はてなキーワード: 当事者とは
そもそも1日3回座り込んで抗議をしているのならば、その抗議活動は「座り込み」としか表現できない。
俺たちの感覚では24時間でないとダメなのかもしれないが、座り込みをしている当事者たちにとっては、それは座り込みでしかない。
医療の現場での「軽症」と我々の抱く「軽症」に違いがあるように、実際に行動している人の「座り込み」とネット前にいるだけの人の「座り込み」に違いが生じても、それは不思議ではない。
野次馬がどうのこうのと書いているが、その数(ツイートのいいねの数など)は何らかの正当性を表す指標にはならない。
そもそも、ツイートが見られた「インプレッション数」と「いいねの数」を比較してみると、インプレッションの割にいいねの数は少ない可能性もある。
客観的な世論調査ならまだしも、野次馬がたくさん集まったからといって、ひろゆきの意見が多数の意見を反映している、ということにはならない。
いきなりやってきて、初手で揚げ足とりされたら「なんでこっちが基地負担してるのに、くだらない言葉の間違いを指摘されないといけないんだ・・・」ってなるだろ。
俺すら怒りが湧いてきてる。
発達障害の当事者は自分の特性のせいで色々やらかしたりイジメにあったりして、生きるモチベ自体が削られがち。しかも子も子なら親も親ってやつで親もかなり癖が強くて家庭環境もよろしくない。
そんな人生で他人と結婚して子供を作ることに前向きにはなれないので、「発達障害」というレッテルによりそれから降りれるならそうするんじゃないかな。
発達障害という名前が発明される前々から発達障害の症状はあり、当事者は悩まされている訳だ。でも結婚や子供を持つことが当たり前のような世の中でそれから降りる正当な理由を持たないというのは、無理して修羅場と不幸を再生産するしかないってことで、そんなのは辛いだろう。
そいつがファンだったなんてのは嘘で、少しでも悔しがってほしいからしょうもない嘘をつくんだよね
相手は気にもしないだろうがね
部外者だから君らでやってくれってののどこが当事者を尊重してるんだよ
本土の人間ができるのは賛成派にしろ反対派にしろ沖縄の人たちに土下座して協力を乞うことだけなんだよね
俺は反対派だけど沖縄に行って毎日活動するような余裕はないから普通に尊敬するし「表現がおかしいですよね」なんて屁理屈を言おうとは思わないよ
この論理なら本土側の人はほとんど「ほんならぼくらは部外者なので、後は当事者同士でやってくれ」で政府の活動追認で終わっちゃうよ。
追記した
https://anond.hatelabo.jp/20221008164406
【基地について】
・騒音がうるさい
・なんか危ないイメージはある
・多分昔よりも基地問題はマシにはなってる
【政治的側面について】
・しかし、本土の人間の認識も変わらないか、なんなら無関心になったり、SNSでネトウヨみたいなのが増えてて悪化してる。
・本土人との間で基地問題を話題にすることすら、かなりハードルが高い。
・このままでは本当に良くない。
【反対運動について】
・高齢者が多い。実際暇じゃないと参加できない。
【この騒動について】
・数年ぶりに基地問題が関心を集めた。関心はないよりマシ。
・ただ、ひろゆきの「表現が不正確だから信用されない」そこじゃないだろ、と思う。
・なんで数年間こちらを見向きもしなかった人間のために、ずーっと「誤解のない、正確な表現」に気をつけなきゃ行けないのか。
・少なくとも、当事者(抗議団体と工事施行者)は座り込みの時間帯や抗議日数の「事実」をよく了解してる。
・「事実」を誤解したのは、急にやってきた非当事者だけ。部外者が「正確な事実を共有しろ」と要求する。迷惑行為だよね。
・いきなり定例会議に顔を出して「そんな説明資料じゃ分からん!」ってキレる社長みたいな理不尽さ、かな。そりゃお前向けに作ってないもん。お前は普段いないから。
