はてなキーワード: 募金とは
今から20年くらい前の小学校の高学年の時、児童会の募金活動と同時に空き缶回収があった。
アルミ缶を集めて回収に出すとお金になるからそれを募金にするらしい。キロ単位集めてでいくらになります。みんなで世界の恵まれない子を支援しましょう!おうちの人にも話をしてお金と空き缶を持ってきましょう!と先生による説明が行われた。
うちはシングルマザーなので空き缶だけでもいいですか?ととなりの席の子が質問した。
生活カツカツなんです、缶の飲み物だって買うの大変なので拾ったものがいいですと続けた。
場の空気が凍る。
数10円も持ってこれないのか!日本に住んでる子は恵まれてるんだ!となぜかその子に激昂する先生。先生も悪気はなかったと思う。
隣の席の子は泣いた。
お金用意するの大変なのに先生もひどいこと言うなぁって気持ちと、先生が怒り狂った記憶が強烈に焼き付いている。ユニセフのCMを見るたびにその事を思い出していた。
保育園に子どもを預けて日々自転車操業。両親こそいるけど育児に仕事、家事、私が倒れたら…なんて不安を抱えつつもなんとか生活している。
別に食うに困っているほどではない。
ありがたいことに食いっぱぐれのない仕事をしていたのでなんとかできる。
保育園の連絡帳にそっと義援金集めますのお知らせが挟まっていた。
ただ気持ちがいっぱいというか生活費の余裕がないというか、生活する上で気持ちの余裕がないのに、なんて思ってしまった。
今財布の中に入ってる数百円ぐらい出せるよ?出せるけどさ。
募金集めるって話した時、お母さんどんな気持ちになるんだろう。顔には出さないだろうね、私だってそう努める。
きっとその子の家も数百円は出せるんだとは思うけど。
隣の席の子は今どうしてるのかな。
募金の度に思い出してたりするのかな。
やらない善も偽善の一つ。有口無行。他人に善行を説くが、自身は行わない。
無計画に被災地につっこんだボランティアのことを「偽善者だ」と批判する人がいるが、
それは偽善ですらない。ただの迷惑行為。強いていえば「独り善がり」。
たとえば100万募金したAさんとBさんがいたとして、
(被災地の助けになるといいな)と思うAさんと、(これで節税できるしついでに売名もできるぞ)と思うBさん、
どちらも行為に違いはないがAさんは善者と呼ばれ、Bさんは虚勢や欺瞞に満ちた「偽善者」と呼ばれる。
とはいえ、いくら動機が不純だったとしてもBさんも募金しているのには変わりないので、
「やらない善より、やる偽善」のほうがいいよねってことになる。
募金だけでいいんだよ金だけ渡せってこった
おまえの小さい器が、かってにバイアスで偽善に仕立て上げてるだけ
以上
にゃるほどぉ。20年間で初めて知ったは。ありがと。
つまりワイがイラついてたのはこの言葉じゃなくて、当時の2ちゃんで善行に対して「偽善でしかない」とかほざいてた質の低いねらー達にだったんだな。
20年で日本人の民度も上がってるから無駄なイラつきだったは。ありがと。
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
気にすることなく、やり遂げなさい
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい
気にすることなく、作り続けなさい
気にすることなく、助け続けなさい
たとえそれが十分でなくても
タイトル通りの話を吐き出したい。
しょうもなく普通のことだが、自分自身含む家族がいつかor突然死ぬかもしれない事実が恐ろしくて、生きるのが怖くなってしまった。
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20代前半まで死ぬことばかり考えていた。自己肯定感が低かったおかげで、他人に迷惑をかけてはならない=自殺不可という考えが強くて生きながらえた。
せめて貯金して、生活に余裕が出来たら募金や寄付をして死ぬ日を待とうと決めていた。
若かりし頃には自傷も自殺未遂もした。黒歴史ではあるが、必死に生きていたんだよなと抱きしめてあげたい。
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まあ、よくある話で恥ずかしいが、躁の時に婚活して現夫に出会い自己肯定感を享受し、毒親(過干渉否定型)の洗脳が解け、子も誕生した。
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現実的には面倒な毒親の問題を抱えているし、おおげさかもしれないけど毒親に洗脳されてた過去が悔しくて悲しくて涙が止まらない夜がある。
