はてなキーワード: 言論の自由とは
今TwitterやYouTubeにはトランプ大統領に関する様々な憶測が飛び交っています。
議事堂襲撃の自作自演、バチカンの選挙不正への協力、世界緊急放送システム、などなど。
こうした憶測に対して、インテリや知識人達の反応はかなり冷笑的です。
また、多くの人は陰謀論やネトウヨとレッテルを貼り切り捨てようとします。
理由は、トランプ大統領がTwitterなど大手SNSからアカウントを削除され言論の自由を封じられている、という一点につきます。
言論統制がある以上、トランプ側からすれば一方的に殴られているような状態です。
反論をしたくても手足が拘束されている状態であり、公平な民主主義がまともに行えない状態です。
たとえ相手の意見に賛成できなくても、相手が発言する権利だけは守らなければならないはずです。
これは党派や主張の違いを超えて死守しなければならない民主主義の根幹を成すものです。
それが奪われた相手の前では、敵であれ味方であれ、相手の意見を聞き出すことが最優先されるべきはずです。
相手の発言権を確保した上で、冷笑したりデマだ陰謀論だと批判するのは自由です。
しかし今、トランプやその側近の言論封鎖があり一次情報がでてきづらい以上、不確かな情報から汲み取るしかないわけです。
我々はその中からトランプらの発言を汲み取ろうとする努力をする義務があります。
なぜなら片側に発言権がない状態では民主主義は機能せず、独裁を許すことになるからです。
だから、陰謀論やデマと思えるような内容であっても、今だけは皆が注意深く読み込む必要があります。
その行為に対して「情弱」「ネトウヨ」「陰謀論者」と冷笑することは簡単でカッコいいのかもしれませんが中立性を欠くものです。
警察や官僚が本気を出したらあらゆる言論が平気で封殺されてしまう。
密室の中で集団リンチを繰り返され、外に情報をリークしても「首相が、お怒りでしたよ」の一言で発言を引っ込めさせられる。
それを私達は何度も見てきた。
数々のシステムに言論の自由を分散して配置し、どこかで封じ込められても他で補えるようにするのが現代のスタイルだ。
金は人の命より重い
普通は人の命は金より重いというところを価値の逆転をセリフにして登場人物と読者に衝撃を与えています。
いろいろな意味が含まれますが価値の優先順位を決めるという意味も含みます。
人の命も、お金も大切なものですが、どちらがより価値あるものなのか?
もちろん人の命ですね。しかし、価値観は人それぞれで違います。
逆の答えを言う人もいるでしょう。
しかし、非常に稀なケースですが民主主義と言論の自由、どちらかを選択しなければいけないときがあります。
例えば、今回のトランプ大統領の行動です。
彼は支持者たちを焚き付けて、正式な選挙で選ばれた大統領を承認する民主主義のプロセスを妨害しました。
トランプ氏やトランプ氏の支持者たちの言論自由を守ることのどちらを選択するのか?
米国では通常、国家、民主主義国家であるアメリカ合衆国を守ることを優先します。
これは突き詰めて考えると正しいのかどうかはわかりません。
しかし、どちらかを選択しなければならない状況であれば米国では言論の自由を統制するということです。
価値の順番を決めること。
両方を同じように尊重できない時、どちらを選ぶのか。
その難しい選択が今回行われたということです。
一部の政治家やら芸能人やらを除いて、Twitterやら5chとかそういうところで政治を一生懸命する人たち。そのほとんどは自分のリアルの生活に満足してなさそう。年収400万円もなさそうな人たちがネトウヨネトサヨ双方に多いような気がする。
だから政治家でもないのにクソ長い長文貼ったりして政治を語っている…
自分の生活が不満なら自分で行動すること、市議会議員でもいいから政治家になること、年収が低いのが不満なら転職したり資格をとったほうがカンタンなのにそれをしないネットの政治厨。
世の中を変えるより自分の人生を変えるほうがかんたんなことに気づかないのか?