とりあえず、
「一般の人が見たら誤解すると思いまーす!」って都合いいなとは思うね。
しょーもない議論だったので書き起こし 残り部分暇な人いたら埋めて
大空:NPO法人あなたのいばしょ理事長 新著に「死んでもいいけど死んじゃだめ」23歳
阿部:沖縄タイムス記者 基地問題を精力的に取材 著書に「ルポ沖縄 国家の暴力」など
~~略、誰か書き起こして~~
大空:これは3000日以上ということは8年以上ですよね
ですからそれだけ長い間、雨の日も風の日も台風の日もそこで座り込みをして抗議の意思を示してきたと
やっぱりそこにとくに本土の人間は安全保障上の問題で、日本全国の問題なんだけれども、やっぱり一定のリスペクトはあって良いだろうと思いつつ
さっき阿部さんはこの座り込み論をまだやるんだと、決着したと、で、せやろうがいおじさんは枝葉中の枝葉の議論だとおっしゃったんですね、座り込みの定義の問題を
大空:でも僕はそう思わないんです。僕すごく共感する部分あるんですけど、抗議運動に。
ただ座り込みとかハンガーストライキってたとえば、刑務所の中にいる人とか、入管の施設にいる人とか、自らの身体のみを用いて、抗議運動を示すわけですよ。
それが非常にカジュアル化しているということはその行為が持ち意味自体をものすごく弱体化しているということに気づかないとダメですよ。
阿部さんさっきね、あそこはひろゆきさんが笑ったと、笑える特権があると、おっしゃったんだけれども、
いやいや、自分で10分なり15分なり、1日3回選んでやるかやらないかということを、座り込みするかしないかということを決められる権利があるあの人達には
そういった意味ではあの人達も特権階級にいるわけですよ。抗議運動をしている人たちも。だから本当に、運動論として完全に僕は失敗だと思いますよ。
完全になにも手足も拘束されて、なんの抗議の意思も自分の身体を用いて以外、選択肢がない人たちのために、
やっぱりハンガーストライキとか座り込みとか、自分の身体を用いる抗議運動の選択肢はとっておかないといけなかったのに、
最近、原発のこともそうだし、気候変動のこともそうだし、若い人も含めて、非常にカジュアルにハンガーストライキとか座り込みとかやってるんですよ。
これ本当に入管の施設でそういうふうなことをしたときに、ああ、どうせカジュアルなのね、となっちゃう可能性が僕はすごくあると思うんですね。
大空:僕はいま23歳ですよ。大学生のときに孤独対策担当大臣を作ってくれと政策提言したんです。いま日本は3代目の孤独担当大臣置いてますよ。
やっぱりリベラル側はね、体制に対してのものすごい批判的な見方があって、政策提言とかアドボカシーとか、
そういった抗議とか書面運動以外の、民主主義的なプロセスをやっぱり軽視してきた部分もあると思うんですね。
やっぱりリベラルの運動論自体がアップデートしていく、あの場におじいちゃんしかいなかったじゃないですか、
やっぱりそこをもっとアップデートしていくということをリベラル側が努力してやってかないと、
この問題、なかなか進まないし、若い人に関心持ってもらえなくなると思う、そういった意味ではこの定義ってめちゃくちゃ大事だから、
これを機にね、定義したらいいじゃないですか、僕はそういった良いきっかけになればいいなと思いますね。
平石:ありがとうございます。阿部さんいかがですか、いまの話。
阿部:ええ、ありがとうございます。いままず座り込みとハンガーストライキを大空さんがごっちゃにして話されてたので
大空:いや、ごっちゃにしてない。2つのことを指してるんです。ごっちゃにしてない。
阿部:なんで違うかというと、ハンガーストライキはあれじゃないですか、ずっとやらないと、それこそ2日やった3日やったと言えないですけど、