子は赤ちゃんなので、夜泣きや諸々で体力面も精神面もゴリゴリ削られてギリギリなんとか生活できている日々。
育休中なので、復職したら仕事と育児と家事をやっていけるか?という不安もでっかい。こんなへなちょこな自分に「人間」を育てることができるかどうか?という恐怖も常にある。
子育て世帯への風当たり、政治も世間も強ない?なんで??こんな社会でマジでやっていけるか?まあ子のために地べた這いずり回る勢いで頑張るけどな!まじクソ!だから少子化なんだ!と無計画に子を作ったがゆえの無知で不満が爆発してたりもする。
だが、幸せだ。どんな悩みや葛藤や苦しみがあろうと、私を大切に尊重して愛してくれる夫がいて、なにをしたって可愛い子がいて、とても幸せ。
お金持ちにならなくても、イケメンと結婚しなくても、宝くじが当たらなくても、こんなに幸せになれるんだな。
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脱線しすぎた申し訳ない。普通のことだろうが、夫と子が死ぬかもしれないことが、自分自身が死んでしまうかもしれないことが怖くてたまらない。
病気か事故か、はたまた事件か。どうしたって治らないマイナス思考が妄想を繰り広げる。
この妄想、家族が寝静まった夜に咽び泣くほどのもの。アラサーがなにやってんだか。今も色んな起きもしないような、でも可能性はゼロではないことを想像して泣いてる。
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夫がいなくなったら、どうしよう。私は夫のいない世界で生きていけるだろうか?子のために踏ん張らなければいけない。でも、夫がいない世界で生きるなんて考えられない。
結婚など一生しない、こんなクソみたいな人間が誰かの人生を奪ってはいけないと強く決心していたくせに、転がり落ちるように結婚してこのザマだ。
いっそ不倫でもして、私の知らないどこかで幸せになって、寿命全うの老衰で死んでくれたりしないだろうか。
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子が死んでしまったらどうしよう、私はもうきっと、子がいなかった頃の夫とのふたりの生活に戻れない。
どこに行っても、何を見ても、何を食べても、なにもしなくても、家族3人で過ごした時間を思い出して泣いてしまう。
きっといつまでも前を向けない私は、夫の人生の足でまといになる。そのうち、夫も失うだろう。私はもうひとりぼっちで生きてはいけない。
結婚したものの、子は持たぬ!責任負えん!お金かかるし!夫とふたりで少し贅沢な人生を送るのだ!とかほざいてたくせに、流れるように子を持つことになってこのザマだ。
子、本当になんでも受け止めるから健康に育ってくれ。後天的障害とか、ニートとか、犯罪者になるかもとか、いろんな不安はあるけど、もう全部とっぱらって生きていてほしいと今願っているよ。
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死にたい毎日は楽だった。親も嫌いだけど見捨てられないから早く死んでほしいと願ってた(これは今も)し、自分自身もできるだけ早く死にたかった。
いつも具体的に死を想像しては心を落ち着かせていた。ニュースで無差別殺人や自然災害をみても、目の前で飛び降り自殺を見た時も、羨ましいとしか感じなかった。
死体写真を見るのも好きだった。早くこうなりたいと、心が踊った。
死への恐怖がなくて失うものがない人間って無敵なんだと思う。まさにそれだった。
私はコンナゴミクズガイキテテゴメンナサイ精神だったおかげで他者に危害を加えず済んだが、いわゆる「無敵の人」に近い状況だった。何かが少し違ったら、私も無差別殺人や両親惨殺を実行していたかもしれない……。
これは同情ではなく恐怖。こういう人間はたくさんいる。私がそうだったように。
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この前の地震も、電車で無作為に刺される事件も、事故に巻き込まれて死んでしまった親子も、全てが自分ごとで想像しては怖くて辛くて苦しくて涙が止まらない夜がある。
できるかぎりの地震対策はした。電車内でなにか起きればすぐ逃げれるよう、乗車時はベビーカーから抱っこ紐に変えている。
でも、どれだけやっても足りない。横断歩道を渡る前にどれだけ左右確認をしたって、視覚外から猛スピードで車が突っ込んできたら?たまたま道を歩いている時とかに爆発事故に巻き込まれたら?どうすれば死なずに、できれば健康に生きていける?
