はてなキーワード: ソーシャルとは
咳やくしゃみには敏感なくせにスーパーとか行くと相変わらずガヤガヤしてるし。
ソーシャルディスタンスだの例によって年寄りに伝わるわけのないワード垂れ流すより、
無駄口叩くなって言った方がよっぽど効果あるとおもうんだけどな。
まず国民をチームAとチームBに2分割する。
同居する者はなるべく同じチームに入れる。
たとえばAが家から出て仕事や学校に行く2週間の間、Bは家にこもる。
こうすると、チーム内で感染し、拡散しそうになったところで他のチームに入れ替わるので、蔓延は防げる。
免疫獲得した人はチームCに入る。彼らはいつでも活動できるので、窓口等、感染リスクの高い業務を担当する。
所属チームの身分証明は、免許証など既存の写真入り身分証明書にパンチ穴をあけたりして流用するか、
RFID入りの身分証明書撃を秒速で発行できる機械を作り、ドライブスルーで発行できるようにする。
ABチーム同士に互いの「成績」を競わせる。NHKで成績リアルタイム表示。
たぶん8割感染か注射を打つまでソーシャルディスタンス戦略が続くので、これくらいやらないと持たないと思う。
俺はチームAがいいな。BっていうとB層っぽいし。
ここ最近、急にソーシャルディスタンス、という言葉が流行って、そんな意味だっけ?と思ったら、
紛らわしいなあ。
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2004/06/news055.html
social distancingは公衆衛生戦略を表す用語で、疾病の感染拡大を防ぐため、意図的に人と人との物理的距離を保つこと。ちなみに、特定の個人やグループを排除するという社会学用語の「social distance」とは区別する必要があるという(Dictionary.com)。
地方ニュースを見ていると、コロナウイルスの感染したと思われる場所が報じられているんだけど、それを見てると喋り声など大きく発声する場所、特に屋内はまずいんだなぁというのがよくわかる。
複数人で盛り上がって大きな声を出したり、酔って声が大きくなったり、そんな行動をする場所。
で、ソーシャルディスタンスとか言ってテレビでも出演者が距離をとっているけど、距離をとることで声が大きくなったら意味ないんじゃ?と思ってしまう。
欧米の握手やほっぺたくっつけるのを控えるのは意味あるだろうけど、日本人は握手はたまにあるけど日常的にはしないし。
欧米で使われるソーシャルディスタンスは単に物理的な距離を取るという意味だけではないのかもしれないけど、片仮名でググってみると離れろということばかり書かれている。
ソーシャルパワーを用いたWebページの発見装置としてはtwitterやFacebookは成功してるんじゃないか
どんなに好きでも四六時中は無理っしょ。
2世帯住宅にはいかないまでも、1.5世帯住宅くらいには相互の独立感が得られるようなそんな家が必要とされているのではないだろうか。
シェアハウスなんかも今ごろどうなってるんだろう。
あれも人口密度が時間帯で変わるからこそ維持されてたのであって、24時間みんな一緒状態だと戦争になってるんではないだろうか。
