はてなキーワード: デコピンとは
今回の「ポケモン ダイパリメイク」は、「ブリリアントダイヤモンド」のROMと、「シャイニングパール」のROMだと完全に言えるような状態ではなく、「ブリリアントダイヤモンド シャイニングパール」という1種類のROMだと言えるような状態になっています。
この1種類のROMは、ソフトが立ち上がる時に、「ブリリアントダイヤモンド」として起動するのか、「シャイニングパール」として起動するのかが決まるだけです。
つまり、今回の「ポケモン ダイパリメイク」のROMは、中身は両バージョンとも同じで、起動時のフラグが1つ異なるだけになっています。
このため、発売前に、改造によって別バージョンに簡単に切り替えている様子も投稿されていました。
シャイニングパールをプレイしてた筈なのに、ディアルガでシナリオが進行してしまうバグが発生したみたいだ…
一連の流れを録画しておけばよかった
シャイニングパールタイトルからの立ちはだかるディアルガに笑ってしまう
このソフトでしか手に入らない特別感というメッキが剥がれて、全く同じもの封入しておきながらロックかけてるって事でしょ。2バージョン商法の為に。
御三家みたいにゲーム内で選択できるなら、友達と交換する楽しみもあるし分かる。けど、さすがにこれは気持ち悪さが残る。
起動時に1バイトのソフト判別データ読み混んでるだから簡単に出来る
なんならデコピンでデータがおかしくなったとかホコリが挟まって読み込みおかしくなったって時にダイヤモンドがパールになってるなんてことは普通にあると思うわ
子供が育てている鉢植えのコスモスに、黄緑色のいもむしが一匹くっついていた。色がきれいでぷりぷりで小さくて可愛いが、いもむしはいもむし。小さくても大食漢だ。小さなコスモスの一本くらい、余裕で食い尽くすので、取り除かなければならない。子供は「はやく取って!」と半べそでわめいていた。
正直私もいもむしは苦手なので、ゴワゴワのゴム手袋を両手にはめ、いもむしの感触を手に味わわないようにして望んだ。
いもむしは私達に注目されるなか危険を感じたようで、小さな身体をピンと立ち上げて、いっちょまえに枝のふりをしていた。だが、コスモスの枝葉は細いので、いもむしはどうみても立ち上がったいもむしだった。
子供時代に小学校の生き物として、嫌々お世話を任されていたモンシロチョウの幼虫のことを思いだし、捕まえるのは楽勝だと思った。奴らは目の前に指を差し出せば、何の疑いもなさそうによじよじとよじ登ってきたものだ。
ところが、目の前のいもむしは手強かった。指で背中に触れると、いもむしってこんなに素早く動けるの!? と思わず驚嘆するほどのスピードで、コスモスの葉を伝い逃げ回った。こちらとしてはうっかり潰してお手手が大惨事になることは避けたい。そんな弱い心を見透かしたかのように、いもむしはゴム手に覆われた指先をすり抜け、枝から枝へと器用に移動する。そっちの枝に逃げたかと思えばあっちの枝に飛び移る。こいつの前世は猿だったのではないか? というくらい素早くてトリッキーなムーブ。
しかもなんというか、こっちが悪いことをしているというのをまざまざと見せつけてくれるような、哀れを誘うような仕草で逃げるので、潰しちゃいけない気が増し増しでごめんと謝りながら攻撃を加えることになる。
激しい攻防戦に、私の方が先に疲れて、手を止めた。途端にいもむしはぴたりと動きをとめると、おもむろにコスモスの葉っぱの先を齧った。
「シャクッ」
あかん、捕獲せねば。再挑戦。いもむしは逃げ回る。私は疲れて止まる。いもむしも止まった。なんかもう直接攻撃は無理じゃね? と思い、子供に、枝一本犠牲にしてもいい? と確認したら、嫌だとゴネられた。そこから腐ったらどうしてくれる? と。でもこのままでは枝一本やられるどころか幹の根本まで食い尽くされますけど? と説得。なんとか枝一本を犠牲にすることの許可を得る。
