はてなキーワード: 単語とは
女性がいかに「共感してほしいだけ」な生き物なのかがよくわかる話だなぁw
男性からすると、なんでも「わかるー」を連発されると「なんか適当に返してない?」って気持ちになったりするんよね。飲み込んでるかどうかじゃなくとりあえず「わかる」って言ってりゃええの?って言うような感じ。
「なるほど」が上から目線に感じるからどうこうよりも、その後に否定がくるかもしれんってのが嫌なだけなんだろなって思う。その「否定されるのが嫌」って感情を正当化する理由付けとして「なるほどって言葉は上から目線だから失礼」って理屈が組みあがるわけ。
もちろん、ほんとに「失礼」って思ってるだろうことは否定しないけど、心の底にある発端は「否定されたくない」だと思う。しらんけど。
とまぁ質問とは関係ない考察はこのあたりにして……本題は“なるほど”の代わりよね。
私は、日本語ってとても緩い言葉だと思ってる。ルールでガチガチじゃなくて、とても曖昧で柔軟性に富んでる。そういう緩い言葉だから、会話は、単純な単語の意味だけじゃなく、そこに感情をプラスして読み取ったり、やりとりをする。そういう言語。
もちろん他の国の言語も、感情プラスしてやりとりはするんだろうけど、日本語はその部分が占める割合が大きい言語だと思う。
イメージでいうと、手話通訳の方とか、すっごい顔の表情も変えて手話使われるでしょ?あれは顔の表情も込みでどういう意味を伝えたいのか表してるんです。言葉の場合も同じ。だから、ネットとかの文章だけの世界で揉めると大変になるわけ。みんな自分の思いたいように文章を解釈するから、揚げ足なんて取り放題になる。結果、泥沼大炎上って感じにね。
この“なるほど”についてもそうなんだろうなって思います。どれだけ「積極的同意」のつもりで使っていても、相手にはその部分が伝わってないから「否定されるかも」って感じるわけです。
なにか言われても軽く一言「なるほど」「なるほどね~」「へー。なるほど」とかそんな感じで使っていませんでした?それだと「なんか納得されてないのかな」とか感じる人もいるかもしれない。
「なるほどな!あーめっちゃわかるわ」
「なるほど!うまいこと考えるなぁ」
「その考えわかるわー。なるほどなぁ」
「なるほど!ええなそれ!」
というように、同意してるよっていう感情もちゃんとプラスして伝えるようにしておけば、そこまで“なるほど”に拒否感は抱かなかったんじゃないかなぁと思います。
もうお相手さんは“なるほど”って単語だけで過敏に反応しちゃうかもしれませんが、もし癖で“なるほど”って出ちゃった場合は、その後にこういう「同意してますよ」っていうことがはっきりわかるような言葉を感情も込みで続けてみては如何でしょうか?
さすがに20年は言い過ぎだけど
7年ぐらい前からDigitalizationっていうのをやたら言うようになってた。
その辺からDigital Transformationっていう単語が出てきてAIの次はこれだ!みたいになった。
流れとしては
「ビッグデータ解析したら新しい営業ができるぞ!(Amazonのレコメンドが契機かな?)」
→「ビッグデータの解析無理・・・AIってのが使えるらしいぞ!(画像系を中心)」
→「そもそもデータになってないことが多いな・・・業務を全部デジタル化や!」
っていう感じ。
欧米だとデジタル化の意味がよく分かってるから「そもそも20年前からずっとやってた」っていうのが正しい。
その上で「Digitalization出来てない部分をDigitalにしよう」っていう感じなんだけど
日本はそもそも嘘っぱちのデジタル化しかしてないから世界について行けてない。
それをデジタル化するときにちゃんとシステム構築したのが欧米。
「これがデジタル化や!紙がいらんで!」
ってやっただけ。
そのせいでDXってなっても
とかやっててアホかと思うね。
・文字を外しても1文字の重さが1/26と大きいためそれが使用されていないという情報が後半のトライに及ぼす影響が大きい
・5文字の英単語という条件で存在する単語の数が多く解答自体は多くの人が知っているものになりやすい
・5文字の中で母音の使用数が1~3まであり使用できる単語の幅を実際以上に多く感じさせる
・トライ回数の少なさが「字の位置暴き」と「使用文字暴き」のパワーバランスを取っている
・50音+濁点+半濁点+小文字+伸ばし棒という馬鹿みたいな文字数のせいで1文字あたりのヒット率が異常に低い
・そのため位置あてのためにターンを使うメリットが大きくなりすぎてバランスが破綻している
・外来語を平気で解答に持ってくるため納得感が低い(「WORDLEの日本版」というイメージが強いため、解答は日本語版固有の単語でないと当てた時の気持ちよさがない。WORDLEでいいじゃんとなってしまう)
・日本語の特性上5文字だと4~5音の単語に偏ってしまうため単語の幅を感じにくい
・半端に音が長いため単語として成立してそうでしていない言葉がおおくなりがちで解答として拒否されたときに納得しづらい
