はてなキーワード: 格闘家とは
暴力だからよくないとか騒がれてるけど、それは流石に今更すぎないか?
しかし、賢しらぶった人たちが「暴力と格闘技は違うんだ、わかっていないのは不勉強だからだ」という表面上だけの話をして留飲を下げているのは、ピントはずれもいいところだと思う。
だいたい、格闘技に限らず興行なんて裏も含めりゃ大概ヤクザみたいなもんだろ。
「少年の夢」みたいに健全ぶってるプロ野球とか、裏は言うに及ばず表の部分だけでもどれだけ暴力的でコワモテなんだよ。
ガッツポーズしただけで打者への報復死球が当たり前の暴力世界だぞ。
よく奇麗事だけいって満足できるなと思う。
そもそも朝倉は、「喧嘩」が好きで暴走族や少年院にも入るような暴力の世界で生きてきて、「格闘技」相手に手も足も出ずボコボコにされたことから総合格闘技に目覚めた人間だ。
自分と同じように暴力に明け暮れる、どうしようもない不良の方を気にかけている。
かつて自分がデビューした不良たちの格闘場「アウトサイダー」のように、次世代の格闘家のプロデュースもしている。
「喧嘩の楽しさ」の延長が格闘技にある、そこには時間をかけて人生を変えるだけの価値がある、だから不良は喧嘩なんかしないで格闘技をしよう、その方が人生が豊かになるよというのが朝倉の理屈だ。
この朝倉のスタンスは、不良たちに絶妙にいい影響を与えたと思う。
朝倉のyoutubeで、地元愛知に帰った際に煽り運転をされたことがった。
相手が朝倉未来だとわかった瞬間に一目散に逃げ去る不良の姿を流し(もちろんモザイクつきで)、ダサいし危ないし何より迷惑だからそんなことやめろと動画上で説教をしている。
自分たちだったからよかったけど、他の人がされたら堪らないと。
こういう部分にこそ朝倉の意義がある。
煽り運転をやめろなんて誰でも言えることだが、不良にとって、「外部の」大人に言われるより、自分たち「不良側」の先輩に説教されることほど効くものはないのだ。
だからことあるごとに不良アピールをし、同時に喧嘩や迷惑行為はダメとも発言する。
この動画を見た、年を重ねた元不良も「後輩にちょっといいこと言いてえ」と思って、「朝倉未来もやめろって言ってたぞ」と後輩に説教をする。
これは普段から品行方正な人間では決してなしえない、朝倉だからこそできた小さな社会貢献だと思う。
だから少年院にいって講演もして、院では異例の格闘技大会の特別上映(!)も叶えている。
「暴力と格闘技は違いまーす」「僕たち健全な格闘技界は不良なんかとは違いまーす」と奇麗事だけを都合よくいう人間ではないのだ。
そして、その長年不良だった朝倉でさえも、総合格闘技に出会ったのは成人する前後だった。
だから朝倉はyoutubeでも繰り返し「格闘技の周知」「認知の向上」の話をしている。
「格闘技好きに向けたアピールをしても、格闘技の人気は出ない」と繰り返し話している。
人気の「街の喧嘩自慢とスパーリングをする企画」も積極的にやり、この企画をどんどんパクってくれと言っている。
はっきり言って、朝倉のyoutube活動が今の格闘技界にもたらした影響はすさまじい。
格闘技界のカリスマ・堀口恭司なんて正真正銘のスーパースターすらも、一般人は誰も知らない時代だ。
だが格下の朝倉は、彼よりも圧倒的に有名になった。
一躍不良少年の憧れの的となり、格闘技の布教活動をして、大会の視聴率をあげている。