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死に惹かれ、死を調べ、死を妄想し、死だけを願い生きてきた過去の代償か。
生きたいと願う今、生きていてほしいと願う家族がいる今、こんなに生きたいからこそ「死んでしまうかもしれない妄想」が生活のあちこちで無意識に浮かんで、怖くてたまらない。
調べ尽くしたり妄想し尽くしたから、とてもリアルに想像できてしまう。あの亡くなったかたが、私だったら、夫だったら、子だったら。耐えられない。
もし現実になった場合、それでも生きていかなければならない。私も夫も、子も。
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とはいえ繰り返しになるが、私を大切に尊重して愛してくれる夫がいて、なにをしたって可愛い子がいて、今私はとても幸せ。
幸せなのに生きるのが怖い、こんな未来がくるなんて想像できなかったな。
私も含め、みんなこんな世界でマトモに生きてるなんてすごいよな。
テレビやネットで賞賛されてる人や団体、賞賛されている活動があったら粗を探して難癖をつけたくなる。
というか強迫観念的に「何か悪いところ探さなきゃ!」ってなって必死になって弱点やボロを探し出してそれをコメント欄やここで指摘するんだ。
俺には信念とかは一切ないんだと思う。
この前は取り組みが賞賛されて表彰もされていたフリースクールを知って、休日返上で必死に粗を探して不祥事を探し出してそれを指摘した。
この前はドイツの環境保護団体とそれを母体にして世界中で政界進出しようとしてる政党の粗を必死に探し出し「エコビジネス」であり「将来世代のための活動ではない」という論理を構成した。
とにかく賞賛されたり、正しいとされたり、良いこととされたりしている物事が許せない。
俺は声が小さかったし聞こえるような声で歌うのも恥ずかしかったから合唱祭ではいつも口パクで「お前声出てないよ」と先生や同級生から指摘され怒られた。
体育祭では必死にやればやるほど遅くて不恰好でダサく格好悪く見えるから手を抜いてたら「何やってんだよ」と肌の黒い同級生の男たちから詰られた。
うるせえばか。一生懸命走ったりボール投げてもお前らみたいに様にならないんだよ。笑われるだけなんだよ。お前らみたいに格好良くて速い走り方ができたり、見てて惚れ惚れするようなフォームや動きができるなら俺だって頑張るわ。
やりたくもないことをやっているのにその上なんで詰られないといけないんだと泣きそうになった。
合唱祭で最優秀賞をとったり、体育祭で優勝した際にはクラスメートは泣きながら喜んでいた。俺は「ようやく終わった」という感情はあっても「嬉しい!」という感情はなく喜べなかった。すると今度は「冷めてるやつ」という烙印を押されるんだ。
みんなにとっては毎日放課後時間を使って合唱練習して本番では大きな声を出して歌い、体育祭では炎天下の中で練習し、結果が出ればみんなで泣きながら喜ぶことが「良いこと」とされるんだよな。
だから俺はみんなから「良いこと」「正しい」と一般的に思われていることが大嫌いになった。
あの頃は反論できなかった。
でも今は反論ができる。難癖もつけられる。批判ができる。一方的に賞賛させられたり、参加させられたり、巻き込まれることを拒むことができる。
いや厳密に言えば意味無くは無いんだろうけど、あんな海沿いの崖だらけの土地にもう一度住んだとしても、もう一回地震来ないとは言えないでしょ。
復興支援で沢山の募金が集まるのはいい事だとは思うけど、その募金を被害のあった地域にもう一度住む為に使うのは無しだと思うんだがそれは間違った考えなのか?
こんなことを人前で大っぴらに言うと嫌われそうなので増田に書く。
明日くらいから職場や学校で能登半島地震の募金活動とか始まりそうじゃん?
増田はすでにふるさと納税で石川県に1万円募金済ませてるんで、これ以上の寄付は若干負担になるんだけど、職場で募金始まったらそれなりの金額入れないと白い目で見られそうじゃない?
「すでに個人で募金したので会社の募金には協力しないです」とか、嫌味っぽくてめちゃくちゃ伝えにくい。
あと、募金先が石川県に直接送るとかならいいけど、胡散臭いNGO(例えば山本太郎や津田大介とかと仲いいところとか)だったら、左派活動家が嫌いなこともあって彼らの資金源になりそうで嫌悪感がある。
こんなことを気にするのは心が狭いんだろうか?きっと狭いんだろうな。