新型コロナ感染症が世界を分断し、不確実な情報とデマの横行による人種差別が引き起こされる最中、アメリカ西部に総本山を構えるキリスト教のリーダーが1つの提案をおこなった、イエスキリストの復活を祝う復活祭の前の金曜日、すなわち、イエスが十字架で命を失った受難日を思い起こす「聖金曜日」にあたる4月10日に、「新型コロナ感染症の世界的蔓延のさらなる爆発を防ぐこと」のために「祈りの断食」をすることを提案したのだ。これに対し、同教会の人々が早々に動きだし、Facebookに「Worldwide Fast April10」というコミュニティをつくりあげ、同じ教会の人のみならず、世界中の人たちにこの招きに答えるように呼びかけた。その結果、前述の宗派に加え、プロテスタント、カトリックといったその他のキリスト教派のひとたち イスラム教、ユダヤ教、 サイエントロジー、ヒンドゥー教、シク教、ウイッカ、仏教、ペイガニズム、そして無神論者など多数の宗教を信仰している人、総勢53万人がこのコミュニティに参加した。もちろんこれはFacebookのコミュニティへの登録者のみのカウントだけあり、登録者の家族も多数断食に参加しているため、実際に断食をした人たちは登録者数を上回ると考えられる。参加者には緊急対策チームで参加している医療関係者、ニューオリンズで、新型コロナ対応のためにボランティアとして参加している看護師、このために家族とともにはじめて断食をした子供たち(親とともに親のアカウントからアクセス)など様々な人たち、以前、集団で祈りの断食をしていた際に、新型コロナと闘病中で参加出来なかったものの、今回、回復し、感謝の意を込めて参加表明した人、タイの自宅で家族とともに自身の礼拝についてリポートするひと、この期間中に、無事出産を終え、その報告をする家族など様々な人たちの模様が伝えられている。
現段階でこの世界規模、多数の宗派が参加した「祈りの断食」が本当に功を奏したかを
示すのは難しい。だが、そこが論点ではないようだ。
この経験を経て宗派や人種を超えた一体感と精神的な安寧を感じたとのコメントが多数あったことを踏まえると、全世界的な外出自粛とソーシャル・ディスタンシングにともなう精神的な苦痛を救うムーブメントであったことは間違いないだろう。日本では「ZOOM飲み会」といった新たな取り組みが行われているが、キリスト教や、イスラム教、そしてユダヤ教といった宗派のように、特別な機会に祈りの一環(行ではない)として断食をする習慣があるひとたちにとっては、これは新たな「交流」の手法であるとも言える。いずれにしても、分断されつつある社会を改めて統合するきっかけとなるものは歓迎するべきだろう。
お前もしかしてまだコロナが収束するとでも思っているんじゃないかね。
数週間、数ヶ月だけ耐えればきっと収束すると思っていたら収束しなかったときに反動で心が折れる。
もうコロナは収束しないと最初から絶望しよう。震災で耐震基準が更新されたのと同じでコロナ以前には戻れない。
COVID-19のワクチンの開発には1年以上かかるが、ワクチンの開発に成功するとは限らない。
そしてその間にもCOVID-20, COVID-21, ..., COVID-Nが現れて人類を苦しめるだろう。
そうすると人々が最近意識的に心がけているマスクの着用やうがい手洗い消毒やソーシャルディスタンスの確保が当たり前の日常になる。
仕事はテレワーク中心になって満員電車でオフィスに出勤することが常識でなくなる。
店のレジはセルフレジ化が進む。それができない場合はアクリル板がカウンターに設置される。マスクやアルコールや紙類は、幸運と暇と根性がなければ店では手に入らない。それ以外の商品も常に品薄で商品棚が空なのが当たり前になる。そうすると店舗の面積が縮小できそう。
人が集まる娯楽のリアルイベントは開催できないから、イベントで食ってきた業者はビジネス形態を変えることになる。バーチャルとか? スポーツの大会を無観客で開催してギャンブルの賭け金を収益にするとか?
人と会うことができないから今特定の恋人がいない人は残念でした。コロナ世代は結婚できず少子化が加速する。会わない出会いって何だ? 旧人類だからわからないがバーチャルとか? 逆に戻って平安貴族のように和歌のやり取りで?