そして朝倉は、不良や総合格闘技だけではなく、空手や合気や剣道などの伝統武道、ボクシングやキックなど様々な格闘家、さらにはバドミントンなどほかのスポーツ選手ともコラボし続けて、武道や格闘技、スポーツの魅力を伝える活動をしている。
格闘家のyoutubeブームは朝倉の影響と言っても過言ではない。
本人のプロ戦績がしょぼくても、それだけでは計り知れないほどの貢献を業界内外にしているのだ。
仮にも「格闘技が好き」なんだったら、その功績を知らないとは言わせない。
どんなに朝倉が嫌いな人間でもそれだけは認めざるを得ない、それぐらいの活躍をしている。
(あと、興行主から体重上げて試合に出ろ金を稼げと何度言われても断わり続けたのも、昔のPRIDEで酷使された選手のことを思うと本当に偉かった)
だから恩師の前田日明に「スパーリングを公開するなんてあり得ない、絶対対策されるからやめろ」と言われても、格闘家と公開スパーをして、それを研究されてボコボコに負けても、それでもやめなかったのだ。
(そもそも朝倉本人が対戦相手の動画を入念に分析する人間なので、リスクは最初から分かっていたはずだ)
今回のabemaの件はもちろん問題があって、本人も謝罪しているしそこを糾弾するのは本当に正しいし、健全な行為だと思う。
色々な問題点は他の人が指摘している。
しかし、朝倉と彼の活動を一概に「格闘技と暴力を勘違いしているだけのお馬鹿さん」と知った風な口でひとまとめに切り捨てるのはあまりも、あまりにも浅すぎやしませんかと思う。
しかし、「格闘技と暴力を延長線上のもの」として捉えて活動しているからこそ、格闘技界や不良たちに「いい影響」を与えたことも事実なのだ。
「影響されて格闘技始めました」とか「未来さんが止めろって言ってたから」と不良が憧れるようなロールモデルを、(一時的かも知れないが)こなすことができたのは、とても貴重なことだと思う。
まあ、はっきり言って誰の得もない企画だったけれど、4人中3人を素人にブッキングしたAbemaが一番アホであると思ってる。
まあ、「ヒグマと戦って勝ったら1000万」という企画だよなぁ。
やったひとの自己責任という擁護もあるようだが自己責任で、片を付けるにはちょっと無理がある。
プロの一流格闘家って、人間で言えば戦闘能力は素人とはちょっと比較にならない。
しかも、一流格闘家も絶対に負けてやれない。素人に、わずかでも苦戦したらそれだけで自分の商品価値が落ちるからだ。
素人にスープレックスもかけるし、顔面にサッカーボールキックだってやるわけだ。
で、これは完全に試合を組んだやつがアホだったということだ。
素人と戦わせたのは、素手でヒグマと戦えと言うぐらいに無理ゲーである。
将棋で言えば、プロ棋士に素人が平手で勝てと言うぐらいに無理である。
「1000万がもらえるんだから」というが、万が一にも勝てる可能性はないので、実質的な公開処刑になったわけだ。
そういう事を言う人間はプロの強さを馬鹿にしてるんだろうと思う。
そして安全面から考えれば、かけている技を見たら、大怪我、場合によっては一生涯に渡る危険な技も出している。
プロがプロ同士、合意して、ファイトマネーと契約によって勝っても負けても仕事として割り切って実施するべきものである。
もしも、この試合、ブックメーカーにかけたら、どれぐらいの倍率だろうか?