頭上で人間達がもめているのをよそに、いもむしはもう安全とばかりに葉っぱの先を食んでいた。私はいもむしの載った枝の根本に狙いを定め、引きちぎろうとしたが引きちぎれなかった。
コスモス案外丈夫! 8月に蒔いた種から生まれ育った株だったのでイケるかと思ったが無理だった。枝を引っ張ったら全体が引っこ抜けそうになった。そうこうしている間にいもむしは私の指を避けて別の枝に乗り換えた。私が取ろうとした枝はぼろぼろになって最終的に付け根から取れたが、枝と一緒に幹の表皮が長々と剥けた。
こうなったら最終手段だ。黄色い汁とか飛び散って大変なことになるかもだけどいい? 子供はおごそかにうなずいた。いざ。
「あ゛ーっ!!!!!」
弾け飛び撃墜されるはずだったいもむしは何故か私の手の甲にいた。ノーダメージ。そして元気にゴム手の上を這い上がり、ゴム手の縁から手袋の中を覗いている。そっちはダメよ!! 手を振り回してもいもむしは落下せず、私は庭の雑草をちぎってわめきぐるぐるまわりながらいもむしの前に草を差しだした。いもむしはスッと草に乗り移った。私は草を遠くに投げようとしたが、草は私のあしもとにポロリと落ちた。
terminalの発音は
チュミノゥ
だ。
ただし、最初の「チュ」は「chu」ではない。「YouTube」のtuに近い。「チ」の最初の音が入る「テュ」だ。
これは「チェゥ」と書いたほうが正確かも知れないが、速度感を表現できないので「チュ」にした。「チェゥ」で一つの子音だ。「ェゥ」は声に出すな。舌先で出る破裂音だけ。それが「チュ」だ。
「ノゥ」は「ノー」でもまあまあ及第点。だが、ネイチィヴっぽさを出すなら、この「発音されないL」の感覚を掴もう。
それからアクセント。英語はアクセントが大事だ。「terminal」のアクセントは最初の「e」だ。
だから、「たぁみなる」なんて言ってはいけない。「チュミノゥ」だ。最初の「チュ」だけ力入れて、あとは惰性で発音する。デコピンと同じで、力が入るのは発射する一瞬だけだ。
さあ、Repeat after me.
チュミノゥ
OK?
この点を踏まえれば、子供向けの絵本にありがちな表現でも、継母がシンデレラをいじめる表現が引っかかりそう。ひたすら掃除させるみたいなやつ。
グリム童話のほうが怖いとかどうとかは正直関係ない話では。個人的には原作が残虐なせいで話がずれやすいシンデレラをわざわざ例に出したのが良くないと思う。
半年ほど前にニコニコのゲームアツマールやふりーむ!で公開された本作。
当初から「感動できるゲーム」として紹介されていることに違和感があったのだが、最近になり有名VTuberなどによる実況動画が話題になったりと、看過し難い存在になってきたので思っていることを書こうと思う。
尚、内容のネタバレを含むのでご了承願う。
ふりーむ!では「12歳以上」とされているが、ゲームアツマールではR-18以外の表示制限がないため、実質全年齢向けとなっている。
8歳の女の子に体罰での「おしおき」ができるゲームであること。
いわゆる「ソフトリョナ」である、という部分が見えにくくなっている。
しかし、普段その嗜好がない人たちにも発見されやすく、「感動できる作品」として広められていることに危機感がある。
まず、体罰はデコピン程度であっても暴力・虐待であり、禁止されるべき行為である、ということをプレイヤーが分かっているのだろうか、という疑問がある。
例えばFPSゲームのプレイヤーが現実で殺人を行うかといえばそうではないが、それは「殺人は禁止されている行為である」という前提知識と倫理観があるからだ。
親や教師などの指導者から体罰を受けて育った人というのは残念ながら少なくない。法律で禁止されるようになったのも最近のことだ。
ましてや、一生治らない傷を負わせる暴力を振るわれる環境から、愛情のあるしつけをされる環境に移り変わるという点で、プレイヤーが暴力を振るうことに対する罪の意識を軽くし、むしろいいことであるかのように描かれている。