座り込みはトラックが来るのを止めるために座り込みをできるわけですから、ハンガーストライキは連続性が求められるわけですね。
ですけど座り込みはそうではありませんから、いま別のことを1つにされるのはちょっと、ハンガーストライキの話は置いておきましょう、というだけのことです。
大空:ハンガーストライキも実は最近の抗議運動でやってるんですよ、記者さんだったらご存知かと思いますけど、
やってますよね経産省の前とかでね、1日限定とか2日間3日間だけ若い人がやってるわけじゃないですか。
阿部:ええ、沖縄でもハンガーストライキはあるんだけれども、あの僕が言いたいのは連続性の話ですね。
ハンガーストライキは連続性がないといけないので、座り込みとは違いますね、というそこです。
~~略、誰か書き起こして~~
大空:いや、そこじゃなくて、さっき申し上げたのは、座り込みだとかハンガーストライキだとかごっちゃにしてるはどうでも良いんですが、
座り込みってところをとると、そもそも抗議活動っていうのは、連続性というものがある程度効果が得るわけですよね。
だから昔は連続って書いてらっしゃったわけですよね、あの看板に。だから連続性が持つ意味合いがよくご理解いただいでると思うんですけど、
僕がさっき言ったみたいに、座り込みもしくは自分の身体のみを使っておこなう抗議運動というのは、
本当に拘束されている人とか、入管の施設にいる外国人の方とかね、ああいう人がやることによって非常に意味が生まれると。
ああいう人たちが行う選択肢を奪っているわけです。そうやって別に座り込みじゃないとか、座り込みは数日でも数分でもその場限りでも良いとか言っちゃうと
だって意味なくなっちゃうんですよ。署名運動とか政策提言とかあの中にいる人たちはできないわけですよ。
ハンガーストライキとか座り込みしかできないのに、まさにそういう行為がもっている意味が弱体化してしまうから、リベラルはそこから逃げちゃだけだと思うんですね。
大空:だからこの機会をね、いま全然前向きな議論をぜんぜん何十分間できてないから、これを機会にいいじゃないですか、
座り込みをリベラルの方はどう思うのか、ひろゆきさんがどう思うのか色々あると思うけど、ある程度決めて、この番組が別にどれだけ影響力あるかわからないけど
でもきっかけになったら僕はすごくいいと思うので、座り込みの持つ本当の意義ってところをまだ決着してないと思う、ここをちゃんと話し合うべきじゃないかなと思いますけどね。
大空さんが入管施設の方の話をされますけれど、その入管施設にいるわけでもない大空さん。
そして、沖縄で民意を踏みにじられて、どんなに反対を選挙で言ったり、県民投票で言っても、市長を作られてしまって、
止むに止まれず座り込まないという立場にもいない大空さんが、なぜ、座り込みについて講釈をしているのかというのが、
やっぱりそこが特権なんですよ。最初に私が言った。あのそれを考えられたほうが良いんじゃないかなと。
大空:当事者以外話すなというこの排他性をいかにリベラルが抜け出すかということが、やっぱり日本の一番大きな課題だと思いますね。
自分の責任を引き受けて、発言をしなければいけないので、その排他されたというということではなくて、
自分の立場を考えて、自分がここでなにを言うべきなのかをきちんと踏まえて、言うべきだと思ってますね。
~~略、誰か書き起こして~~
「子供の授業参観への参加者が母親ばかりだった。おかしい。男性ももっと育児参加すべき。」という主旨の記事を見て、こういう主張がメディアやSNSで目に着く機会増えたよなと改めて感じた。
男女平等の流れは私自身かなり恩恵を受けていると思うし有難いなと思う一方で、
いつも批判の対象として男性の意識や会社の制度ばかり槍玉に挙げられることに違和感がある。