ほぼ倍率がつかなかったように思う。
この試合を、「本人が自己責任でやったんだから」というのは、プロと素人の能力差を考慮していない。
プロ格闘家は素人をほぼどんな理由があろうが殴らないというのは社会的な常識である。なぜなら凶器だからである。
この企画をどうしても成立させたいのならば、同程度に鍛えたプロを、契約の元に対抗馬にぶつけるしかない。
しかし、それは無理だろう。
なぜなら、一流のプロのファイトマネーとして1000万は決して高くないからだ。
テレビ局の念頭には「素人の喧嘩自慢? を鮮やかにやっつける一流格闘家」の絵が欲しかったのだろう。
通常の相手でも負けるわけはないほど一流の格闘家だが、なぜか素人を4人中3人ブッキングした。
自分はやるかと言ったらやらないし、素人が名乗りを上げたら馬鹿だと思うが、同時に企画を立てたやつも大馬鹿である。
でもめっちゃ売れたらしいので、今後もやるのかねえ。
なにしろ暴力というのは、人々が自分勝手に行使すれば、ときに人権を脅かし、社会秩序を乱し、それを収めるには軍隊や警察など、さらに強い武力が必要となってしまう。人間社会では、いかに人の持つ暴力性を抑え、あらゆる対立を非暴力的な手段によって理性的に解決する努力がなされてきた。
だから格闘技においても、暴力性をいかに否定し、大衆文化として認知されるかというのは、常に大きな課題なのである。朝倉やABEMA、スポーツ紙などに欠けているのはその認識で、格闘技に関わっていても、そもそも格闘技とは何で、どのような均衡の上に成り立っているのかという点を十分に考えていないように見える。
多くの格闘技はそれぞれルーツを辿れば血なまぐさい原点を持つ。プロボクシングもその原点は奴隷を死ぬまで戦わせる古代の見世物だった。原始的で野蛮なものが、社会が成熟する過程でスポーツとして整備されるのには、かなりの年月を要している。
歴史の古いボクシングは、かつて白人が黒人との対戦を拒否できる制度のために人種差別問題と無縁ではなかったり、プロモーターによる選手の独占的契約が「奴隷制度」と重なって、アメリカではこれを規制するモハメド・アリ法もある。五輪競技となるまでにも紆余曲折あり、良識派の人々から「暴力ショー」と見られることから、関係者たちは必死に自分たちの協議を守ってきた。
総合格闘技の変化
一方、朝倉がやっている総合格闘技についても、いま世界的な人気イベントとなったUFCでさえ発足当初はルールが整備されておらず、1993年の第1回大会は目潰し、噛み付きなど最小限の反則以外は自由で、無制限ラウンド、体重の階級制も判定決着もなかった。
そこで暴力ショーとの批判が各地で巻き起こり、アメリカ国内でも開催が許されたのは一部の州だけだった。実際、ケガ人も続出。日本でも初期UFCの影響下で行なわれた1995年の「バーリ・トゥード・ジャパン」では、中井祐樹が相手の反則で右目を失明した。
背景には、ポルトガル語で「何でもあり」を意味する大会名のために、大会がノールールの喧嘩マッチのようなイメージとなっていたことがある。いまほど格闘技が「スポーツ化」されていない時代には、ルールを守る意識の薄い格闘家がいたのだ。
結局、エンターテインメントの発展がうまいアメリカでは、UFCは、2000年に州のアスレチック・コミッションが指導した統一ルールに従って、28回目の大会から一気に「競技化」が進んだ。ルールが整備されると参加者が増え、喧嘩屋レベルの者が淘汰され、いまやプロボクシングに並ぶ人気イベントになった。
アメリカのコミッションは、日本のボクシング・コミッション(JBC)のような一財団法人ではなく、知事が責任者を選ぶなど行政下の組織で、強い権限を持つ。格闘技イベントの聖地、ラスベガスのあるネバダ州コミッションの責任者、ボブ・ベネット氏は元FBI捜査官で、力の差が大きいと判断したマッチメイクは、主催者が大手の組織でも遠慮なく却下した。
ベネット氏は「とても危険な職業なので、できるだけ安全にするのが我々の義務」と語っていた。アメリカであれば、朝倉と素人の喧嘩ショーは、コミッションが開催許可をしなかったはずだ。
少し前にバズったツイートで、
といった内容のものがあった。
…これってさ、「女は女だけでは深夜帯に行動できないような劣った下等な存在であり、男という上位の存在に加護してもらわなければなりません」って言ってることだって分からないのかな?
いやいや、勿論言いたいことはわかる。
確かに一般的に女性より男性のほうが力が強い傾向があるのは間違いないし、女性だけの集団より力の強い男性が居れば取れる選択肢も多いだろう。
でもさ、私達って力がすべての世界で生きている動物じゃなくて、知能があって社会生活を営んでいる人間じゃん。
女だけの集団であり、暴漢に襲われた時に「力でねじ伏せる」という方法ができないとして、だったらだったで取れる対策はいくらでも考え得るじゃん。
大体なんの訓練も受けていないただの一般人の男性バイトが居たとして、相手が格闘家だったり凶器を持っていたら何もできないよ。
女性だけになってしまうならなってしまうで、じゃあこのメンバーでどんな対策が取れるかを考えるしかないのに、そもそも「女性だけでは有事の際に対処できない」と決めつけて男性をメンバーに入れろと主張する。