男の利昌が継いだ。

以後、木下家は明治維新まで播磨国内で1万石を領し、譜代大名として存続した。

 

以上より、関ヶ原の合戦後、石田三成血筋側室の子である木下利房と利高によって継承されていったことがわかる。

2020-05-11

ルールルールを逸脱することによる報酬

社会組織ルールで成り立つ。ただ、ルールといっても端っこのほうでは多少裁量余地はある。

ルールルール通りに運用すれば過ちがない代わりに、事情を加味してくれないから冷たいとなる。ザ・官僚

後、讒言にはかなり弱いな。

そこで裁量を生かしたり、事情を加味すことにより恩を与えて忠誠心を持たせたりする。ザ・狸おやじ

ザ・官僚VSザ・狸おやじで争われたのが関ヶ原の戦い

といっても、ザ・狸おやじばかりになれば社会は腐敗していく。ザ・狸おやじもそれはわかってるから大名たちの移動で大大名は遠く、かつ、中間譜代大名を配置する。関東近くは旗本譜代のみと反乱を起こしにくいようにしたんだろうけど。

けどさあ、被害者がいるのに、「こいつに恩を与えたいから」でもみ消したりとか法律を無理やり運用するとか、

あるいは「今やばいから」とあんまり恩を与える価値にない奴を血祭りにあげるのとか心象良くないよ。

ましてや普通人間に対するレイプとか、撥ね殺しみたいなのは被害者に同情しかまらんじゃん?

その意味で、黒川は「何とか恩を与えたい奴」なんやろねー。それは「今まで恩を与えた奴が処罰されないため」にも。

2018-06-15

anond:20180615083205

江戸幕府外様大名譜代大名との間に格差つけて、参勤交代は自腹で負担させたみたいな。

(それは、どの国の施政者でも定石なのかな。(或いは銀行の人事が、支店長同士を競わせる的な))

2017-05-19

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2015-12-29

文化教養がないということ」を読んで

じっくり批判することもできるが端的にいくぜ。ブコメでも言い尽くされている感もあるが。

まず文化単線的にとらえ過ぎ。もちろん東京中心ってのは否めない部分もあろう。だが世の中大阪もあれば北海道とかもある。カップ麺の味付けすら、現代私たち統一できていない。

文化ってのは多様性だ。そして本来平等な・フラットものだ。ただコンサートホール美術館に行くことが「文化的」と捉えるのでは極めて了見が狭い。そういうもの文化だし、批判の的になっている「東京底辺」にも文化がある。美術館とかコンサートとかキラキラしたものの、こんな一つの物差しで測るから、狭い「文化教養」があるかないかの議論しかできない。そして物差しの数値が30センチだろうが2センチだろうが、本来は良くも悪くもない(しかし現状では「東京は素晴らしい、なんでもある」というある種のアトモスフィア形成されてしまっているのだが)。

では何を見るべきだったのか。地域にある美術歴史だ。「何もない田舎」ってよく俎上にのぼるけど、本当に伝統も何もない超歴史的・脱歴史的土地などあり得ない。SFじゃねーんだから。例えば埼玉なんかバカにされるけどさきたま古墳群ってすげーだろ。はにわ! 稲荷山古墳もすごい。鉄拳! あと群馬館林藩とかやべーじゃん。他も譜代大名が入りまくってる。こういう場所江戸幕府を支えていたんだぜ。こういうのって多分かなり「何もない」の裏返しで「こんなものしかない」「恥ずかしい」と思われがちだが、本当は、胸を張るべきところ。未来に向けては、こういう気恥ずかしさを払拭することが文化を考える上で極めて大切だ。

話戻すけど、話者は東京中心文化に毒されすぎ。折角文化というものに興味があるのに、一つの物差ししか持っていない。若い人だと思うのに、そして田舎出身なのにこれはもったいない。都会と田舎だけで物差しは二つになる。物差し二つあった方が色々便利だろ。脳の中もおんなじだ。コンパスや分度器だって持っていたっていい。もちろん、文化の網目の中に東京大阪といったコアがあるのは否めない。だがそこから広がる多様性。これを幅広く測るスキルがこれからの「文化」を担い、あるいは語るものに求められるのではないか。話者の狭い了見では狭隘文化観が再生産されかねない。わりと真面目に極めて危険な態度だと思う。

2011-10-29

TPP反対派は、B層取り込みに成功したのではないか

なんだろうこの感じ、TPP反対論が高まる事自体は結構なことだが、次­々と、この間まで新自由主義万歳でやってきた連中があっさりと反­対派となって声を上げだすことに違和感を覚える。幕末譜代大名­までが倒幕派に寝返るみたいな、なんかそれに通ずる節操のなさを­感じる。

今のTPP推進政権に疑問を感じ 批判するのは一向に構わないが、その代替案として小泉政権の復活や前原政権樹立を口にする人たちは一体どういう頭をしているのか。小泉前原なら アメリカTPP撤回をつきつけると本気で思っているのだろうか。そう思うと、この民主主義は正しい正しくないではなく、B層を取り込んだ者が勝つものだとつくづく感じる。

 
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