医療職も患者との濃厚接触を避けるため滅多なことでは病院で診てもらうことができない。診てもらえるとしたら遠隔医療が中心になっていくだろう。
人々はウイルスに汚染されたこんなつまらない現実世界を捨ててバーチャルに生活の場を移す。そうすると犯罪と警察もまたそちらにシフトする。
二番煎じです。
https://anond.hatelabo.jp/20200404142511
この話を読んで、筆を取りたくなりました。
共に過ごす家族などいないし、なにより職場への通勤は逃れられなかった人間。
3月から時短営業はしているけれども、緊急事態宣言前後で特に何かが変わることはなかった、そんな都内の職場で働くテレオペです。
ネットカフェのような仕切りだけがソーシャルディスタンスな、そんなオフィスに何十人も詰められて今日も電話に出ています。私たちがクラスターとなる日は遠くない。たぶんきっと。
感染対策はしているものの、業務は遂行されます。自分は社会の歯車でしかないのだと、改めて気付かされる日々。
お金を稼ぐため、生きるために、命を危険に晒すという矛盾の中を泳ぐ春。
7時に家を出て、15時には仕事が終わる、このサイクルに何か見覚えがあるなと思ったら、ああ、これ、10年前に体験した高校生時代と同じサイクルなんですね。
健やかに眠りにつき、体を養うことのできる日々。
日の出る前に家を出て、ビルの中で日が傾くのを見つめつつ、日が沈む頃に帰路に着く今までの生活が嘘のよう。
時短営業とは言いつつ、人が本来、1日に活動をする量というのは、この程度が適切なんじゃないかと思ってしまう。
忙しさに擦り切れていた去年までの春と違って、今年の春は、皮肉にも心に余裕があります。まだ日のある仕事からの帰り道に、ふと見上げると、いろんなことに気づくのです。
桜の花びらのその薄さ。
肌を撫でる風の暖かさ。
何年もオフィスの中から小さく見つめるだけだった春の風景たち。
その春の風景の中に、今年は私も紛れている。
ただそれだけで、どうしようもなく嬉しくて悲しくなるのです。
もう何年も忘れていたような感覚を、この時短生活の中で取り戻しています。
こういう感覚を、また取り戻せる日が来るとは思わなくて。
まだ私にも人の心が残っていたことを知って、なんだか訳もわからず涙が出てきてしまう。
校則を破ってブレザーの下にパーカーを着込んだかつての春の日を、ここ数日ずっと思い出しています。
大きな危機がやってきているのだとはわかっているのだけれども、眼前に広がる春の日は嘘偽りなく麗らかで、こんな日がいつまでも続けばいいのにと思ってしまう。
この世界の恐慌は早く鎮まってほしい。死者も苦しむ人もこれ以上は増えずにいてほしい。そんな気持ちはもちろん私の中にある。
けれども私個人というミクロな視点で今の生活を見つめると、人生で一番穏やかな日々を送れているのは今なのではないかと思う。
「ああ、ここで終わってしまってもいいな」と。
死が明確に、近くまで迫っているこのご時世に、そんなことを言うのは本当に不謹慎なのだけれども。
ただ、こんなに心穏やかな春を、もう人生では得ることができないのだ、という事実が頭をよぎるたび、どうしようもなく、本当にどうしようもなく、悲しくてたまらない。
こんなに春の日は美しくて、幸せに満ち溢れたような姿をしているのに。
毎日、混雑する東京の電車に乗り込んでいます。もうもはや、生きるために乗るのか死ぬために乗るのかわからない。
もしかすると、5月を迎えられずに亡くなる可能性だってある、危うい日々が続きます。
けれど私も、はっきりと思うんです。
・海外では、ソーシャルディスタンス(2mの社会的距離)という一言で意味が伝わるパワーワードが生まれてうらやましい。
・日本には清潔をもとめる習慣が昔からある。それを一言のキーワードで表したい。
・食文化→日本はお寿司を楽しむ食文化があるが、これは菌の繁殖により食中毒を起こす可能性もあるため、衛生には特に気を付けてきたという歴史がある。(食文化と衛生はセット)
・環境→日本では公衆衛生の概念が浸透していて、こまめ手を洗う習慣があり、手洗いができる場所がいたるところにある(公園や川)
・教育→学校では子供たちによる学校掃除があり幼いころから掃除が身近な行為(海外では生徒に学校清掃をさせることは多くない)
他にもいろいろあると思うけど
日本の他国からみると潔癖も見える行為が今回のコロナの被害が他国より少ない理由として考えられるが
これらの清潔を好む文化をいちいち説明するのが面倒だし、インパクトも小さい。わかりやすくしたい!
※日本人が昔からいかにきれい好きで清潔を好む文化であったかについて知りたい場合は、渡辺 京二 逝きし世の面影という本おすすめ。