そのいびつさが本作の魅力でもあるのだが、「子育てをする人はプレイしたほうがいい」「(母親のような)児童虐待は絶対に許せない。幸せになってくれてよかった」等の感想を見ていると、どうも皮肉さが伝わっていないのではないかと思えて仕方がない。
そして、冒頭でも述べた対象年齢。
単純に「おしおき」を行った、という事実があるだけならばまだマシなのだが、「おしおき」を実行しようとするとデコピンのミニゲームが入るようになっている。
女の子の顔の前で指を構え、ゲージが溜まったタイミングでデコピンを行う。溜まりきっていない場合は不発となる。
当たった箇所は赤い傷ができ、女の子は涙を浮かべて怯える。理由なくおしおきをした場合は、翌日怯えた状態から始まる。
また、ルート分岐によるが、女の子に主人公が殺されるというエンドもある。
このように、暴力の描写が細かい作品が子供の目に触れることは非常に望ましくないと考えている。
ゲームアツマールでは全年齢で公開されていることから、「女の子と同じくらいの年齢の子にプレイさせて反応を見たい」という感想を見かけた。
これは言語道断、絶対にあってはならないことだが、実際今の子供は簡単にネット・YouTubeにアクセスできてしまうため、この作品を見つけてしまう可能性は十分にある。
「エルサゲート」と呼ばれる動画や、「ママがおばけになっちゃった!」で子供がトラウマを発症してしまうという話題は記憶に新しい。
作者は「えっちなゲームではないので未成年の方もぜひ」と言っているが、創作物の世界と現実世界の区別がしっかりとつけられ、尚且つ倫理観も十分に成熟した年齢になって初めて適正な年齢になると言えると思っている。
ふりーむ!で設定されている12歳という年齢が適切かどうかは議論が別れると思うが、少なくとも、全年齢か18禁でしか差のつけられないゲームアツマールのような場においては、18禁のほうに合わせるのが適当ではないかと思う。
この作品を広める際には「トゥルーエンドでも虐待は虐待である」という自覚を持ってほしい。
子供には勧めないでほしい。
以上。
シン・エヴァンゲリオン。どうやら相当世間を賑わせているらしい。
私も先日鑑賞した。その感想は……はっきり言って、物足りない。
何故ならば、庵野秀明の攻撃性が、作品からあまり感じ取れなかったからだ。
ある時は、「そんなに1人でうじうじ悩んで、勝手に決めつけて、気持ち悪い」と一蹴し
またある時は、「何時までもエヴァンゲリオンに齧り付いてるんじゃねーよ!」と叱責された。
私は作品を通して、庵野秀明からのメッセージを過剰なまでに深読みし、勝手に殴られて勝手に死にかけていた。それが私の「エヴァンゲリオン」の楽しみ方だった。
逃れられない現実を突きつけられるような演出の数々は、私のマゾヒズムを的確に刺激してくれた。
今回の「シン」も、もちろん庵野秀明に殴られる為に劇場へと足を運んだのだ。
「シン」はどんな手で私を弄んでくれるのだろうか。
しかし実際に画面へ映し出されたのは、
牧歌的な風景。Qと変わらない描写。極めつけに旧劇場版を薄めた二番煎じ。
それは主体となっている人物が碇シンジではないからだ、というのは重々承知している。
しかしそれでは物足りないのだ。
私の求めた「エヴァンゲリオン」は、答えを探して堂々巡りをし続け、答えの先に絶望を与えてくれた。
私が外に出ない理由をくれた。
これらがまぜこぜになって出来上がった「エヴァンゲリオン」が、好きだった。
「まさかエヴァンゲリオンをこんな爽やかに終えられるわけがないだろう」
そう思いながら鑑賞した。
それは思い違いだった。トウジ達だけじゃない。庵野秀明も成長していたのだ。
成長していなかったのは、私だけ。
当然だが。
そんな私を「エヴァンゲリオン」から解放する為の作品を、庵野秀明は作り上げたのだ。
違うんだ。「エヴァンゲリオン」という女王様から放たれる、一級品の鞭さばきを私はその身に受けたかった。そしてそのまま意識を失ってしまったなら、それはどんなに素晴らしい事だろう。