私の通った女子校では「女の子が浪人覚悟で良い大学目指すなんてあり得ないし必要ない」と考える同級生と保護者が多く、受験生の頃は何かにつけて肩身の狭い思いをした。
20代の今では「絶対主婦になりたいから、とにかく年収の良い男性を探す」という目標を持って婚活に励む友達が結構な数いる。実際、年収の高い旦那さんを捕まえて自分は主婦としてアフタヌーンティーママ会をしたり育児に励んだりする様は、一部の女性にとっては「勝ち組」と思われる姿なんじゃないだろうか。
どんなに一部の女性が平等を世間に働きかけていても、その理解が社会に得られてきたとしても、当事者側に現状を有り難く感じ目標にまでしている層が多くいる限り、都合がいい話にしか聞こえず逆に男性が男女不平等を感じることにはならないのだろうか。
私たちが女性として男女平等を訴えるのであれば、社会や男性の理解を得るだけでなく、当事者である女性たちの意識も一緒に変えていく必要があると思う。
そりゃ男性も環境が許すなら喜んで授業参観も行きたいでしょ。文句があるなら「私も家計支えれるし、給料多少下がってでももっと休み取りやすい会社に転職しちゃいな!」って言えるようにならないといけない気がする。
最初は字義通り24時間体制で座り込みをしていたようであり、それは嘘ではないようだから
しかし月日を経るに従って、それが段々と緩くなっていったのだろう
いつしか24時間体制から、時間を限定しての「座り込み」へと移行していった
時間を限定してはいるが、「座り込み」は依然として継続していた
この、時間を限定した「座り込み」活動に名前をつけるとしたら、「座り込み」以外にないと思うんだよね
こういう経緯があるのではないだろうか
なので、「錯誤を狙ってたよな?」は、幾分、陰謀論的であり、増田らしくないように感じる
悪意があったと考えるよりも、ハンロンのかみそり的に捉えるのがより自然ではないだろうか
それらの特徴のうちのミスが多いとか片付けられないとかはよく言われるけれど
「人の話に被せて話す」はほんともうどうしたらいいんだから分からない…
解決法は話を振られるまで黙ってるくらいしかない???でもそうするとマジで何一つ喋れない事になるんだけど。
でも正直、発達障害の特徴と言われるものってどれも、別にそれ自体は何も困ってないんだよね。
特に「人の話に被せて話す」なんてのはお互いが「ごめん、どうぞどうぞ」「で、さっきの話なんだったの?」で済ませてくれればただそれだけの話なんだから。
人の話に被せて話さないように押し黙っていると、本来ならば有益な話が出来た筈の人を抑圧して社会的な損失にも繋がるのでは?
苦しいのは、特徴それ自体では全くなく、『発達障害』という言葉でもってレッテルを貼られて魔女狩りされる事。
バイクで日本一周してダムで自殺した22歳の男性も「発達障害の特性が苦痛で」自殺したのではなく、「発達障害と診断された事が原因で」自殺したんだと思うんだけど
この違いが分からないのかなー
本来は、障害とみなされる必要なんてなかった些細な欠点にすぎないものなのに
それを『発達障害』としてラベリングする事により当事者の意欲を削ぎ生きる気力を奪う
(こう言うと、『個性じゃなくて障害だ』と反論されるんだろうけれど、欠点だって個性のうちだ。『個性』とは何もプラスの特徴だけではない)
『発達障害の人が日々やらかすギャグ漫画のようなことは、周囲から見れば笑えることか苛つくことに見えるかもしれませんが、当事者の心の中は血と涙で大量に溢れ、劣等感と「消えたい」がめちゃくちゃ強まっています』
……ってツイートを見掛けたけれど、全くピンと来ないんだよなあ。
私は私がやらかすミスに対しては劣等感なんて一切持っていないし、
何なら自分自身でも、「どうだ面白いだろう」くらいに思っている。
他人が同じようにミスをしても特に気にしないし、みんなが私のように寛容な社会だったら何ら問題ないと思っている。