はてなキーワード: 道楽とは
めちゃくちゃわかる
死ぬほど経営センスがない技術者がおもちゃを作り、死ぬほど科学センスがない経営者(なんなら経営能力もないのに自民とくっついて淘汰されてないジジイの道楽)がクソな金の使い方をして、国内他社ばかり気にして市場全体を視野に入れた利益拡大は見ずひたすら自滅している国の印象しかない
どうぞ技術をパクって技術者引き抜いて自国で発展させてください!私たちはお金や利益など要りませんので…と言って労働者と女性と若者を搾取する善意溢れるクール(笑)な国
STAP細胞の特許をハーバード大教授が取得してるのとか良い例だよな。「良かったね、日本は思惑通りに貧しく後進国になれたね」って常に思う
一番書きたかったことをちゃんと書かずに終わってしまっていたことに気付きました。
それは「だからついつい寒さ自慢か広さ自慢に走りがちなんだよなあ」というようなことです。
もちろんアイヌ民族の方々との、様々なことがあった歴史は無かったことにしてはならず
金持ちの道楽だから(神社仏閣云々のことかな?)気にしなくていいといったコメントも
意外とそんなものなのかな? と、興味深く読ませていただきました。
それと、歴史が浅いからこそ、古い考えに囚われにくいようなところもあり
そういうところはわりと好きですね。
古いものに憧れながら、古いものに囚われないところがよい、なんて、矛盾してますけれども。
(追記ここまで)
道央に住んでいる私からすると、150年〜200年くらい以上前は、この辺の土地はアイヌ民族の方々のものだったわけだし
屯田兵の開拓がすごく大変だったのはわかるんだけど、それも征服みたいなものだったんだよなーと思えてしまう。
博物館にアイヌ文化のものがいろいろ展示されているけども、それらは本来、和人のものではない。
あかね囃は、題材は落語だけど、話の展開が完全に少年マンガで、しかもバトル漫画なんだよね
落語マンガといえば、落語心中(アニメ化ドラマ化数々の受賞)、次点で道楽むすこ(夏子の酒の作家で18巻)かなと思うんだけど、それらとは方向性が違う(少年少女よりは上の世代向け)
原作はストキンPro受賞者(ネームの賞レース。この時の作品もお笑い芸人の話)、作画はスポーツマンガ連載やファンタジーを描いてた作家なんだけど、このコンビがうまくいったんだろうな
この2人は過去に読み切りで漫才マンガ描いてて、その流れでこの漫画が連載になったと思われる
マンガの構成が上手いのは、落語のノウハウをそのままネームに生かしてるからだと思う(客を飽きさせず引き込む展開等)
それで作画が10年漫画家してる人なんで、さらに魅せ方が上手いんだよな
普通ジャンプで落語なんてありえないんだけど、完全に落語を少年マンガの人気スタイルに落とし込んでるので、人気が出るのも頷ける
編集者は村越という人みたいだけど、最近ではアオのハコも当ててるし、編集もいいんだろうな
今後も目が離せない作品だ
NFTはその絵の実質的な価値を表していない。いうなれば金持ちの道楽の感覚が生み出した価値にすぎない。
別にブロックチェーン技術が生み出した付属品が絵のデータについてるからといって、作品としての視覚的情報は一切変化してないわけだ。
オタクとかが大好きな支援サイトの支援金は絵に対して比較的釣り合った、実質的な価値を表してると思う。まあ人次第というのが基本的な価値という概念に対して実質的という言葉を使うのはかなり危うげではあるけど、そこは増田。責任逃れすればいいだけだからね。
まあ数百円あるいは数千円ですよ。俺は誰が描いてるかじゃなくてpixivのサンプルギャラリーとかを参考に抜けそうな絵が見れるかどうかだけで金払ってリワード開放させるかきめてるからね。
同じような画風でnftだから一枚数百万なんて、馬鹿らしいよ。てかnft作品は絵自体は無料で公開されてるからもう目的は達成されちゃってるってうw
なんでも鑑定団も本物なら一千万はくだらないがこれは偽物なので5万ですねみたいになってることあるけど、その偽物を区別した理由が遠近法がちょっとずれてるとか、色が薄いとかそんな程度なのもあるんだよね。そんだけよくできてるなら俺は安物の方で十分だよ。てか5万でも俺には高いわ。しかし手間賃としてはアニメ絵と比べても手間がかかるので妥当だとも思う。
ようはそんな絵に百万千万金が飛び交うのが異常なんですわ。芸術の世界ではパクリ先には価値がないみたいな話があるが、そもそも技量が乏しい人にはパクることすらできないわけだし、成果主義・結果主義という観点で見れば、先に作ったものだろうが後に作ったものだろうが、芸術家が自発的に作っているだけという意味で納期のないものについては、納期切れというのがないんだから評価に差は生まれないともいえる。
逆の例として誤解されがちなのわげとくと宝石ですわな。
まあカラットの差とかそれなりに非線形的に価値の高低をもたらすけど、nftとか名画の真贋ほどではない。
家なんかはもっとそう。金持ちじゃなくても家にはそれなりのお金を払う。
またnftのタグがついてるかついてないかレベルのちょっとの備え付けや構造の違いが数桁の価値の差をもたらすようなものではない。
例外はサイン、署名か。サインは上記までのものと違ってサインそれ自体にはまじで価値がないんだから振る舞いが例外的になるのもうなずけるだろう。
誰が描いたという情報以外にお金を払ってる奴はいないわけだから例外なのだ。
デジタルアートが出てきてその領域では既に完全な複製は容易なってるわけだが、アナログの世界で「アウラ」なんて言ってるのもいまのうちだと思う。
コピー機の登場がもうその伏線みたいなものだと思うし、これからもどんどん複製の度合いがデジタルに限りなく近づいていくと思う。
そのとき「アウラ」なんてもんが中世あたりの宗教の集会がトランス状態を起こしたときに見える幻覚みたいなものと同じもんだという話になってくるんじゃないかなあ、と貧乏人ですが生意気言いました。
ま、投資家ならこれからも好きにその金持ちの道楽が生み出してる価値を利用して稼いでいけばいいんじゃないですかね。俺は関わるのごめんだがな。
直前になってレッドブル首脳陣によって回避されたこの計画だったが果たしてこれは正しいことだったのだろうか?
いみじくも7度のワールドチャンピオンがかつて発言したようにレッドブルは飲料メーカーである。
本質的にレーシングの世界とはかけ離れた事業を母体とした企業である。
その企業がいちスポンサーの分域を大きく乗り越え、なぜモータースポーツにこれほど深く関わるようになったのか?と言えばひとえにそれはレッドブル総帥・故ディートリヒ・マテシッツの「趣味」によるものといえる。
言ってみれば、それは非常に綿密で計画的で優秀なスタッフに支えられ多大なる予算を使ったビジネスであるかのごとき「道楽」なのである。
その「道楽」をディートリヒ・マテシッツは果たして次代にも残すつもりであったのかどうか?
一説にはマテシッツはポルシェにレッドブルを売却するつもりであったと言われている。
それはおそらく正しい判断であったと思う。
そのことが足枷となって、いずれはレーシングチームを所有することに限界が来るだろう。
そのときになって金儲けが目的の投資団体に買収されるよりかは、真にモータースポーツにコミットメントしているポルシェ(フォルクスワーゲン)のような企業に今の段階で売却するべきであるという判断は極めて正しい。
レッドブルがかつての名門チームのように没落していくよりかはポルシェチームとして輝き続ける、そのことがディートリヒ・マテシッツの本当の思いであったのではないだろうか?