今作は、デコピンを額に受ける程度の威力しか秘められていない。
私を快楽へと導いてくれたエヴァンゲリオンは、一体どこへ行ってしまったんだ。
女性側が精神が混濁し幼児化した状態なので、増田の感覚に共感した。最初は「いや公式じゃん…」とも思ったけれども。
ただ、いちおうねずこには鬼であった時に過ごした記憶も持っている。
その時彼女から見ていた善逸は、自分に一途で優しく、気遣いのできる男性なのではないだろうか。
善逸は若く可愛い女性だったら誰にでもソワソワする(公式設定)だけれども、
彼が孤児として孤独に育ち、特殊な能力を持つために何度も傷つけられ、あの光の一筋も差さない暗黒の無意識領域を持つということを考えると、
単に現実にいる「女性だったら誰でもいい」(はっきり言うと一部の男にいる「性欲が湧く穴だったらなんでもいい」)とは少し毛色が違うタイプでもある。
彼は単にさびしがりやであり、さびしがりやなのに相手の内面(自分を好きではない)もわかってしまうやっかいな体質持ちである。
ねずこが意識が混濁しているのにつけこんだように見えるのも確かだが、
逆に言うとねずこが幼児化しているのにつけこんだりもせず、ねずこの精神状態に合わせて散歩に連れ出したのは下心とは別のやさしさ、思いやりもあるだろうと思う。
人間性を取り戻してからは、善逸はその本来の「明るく活発、しっかりしていて、悪いことをしたときにはとても痛いデコピンを食らわせてくるお姉ちゃんでもある女の子」
であるねずこと向き合うことになるわけで、
そこで彼女本来の性格をしっかりうけとめ、関係をはぐくんでいけたからこそ結婚に至った…と脳内補完したらダメかな…。
(だってねずこは12歳の段階で「街でいちばんかわいいと評判の女の子」だったわけでしょう。人間に戻った14、5歳のころには周囲の男性の目に触れるようになるわけで…。
そこで善逸がただのねずこ以外でもかわいい子ならだれとでもくっつくような男であったなら、寝ず子は受け入れなかったのではないでしょうか。
ねず子は人間に戻った時点でも子供の年齢のうえ2年以上意識が混濁していたハンディつきだけれども、大人になって判断がつくようになってから善逸を選んだ、ということで、
俺ならデコピンだけで泣かせることができるよ
みたいなNote記事を書きたいが、仕事の原稿に追われがちでそっちのけだ。
なんなら今も他に締切があるからちゃちゃっとまとめる。気が向いたらあれこれ詰める。
撮り鉄歴15年だが、ここ5年の人口増加とトラブル具合はなかなか酷いと思う。
そりゃ昔っから変なことはごまんとあったけど、特に若年層が起こすSNS炎上と中高年がやりがちな非常停止騒ぎが目立つ印象。
若い子の口だけが達者でトラブル起こす現象は結構興味深い。彼らって結局数で勝負してるから面倒なんだけど、基本弱そうだから体育館裏とかに呼び出したらデコピン一発で卒倒しそう。
ただ、中高生…百歩譲って大学サークルで現役の三回生くらいまでは痛いことしてもいいのかなとも思っている。SNSの世界では総スカンだけど、リアルの撮影地なら良識ある大人が救ってくれる可能性も僅かにある。
昨日今日燃えてるのはオッサンだけど…就活控えるようになった頃からは仕事と直結するわけだから危ないことは普通出来ないはずなんだけどね。カタギの仕事をしてない、って認識されてもおかしくはないわな。でも大手私鉄の内定者の撮り鉄がJRの駅員にキレているシーンを見たときはドン引きを通り越した。
良識ある大人って出したけど、おそらく20代後半から40代までの、節度を持ちながら丁寧な写真を撮れる人たちって生活もまたきちんとしているから、そうしょっちゅうは撮影に出てこなかったりするんだよね。現に結婚した友人は最近は子育てでご無沙汰だし、仕事が忙しくて撮影行けてない人もざら。
現代的な物言いじゃないのは承知だけど、鉄道と心中してもいいくらいの狂った熱意を持っている人は、人生でやるべきことをおなざりにしているよね。
デコピンされるぐらいだよ。