まあ結局はさ、アイディア雑にパクっただけじゃ面白くならねえんだわ。
WORDLEはさじ加減が奇跡的だった。
ことのはたんごは「とりあえず10回トライ出来るようにしたわ」で終わらせたのが駄目だったね。
もうちょい色々出来たと思うよ。
俺はVTuberは着ぐるみじゃなくて覆面プロレスラーだと思ってるな。
ガワは被ってるけど中の人の明確な実体があって、多少の設定はあっても人格は中の人の本来の人格そのもの。
VTuberの中の人が意識されるようになったのは生身で配信者をやってるせいとかじゃなくて、VTuberの主流が動画勢から配信勢に変わってきたせいだと思う。
ゲームをやるにしろコメントと戯れながら雑談するにしろ一人で長時間配信するとなると話の中身が必要で、
そうなるとロールプレイに沿って創作するだけでは足りなくなって、配信外の日常生活の話とか中の人のこれまでの人生でのリアルなエピソードとかが出てくる。
ロールプレイするとしてもせいぜいトーク中の単語を世界観に沿った単語に置き換えるくらいで、結局リアルな実体験を下敷きにしないと配信中のトークは間が持たないんだと思う。
出張中、ちょっと文具関連の用事があって、次の予定まで時間があったので、東急ハンズは行ったことがあるのだが、行ったことのなかった世界堂に行ってみた。知ってる人はよく知っているだろうが、私はネットのニュースでどこかの支店が閉店したというニュースをうっすら覚えている程度だ。今調べたが「額縁や絵画はもちろん、画材・デザイン用品・文具などを豊富に取り揃えています。」というチェーン店。(確かに額縁は他の文具店と違って力が入っていた。)
ぶらぶらと店内を歩く。油絵具やアクリル絵具、パレット、パステル、水彩色鉛筆、ガラスペン、羽ペン、色とりどりの筆ペン、マーカー、サインペン、キャンバス、スケッチブック、模造紙、…
ペインティングナイフ(パレットナイフ)プラスチック製もあるのか! 使い捨てというのも合理的だ。
ふと目についたのが「スクリーントーン」。令和の時代にもまだ売っているとは。原稿用紙にしっかり転写するためのヘラのようなものも何種類も打っている。近くにはペンとペン軸がある。「Gペン」「丸ペン」「スクールペン」 タチカワ、ニッコー、ゼブラ
「スクールペン」。知識として触れたことはあったが単語として目にしたのは何年ぶりだろうか。
さまざまなパッケージでペン先が売っている。丸ペン3本セット、Gペン10本セット、100本セット、3種類のペン先セット、ペン軸とセット…
つけペンがあれば当然インクもある。「まんが用墨汁」という商品名をみて思わずにっこりしてしまう。ラベル付け替えただけでしょうね。
まんが用原稿用紙なんてものもあった。雲形定規、吹き出し用定規(?)
まんが用のセットボックスもある。小学生向けかな。無印(スタンダード)にデラックス。タイプ2。何が入ってるんだろ。
自分でもまんがを描こうと思った少年少女は多かったのではないか。わたしがこどもだった当時は(今は知らない)毎号投稿作募集と紹介のページがあって、デビュー、金賞・佳作などのランキングと講評、それにまんがの描き方が数ページ載っていた、ような気がする。〇〇先生は墨汁を使っています。◎◎先生は丸ペンで描いています。ケント紙を使うのが一般的ですが、△△先生は画用紙を使っています。のような情報も載っていた。もちろんまんがの描き方だけの単行書もあった。
そんな頃のことを懐かしく思い出した。しかし、全体的に何とも言えない黄昏感が漂っていた。ほぼ無客だったし。
欠品があったのは売れて売れてしかたがないというよりは、補充がないという感じで(先入観か)、充実した品ぞろえは売れ残りという表現が近いのかもしれなかった。現実に、書籍のコーナーには色あせた1990年代の参考書も並んでいた。
私の祖母は趣味で日本画をやっていた。増田の多くが知らないであろう、ほとんどが見たことがないであろう岩絵の具が何種類も彼女の家にはあった。ガラス瓶に入ったそれはとてもきれいだったのを覚えている。少女のころに日本画で身を立てたいと思ったことも少しはあったのかもしれないが、そこまでの才能か、熱意かがなかったのか、時代が悪かったのか、もちろんプロではなかった。
世界堂で見た、さまざまなアナログまんがの道具・材料。生き残りをかけて手を広げたであろう商品につく〇割引セールの文字。
おそらく、回転のいい商品はごく一部なんだろう。多色ボールペンを並べても、大型文房具店で買う人の方が多そうだし、最近はカラーのマーカーも100円ショップで多色展開しているという(必ず全色そろっているというアドバンテージは専門店にはあるだろうが)。毎年電動消しゴムを買う人がそうそういるとも思えない。
完全に滅亡することはないかもしれない。だがコンピュータでなく、世界堂でなければ手に入らない道具や材料を使う行為は、美大生を除けば、日本画のようにごく少数の人が続ける稀な趣味になっていき、世界堂の支店はだんだんと減っていく。