右を見れば中国死ね韓国死ね!!左を見れば安倍氏ねスガ死ねなど見るに堪えない、自分のツイッターのフォロワーでそういうやつがいたら右中左問わず即ブロック対象だ。
上の一文の「野球」を「政治」に、「チーム」を「政党」or「国」なんかに置き換えれば私がネットの政治厨に対して言いたいことが全部詰まっている。
言論の自由が著しく脅かされない限り、政治屋さんに基本はおまかせするスタンスのほうが自分の精神、人生においてプラス方向に働くと思うよ。
若者の投票率が低いとよく批判されるけど、わざわざ期日前投票やら日曜日に時間をあけてすら投票しないのは自分の人生を充実させる上である意味潔いしそれでいいと思う。
写真を趣味にしているので、中国の写真SNSや写真集を漁ることがある。
マクラーレンに乗っていたり、高級そうなビルの高層でフェティッシュな写真を撮っていたりする。
攻殻機動隊で政治家の人が集まるフェチなお店が出ていたが、そんなお店で撮影していたりしたのもあった。
日本だとドローンを飛ばすのも難しいと思うが、映画撮るようのREDなどを載せる大型のドローンを個人で使って使って撮影していたりする。
ライティング機材も本格的だったり、ロケーションに制限があまりないのか、色んなところで撮っている。
写真のために日本の鎌倉にまで来て撮影するといったのも普通に行われている。
そういうのが20代っぽい人だったりする。
日本だと街中で写真を撮るのも大変だし、田舎の方に行っても写真は撮れない。
日本の写真展に行くと、新しい表現は見当たらない。映っているモデルのクオリティを競ってるくらいになっている。
そりゃ通行人をいきなり撮るストリートはもうないだろうと思うし、鉄道写真の三脚をどこにでも立てるなどがあって、
今の日本のような状況になっているわけだが。
新聞やテレビやネット界隈で言っている表現の自由は、政権批判に対する言論の自由は確かに日本の方があるだろうが、
写真や動画に関しては表現の自由はあまりないように感じられてならない。
YouTuberが自宅でずっと撮影しているように、自宅以外で自由な場所がないのではないか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/40602
これね。
年収は1000万もなかったけど、金には困らない状態でほぼゴミ屋敷になるまで物を溜め込んだタイミングがあった。出張でホテルに泊まったら今の生活環境が自分の不調の原因ってことに気づいて、清掃業者に頼んで全部で持ってってもらった。溜め込んだ理由、自分の世話をするのが馬鹿らしいっていうセルフネグレクトも多分にあった。それよりも大きかったのが、「わずかにでも私を減らしたくない」っていう、社会との関わりが希薄だったからこその歪みきった自己主張だった。
生い立ちの話をすると、卑屈になるから~とか真っ当な人間は~~とかの通り一遍の説教と同情しかこないことは分かってるので書かない。説教は欲していない。同情はちょっとほしいが主題じゃない。ともかく、幼少期から社会と関わると良いことがない、関わらないようにしても向こうからやってきて私を不快にする。それは私に興味があるんじゃなくて、説教して気持ちよくなれる相手を探してる、それが社会を名乗るバカ個人であり、そのバカ個人が作ってるのが社会。そんな無力感しか社会に対しては抱いていなかった。その社会に対して武装するにはどうするか?自分を増やすしかないのだ。
一番メンタルが弱ったときはとにかく生存に必要なことしかしなかった。飯食ってろくに片付けもせずに寝る。仕事行って自分のことをモクモクとやってる間だけが唯一の救い。他人との関わりは会社の利益に関わることだけ、社内政治も雑談もマウントも、全部空返事。食って食い扶持稼いで寝る。食って食い扶持稼いで寝る。それだけ。部屋は荒れる。それも自分。自分の生きた証。糞ウザいマウンターもゴミ屋敷住人に上から目線をかます滑稽な雑魚に早変わりだ。自分がゴミ、ゴミ屋敷にふさわしい人間だと定義することで、自分に対してムキになるやつを、とてつもない滑稽人間に落とし込むことに成功した。ゴミは私で、私がゴミ。そのゴミをゴミ箱に突っ込むのもサボったやつが、ゴミに「真っ当な人間」を説く。君も真っ当じゃねえな?と安心してた。で、前述のとおり目が覚めるタイミングがあった。今は人を呼んでも大丈夫なくらいの部屋にはなってる。
そしたら、余裕ができた心にまた希死念慮が入ってきた。自分がゴミだという認識があまりにも根深い。小学生のときから死にたさはあった。ゴミ屋敷でゴミになってたときが唯一死にたさがなかった。ゴミになってゴミ社会がゴミを必要としてるぞしゃーねーな働いてやるか、って思ってるくらいが最も自分に合ってた。でもゴミを溜めると体が不調になる。解決策は今の所見つかってない。
書いてみてわかったが、未だにセルフネグレクトを脱してないな。セルフネグレクトだけの問題じゃなくて、自分の存在証明としてゴミを貯めたりもする、それはゴミだが、同時に私であるので、そうかんたんに脱せない、みたいな論調にしたかったが、それも回収したらセルフネグレクトだった。本当に自分に興味がないんだな私は。死にてえな?
落とし所を「死にたいやつが死ねないってのは根深い問題」にしたかったが、予定が狂った。一番したかった主張だけして帰る。真っ先に書いたのがここから下。結論ありきのただの嫌味。ゴミのひり出したクソをくらえ。
まず「死にたい」っていう感情が社会一般では異常らしい。だから「死にたいやつが死ねない」みたいな言論は前提から狂っていて、それ自体は問題にはならず、「死にたいと願う奴」が異常になる。「死にたいと思う人が存在するのは今の社会が悪い」と言うのは簡単だ。では現実的にどうしたらいいか?社会は都合よく"直る"か?殆どの場合、デカい社会も小さい社会もその社会のマジョリティに都合よく作られる。「真っ当な人間」にもそれぞれあれど、だいたい似通った前提を共有していて、前提から異なる「真っ当じゃない奴」は勝手に死ねと言われるか真っ当に生きろと説教かまされるのが関の山だ。そして「真っ当じゃない奴ら」は皆それぞれに「真っ当じゃない」のだ。「死にたいと思う奴は異常」「死ぬという選択肢が出たら前段階で間違ってる」「まず生きるモードに切り替えてからグジグジ考えろ」とか思ってるのは全然構わない。他人に言ったことがあるやつは本当に社会として真っ当です。真っ当でよかったですね。社会って饒舌ですね。
さて、幸いなことに日本では死にたい異常者にも言論の自由が認められております。どうぞ社会もご自由に発言なさって。私も自由に喋って当てこすります。「選択的夫婦別姓の社会になっても「夫婦同姓を選んだお前らは旧来の価値観に染まってるクズ」なんてハラスメントが起こるはずがない、被害妄想もいいかげんにしろ」って言ってる人が「安楽死が認められたら他人に安楽死を強要するハラスメントが絶対起こる、だから安楽死は日本では許されない」っていう被害妄想で安楽死に反対してないと信じたいので、ちゃんと夫婦も別姓・同姓が、選びたい人間が死を、ちゃんと選べる、旧来の価値観に染まってない先進的な社会に進めたいものですね。