そんな未来。
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北 天華
川北天華。当時は進学をめざす高校生。進学は最終目標ではなく過程のひとつだろう。
単語と語法は平易。しかしそれらはすべてべつの何かを表象する。示唆により言外を表象するテクニックは掛詞とよばれるが、この歌は全句が掛詞で構成されさらに全体として言外のなにかを表象する。このため通常の和歌の範疇を超え、たぶんに神話的な雰囲気を持つにいたる。
配置
物理か地学の問題文をなす歌を助詞などを除去し単語をならべその内容を検討。
内容は上記のとおりテスト、光景に二分され、交互にならんだふたつの要素がリズムを形成している。
テスト、光景、ふたつの要素は卑近。受験をひかえた高校生という状況をあてはめると、この世代特有の神話的要素がうかぶ。
テスト、光景という対極を交互につなぐ構成は内外両極を往還するリズムを生んでいる。対句法ではくくりきれない振り子のようなリズムである。その振り子は往還をくりかえしながら全体をある方向へとすすめてゆく。机上の1枚の切片にしるされた問12という即物的な文言は夜空を数式で描けと命じそのときは下界を無視せよと結ぶ。一枚の切片がもとめる問いは振り子のようなリズムのなかで一瞬にして無限の宇宙へと拡大し発散する。読者はこの内外両面、両極往還のリズム、そして机上のちっぽけな紙片から数式をとおして一気に宇宙にひろがる強力なベクトルによってここちよく翻弄され、さまざまな記憶作用を楽しむことになる。じっさいのところこのリズムとベクトルは、おとなとこども、他発と自発、受動と能動、服従と自立ーつまり境界面を生きる高校生の生活のリズムとベクトルそのもので、それらが作者、あるい読者のこころのゆらぎそのものを表徴する。
問十二
夜空
青
街
明り
良い
各々の単語および叙述は高校生にとって卑近ではあるが軽くはない。試験問題、ふと見上げる夜空、その奥にひろがる宇宙。それらは作者の人生の主要な一部、あるいはすべてかもしれない。ひとつひとつの単語が表層の意味から遊離して現状と行く手の不安、悩み、探求、願望、希望、決意といった、思春期から青年期にかけての心象を表象する。この歌は、読者ひとりひとりに当時の記憶を想起させる力を持つ。
展開は三部で序破急をとる。
テストの問題文からはじまる文章表現はそもそも斬新なのだが、それを体言止めとして何かを宣言している。この宣言は直裁に読者にとどき、読者はこの歌とともに問いに挑むことになる。
十二は天文や暦法と関連がある。詠人だけにわかる何かの符丁かもしれない。だがそんな読み解き以前に十二月は受験シーズンであり、夜空がもっとも冴えわたる季節でもある。受験生たち、あるいはかつての、そしてこれから受験生となる読者たちは、冴え渡る夜空にひろがる大宇宙を仰ぎ何を思うだろう。
この衝撃はじゅうぶんに非凡な序を一気に振り切り読者を天空に打ち上げる。
微分される夜空の青とは何か。
それは学問的対象として規定される夜空であり、それゆえ純粋に観察と探求の対象であり、その分野への進学を目指す詠み人にとって、それは宇宙であり未来であり、そして自分でもあるだろう。それだけではない。その解をもとめる読者じしんの姿でもある。
街のあかりとは成功し定着したものたちの放つ光、そうしたしがらみとははなれた位置にいる受験生にとって、街のあかりは外部か雑音にあたるかもしれないし、いつか自分が再参入する場所かもしれない。
この歌はテストの問題文そのものであり、解答は記されない。作者はこの問いに答えることも思考の過程を示すこともせず、それらすべてを読者に投企している。そのため読者は作者の投げかけた問いの答えを探すことになる。読者は自問し夢み思惟し想像し記憶を想起する。歌を鑑賞することで作者の心象に分け入る作業がいつのまにか自問となり、ときには自分の過去、あるいは未来、そして今この瞬間を投影する。
上記のような構成は、ありていに言えば時分の歌、青春期限定の叙情歌といっていい。さしあたり言語機能の極限をさぐる現代短歌のなかではこうしたテーマははやらない。ではそれだけを根拠にこの歌の価値を限定できるのか。
そうかもしれないが、それで終わりにしてほしくない。なぜなら、こうした心のゆらめきを大切に記憶し想起し記述する行為は自己と世界のはざまから生まれる認識の、つまり哲学と科学の原初のすがたであり、その姿勢が現代短歌の流行からはずれていようといまいといっこうにかまわないから。
結句を復唱したい。
俗世、しがらみ、現実などを表象する「街の明かり」を無視してもよいと歌い上げる。かそけき深き空の青さが真実ならばその対極にある現実など捨象してかまわないとも歌い上げる。
時分の歌かもしれないが、そこに込められたまっすぐに真実を見ようとする迷わない力をわたしたちは大切に保持してゆきたい。なぜならそれはたぶん、うしなってはいけないものだから。